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2011年11月30日

『ビューティビジネス――「美」のイメージが市場をつくる』ジェフリー・ジョーンズ(中央経済社)

ビューティビジネス――「美」のイメージが市場をつくる →bookwebで購入

「なぜシャンプーは世界中に広まったのか」


 本書は、2010年にイギリスで出版されたBeauty Imagined: A History of the Global Industryの日本語版である。そこでメインテーマとされているのは日本語版のタイトルになっている「ビューティビジネス」であり、または「ビューティイメージ」だ。

 だが、そのカバーする範囲はビジネスや美容産業にとどまらず、広く身体、テレビ文化、グローバル化などに及ぶ。また、著者が「ビューティ・プレミアム」(美しさによる賃金の格差を指す)と言う、美しさによる社会的な公平性の問題や、西洋的な美的感覚の国際化による文化の均質性の問題なども一定の目配りがなされている。その意味でも、本書はビューティビジネスやその歴史を一方的に称賛するようなものではなく、「ビューティ」を契機としてさまざまな争点、論点へと開かれたものと言える。

 本書は「第Ⅰ部 ビューティイメージの創成」「第Ⅱ部 ビューティイメージの普及」「第Ⅲ ビューティイメージの再構成」の3部構成をとり、全441ページにもなる大部となっている。だが、記述スタイルが比較的平易であることと、興味深いエピソードを中心にシンプルに論が展開されていることから、意外とすらすら読めてしまう。膨大な資料、文献に基づいて書かれていることも本書の特徴だが、それによって議論がとめどなく拡散してしまうことなく各章が見事に完結している。そのため、歴史書(原題には「グローバル産業の歴史」とある)として第1章から読み進めることもできるが、関心のあるテーマを扱った章から読んでもいいものとなっている。

 評者は第5章「テレビの時代」から読んだ。著者によればテレビがビューティ産業に与えた影響は多面的かつ大きいもので、「特にアメリカが理想とするライフスタイル、ファッションそしてビューティを普及させることに大きく貢献した」。特にテレビCMはビューティ広告の質を大きく変えたとされる。その一つが性的なメタファーの隆盛であり、その生成過程が描かれている。これはメディア論や記号論的な広告批評の議論にも資するものである。

 第6章「野望はグローバル、市場はローカル」では、テレビCMによって確立されたアメリカ的なビューティイメージがグローバルな規模で普及していく様が描かれる。しかし、決してグローバル化が容易に進んだのではないことがわかる。市場はローカルの文化によって大きく異なるためだ。そのなかで比較的急速に広まったのが日用品だったという知見は理解しやすい。わかりやすい例を挙げるなら、現代では世界の多くの国でシャンプーをする習慣があるし、多くの日本人もシャンプーをすることは自明のことと考えているだろうが、それがどのような戦略や過程を経てグローバルに展開したのか。シャンプーは一例にすぎないが、そういったことが本書からわかるだろう。

 第8章「新たな勢力からの攻勢」ではビューティ産業の負の側面に触れている。著者はビューティ産業を「西洋の帝国主義、アメリカの人種隔離政策、ファシズムといった犯罪行為の共犯者である」と指摘する。左翼、消費者団体、フェミニスト、環境保護団体からの批判の系譜を追いながら、アニータ・ロディックによるザ・ボディショップやアメリカのエイボン社などの新たな取り組みを紹介していて興味深いが、同時に資料的な価値も高い。


 本書にはビューティイメージをとらえるために、「起業家」「市場の成り立ち」「正当性」の三つの「レンズ」という視点が最初に設けられていた。それぞれについて、各章を通じてテンポよく論述されていくが、レンズ相互の関係やその理論化といったところまでは本書のテーマではない。例えば、ある起業家が劇的にビューティイメージをつくりあげたということは考えにくいだろう。しかし、そのたとえに倣って言えば、本書の丹念な記述をもとにしながらそのレンズ相互のプリズム(光の屈折)によってビューティの意味がどのようにつくられ、変容していったのかをさらに追求していくことも可能だろう。

 第8章での批判的な検討に加え、終章の「おわりに」ではビューティビジネスの正当性を問いかける。しかし、最後はいささか楽観的な抽象論で本書は締めくくられてしまう。

「ビューティ産業が、私たちに何をすべきか、また、何を選ぶべきかを教えることに、その限りある資源を投入し、彼らが提供できる選択肢やオプションの面で、人類の豊かな多様性を追求することに対してよりオープンである限り、その正当性は保証されるに違いない」

 本書は「ビューティビジネス」の成り立ちとそのグローバルな展開を把握するうえで非常に有用なものである。特に、ビューティビジネスに携わる人や就職を希望する学生にとっては必読書となろう。ただ、読者の多くは折り込み済みだろうから蛇足かもしれないが、「ビューティ」や「ビューティ・プレミアム」自体がはらむ問題への視座は本書には抜け落ちていることは付しておきたい。そういった視座にも触れたい人は、石井政之・石田かおり著『「見た目」依存の時代――「美」という抑圧が階層化社会に拍車を掛ける』 (原書房)のような問題意識の強い本から読み始めるのがいいだろう。

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2011年11月28日

『プロテスト・ソング・クロニクル――反原発から反差別まで』鈴木孝弥監修(ミュージック・マガジン)

プロテスト・ソング・クロニクル――反原発から反差別まで

「いま、<闘いの歌>を聴け!」


 本書は編集者の高岡洋詞が中心となって企画したもので、35人の執筆者が名を連ねている。7つのカテゴリー(構成は文末に記した)とコラムからなり、言及されている歌は目次に挙げられているものだけで130曲にもなる。年代も、歌手でコメディアンのマックス・ハンセンがヒトラーのゲイ弾圧を風刺した1928年の歌から、3・11後に発売されたアイドルグループ・制服向上委員会による「ダッ!ダッ!脱・原発の歌」にまで及び、まさに「<プロテスト・ソング>に見る近代史」だ。

 東日本大震災による福島第一原発事故が収束していない現在、本書の持つ意義は計り知れないが、本書の意義はそれだけにとどまるものではない。鈴木孝弥は、まえがき「<3・11>を体験した今こそ味わいたい<闘いの歌>」で、3・11以降、<プロテスト・ソング>という語感の持つ意味、それらが持つリアリティが変化したのでないかと問う。そういった身体感覚を伴った音楽経験の変容は、原発に限らず、本書がカテゴリーとして設定している戦争、覇権主義、国家による抑圧、人種差別、性差別、自然破壊などの諸問題にも通じるのではいか。鈴木は本書の意図を次のように述べる。

 「古今東西の<プロテスト・ソング>は、体制側の何に対し、どのように異議を唱え、大衆運動をどのように支えてきたのか? どんな歌が人々を立ち上がらせ、また、人々の声となってきたのか?」

 すべての歌、カテゴリーについて評するのは難しいため、反原発をテーマにしたいくつかの短評を3・11前と後に分けて触れておきたい。

(1) 3・11前
 RCサクセション/サマータイム・ブルース(1988)について、近藤康太郎はその特徴を徹底したユーモア、ファルス(この場合、「道化」の意味か)としている。ボーカルの忌野清志郎は、この歌によって自身を「反原発の闘士」として祭り上げようとするメディアに対しても反撃したという。
 ザ・ブルーハーツ/チェルノブイリ(1988)で小野島大が述べるのは、原発の「いやな感じ」への個人としての問いかけである。真島昌利の詞に見られるのはロゴス(論理)ではなく、また清志郎のようなユーモアでもなく、感覚から発する違和感といえる。当時中学生だった評者には、「チェルノブリには行きたくねえ」という歌詞が差別的に聞こえたように記憶しているが、その後にこのようなフレーズがあった。「どこに行っても同じことなのか」。
 佐野元春/警告どおり 計画どおり(1988)について、南田勝也はポピュラーであることをポリシーとする佐野が「他に想像の余地がないほどはっきりと」原発を歌ったことに大きな意味を見出す。
 これらはいずれも、チェルノブイリ原発事故(1986)の影響を強く受けたものと考えられるが、森達也が『放送禁止歌』 (解放出版社)で述べたような「自主規制」がはびこるなか、それぞれのアーティストが独自の表現形式で原発と向き合っていることがうかがえる。

(2) 3・11後
 ECD/Recording Report 反原発REMIX(2011)はYouTubeで拡散した歌だ。二木信によれば、「政府や東電、マスコミは事故後少なくとも2カ月は反/脱原発の世論や町の声を無視し続けた」が、この歌は4月18日にアップされている。
 斉藤和義/ずっとウソだった(2011)をめぐる騒動を覚えている人は多いだろう。同曲は、3・11を受けて、斉藤が自身の著名曲「ずっと好きだった」をアレンジしたものだ。前出の南田がまとめているように、ビクターは配信停止をYouTubeに求めたが、ネットを基点として騒動になったことでさらに拡散することとなった。編集部がつけたキャプションによれば、斉藤本人がゲリラ的に投稿したものとされる。
 3・11後の反原発ソングに見られるのは、風刺や皮肉でも、つくり込まれた表現形式でもなく、ストレートな批判である。また、それらが動画サイトで共有されさまざまな場所に拡散するスピードは、業界における規制をはるかに凌駕するものであった。

 本書の魅力、意義はこれまでに述べたとおりだが、評者が感じたことを何点か付記しておきたい。まず、<プロテスト・ソング>の範疇に入らないものにもわれわれは注目していく必要があるだろう。それは対象も理由もさまざまだろう。プロテストし得ないものもあるだろうし、プロテストまでは行かないいらだちや違和感のようなものもあるだろう。例えば前述の「チェルノブイリ」で原発だけでなく監視社会のいやな感じが歌われていたように。
 また、<プロテスト・ソング>の系譜をもっと体系的にとらえるような作業も必要であることも本書から示唆される。そこでは、それぞれの歌、アーティストの関係やその成立過程、受容過程から、さまざまなアーティストに別の文脈でカバーされ、動画サイトなどの場で新たな意味を帯びていく<プロテスト・ソング>の相互テクスト性といったものが対象になるだろうか。

 <プロテスト・ソング>を「鑑賞の対象物」としていた人も、また教養として「押さえておくべき対象」ととらえていた人も、本書を機に、(共鳴であれ反発であれ)感情を喚起するものとして、さらには些細なことでも何らかの行動につながるものとして聴き直してみてはいかがだろうか。


【カテゴリーの構成】
・SUMMERTIME BLUES――原発、核兵器の廃絶を訴える歌
・MASTERS OF WAR――戦争を憎み、平和を願う歌
・WE ARE ALL PROSTITUES――大国の横暴に怒る歌
・POWER TO THE PEOPLE――国家、体制の抑圧に抗う歌
・SAY IT LOUD-I’M BLACK AND PROUD――人種差別を許さない歌
・I AM WOMAN――性差別、同性愛差別を糾す歌
・MERCY MERCY ME(THE ECOLOGY)――自然破壊を嘆く歌


『映画の身体論』塚田幸光編(ミネルヴァ書房)

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「身体論が拓く可能性」


 本書は全8章からなる。どの章も興味深いが、ここでは、評者が特に惹かれた第2章と第8章に焦点を当ててみたい(各章のタイトルと著者は文末に記した)。

 これはまったくの一読者としての感想にすぎないが、身体表象をテーマにしたアンソロジー(複数の著者によって書かれた本)を手にとったとき、まず全体の統一感が欠けていることに戸惑いを覚えることがある。そして次に、「それぞれの章がどのように関連しているのか」「全体を通じて何を主張したいのか」といった疑問が次々に生じることがある。それは著者によって「身体」が指すものに幅があることに加え、その表象の分析手法が多様であることにもよるのだろう。
 だが、本書にはそのような戸惑いや困惑を感じなかった。そこからは編者と著者間、著者相互の綿密な打ち合わせや用語、分析対象の擦り合わせの跡がうかがえる。映画用語集(小野智恵)が巻末に付されていることもその結果であろう。

 編者は映画の身体論へと読者をいざなうにあたり、漫画(のちにアニメ、映画化)の『銀河鉄道999』(松本零士作)をまず紹介する。そこには、本書が映画ファンではない読者にも開かれているという意味が込められているのだろうが、それに加えて、例えば第1章で堀が触れているように、テレビや漫画といったほかのメディアとの関わり合いを通じて発生したり、変化したりする意味をもとらえようという意図があるように思う。編者の問題設定は明確だ。

 「映画はいかに『身体』を描いてきたのだろうか。スクリーンが隠蔽(イン)/開示(アウト)する身体とは、文化的、社会的に構築される差異としての「身体」に他ならない。性やジェンダーや人種に接続する身体として、或いは国家的イデオロギーや政治的メタファーを逆照射する表象/身体として「身体」が包摂する領域は限りない。明滅するスクリーンの向こう側から呼びかける俳優の身体、そしてそこに同一化する観客の身体も忘れてはならないだろう。映画と身体との関係は複層的であり、その関係性は、網状のテクスト/コンテクストの中でキメラの如く変化する。当然のことながら、複数の身体をめぐる鉄郎(評者注、『銀河鉄道999』の主人公)の旅は、その一例に過ぎない」(「はしがき」ⅳ)

 このように、映画のなかで見られる身体は実に多様な意味を帯び、さまざまな可能性へと接続される。各章では、その可能性が戦後まもなくの作品から比較的最近の作品までを例に饒舌に述べられる。

 第2章は「ブルース・リーはいかに世界を変えたか」という見出しから始まる。そこで強調されるのは、西洋中心のヘゲモニーに反旗を翻すものとしての「≪ポストコロニアル≫ブルース・リー」と著者が呼ぶ視点である。西洋の帝国主義、資本主義に基づく<覇権的マスキュリニティ>に対し、映画におけるブルース・リーの身体は<周縁化されたマスキュリニティ>と位置付けられる。その身体による暴力が法の裁きという帰結を迎えることで、その反体制的メッセージを中和し、エンターテイメントとして作品を成立させているという著者の図式は分かりやすい。
 また、そこでの身体をめぐって喚起されられた点がある。繰り返し用いられることからもわかるように、著者は「鍛え抜かれた類まれなる身体」という表現を基調としながらも、さらに微細ともいえる身体表現に注目しているのだ。それは、その暴力に憂いや苦しみが内包されているというや視点や、リーの甲高い雄叫びが主人公の<周縁化されたマスキュリニティ>を強化させているといった点だ。
 しかし、著者は『燃えよドラゴン』以降の作品において、その図式が反転する様を見る。これらにおいては、これまで打倒すべき対象だった<覇権的マスキュリニティ>はリーが演じる主人公の内側にあるという。しかし、詳細に見ていくとそれは<擬態>(ミミクリー)であるなど、二項対立ではなく両義的で複雑なマスキュリニティの有り様をリーの身体に見るのである。

 第8章は編者によって書かれているが、終章という位置づけのものではない。むしろ、ニューシネマにおける男性の身体、しかもシャワーやベッドのシーンという事例に絞り込んだ章だ。なぜ、女性ではなく男性の身体なのだろうか。著者は、男性身体を「ニューシネマの性と政治が交錯する『場』(トポス)」と考える。
 著者は表現を抑制しながら、ポルノグラフィの文化的考察の可能性を論じることから議論を始める。興味深いのは、ポルノグラフィが内在されていた時代は、「異形」「奇形」も社会に許容されていたという点だ。
 また、著者は「映画と『性』の関係は、検閲/コード抜きに考察することは不可能だろう」として、検閲とコードの歴史的過程をまとめている。シーンの分析に入る前にその歴史的、制度的、産業的な文脈を押さえておくことは、分析の手続きとして必要であることはあるとしても、それ以上に、ここではそれらが男性身体のスペクタクル(ショー/見世物)化と結びついていることを示唆していると考えられよう。
 ポルノ産業では女性がスぺクタクルの対象となっているが、著者によると、ニューシネマではその視線のポリティクスは反転する。だが、その男性身体は女性の欲望/視線を集めるだけではなく、既存のジェンダーを攪乱させるものであるという。第2章もそうだったが、本章も既存の枠組みに身体表象を押し込もうとするのではなく、表象における身体と性の曖昧さ、その複雑さをとらえ、そこから次の研究へとつなげようとする視点が見られる。逆説的ではあるが、その意味では限定されたジャンルの個々のシーンを対象とした本章は、やはり終章として相応しいのだろう。

 本書は分析対象を映画に限定したものであるが、その分析から考察されるものは映画に限らない。さまざまなメディアの相互の関係やその作用において、身体論、身体表象が拓く豊饒な可能性があることに気づかせてくれるものだ。


【各章のタイトルと著者】

第1章 運動家ゴダール―スポーツ、身体、メディア(堀潤之)
第2章 ≪ポストコロニアル≫ブルース・リー―カンフー映画における身体・マスキュリニティ表象をめぐって(山本秀行)
第3章 カウボーイと石鹸の香り―ハリウッド映画における男性の入浴シーンについて(川本徹)
第4章 ブラクスプロイテーション映画のアクション・ヒロイン―パム・グリアとタマラ・ドブソンの身体をめぐって(名嘉山リサ)
第6章 命短し芸は長し―市川雷蔵 銀幕に生き続ける身体(小川順子)
第7章 アメリカ戦中ミュージカル映画の系譜―進軍とアメリカーナ(松田英男) 第8章 メイル・ボディの誘惑―ニューシネマ、身体、ポルノグラフィ(塚田幸光)

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2011年11月16日

『文化・メディアが生み出す排除と解放』荻野昌弘編(明石書店)

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「文化・メディアの両義性をかすりとる」


 文化やメディアの排除性を否定的にとらえた書物は数多くある。しかし、読者は本書が一方的にメディアの差別性や差別用語を批判しようとするものではないことにすぐに気がつくだろう。その特徴は、文化やメディアの解放的な側面も含めた両義性に注目し、いわばそれを丹念にかすりとろうとしている点にあるのだ。編者は述べる。「安易に『良い文化』と『悪い文化』に文化を色分けし、良い文化だけを増やせばいいというわけではない。単純に排除する文化を『排除』して、そうでないものにすればいいというわけではない」。排除する営み自体を考察の対象にし、編者が「ユートピア」と呼ぶ、差別を超えたさらなる次元を探ろうとするのだ。そのような視点は、(濃淡はあるにせよ)全章にわたって意識されている。


 第1章「食とマイノリティ」(角岡伸彦)は食と差別をテーマとする。何を好んで食べるか、何を絶対に食べないかによって仲間意識がつくられたり、あるいは敵がつくられたりするという。大阪市内の沖縄出身者、在日朝鮮人、被差別部落の住民が多い街での聞き取りからは、食文化にまつわる差別や葛藤が描き出される。そのなかで、稀有な例だとしても、ホルモン料理を通じたあるカップルの相互理解のエピソードは、上記の解放の契機と言えるのかもしれない。

 第2章「蘇り、妖怪化する歌、『お富さん』をめぐって」(本山謙二)は「歌謡曲は時代を食って色づき、育つ。時代を腹に入れて巨大化し、妖怪化する」という阿久悠の言葉から始まる。春日八郎による『お富さん』(1954)は長い間、宴会やカラオケで歌われた曲で、青江三奈(1970)や都はるみ(1971)がカバーし、近年にはソウル・フラワー・ユニオンの中川敬(2006)も別ユニットでカバーしている。本山によれば『お富さん』は「ゾンビのような歌」であり、その傍らには常に「弱い者」たちが存在したのだという。『お富さん』から見られる排除と解放とは一体何か。本山は歌舞伎にルーツを持つその歌詞、沖縄民謡を基調としたそのサウンド、蘇って歌われる「現場」の記述などからそこに迫ろうとする。

 第3章「スポーツと差別」(水野英莉)は、2009年のベルリン世界陸上選手権女子800mで金メダルを獲得したキャスター・セメンヤ選手を例に、スポーツにおけるインターセックス(両性具有)の排除が指摘される。水野は「ドーピングを禁止して『自然な身体』を保つことを要求するIAAF(筆者注、国際陸上連盟)やIOCが、なぜインターセックスに対しては外科的な手術による『自然な身体』の人工的な加工を求めるのか」と疑問を投げかける。平等を掲げてきた近代スポーツがその追求において、逆に新たな排除を生み出したという事例といえよう。

 第4章「差別・排除を助長する/回避するインターネット」(前田至剛)はネットの匿名性をテーマにしている。前田は負の側面が取り上げられることが多いネットであるがゆえに、その両義性に重点を置こうとする。精神疾患をもつ人たちが集うウェブサイトの分析やそこで知り合った人たちへの聞き取りからは、彼らが対面的な状況で「健常者」のまなざしを内面化することで症状を悪化させていることが指摘される。前田は、ネットが差別や排除を助長している現状にも目配りしたうえで、匿名的なネットから生まれる自助活動やそれらを通じた繋がりを描き出している。

 第5章「障害者表象をめぐり“新たな自然さ”を獲得するために」(好井裕明)は、メディアのなかでの障害者の描かれ方をテーマにする。好井の議論は、メディアでの障害者の表象がどう変わったか、それが良いか悪いかというものではない。そこで注目するのが「フィクション/ファンタジーとしての障害者表象」である。好井によれば、これらは安定した解釈枠組みに収めた「健全な」障害者表象に対して、「私たちの『あたりまえ』に亀裂をいれ、最終的にそれを壊して、新たな『あたりまえ』をつくりかえていくという意味での『不安』『不安定』」なのである。いくつもの映画やドラマでの描き方を検討したうえで、「不安」「不安定」からつくりだされる思いや感動、それを通じた新たな文化を構想する。

 第6章「<マンガと差別>を考えるために」(山中千恵)も、好井同様、単にマンガで描かれる差別表象を問題にするものではない。山中は次のような問いから出発する。①なにを指してマンガというのか。②マンガの登場人物の図像はなにを反映しているのか。③マンガ読者はいかにしてマンガの世界に入り込むのか。④そもそも、マンガは本当にわかりやすいのか。2010年の東京都青少年育成条例改正をめぐってマンガが議論の中心になったことも示しているように、マンガはほかのメディアと比べても社会的な感情の沸騰を引き起こすことが多い。しかしながら、そこでマンガの何が論じられたのだろうかという疑問が生じる。個々の表象ではなく、マンガのメディア性や商品としての側面に関心を向ける山中の視点はこのようなことをとらえていくための土台となるものだろう。


 本書は、どうしても差別を固定した理解の範囲でとらえたい人にとっては、向き合いたくないものかもしれない。だがその両義性、好井の言葉でいえば「不安定さ」から差別や排除を考え直したい人にとっては好書であるし、それ以上に、固定的な理解自体がまだ形成されていない若い人たちにこそ手に取ってもらいたい一冊だ。

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