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2011年12月28日

『問題発言』今村守之(新潮新書)

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「戦後の舌禍事件を眺望する」


 本書は、敗戦直後の東久邇宮稔彦(ひがしくにのみや・なるひこ)王による発言(1945年9月5日)から、記憶に新しい東日本大震災に絡んだ鉢呂吉雄元経済産業相による発言(2011年9月9日)まで、85の問題発言を採録しており、戦後の舌禍事件を眺望するものだ。発言の主も政治家、官僚、企業経営者、芸能人、スポーツ選手など多岐にわたる。

 本書の狙いは、「まえがき」にもあるように、発言を任意に採り上げている点と「失言」ではなく「問題発言」というくくり方をしている点にあると評者には感じられた。
 「失言」としてしまうと、その発言の不的確さだけを強調してしまう結果になってしまいそうだが、「問題発言」とすることで、発言の肯定的な側面や現代的な意義にも触れられる。つまり、これらの多くは差別的な発言や非常識な発言だが、そのなかには、誰もが言えなかったことや、現代に立ち現われている問題を鋭く喝破したものも含まれているのだ。このような視点からは、なぜその発言が「問題」とされたのか、その背景要因を問うことが可能となる。

 また、データベースなどを用いたサンプリングを行わず発言を任意で採り上げたことにより、原発問題(渡部恒三1984年1月5日、高木孝一1983年1月26日、ザ・タイマーズ1989年10月14日など)、メディア産業によるスポーツ選手の政治的利用(長嶋茂雄1961年10月3日)など現在生起している問題や話題の人に力点を置き、それと過去の発言を絡めることに成功している(ただし、著者の恣意性を前面に打ち出したことの裏返しとして網羅性に欠けるため、政治、芸能、スポーツいった問題発言のジャンルごとの傾向や時系列的変化が把握できないという難点はある)。

 それぞれの発言に対する著者の短評は皮肉やウィットに富んでいる。たとえば、最後の「市街地は人っ子ひとりいない、まさに死の街という形だった」(鉢呂吉雄、前出)という発言についての著者の指摘は非常に的確だ。

「真の問題は、その表現ではなく、そうとしか表現できない状況をつくり出したことではあるまいか。言葉狩りに費やすエネルギーと時間を、もっと本質的な問題解決に注ぐべきではないだろうか」(252頁)

 評者もどうしてこの発言がそこまで問題視されるものなのか理解できない。「パニック」という言葉を履き違えて情報を隠ぺいしている政府、メディアの方がよほど問題含みである。

 だが、なぜそれぞれの発言がその時代に「問題発言」となったのかについてはもっと深い考察が必要でもあろう。本書の狙いが成功している半面、それによって見落としているものもあることは前述したが、「問題発言」といわれる発言が問題として立ち現れたり、構築されたりするメカニズムやその後の伝播の過程への注目は欠かせない。

 それとの関係でいえば、ネット時代になってから非常に短いサイクルで問題発言が現れて瞬間的に沸騰し、そして忘却されていくという状況ができている。活字メディア、テレビ、ネット、それぞれの時代と問題発言との関係はどのようなものだろうかという点に思いが巡る。

 ラジオでの倖田來未発言(2008年1月30日)について、「それはリスナーとDJとの間の内緒話のようなものである」(210頁)と述べているのが示唆している(松本明子1984年4月1日の発言もラジオだった)ように、発言からメディア空間の特性やその状況、発言者のキャラクターや身振りや表情といった文脈が取り除かれ、言葉だけが遊離し問題視されることの是非、そのような社会のあり様こそもっと広く議論されるべきではないだろうか。


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2011年12月22日

『東京ガールズコレクションの経済学』山田桂子(中公新書ラクレ)

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「ガールズマーケットの誕生」



 本書のタイトルを見て評者が抱いた印象は、「東京ガールズコレクション」(以下、TGC)の市場動向やトレンドを解説したものだろうというものだった。また、こういったブームを扱った本には、そのブームの内側にいる人がPRを意図して書いたものが多い。しかし、本書はTGCをブームとしてとらえつつも、一定の距離をとったものだ。そして、その狙いももっと大きなところにある。TGCという現象を事例としながら、「ガールズマーケット」そのものの成立とその拡大をさまざまな視点からとらえようとする、実に分析的な本といえる。


 TGCは2005年8月に始まったファッションイベントで、入場者数で見ると06年に2万人を超えその後も増加傾向にある。第1章「一大イベントに成長した東京ガールズコレクション」で、著者はTGCが「リアルクローズ」(実際に着ることができる現実性の高い服)という言葉を定着させたという。

 だが評者がそれ以上に注目したのは、それが従来の年齢区分とは異なる「ガールズ」というくくり方がなされるようになる嚆矢と位置付けられる点だ(「ガールズ」は明確には定義されていないが、年齢でいえば10代からF1層、つまり34歳くらいまでという)。つまり、それまで女性を年齢に応じて細分化していたファッション業界で、10代からアラサーまでを含む新たな市場、「ガールズマーケット」が誕生する過程に大きな役割を果たしたのだ。そして、その背景にはエイジレスを謳う20代(30代にも拡大しているだろう)の需要があるという。

 第2章「ガールズイベントの戦略は何か新しいのか?」、第3章「どうしてガールズイベントは人気があるのか?」では、TGCの新奇性やその人気の理由が消費行動モデルや、メディア戦略、タイアップをめぐるケーススタディなどから説明されている。また、第6章「人気の高いガールズブランド」はガールズイベントでのそれぞれのブランドの戦略に焦点を当てたものだ。

 評者が特に関心を持ったのは、第4章「市場の主役はギャルからガールズへ」と第5章「ファッション雑誌で見るガールズマーケット」だ。第4章での「ギャル」の成立過程をめぐる説明は評者には首肯できない部分もあったが、ギャルからガールズへのマーケットの変化をめぐる説明と、両者の重複や分布をまとめた図表2「ヤングマーケット分類」(117頁)や図表5「ガールズ雑誌のポジショニングマップ」(142頁)は、整理されていてわかりやすい。

 著者は必ずしも明示的には述べていないが、著者が多用する図式は本書がテーマにするマーケティングに限らず広く使えるものだ。また、そこからはさまざまな興味関心が沸いてくる。

 図表5をもとに述べられる『Can Cam』から『sweet』への人気雑誌の変遷は、ある部分で(例えば、モテ志向から自分志向への変化など)ガールズ文化の大きな変容を示しているだろう。また、第6章の図表8「ガールズイベント出場ブランドのポジショニングマップ」(171頁)での「ドメスティック/インターナショナル」、「ポピュラー/エッジィ」という軸についていえば、そのなかでの地域差やポピュラーさやエッジさの差異などを詳しく見ていくのも面白いだろう。

 ともすればタイトルの「経済学」が読者層を限定しているかもしれないが、ポピュラー文化論やジェンダー論、メディア論などと隣接するものとして広く読まれていい本だ。


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『柳田国男と今和次郎―災害に向き合う民俗学』畑中章宏(平凡社新書)

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「震災と向き合った二人の民俗学者」



 震災後、今和次郎(こん・わじろう、1888-1973)をめぐる書籍が相次いで出版された(本書の他に、今和次郎『今和次郎採集講義』青幻舎)。今和次郎は主に大正から昭和初期にかけて活躍した民俗学者である。民俗学研究としては民家や服飾の分野で業績を挙げたが、現在でも広く知られているのは、主として今が提唱した「考現学」(モデルノロヂオ)によるものだろう。 今の考現学とその後の系譜についてはここでは触れないが、なぜいま今和次郎なのか。その理由は、彼の災害に対するまなざしと実践にある。

   本書はⅡ部構成となっており、Ⅰ部で柳田国男(やなぎた・くにお、1875-1962)を、Ⅱ部で今和次郎について論じている。この二人は柳田らが発起人となった研究会「白茅会」(はくぼうかい)を通じて師弟関係にあったといわれる。だが、著者が今和次郎を括弧つきで柳田の「弟子」としているように、その関係は今が後に考現学を始めることで緊張関係を孕んだものになっていく。
 「あとがき」によれば、本書は当初「地震と民俗学者たち」というテーマだったという。だが今よりも13歳年上で、すでに日本民俗学の祖としての地位を築いていた柳田とこれまでの学問に収まらない今との相克と、その二人の災害のとらえ方をパラレルに描くという本書の絞り方はまさに妙技だ。

 冒頭で紹介される柳田国男のエピソードは非常に印象深い。柳田は、1923年9月1日に起きた関東大震災の報を滞在先のロンドンで受けたが、そのとき同席していた年長議員が「神の罰だ」という旨の発言をしたという(約90年後の東日本大震災でも同じような発言があったことは記憶に新しい)。この一言に対して、柳田は激しく反論したのである。
 その背景には『遠野物語』(1910)の資料収集で柳田が見聞きしたことがある。それは百十九話からなる同書の九九話に反映されているが、1896年に発生した明治三陸地震とその大津波によるあまりに甚大で凄惨な被害の様相である。その後、柳田は25年後にもう一度被災地を訪れている。

 さて、東京美術学校(現・東京芸術大学)の図按科を卒業した今和次郎は、民家のスケッチをしていたときも、豪農などの古民家に限らず庶民の住居も対象にしていたという。そのことからは今の興味関心の所在がうかがい知れる。
 関東大震災とその火災により東京市の6割強が罹災した際、驚くべきことにその3週間後には今は震災後に林立したバラック群の記録を始めるのである。今自身も被災していたにもかかわらず。そして、今の活動はバラック建築を装飾するという、より実践的なものへと移行していく。さまざまな批判に対して今はこういう。

「すなわち田舎家の研究は、主として無装飾の態度の生活者の工作そのものを見つめる仕事であり、無装飾の裸の工芸ということを考えていることになるのである」(179-180頁)

 今のまなざしは常に生活者に向けられ、その関心は完成された芸術的な建築物ではなく生活のなかから住居が生成されていくプロセスにこそあったのだ。柳田が「本筋の学問」(そのころ確立した民俗学)として、震災から8年も経過した後に都市の文化を扱うのとは対照的だ。

 アプローチは異なるが、繰り返し災害に襲われる日本の民衆に寄り添い、自らも災害と向き合い続けた二人の思想、実践から学ぶべきことはあまりにも多い。


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2011年12月14日

『呪いの時代』内田樹(新潮社)

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「『呪いの時代』を乗り越える処方箋」


 著者の論述には、意外性や逆転の発想がこれでもかというくらい詰まっていて毎回引き込まれる。「呪いの時代」というタイトルを目にしたとき、評者がイメージしたのは「呪いや占いのようなスピリチュアルなものがメディア文化や社会に蔓延していることを論じた本だろう」というものだった(ちなみに、そのようなテーマの本も2010年に、竹内郁郎・宇都宮京子編『呪術意識と現代社会――東京都二十三区民調査の社会学的分析』青弓社、石井研士編『バラエティ化する宗教』青弓社、が相次いで出版されている)。


 読み始めると、どうもそのようなテーマではないことがすぐにわかる。しかし、著者はなかなか「呪い」を定義してくれない。学会での研究者同士の批判の仕方、「ユダヤ問題専門家」を名乗る人たちの知の枠組み、ネット論壇の言語表現…。他人への批判の形式と関係があるのかと思っていると、「呪い」の言説が際立ってきたのは1980年代半ばだったという議論へ。そこから冒頭の批判の形式の議論と「ひきこもり」、「自分探し」、「安倍晋三」がアクロバティックに接続されていくのは非常に興味深いが、ここでもまだ「呪い」が何を指すのか明確な答えを出してはくれない。

 第1章の最後には「呪い」が何か説明されるのだが、そこに至る前に大方の読者にはそれが何を意味しているのが語彙的な意味ではなく、ある種の社会的なリアリティとしてイメージできているのではないだろうか。
 著者の言葉をまとめると、それはこのように説明できるだろうか。現代日本は羨望や嫉妬や憎悪が生身の個人を離れて多様なメディアにおいて一人歩きしている時代であり、その発話者は相手を破壊すると同時に自己の全能感と自尊感情を満たそうとしている、と。そして、そんな「呪いの時代」を生き延びる処方箋も明確に示されている。

「それは生身の、具体的な生活のうちに捉えられた、あまりぱっとしないこの『正味の自分』をこそ、真の主体としてあくまで維持し続けることです」(36頁)

 本書は、著者が2008年から約3年半にわたって『新潮45』に不定期連載したものを加筆・修正したものだが、「呪い」というキーワードでそれぞれの章、さまざまな事象が見事に束ねられている。

 第6章「『草食系男子』とは何だったのか」もアクロバティックな展開だ。草食系男子と現代社会を結び付けて論じようとした本は少なくない。それらのなかには、ここでいわれているような「権利請求」の戦略(自分を弱く見せることで有利な状況になるのを期待すること)と同様の傾向を指摘したものもあろう。だがその先、つまりその戦略の帰結点を見越した議論にこそ著者の力量を感じる。
 著者はその戦略で採用されている「ペルソナ」(「人間関係の中で、過剰に他者を傷つけない、過剰に傷つけられないための防衛システム」と説明されている)の危険性を非常にわかりやすく論じている。それは同時に、そのような論述がこの章のテーマ「草食系男子」にだけ向けられたものではないことも示唆していよう。例えば1990年代以降、ネットの発達とともに日本社会に定着した「クレーマー」という行動様式にも同じ根を見ているのだ。

 さて、東日本大震災後に書き加えられた第10章「荒ぶる神を鎮める」。本章が震災前、フクシマ以前に発表されたものだったとしたら、評者を含め多くの読者が「えっ?」という感想を持ったかもしれない。しかし、原子力を「荒ぶる神」、原子炉を一神教の「神殿」にたとえるところから始める議論は、「原発と日本人」を根源的にとらえる視点を提起している。今回の原発事故は「人災」であり、日本人が原発への畏怖を持たなかったこと(著者は「瀆聖」と表現する)に根本があるというのである。
 著者の筆致は、現在進行中のTPP(環太平洋連携協定)、首都機能の一極集中問題から東日本大震災後の日本社会の構想にまで及ぶ。そこでも、哲学者のレヴィナスがホロコースト後に問いかけた人間的意味、映画『ジョーズ』、能の『安宅』における弁慶の行動様式などが鮮やかに接続されるが、著者の主張は一貫してシンプルだ。

「呪詛は今人びとを苦しめ、分断しているし、贈与は今も人びとを励まし、結び付けている。呪詛の効果を抑制し、贈与を活性化すること。私が本書を通じて提言しているのは、それだけのことである」(あとがき、285頁)

 本書を通じて、評者自身は相変わらず呪いの言葉を繰り返しているメディアや、生身の身体を喪失させるメディア空間への関心をあらためて強くした。本書は「呪いの時代」を乗り越えることを志向するスケールの大きなものだ。

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