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2012年02月27日

『つながらない生活――「ネット世間」との距離のとり方』ウィリアム・パワーズ(プレジデント社)

つながらない生活――「ネット世間」との距離のとり方 →bookwebで購入

「『つながり過剰』の時代に読んでおくべき一冊」



 現代社会はあらゆる分野で「つながること」に価値が置かれている。友人、恋人、家族とのプライベートなコミュニケーションからビジネスまで。「いかにつながるか」が社会のなかでの重要な要素となっている。恐らく、ネット社会そのものを拒絶した人や確固たる地位や社会関係資本をすでに築いていてネット上でつながる必要のない人以外は、多かれ少なかれ常に「つながること」からのプレッシャーから逃れられないのではないか。

 本書のタイトルは「つながらない生活」だ。だが、その内容はネット社会を全否定するものでも、「つながること」の負の側面をあげつらうものではない。著者はこう言う。大多数の人はその「巨大な部屋」から永久的に退場しようとは思っていない。「昼も夜もなく、祝祭のように人と人の交流が絶えず繰り広げられている」(8頁)このフラットな「巨大な部屋」とは、言うまでもなく現代社会そのものである。
 著者が問題視するのは、「内向きの世界」と「外向きの世界」の比重が後者に偏重しているということだ。そして、主張するのは「適度につながること」。つまり、ネット社会自体を否定するのではなく、逆に現状を肯定してそれに順応せよと説くのでもなく、心のなかでの両世界のバランスをいかにとるかということだ。

 本書は二部構成を取っている。評者には、第Ⅰ部はやや文体が冗長なのと、実証性や普遍性などの点でお世辞にも著者の体験談以上のものとは言えないと感じられたが、本書の魅力は第Ⅱ部の各章に凝縮されている。かつての賢人たちが、どのように当時新しかったメディアやテクノロジーと向き合っていたのか、またそこから現代に学ぶべきことはないかという着眼点は非常に興味深い。

 プラトン、セネカ、グーテンベルク、シェイクスピア、ベンジャミン・フランクリン、ヘンリー・ソロー、マーシャル・マクルーハンの7賢人は生きた時代も置かれたメディア環境も異なる。文学、メディア論、科学、哲学などの分野を往来しながら(しかもそれが相互に接続されながら)そこから共通点を見いだそうとする企ては、ワシントン・ポスト紙の元スタッフライターであり、ハーバード大学のフェローでもあった著者の持ち味といえる。

 特に、ソクラテスとパイドロスのやりとりから、情報環境を「Ω(オメガ)」と「Α(アルファ)」の方向に分類し、それを上記の「外向きの世界」「内向きの世界」になぞらえるところから話が展開されていくのには思わず唸ってしまった。

 7賢人のうち、唯一コンピュータ誕生後に存命していたのがマーシャル・マクルーハンである。そのためか、第11章「マクルーハンの『心のキッチン』」は熱がこもっているし、これまでの7賢人のエピソードのまとめのような位置づけが与えられており、それらの議論が結実している。

   本書プロローグで、「巨大な部屋」の住人たちの行動様式を見て評者がすぐさま思い出したのが、社会学者ディヴィッド・リースマンの著書『孤独な群衆』(みすず書房)だった。著者は本章で、リースマンをはじめ何人もの思想家が1950~60年代に指摘した「他者志向」を今日の「デジタル時代の序章」と位置付けている。ただし、今日の社会がその時代と決定的に異なるのは、「内向きの世界」と「外向きの世界」の境界自体が電子テクノロジーによってなくなってしまったこと、両者をコントロールすることが過重な負担となり、事実上困難になってしまったことだ。

 第12章「無理のない『つながり断ち』7つのヒント」、第13章「インターネット安息日」はそれまでの議論を通じて、「適度につながらない」ための具体的な処方箋が簡潔に示されている。その点で、「つながり過剰」の時代に読んでおくべき一冊といえる。ただ同時に、ここで述べられていることは現実的な方途ではあるが、「巨大な部屋」に出口がない以上そのなかに薄いカーテンを引くしかないという立論からは、シニカルで悲観的な書でもあると感じた。


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