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2012年02月29日

『弔辞 劇的な人生を送る言葉』文藝春秋編(文春新書)

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「メディアとしての弔辞」


 私事になるが、先日弔辞というものと向き合う機会があった。辞書を引くまでもなく、弔辞とは「死者を弔うことば」のことである。冠婚葬祭のマナーについて書かれたサイトや書籍は数多く存在しており、そこでは、弔辞の適切な時間、盛り込むべき内容、あるいは反対に使ってはいけない表現などがマニュアル化され詳細にわたって書かれている。

 愛する家族の死を経験したばかりだからかもしれないが、これらは便利な半面、死者を弔い、その人生の締め括り向けられることばが、あまりにも儀礼的に平板なものとして扱われているという印象を抱いてしまう。

   「そもそも弔辞とは何か」ということや、その現代的な意味合いについてまでを問おうとした文献を評者は管見にして知らない。そんな中、「二十世紀を彩った50人への名弔辞」と銘打たれた本書は、どのような弔辞が無難か、良い弔辞とは何か、といったようなありふれた技術論など軽やかに跳び越え、上述した根源的な問いへのヒントを与えてくれる深みのあるものだ。

 さて本書は、月刊誌『文藝春秋』の2001年2月号、2011年1月号に掲載の「弔辞」から50人分を収録したものだ。弔辞を手向けられた故人の肩書は、作家、政治家、研究者、漫画家、芸能人、スポーツ選手、経営者、競走馬(!)など実に幅広い。

 目次を見ても、「一緒に戦うぞ、タクヤ」木村拓也へ(原 辰徳)、「私もあなたの作品の一つです」赤塚不二夫へ(タモリ)、「四角いマットに刻んだ『自由と信念』」三沢光晴へ(徳光和夫)など、評者にとって記憶に新しいものもいくつかある。全篇を通じて、読み上げればたった数分の原稿に濃密なことばのなかに濃密な人間関係が凝縮されている。

 その中でも印象深いのは、前述のタモリによるものと「君はとっくに僕を追い越えていたよ」横山やすしへ(横山ノック)だ。

 横山ノックはやすしの師匠にあたる。子が親より先に死ぬのもそうだが、弟子が師匠より先に死ぬことも残された者には悲痛なものだろう。

「やすし君、僕の一番弟子で一番手を焼いた君のために、最後までこうして手を焼くとは思いもよりませんでした」(78頁)

 ノックは、破天荒で不遇な晩年を送ったやすしに対する愛憎半ばすることばに始まり、最後はこのように締めている。

「とうとう君に言ってあげることはできなかったけれど、君の芸はとっくに僕を追い越えていたよ、やす・きよの漫才は、漫画トリオをとっくに越えていたという言葉を、今、やすし君に送ります」(80頁)

 この二つが特に印象に残ったのは理由がある。それは明らかに聞き手を意識したものであることが伝わってくるからだ。このように言うと誤解を招くかもしれない。本来、弔辞は生前深い交流があった人が故人に対して心の深奥から発したものであり、上述したものを含め、本書に収められた50篇もそれに偽りはないだろう。

 だが、弔辞にはメディアとしての側面がある。それは、故人だけでなく会場の遺族、参列者にも向けられているだろうし、本書のように活字化されたり、映像化されてワイドショーやニュースで流されたりすることも本人は少なからず意識しているはずだからだ。

 それは、演じているとか自らをアピールするとかという邪な意味においてではない。そうではなく、メディアを通じて成立した故人との関係性を再びメディアの中で再現するということではないだろうか。そして、それを通じて故人を完結させるという営為のように見えるのだ。

 まさに、タモリが赤塚に送った「作品の一つです」という言い方がそうであるし、「カツオ、親より先に行く奴があるか」と永井一郎がカツオになりきって、高橋和枝(ワカメ)につぶやきかけたこともそうであろう。

 触れることができた弔辞はごくごく一部にすぎない。ましてや評者が感じた弔辞の意味合いもまたその一側面にすぎない。劇的な人生を送った人たちにふさわしい劇的なことばの数々にぜひ触れていただきたい。


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2012年02月27日

『つながらない生活――「ネット世間」との距離のとり方』ウィリアム・パワーズ(プレジデント社)

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「『つながり過剰』の時代に読んでおくべき一冊」



 現代社会はあらゆる分野で「つながること」に価値が置かれている。友人、恋人、家族とのプライベートなコミュニケーションからビジネスまで。「いかにつながるか」が社会のなかでの重要な要素となっている。恐らく、ネット社会そのものを拒絶した人や確固たる地位や社会関係資本をすでに築いていてネット上でつながる必要のない人以外は、多かれ少なかれ常に「つながること」からのプレッシャーから逃れられないのではないか。

 本書のタイトルは「つながらない生活」だ。だが、その内容はネット社会を全否定するものでも、「つながること」の負の側面をあげつらうものではない。著者はこう言う。大多数の人はその「巨大な部屋」から永久的に退場しようとは思っていない。「昼も夜もなく、祝祭のように人と人の交流が絶えず繰り広げられている」(8頁)このフラットな「巨大な部屋」とは、言うまでもなく現代社会そのものである。
 著者が問題視するのは、「内向きの世界」と「外向きの世界」の比重が後者に偏重しているということだ。そして、主張するのは「適度につながること」。つまり、ネット社会自体を否定するのではなく、逆に現状を肯定してそれに順応せよと説くのでもなく、心のなかでの両世界のバランスをいかにとるかということだ。

 本書は二部構成を取っている。評者には、第Ⅰ部はやや文体が冗長なのと、実証性や普遍性などの点でお世辞にも著者の体験談以上のものとは言えないと感じられたが、本書の魅力は第Ⅱ部の各章に凝縮されている。かつての賢人たちが、どのように当時新しかったメディアやテクノロジーと向き合っていたのか、またそこから現代に学ぶべきことはないかという着眼点は非常に興味深い。

 プラトン、セネカ、グーテンベルク、シェイクスピア、ベンジャミン・フランクリン、ヘンリー・ソロー、マーシャル・マクルーハンの7賢人は生きた時代も置かれたメディア環境も異なる。文学、メディア論、科学、哲学などの分野を往来しながら(しかもそれが相互に接続されながら)そこから共通点を見いだそうとする企ては、ワシントン・ポスト紙の元スタッフライターであり、ハーバード大学のフェローでもあった著者の持ち味といえる。

 特に、ソクラテスとパイドロスのやりとりから、情報環境を「Ω(オメガ)」と「Α(アルファ)」の方向に分類し、それを上記の「外向きの世界」「内向きの世界」になぞらえるところから話が展開されていくのには思わず唸ってしまった。

 7賢人のうち、唯一コンピュータ誕生後に存命していたのがマーシャル・マクルーハンである。そのためか、第11章「マクルーハンの『心のキッチン』」は熱がこもっているし、これまでの7賢人のエピソードのまとめのような位置づけが与えられており、それらの議論が結実している。

   本書プロローグで、「巨大な部屋」の住人たちの行動様式を見て評者がすぐさま思い出したのが、社会学者ディヴィッド・リースマンの著書『孤独な群衆』(みすず書房)だった。著者は本章で、リースマンをはじめ何人もの思想家が1950~60年代に指摘した「他者志向」を今日の「デジタル時代の序章」と位置付けている。ただし、今日の社会がその時代と決定的に異なるのは、「内向きの世界」と「外向きの世界」の境界自体が電子テクノロジーによってなくなってしまったこと、両者をコントロールすることが過重な負担となり、事実上困難になってしまったことだ。

 第12章「無理のない『つながり断ち』7つのヒント」、第13章「インターネット安息日」はそれまでの議論を通じて、「適度につながらない」ための具体的な処方箋が簡潔に示されている。その点で、「つながり過剰」の時代に読んでおくべき一冊といえる。ただ同時に、ここで述べられていることは現実的な方途ではあるが、「巨大な部屋」に出口がない以上そのなかに薄いカーテンを引くしかないという立論からは、シニカルで悲観的な書でもあると感じた。


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2012年02月16日

『メディアとジェンダー』国広陽子+東京女子大学女性学研究所(勁草書房)

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「『メディアとジェンダー研究』の最前線」



 「メディアとジェンダー」。両者は相互に密接に関わり合っている。メディア研究、ジェンダー研究の双方で多くの蓄積と広がりもある。だが、深く関係しつつも一筋縄ではいかない両者の関係を正面から果敢に論じようとした本はそう多くない。その意味で、まだまだこれから探究されるべきフィールドだろう。

 まず冒頭で「メディアにおけるジェンダーの問題の全てを本書が網羅することは難しい」(ⅴ頁)と共著者の李と有馬が述べている。確かに、「メディア」あるいは「ジェンダー」という広範な概念を掛け合わせた場合、その対象となる領域はあまりに広い。

 「マス・メディア」といった場合、テレビ番組や新聞・雑誌の記事のようなコンテンツ、メディアの制度や組織、あるいはオーディエンスなどその研究対象は多岐にわたる。また、コンテンツといった場合にも、その媒体ごとの特性やジャンルによる違いなど検討すべき課題は計り知れない。したがって、本書で触れられているものもその一部でしかない。しかし、読み進めていくにつれ、こういった対象領域の限定性が本書の価値を損なうものではないことが、腑に落ちてくる。なぜなら、例えば後述するように、多くの章でその狙いが非常に大きく設定されており、さまざまな対象に応用したり広げたりできるものとなっているからだ。

 序章「メディアとジェンダー研究」(国広・斉藤)に課されているのは、本書全体を俯瞰する役割だけではなくて、この難点をフォローすることといえるだろう。評者自身が取り組んできたことを省みるなら、個別具体的な問題関心から出発した場合、往々にして番組論のような表象レベルの議論に偏ってしまいがちだ。しかし、ここではメディアの利用行動など種々のマクロなデータを伴った考察がそれを補完している。

 第Ⅰ部「マス・メディアとジェンダー」では、ニュース、ドラマ、スポーツ、広告が対象にされている。第1章「ニュース報道とジェンダー研究」(斉藤)も上記の難点を克服しようとするものだ。オーソドックスなメディア研究の精緻な整理から指摘されるのは、ジェンダーをめぐるメディア産業の構造的な問題であり、社会的な不平等の問題だ。

 第2章「テレビ娯楽の変遷と女性――テレビドラマを中心に」(国広)も広い視座を持つもので、ここでは社会におけるマス・メディアの広範な影響を問おうとする。そこで争点となるのは、ドラマの変遷を通じて女性がどのようにジェンダー化された主体として取り込まれてきたかという論点だ。ドラマでの個々のステレオタイプな表現をことさら強調するのではなく、また作品論に落とし込むのでもなく、社会の変容との関係からとらえようとするものといえる。

 第Ⅱ部「パーソナル・メディアとジェンダー」では、ブログやソーシャル・メディアなどのCMC(computer mediated communication)とメディアとして身体表現が対象とされる。もちろん個人的な感想だが、「メディアとジェンダー研究」は批判的なアプローチをとることが多い。第5章「電子メディアとコミュニケーション」(加藤)が一際ユニークだと感じるのは、女性にとっての電子メディアの有用性という視点から論を進めているためだ。

 特に興味深いのが、出産期・育児期の女性によるツイッターやブログの利用への注目だ。評者の周辺にも出産期・育児の女性は多くいるが、とりわけ東日本大震災と福島原発事故の際の「ママ友」による情報の共有・伝播は目を見張るものがあった。その規則性や個別性を検証するのは重要なテーマになるだろう。

 本書の目次を開いたとき、「マス・メディアとパーソナル・メディア」という区分の仕方にいささか古臭さを感じた。多様なメディアが存在し、またそれぞれが絡み合っている時代に、二分法でとらえるのはどうなのだろうと。

 だが、第6章「身体表現・メディア・ジェンダー」(曽我)によって、この二分法は(意図的かどうかは不明だが)内側から風穴をあけられている。身体こそ原初的なメディアであり、マス/パーソナル、パブリック/プライベートを往来するメディアでもあるからだ。

 ここでは、身体表現をマス・メディア、運動会、近代舞踊といったさまざまなメディアとの関係からとらえようとする。そして女性の身体表現の抑圧性と解放性が検討されるが、そこで著者が今日の問題として強調するのは、女性が「見られる」ことに常に晒されていることから生じる過剰な痩身願望だ。

 現代の女性の身体の有り様について著者が提案するのは「あるがままの自己や他者の身体を受け入れる」(241頁)ことである。だとすれば、評者にはメディアへの批判と同時にオーディエンスの読解過程や身体を通じた日常的な表現ややりとりのなかでそのような傾向を拾い上げていくような作業も重要になってくるように思えた。

 本書は大学での講義をベースにしているため、「メディアとジェンダー」ついて学びたい初学者には大変親切なものとなっている。だがそれだけではなく、すでに見てきたように各テーマの今後の課題が明確にされているし、挑戦的な議論も随所に盛り込まれている。本書はメディアとジェンダー研究の最前線ともいえるものだ。


【本書の構成】
序章 メディアとジェンダー研究(国広陽子・斉藤慎一)
 第Ⅰ部 マス・メディアとジェンダー
第1章 ニュース報道とジェンダー研究(斉藤慎一)
第2章 テレビ娯楽の変遷と女性――テレビドラマを中心に(国広陽子)
第3章 メディアとスポーツ(有馬明恵)
第4章 広告・消費・ジェンダー(李津娥)
 第Ⅱ部 パーソナル・メディアとジェンダー
第5章 電子メディアとコミュニケーション(加藤尚吾)
第6章 身体表現・メディア・ジェンダー(曽我芳枝)
終章 メディア社会を生きる女性たち(有馬明恵)

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2012年02月08日

『これからの日本のために「シェア」の話をしよう』三浦展(NHK出版)

これからの日本のために「シェア」の話をしよう →bookwebで購入

「シェア型消費からシェア型社会へ」


 奥付によると、本書の発行日は2011年2月25日となっている。つまり東日本大震災が起きる2週間前である。「シェア」という消費形態への移行を踏まえつつ本書は書かれているが、3・11により、「シェア」せざるを得ない状況が立ち現れ、さらに「シェア」することが生み出す価値がクローズアップされた。図らずも本書が提起するものの意味はさらに大きなものになったといえる。


 著者の三浦展(みうら・あつし)氏は消費社会研究家、マーケティング・アナリストで、『下流社会』(光文社新書)に代表されるように、社会状況を鋭く分析した書籍や新しいライフスタイルや消費生活を提案する書籍を数多く出版している。

   多くのデータや図式を駆使しながらも、著者の主張は至ってシンプルで「私有主義的消費からシェア型消費へ」というものだ。実のところ、著者は「共費」という概念を用いて10年近く前に提案していたという。評者は、ここでいうシェアが経済効率やエコの視点だけではなくて、共有することを通じたコミュニケーションやコミュニティといった価値の創造につながるものとしてとらえられている点に惹かれた。

 現在、孤独死や若者の孤立化など「無縁社会」が指摘されるようになり、それに対して、趣味に基づいた連帯を指す「趣味縁」も注目されているが、そのような志向性と近いものだろう。著者は、シェアが「そうした孤独な無縁社会に対して、別の生き方、暮らし方の原理となりうるだろう」(23頁)と述べる。

 このような新たな生き方への欲求が絵空事ではなく、データに基づいたものであることも明示される。図式化されているように(図表1-7、40頁)、物質的な幸福感よりも、共感に喜びを見出す人が増えているというのである。

 ただし、本書を読み進めていくうちに、評者はそこで使われている「コミュニケーション」「共感」といった「美しい」言葉の数々に、ある種の空虚さを感じたのも確かだ。

 確かに他人とコミュニケーションをとることや、他人との間で物事を共有したり共感するということは悪いことではない。しかし、生身の人間には、そこに嫌悪感や嫉妬、解り得なさも当然生じるはずである。恋愛やセクシュアリティといった問題も当然かかわってくるだろう。「消費者」とくくられたデータからは、なかなかそういった個別の身体性のようなものが見えてこない。

 消費の次元ではなく、シェア型の社会を構築するという大きな視点から考えた場合、シェア型の住居やコミュニティにおける人々それぞれの経験を拾い上げてそれをフィードバックするような実践や研究も重要になってくるだろう。

 巻末に収録されている対談「福祉もシェアへ」(広井良典氏×三浦展氏)は、この点にまで踏み込むものだ。そこで広井氏はシェアを「社会全体の構想にかかわる議論」としたうえで、そのなかで日本人が「開かれた関係性」をどうつくっていくかという重要な提起をしている。「シェアせざるを得ない」社会で、これから問われていくのはそこだろう。


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