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2010年05月22日

『スローモーション考―残像に秘められた文化』阿部公彦(南雲堂)

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「モードとしてのスローモーション」


 本サイトでも執筆されている阿部公彦(あべ・まさひこ)さんによる単著である。本書は、「ゆっくり」に秘められる意味を現代文化のなかでとらえようという大きな構想力に基づいている。そのためのキー概念となるのが「スローモーション」と「残像」という表現方法であり、そこからマンガ、絵画、ダンス、野球、小説、詩などの諸ジャンルが検討されていく。
 近代的な価値観、近代資本主義の産物としての「速度」はよく論じられる。また、それとの対比、あるいは批判としてスローライフ、スローフードなどの「ゆっくり」文化が論じられることもある。ただし、本書はこれらのようにイデオロギー的な意味合いで「ゆっくり」文化を称揚するものではない。それよりは、表象としての「スローモーション」を解き明かし、そのなかにある意味を丹念に検討しようとするものである。

 著者は、第1章の冒頭で「スローモーションという方法もまた、見ることに関するオブセッションの表出である。そこにあるのは運動に対する限りない憧憬である。(中略)運動というものがいつも我々の中にかき立てるのは、究極的には『もっと見たい』『もう一度、より詳しく見たい』という衝動でもある。運動との関わり合いには、凝視と再現の欲望がつきものである』」と述べる。これらの記述からは、著者の問題関心がメディアにあり、メディアというものをその深淵から考えようとしていることがうかがい知れる。そのため、評者は本書をメディア論として読んだ。
 第1章「スポーツ語りとスローモーションの文法」では、現在、スポーツファンのなかで半ば伝説にもなっている「江夏の21球」を軸に論が展開される。「江夏の21球」とは、作家の山際淳司が1979年の日本シリーズ「近鉄バッファローズ対広島カープ」の第7戦九回裏の攻防を描いたもので、『スローカーブを、もう一球』 (角川文庫に収録されている(初出は『『Number』創刊号、1980年)。
 著者はスポーツ中継におけるスローモーションが持つ役割を二つ挙げる。一つは擬似科学的な正確さ。つまり、肉眼では認知できない事象を認知することの快楽であり、もう一つは「たった今生じた記念すべき瞬間を、オーラとともに華やかに再現する、いわば劇場的な飾り立ての機能」なのである。言ってみれば複製技術や速度によって失われたアウラ(現前性、一回性)を取り戻そうとするのがスローモーションという技法なのかもしれない。さらに「そもそもスポーツは動きや速度を競うものである。そうしたものとは対極にあるきわめて静的な記録によってはじめてスポーツは意味や結果を与えられる」と逆説的に述べられているが、これは何もスポーツに限ったことではなく、広く敷衍できるものだろう。

 著者は、例えば映画論など映像のレトリックとしてスローモーションを論じる言説が早くから定着していたことを指摘する。そこでスローモーションは、叙情的・悲劇的な印象を与えるとされてきた。
 本書が論じたスポーツ映像や漫画の表象に限らず、現代のテレビ表象全般においてスローモーションは偏在している。それらはメディア言説において「モード」として(この場合、流行という意味ではなく、記号的な要素という意味で)定着しているのである。卑近な話になるが、評者は以前発表した共編著のなかでバラエティ番組の再現VTRにおけるスローモーションの意味に注目し、論じようとした。そこで評者はスローモーションをモードと位置づけたうえで、映像のシークエンスにおけるリズムの変調や切断としてとらえようとした。しかしながら、本書が展開するスローモーションのメディア論的な意味合いにまで考察を進められなかった。その原因は、スローモーションが文化のなかで持つ根源的な意味を問うことが不十分であったためであろう。本書はメディア研究において有効な視点を提起している。

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2010年05月20日

『ヘヴン』川上未映子(講談社)

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「斜視という身体性をどうとらえるのか」


 言うまでもなく、著者は芥川賞作家であり、すでに人気作家としての地歩を築いている。したがって、その著者によって書かれた本書の書評も数多く存在している。しかも評者は文学作品については門外漢であり、文芸批評的な読解もできなければ、本書(第3刷)の帯に羅列されているような気の利いたフレーズもわいてこない。
 それでもなお、本書について書いておきたいと思ったのは、主人公でありいじめを受けている「僕」の目が「斜視」という身体的特徴を備えており、それがこの物語の基軸をなしているように思えたためだ。

 物語は、「僕」と僕をいじめる側の二ノ宮、二ノ宮に従う百瀬、そして「僕」と同様にいじめをうけるコジマを主なアクターとして進んでいく。文体も冗長でなくテンポがいい。やがて「僕」とコジマの間で机の下に張ったメモを通じて奇妙な関係がつくられていく。「僕」をとりまく周囲の世界とは対照的に、その二人の間の世界の描写は見事である。やがて、「僕」はコジマに惹かれつつも、違和感が生じ始める。いじめに対するコジマのある種、宗教的ともいえるスタンス、つまり「いじめる相手はかわいそうな人であり、受け入れてあげることこそが重要なのだ」という主張は神々しくはあるが、「僕」にとって同一化できるものではなかったのだ。
 それに対して、賦に落ちないながらも「僕」が次第に惹起されていくのは、百瀬のシステム論的な思考である。ニヒリスティックな百瀬は、いじめる原因を「僕」の属性や身体的特徴に求めない。それはシステムのなかでたまたまそれが主人公である「僕」であったにすぎないというのである。つまり、身体的特徴個人の属性や身体的な特徴ではなくて、それはあくまでもシステムにおける偶然性の問題であると喝破するのである。

 そのようななか、コジマが自分の「しるし」を本質的なものとして背負って生きていく覚悟をするのに対して、「僕」にとって、斜視が絶対的なスティグマ(=しるし)ではないという表象があっさり出てくる。「僕」が知らなかっただけで、自分のコンプレックスの本質だと思っていた斜視があっさりと治るというのである。つまり、「僕」のそれまでのスタンスが最後にあっけなく相対化されてしまうのだ。

 ここまで読んで気づいた読者もおられるかもしれないが、評者自身、強度の斜視を持っている。そこで問いたいのは、なぜ主人公のスティグマが斜視でなければならなかったのかということである。評者は(それ自体本質主義的な思考に陥っているといわれても仕方ないが)、斜視という身体性のコミュニケーション的な特徴として、一つはまなざしの不均衡、すなわち、相手からは見られているのに、自分は相手をまなざし得ないということ。もう一つには眼が本質的に自分で対象化できない部位であり、他者の反応や鏡像といった媒体を通じてしか認識できないものであること、の2点があると考えている。

 文脈は異なるが、作家の多和田葉子は「目」についてこのように述べている。「『目は口ほどにものを言う』とか『目は心の窓』という諺(ことわざ)があるけれど、わたしは本当にそうだろうかとよく疑問に思うことがある。と言うのは、目というのは眼球の外に出ている部分のことで、かなり堅い物質でできている。潤って光っていたり、淀(よど)んでいたりはするけれど、こまやかな感情を表現することなどできそうにない。(中略)『まなざし』」は眼球そのものではなくて、本当は目の周りの肉の動きではないか」(2010年5月13日付東京新聞朝刊1面)。

 これが指し示しているのは、まなざしというものがコミュニケーションにおいて過剰に記号化されるものという側面と、その対象が実のところ「まなざし」そのものではなくて目の筋肉や周囲の皺(しわ)にあるのではないかということではないだろうか。評者はこのようなことを本作品から想起したのだが、最後に裏切られた気がした。評者は「僕」とそう変わらない高校生のときに、もう手術しても斜視が治らないことを宣告された。それによって、コジマのように相手を受け入れるか、あるいは徹底的に拒否するかという選択肢しかなくなったのであり、そのことは、現在メディアやコミュニケーションの研究を生業としていることも含めて、その後の人生に「宿命」として大きく作用していくほどのものであった。
 本書は物語として十二分に面白い作品であるが、当事者としては「斜視」というスティグマの身体性や固有性というものをもう少し現実に即して丁寧に記述して欲しかったという思いが残る。

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