『女はポルノを読む―女性の性欲とフェミニズム』守如子(青弓社)
「女はポルノをどう読んでいるのか」
「ポルノグラフィは、『悪いもの』という前提でだけ考察されることが多い主題である。アダルトビデオやインターネットのアダルトサイト、ポルノコミック、アダルトゲーム、写真雑誌、小説・・・・・・とポルノが社会に蔓延している状況に顔をしかめる人は多い。しかしその一方で、マスターベーションのためにポルノを使用している人は少なくないことも確かな事実である。そうであるならば、『ポルノは悪い』と切り捨てたり見ないふりをしたりするのではない語り口も必要だろう」
このような明快な書き出しから本書の「はじめに」は始まる。
次の第1章で触れられているように、レディース・コミックに代表される女性向けポルノグラフィの研究はこれまでなかったわけではない。しかし、その多くがポルノを女性抑圧の装置として一方的に否定するか、もしくはオルタナティブを求め女性が主体のものへとつくり変えようとするものかであった。
本書は、そのどちらかの立場に無批判に肩入れすることなく、『コミックAmour』『コミックJune』といったテクストを素材に女性のポルノ消費の実相、つまり「女はポルノをどう読んでいるのか」に迫ろうとする意欲作である。版元の「近刊案内」に出てから出版に至るまでずいぶん時間がかかったが、その苦労の跡が端々に見て取れる。
「私自身の経験を述べるなら、私は子どもの頃からマスターベーションを習慣的におこなっていたが、してはいけないことだと悩んでもいた。・・・中略・・・マスターベーションする主体はいつも男性であり、議論から女性は抜け落ちていた」
自らのセクシュアリティ、性欲を語ることにはかなりの困難や心理的圧迫を伴う。研究者がここまで立ち位置を明確にしたセクシュアリティ研究は、管見にしてこれまでなかったのではないかと思う。その意味でも、本書は何年か後に10年代のジェンダー/セクシュアリティの嚆矢として位置づけられるものとなっているかもしれない。
さて、本書はお茶の水女子大学大学院提出の博士論文を加筆したものである。そのため第1章ではフェミニズムにおけるポルノ批判を、第2章では日本における1990年代以降の女性向けポルノの成立史を手堅く押さえており、フェミニズムとポルノグラフィをめぐる必読文献となりそうだ。評者はそのなかでも、第3章「女性向けポルノコミックの読者」に最も注目した。
同章で著者は、そのテーマゆえ読者へのインタビュー調査が難しいという理由から、書籍に挟まれている「読者カード」を用いた調査を行っている。これは、調査対象が積極的に投稿しようとする極めてアクティブな読者に限定されるという方法論的な限界を伴っている。とはいえ、読者がポルノコミックの性表現をどのように利用し、充足感を得ているのかという「利用と満足」を具体な事例とともに描き出すことに成功している。その結果、男性器の視覚的な情報に欲情する読者や、マスターベーションのためのファンタジーとしてではなく、現実世界での情報源として利用している読者の姿などが具体的に浮かび上がってくる。
評者も行った経験があるが、これまでの女性(少女)雑誌研究における読者調査では、多くの場合「読者投稿欄」における投稿を分析対象としてきた。しかし「読者投稿欄」は当然、編集者による投稿の取捨選択を経ているし、編集過程で改竄や創作が行われている可能性も否定できない。その意味では、本書が採用した読者カード分析はもう一歩踏み込んだものとして評価できるものだ。
その後、第4章、第5章でのテクスト分析を経て、第6章では再度、フェミニズムの議論に立ち返り、そこにおいて「女性の性的快楽」をどう位置づけるのかが議論される。著者の本音が最も投影される「あとがき」では、パット・カリフィアの記述を引用してこう締めくくっている。 「現在のような制約の多い下で作られたものでも、それ(ポルノ)にはやはり価値がある。それはわたしたちに、悦楽と反抗のメッセージを伝えてくれている」
最近、若者研究を専門とする同僚研究者から興味深い話を聞いた。彼のゼミに所属する男子大学生の多くが、わずか1分間にも満たない、また画像の極めて粗い携帯動画でマスターベーションを行っているという。これが示しているのは、印刷メディアにおけるポルノの衰退と「ポルノグラフィの劣化」といえるような事態が起こっているということである。
評者は、著者の見解とは異なり、劣化したポルノがインターネットやケータイのコンテンツとして氾濫する一方で、本来享受する自由がある大人の間において、多様で“良質なポルノ”は過剰に排除・不可視化され、ポルノをめぐる言説さえも語り得なくなっている状況があるのではないかと考えている。ポルノにおける女性への抑圧的な表象や生産・流通の構造には当然多くの問題があるとはいえ、ポルノがその内部に含む、あるいは外部へと拓く多様な読みや抵抗性まで不可視化してはならないのであり、本書のような研究が今後続くことを期待してやまない。




