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2010年03月28日

『「水俣」の言説と表象』小林直毅編(藤原書店)

「水俣」の言説と表象 →bookwebで購入

「『水俣』をとらえ直す、メディア研究の集大成」


 「水俣」は現在も続いている。しかしながら、「水俣」は、例えば歴史教科書から新聞、テレビといったメディア言説において、悲惨で繰り返してはならない過去の歴史として語られる。このような言説は一見まっとうに見えるが、いまだ補償を受けていない患者や解決していない問題を切り捨てるある種の暴力としても働いている。
 本書は、「水俣」を「歴史」として表象するそのような現状に異議を申し立てようとするものであり、さらに「教科書」的な言説の背後に隠されたもの、あるいはその言説が排除したものやこぼれ落ちるものをとらえなおそうとするのである。

 「『水俣』の記憶は、過去の出来事として遠ざけられ、断片化された映像によって描かれ/見られた水俣病事件によって形成され、共有されている。たしかにこうした映像は、水俣病の悲惨さを表象してきた。しかし、そこでは、急性劇症型の患者や胎児性患者の身体と生が、今日もなお告発しつづける『水俣』の記憶が、はたして表象され、形成され、共有されているのだろうか。描かれ/見られることとしての『水俣』の鮮烈な記憶が広範に共有されているからこそ、その成り立ちを解明する必要がある」

 本書は9人の著者によるアンソロジーであり、各章では言説分析、政治コミュニケーション、カルチュラル・スタディーズなどさまざまなアプローチが駆使されているが、編者である小林直毅(こばやし・なおき)さんのこのような明確な問題意識が全編を貫いている。
 三部から構成され、第Ⅰ部「『水俣』をめぐるポリティクスとイデオロギー」では、これまで描かれ語られてきた「水俣」をマクロな視点からとらえなおそうとする。そこでは、日本のマスメディアのパターナリズムが描き出される。例えば第2章では、『経済白書』などのテクストを分析し、「こうした経済政策における論理はマスメディアを通じて再生産され、日本社会において復興から高度経済成長への至る経済政策に関する『合意』を形成したのである」と結論づけられる。第Ⅱ部「『水俣』の漁民・労働者・市民」ではこれまで語られなかったり、あるいは他者化されたりしてきた存在に光を当てる。評者は「水俣」をリアルタイムで知らない世代だが、第Ⅰ部で言説のマクロな構造を追うなかで「漁民」という存在やその実践に距離が置かれていたのは、漁師町で生まれ育った評者には少し違和感があった。だが、第4章では「そこに、P・ブルデュー(1988、1990)やM・ド・セルトー(1987)に依拠しつつ、「漁民」あるいは漁協の実践や戦略をみることも可能であろう」としつつも、客観報道の枠組みのなかで「漁民」が否定的な意味合いで隠喩され「漁民表象」がつくられていったさまを描き出している。
 第Ⅲ部「『水俣』の映像表象」では、これまで十分に検証されてこなかった映像メディアに対象を特化させている。ニュース映像、報道写真、ドキュメンタリーでの「水俣」表象がテーマにされる。映像は言語テクストに比べて多様な意味の広がりを持つ。そのため、映像を通じて何が表象されていったのかを分析するのは難しい。だが、第8章では「水俣病事件の初期報道に関して、新聞写真における患者の表象を追跡する作業は、患者が闇に葬られていくプロセスの検証となっていった」としている。また、第9章ではNHKのドキュメンタリー『奇病のかげに』(1959年11月29日放送)に関して、それが持つ告発としての可能性や「チッソ」への批判性を鑑みながらも、患者の身体を見るという経験に付随するものを問う。
  「水俣」という事例に徹底的に寄り添いながらも、水俣を通じたこの研究は、日本型メディアシステムの構造的な問題やメディアと社会意識の関係をとらえ得る大きな広がりを持つものである。また同時に、「客観報道」や記者クラブ制度といったジャーナリズムのあり方に再考を促すものでもある。水俣報道に携わったジャーナリズム、あるいは現在のジャーナリズム、記者たちは本書をどのように受け止めるだろうか。

 1990年代後半以降、日本のメディア研究や文化研究はカルチュラル・スタディーズの影響を大きく受けた。その後、フェミニズムやポストコロニアル批評などと結びついて多様な展開を見せていった。しかしながら、なかなか日本の文脈のなかでの重要な問題、公害、同和問題、在日朝鮮人といった社会的差別や社会問題が真正面から取り上げられてこなかったし、従来の批判的研究との接続も容易には進まなかった。本書では編者が自らを「レイト・カマー」と形容しているが、それは既存の知と結びつきながら、それをとらえ返すという重要な試みといえる。ここまで事例に入り込み、寄り沿いながら紡いだメディア研究を寡聞にして評者は知らない。その意味で、本書は間違いなくメディア研究の集大成として位置づけられるものだ。
 このような強い問題意識に裏打ちされた研究を評するとき、評者自体の立ち位置もまた問われよう。評者は大学院生時代の2004年に著した論文で、本書出版の端緒となる編者の研究論文に触れ「メディア表象とメディア組織、行政、政治といった様々な権力との関係を、日本の文脈のなかで捉えようとする姿勢が見受けられる」と書いた。それから3年後に編者は本書を世に問うている。翻って評者自身はそれだけの対象をまだ見つけられていないし、対象からここまでメディアの存在を問うような仕事もできていない。そのため、なかなか本書と向き合えなかったのが事実である。
 同じ方法論を専門とする立場からあえていえば、タイトルにもあり本文にも頻出する「言説」(discourse)と「表象」(representation)それぞれの概念が具体的に何を意味し、どう異なったりクロスオーバーしたりするのかについてのまとまった記述がない。それによって共著者によって異なった使い方が生じており、多少の混乱を読者にもたらすかもしれない。だが、それは上述したような本書の価値を下げるものではまったくない。本書の記述は重厚で論文調の硬派なものだが、広く読んでもらいたい一冊である。特にメディアと社会について学ぼうとする学生や若い世代には、政治的中立性を装ったフラットな入門書を何冊も読むよりは、多少難解であってもぜひ本書と向き合ってもらいたい。



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