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2010年03月31日

『オルタナティブ・メディア―変革のための市民メディア入門』ミッチ・ウォルツ(大月書店)

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「『オルタナティブ・メディア』を日本の文脈で考えるために」

 本書は、ジャーナリストであり研究者でもあるミッチ・ウォルツ著ALTANATIVE AND ACTIVIST MEDIA(2005)をジャーナリストの神保哲生(じんぼう・てつお)さんが翻訳したものである。神保さんは日本のビデオジャーナリズムの草分け的な存在であり、社会学者の宮台真司さんとの「マル激トーク・オン・デマンド」シリーズなどでも活躍されている。まず思ったのは、訳者が適任であるということだ。ジャーナリストによって書かれた実践の書である本書は、アカデミックなメディア研究者の手によって解釈されたり注釈を加えられたりするのではなくて、ジャーナリスト、アクティビストによって紹介されるべきだと思っていたからである。

 原題に盛り込まれた「オルタナティブ・メディア」と「アクティビスト・メディア」の定義から本書は始まる。前者は「広く流通し消費されているマスメディアに対して代替的(オルタナティブ)な立場、あるいは反対する立場をとるメディア」、後者は「社会的変革への読者の積極的な参加を促すメディア」とそれぞれ一定の定義は与えられているのだが、政治的あるいは思想的立場によってさまざまな定義が存在することにまで言及しているのが興味深い。例えば前者でいえば、さまざまな立場があることを示した上で、著者は明らかに「メディアを大手マスメディアとの相対的位置によって定義するのではなく、そのメディアの自身の目的、効果、そしてプロセスによって定義するべきだ」とするクレメンシア・ロドリゲスによるより踏み込んだ定義を支持している。つまり、マスメディアと比べて規模が小さければオルタナティブということではなくて、外部への開放性が担保されているかどうかや社会変革に関わる目標設定があるかどうかといった特徴を重視しているのである。

 第3章以降では、個人ラジオ、ドキュメンタリー上映、インターネットなどさまざまな実践の事例が紹介されていく。欧米の事例ゆえイメージがつかみづらいものもあるとはいえ、それぞれの記述内容自体は非常にためになる。しかしながら、「訳者解説」で訳者自身が「無論、日本にはオルタナティブ・メディアは存在する。しかし、本書で欧米の実に多種多様なオルタナティブ・メディアの存在を知った方の多くは、日本がオルタナティブ・メディアの未発達な国であることを、痛感するに違いない。それはなぜなのかについては、この本を読み終えた後も、私たち日本人が考えていかなければならない大きな課題となる」と述懐しているように、これら欧米の事例や欧米のオルタナティブ・メディアの考え方を日本の文脈で考えるのは、いろいろな意味で難しい。
 もちろん、日本でもパブリックアクセスのような活動を構想したり実践したりしている人たちは存在する。だが、1980年代以降のバラエティー番組に始まり、今日のテレビを覆い尽くしたスタジオという言説空間を考えてみたときに、そこではあくまでも「市民」ではなく「素人」がメディアでいじられたり、あるいは番組観覧者、番組参加者の名の下に既存のメディア空間に組み込まれる姿がつぶさに想い起こされるのであり、そういった姿とオルタナティブ・メディアとの間の隔たりに愕然とせざるを得ないからである。

 とはいえ、本書の原著が出版されてから5年。その間にメディアをめぐる状況は大きく変わっている。米国の大統領選ではテレビ以上にインターネットを駆使したバラク・オバマが当選し、ダライ・ラマが「ツイッター」を使って意見を表明するといったように。まさしくアクティビストであるタラ・ハントによる『ツイッターノミクス』 (文藝春秋)に鮮やかに描かれているように、評者の周囲を見渡してみてもツイッターやブログといったソーシャルメディアを駆使して表現活動を行い、社会を変えようとする若い人々が多数いる。それをどう位置づけるかは議論の余地があるとしても、現実の方がはるかに進んでいるのであり、上述したような「市民」でも「素人」でもない新たな層が立ち現れている。

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2010年03月28日

『「水俣」の言説と表象』小林直毅編(藤原書店)

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「『水俣』をとらえ直す、メディア研究の集大成」


 「水俣」は現在も続いている。しかしながら、「水俣」は、例えば歴史教科書から新聞、テレビといったメディア言説において、悲惨で繰り返してはならない過去の歴史として語られる。このような言説は一見まっとうに見えるが、いまだ補償を受けていない患者や解決していない問題を切り捨てるある種の暴力としても働いている。
 本書は、「水俣」を「歴史」として表象するそのような現状に異議を申し立てようとするものであり、さらに「教科書」的な言説の背後に隠されたもの、あるいはその言説が排除したものやこぼれ落ちるものをとらえなおそうとするのである。

 「『水俣』の記憶は、過去の出来事として遠ざけられ、断片化された映像によって描かれ/見られた水俣病事件によって形成され、共有されている。たしかにこうした映像は、水俣病の悲惨さを表象してきた。しかし、そこでは、急性劇症型の患者や胎児性患者の身体と生が、今日もなお告発しつづける『水俣』の記憶が、はたして表象され、形成され、共有されているのだろうか。描かれ/見られることとしての『水俣』の鮮烈な記憶が広範に共有されているからこそ、その成り立ちを解明する必要がある」

 本書は9人の著者によるアンソロジーであり、各章では言説分析、政治コミュニケーション、カルチュラル・スタディーズなどさまざまなアプローチが駆使されているが、編者である小林直毅(こばやし・なおき)さんのこのような明確な問題意識が全編を貫いている。
 三部から構成され、第Ⅰ部「『水俣』をめぐるポリティクスとイデオロギー」では、これまで描かれ語られてきた「水俣」をマクロな視点からとらえなおそうとする。そこでは、日本のマスメディアのパターナリズムが描き出される。例えば第2章では、『経済白書』などのテクストを分析し、「こうした経済政策における論理はマスメディアを通じて再生産され、日本社会において復興から高度経済成長への至る経済政策に関する『合意』を形成したのである」と結論づけられる。第Ⅱ部「『水俣』の漁民・労働者・市民」ではこれまで語られなかったり、あるいは他者化されたりしてきた存在に光を当てる。評者は「水俣」をリアルタイムで知らない世代だが、第Ⅰ部で言説のマクロな構造を追うなかで「漁民」という存在やその実践に距離が置かれていたのは、漁師町で生まれ育った評者には少し違和感があった。だが、第4章では「そこに、P・ブルデュー(1988、1990)やM・ド・セルトー(1987)に依拠しつつ、「漁民」あるいは漁協の実践や戦略をみることも可能であろう」としつつも、客観報道の枠組みのなかで「漁民」が否定的な意味合いで隠喩され「漁民表象」がつくられていったさまを描き出している。
 第Ⅲ部「『水俣』の映像表象」では、これまで十分に検証されてこなかった映像メディアに対象を特化させている。ニュース映像、報道写真、ドキュメンタリーでの「水俣」表象がテーマにされる。映像は言語テクストに比べて多様な意味の広がりを持つ。そのため、映像を通じて何が表象されていったのかを分析するのは難しい。だが、第8章では「水俣病事件の初期報道に関して、新聞写真における患者の表象を追跡する作業は、患者が闇に葬られていくプロセスの検証となっていった」としている。また、第9章ではNHKのドキュメンタリー『奇病のかげに』(1959年11月29日放送)に関して、それが持つ告発としての可能性や「チッソ」への批判性を鑑みながらも、患者の身体を見るという経験に付随するものを問う。
  「水俣」という事例に徹底的に寄り添いながらも、水俣を通じたこの研究は、日本型メディアシステムの構造的な問題やメディアと社会意識の関係をとらえ得る大きな広がりを持つものである。また同時に、「客観報道」や記者クラブ制度といったジャーナリズムのあり方に再考を促すものでもある。水俣報道に携わったジャーナリズム、あるいは現在のジャーナリズム、記者たちは本書をどのように受け止めるだろうか。

 1990年代後半以降、日本のメディア研究や文化研究はカルチュラル・スタディーズの影響を大きく受けた。その後、フェミニズムやポストコロニアル批評などと結びついて多様な展開を見せていった。しかしながら、なかなか日本の文脈のなかでの重要な問題、公害、同和問題、在日朝鮮人といった社会的差別や社会問題が真正面から取り上げられてこなかったし、従来の批判的研究との接続も容易には進まなかった。本書では編者が自らを「レイト・カマー」と形容しているが、それは既存の知と結びつきながら、それをとらえ返すという重要な試みといえる。ここまで事例に入り込み、寄り沿いながら紡いだメディア研究を寡聞にして評者は知らない。その意味で、本書は間違いなくメディア研究の集大成として位置づけられるものだ。
 このような強い問題意識に裏打ちされた研究を評するとき、評者自体の立ち位置もまた問われよう。評者は大学院生時代の2004年に著した論文で、本書出版の端緒となる編者の研究論文に触れ「メディア表象とメディア組織、行政、政治といった様々な権力との関係を、日本の文脈のなかで捉えようとする姿勢が見受けられる」と書いた。それから3年後に編者は本書を世に問うている。翻って評者自身はそれだけの対象をまだ見つけられていないし、対象からここまでメディアの存在を問うような仕事もできていない。そのため、なかなか本書と向き合えなかったのが事実である。
 同じ方法論を専門とする立場からあえていえば、タイトルにもあり本文にも頻出する「言説」(discourse)と「表象」(representation)それぞれの概念が具体的に何を意味し、どう異なったりクロスオーバーしたりするのかについてのまとまった記述がない。それによって共著者によって異なった使い方が生じており、多少の混乱を読者にもたらすかもしれない。だが、それは上述したような本書の価値を下げるものではまったくない。本書の記述は重厚で論文調の硬派なものだが、広く読んでもらいたい一冊である。特にメディアと社会について学ぼうとする学生や若い世代には、政治的中立性を装ったフラットな入門書を何冊も読むよりは、多少難解であってもぜひ本書と向き合ってもらいたい。



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2010年03月13日

『美女と機械―健康と美の大衆文化史』原克(河出書房新社)

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「グローバルな身体文化の淵源を描き出す」


 以前にも本欄で著者・原克(はら・かつみ)さんの著作を紹介したが、本書に触れてみて著者の作品をすべて読破してみようという気になった。

 本書は、19世紀における『サイエンティフィック・アメリカン』(1845年創刊)、『ヴォーグ』(1892年創刊)、『フィジカル・カルチャー』(1899年創刊)といった身体に関する膨大な雑誌記事や広告の言説と図像に追った労作である。それは、乗馬マシンや電動ベルトといった(現代にも存在する)健康器具に注目した博物学的なものでもあり、社会史的なものでもあるが、その真骨頂は秀逸な言説分析たり得ている点にあると評者は位置づけておきたい。
 「最近、運動不足で」。何気ない日常会話でよく耳にする言葉だ。気がつけば評者自身もよく発している。しかしそれは、どのような基準に対しての「運動不足」なのだろうか。また、基準があるとすればそれはいつ誰が作ったものなのだろうか。さらには、何のために運動しなければならないのだろうか。
 本書は、このような疑問に示唆を与えてくれるものであり、読み物としても、あるいは身体表象論としても十二分に読み応えのあるものである。入手が難しい事例を豊富に渉猟しているさまには「博覧強記」という言葉がまさにフィットする。しかしながら、情報量やそのカバー領域の広さ以上に特筆すべきは、著者が第1章でまず言説分析の困難さに触れていることにある。

  「したがって、ある身体観を分析しようとするとき、原理的には、それに先行するあらゆる言説と非言説を視野に入れなくてはならない。ということは、仮に、ある特定の先行する言説をもちだすとしても、それを特権的な根拠として言挙げするのではなく、あくまでも、言説の多次元的な枠組みを構成するだけの、ひとつの例証とのみ見なくてはならない」

 著者は明らかに、ミッシェル・フーコーの影響を受けた今日の言説分析に対する批判を念頭に置いている。つまり、自ら言説分析が万能ではあり得ないこと、そこからこぼれ落ちるものがあることを潔く認めているのである。それでも、著者は身体観をめぐる多様な言説を追究しようとするのだが、その際、その時代その時代の知の枠組みを形づくる言説というものを考える際に、言説分析を通して非言説、つまり言説ではないものの重要性を指摘しているのも見過ごしてはならない。

 「著者にとって、身体観とは「身体観といったような表象現象は、人間の直観的として、一見、だれもが共有している『共通感覚』であるように思われがちだ。しかし、こうした表象を成立させている言説の枠組み、あるいは価値の枠組みというものは、決して一次元的なものではない。ある特定の言説が、ある特定の明確な結果を導き出す。そんな単線的な因果関係にはないのだ。そうではなくて、ある身体観が、仮にそこに成立していたとして、それは、先行するなんらかの身体観の記憶、またそれとは逆の身体観の記憶、あるいは消えてしまった記憶のなんらかの痕跡。さらには、直接身体について語っているわけではないが、しかし、なんらかの身体的なるものを想起させることどもの言説の痕跡、こうした、諸々の言説やら非言説、イメージやら反イメージが、何層にもおりかさなって、連動し合いながら言説の枠組みを形づくっているものだ。それは、あくまでも多層的であり、しかも、その多層性の作法に単一の法則などない」

 多くの社会史的な読み物、ないし言説分析があまりに「きれいに」現代社会へとすんなり結実していく。「商品」として見ればそれは完成度が高いといえるのだろうが、賦に落ちないものが残る。それに対して本書は、必ずしも現代へと繋がらない言説や、人々の記憶のような非言説的なものもひっくるめて、現代の身体観が言説的に構築されていくさまを描こうとするのである。一見、悲観的で禁欲的でありながらそのなかに希望を失わない姿勢には共感を覚える。

 「美女と機械」と題された本書は、意外にも男性の事例から始まる。19世紀の英国。そこでは近代化・都市化に伴う諸問題が生じていた。そこから、都市という「身体」の整備とともに人間の小さな「身体」を改善しようという試みが始まるのである。
 1844年、英国キリスト教青年会YMCAが、急速な都市化が生みだした「不健全な状態」の改善に名乗りを挙げる。それは「強靭な肉体」(ストロング・ボディー)を作ることで、病気に打ち勝とうというもので「筋肉的キリスト教運動」(マスキュラー・クリスチニティ)と呼ばれた。キリスト教とマスキュリニティとの節合を考えるうえでも興味深い事例だ。そして、それはドイツで語られていた国家主義的文脈ではなく、むしろ社会的・都市管理的文脈で語られていく。つまり、ファシズムやナショナリズムといった政治的な文脈ではなく、社会全体や都市の秩序を守ろうという自治意識的な文脈のなかから生じたのである。
 19世紀半ばには、そういった「不健全な状態」を効率的に回避するために、身体運動と「食餌療法」を適切に組み合わせることが語られる。それは身体との新しい向き合い方であり「身体鍛錬」(フィジカル・カルチャー)という新思潮だったのだ。英国に端を発する身体鍛錬は、たちまち植民地である米国にも到来する。発信源はハーバード大学である。著者は同大学における3人のキーパーソンの足跡をたどりながら、以下のように断言するのである。

  「二〇世紀を通じ米国市民の身体観を下支えし、ある意味では、がんじがらめにしてきた思潮というのは、十九世紀の身体鍛錬イデオロギーにその淵源をもっている」

 雑誌広告から導かれる知見は多岐にわたるが、評者がとりわけ注目したのは「女性の身体の部分化」と「スリーサイズ信仰」である。明らかに現代日本の身体表象、あるいは身体文化と繋がっていると思えるからである。
 前述したように、著者はあくまでも特定の言説が、ある特定の明確な結果を導き出すような単線的な因果関係などないとしている。しかし、このような知見は著者がまえがきで意図したこのような問題設定が見事に成功していることを示している。

  「本書は、こうした健康美神話がどのように作られてきたか、そして、それが完成した後に、どのように変質していったか。その道筋を明らかにすることをめざす。それは、今日の女性の身体イメージが誕生した瞬間に立ちあうことである。したがって、本書は二〇世紀型『美しい身体』の書と言っても良い」

 著者は必ずしも明示的には語っていないが、英国、米国に始まる身体文化が日本をはじめグローバルに拡張していることは明白であり、その意味で本著はその深淵を見事に描き出している。

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2010年03月05日

『近頃の若者はなぜダメなのか―携帯世代と「新村社会」』原田曜平(光文社新書)

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「〈若者論〉自体を問い直すきっかけに」


 新刊を見つけても、評価がある程度定まってからでなければ触手が伸びないジャンルが二つある。若者がいかに変わったか、さらにはいかにだめになったかを論じる「若者論」と、メディアやメディア産業の将来を予測する「メディア未来論」である。
 まず「メディア未来論」についていえば、「新しいメディアで人間や社会がこう変わる」などという技術決定論は(好きではないが)まだましで、「○○が消える日」「○○がなくなる日」といったタイトルの類書が多すぎることに違和感を抱いている。
 確かに、新聞であれテレビであれ、既存のメディアが衰退することは大きな社会的インパクトを持つものであり、それを論じることにはニーズも大きいだろう。また、こういった売り方自体は好みの問題でもあり、そういったタイトルのものを好んで読んでいる人もいるのだろう。
 しかし、いくつかの意味でそこには看過できないものがある。「ソシオメディア論」という考え方によれば、ある新しいメディアが登場しても、それがそのまま古いメディアに取ってかわるわけではなく、複数のメディアが重層的に存在していく。電子メールが普及したからこそ、手書きの手紙がより特別な意味を持つようになったように。そういった複雑な構造を丁寧に追おうとせず、「消える」「なくなる」とか、あるいはその新たなメディアが万能であるかのように吹聴するのは、メディアと社会の関係を単純化しすぎている。
 もう一つには、こうした言説こそがそういった結果に加担してきたのではいかということだ。これは「メディア未来論」だけではなく「若者論」にもいえることだが、危機感を煽ること自体が、その対象が危機にあるということを争点として読者に提示し、結果的に衰退の方向へ導いてしまう「予言の自己成就」的な性格を持っている。それを自覚したうえで確信犯的に振舞っているのならば放っておくほかないが、自分が発した言説自体がファクターとなり、その対象を巻き込み変容させていく。このことをどうとらえながら対象を論じるのか、評論家であれ学者であれ、この点に無自覚であってはいけないだろう。

  このように「若者論」と「メディア未来論」は消費される(つまり、上っ面だけがなぞられてすぐに忘却されてしまう)言説としての側面を持つが、この両者はまた不可分に結びついている。つまり、論じられる対象が新しいものに更新されるだけで、「メディアによって若者がどう変わったのか」という問題設定が繰り返し行われているのである。
 もちろん、学術書では「若者論」自体を相対的にとらえなおすものもある(羽渕一代編『どこか〈問題化〉される若者たち』恒星社厚生閣など)。しかし、本書についていえば、評者は完全に上述した傾向のものの一つだろうという先入観を持っていた。しかし、その先入観はいい意味で裏切られた。本書は、前述したような「若者論」ブームに便乗しつつも、したたかにそれを相対化してみせようとする傾向を備えたものだったのである。その意味で、本書は正確には『なぜ「近頃の若者はダメ」といわれるのか』と題するべきなのだろうが、あえてそうしなかったのは「若者論」を期待する読者を鮮やかに裏切るための装置なのかもしれない。そうすると、評者はまんまとその装置にはまったわけだ。
 第1章から第5章では、「イマドキ」の若者の生態が描かれている。渋谷などでの聞き取りをもとにして、その「驚くべき生態」を記述するというスタイルは多くの「若者論」と共通するものだが、統計調査をもとにした記述には興味深いものがある。「世代別のケータイサービス利用率」では、報道で問題となっている「学校裏サイト」の利用率が極めて低いことをはじめ、「有害サイト」の利用率が低いという。それよりも、ブログやSNSなど「現在の人間関係を維持する」「新しい人間との出会いを広げる」ツールとして頻繁に利用されているというのである。
 さて第6章、第7章に本書のユニークネスがある。第6章「つながりに目覚めた若者ネットワーカー」では、調査から浮かび上がってくる若者の肯定的な側面を挙げる。著者が「新村社会の勝ち組」と呼ぶネットワーキングに長けた若者の存在である。第7章「近頃の若者をなぜダメだと思ってしまうのか?」は、冒頭で触れたような「若者論」自体に批判的なまなざしを向ける。著者はこう締めくくっている。

 「ニュースをつければ、挙げればキリがないほど、若者をテーマにした社会問題や事件が湧いては消えています。しかし、私は、昨今のこういったある種の『若者ブーム』に強い危機感を感じています。多くの言論が『若者を批判する』か『大人や社会を批判する』か、どちらかの立場に立っているものばかりだからです」

 著者は、「若者論」がはらむ問題として「二項対立構造への麻痺」を指摘する。皮肉にも著者自身が「勝ち組/負け組」という図式を使ってしまっていることが示唆するように、「若者論」に限らず(冒頭の「メディア未来論」も然り)現代に生きる日本人の認識枠組みのなかに、二項対立構造は深く染み込んでいる。

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