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2010年02月25日

『メディアスポーツ解体―〈見えない権力〉をあぶり出す』森田浩之(NHKブックス)

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「五輪期間に、メディアとスポーツを考えるために」


 「メディアとスポーツ。両者は互いに切磋琢磨する。単独でも十分に力のあるふたつが結びつくと、そこに強大な〈権力〉が生まれているはずだ。でも意識していなければ、その正体は思いのほか見えづらい」

 本書の表紙を開くとこのような要約が目に入ってくる。
この問題関心から、メディアとスポーツのカップリングによってもたらされた「ナショナルなもの」「ナラティブ/物語」「ジェンダー」「神話・ステレオタイプ」 「ヒーロー〈イチロー〉の意味」が主題化される。そこで言及されるスポーツ・ジャンルは、著者がジャーナリストとして専門にしてきたサッカーにとどまらず、野球、フィギュア・スケート、テニス、マラソン―など多岐にわたる。

  スポーツ・ジャーナリズムの関心は日々の競技結果やその記録、選手個人にあり、スポーツをめぐる社会的・政治的な背景についてまでは十分に論評機能を発揮できていない。ましてや、メディアが介在することがスポーツに何をもたらすのか、スポーツをどう変容させているのか、といった自己言及的な省察など、言うにおよばずである。
 翻って、アカデミズムの世界を見ると、本書が前出の主題のなかで導き出した論点、例えばメディアとスポーツ、ジェンダーとスポーツの関係、黒人の身体能力をめぐる言説―などはスポーツ社会学の学術雑誌やアンソロジーで研究者が従来から指摘してきている。
 そのようななか、本書の持ち味は主張のオリジナリティにあるというよりは、むしろアカデミズムとジャーナリズムを往来し、スポーツの視聴者に届く平易な表現でスポーツが内に含む政治を描くことができているところにある。前作『スポーツニュースは恐い』(NHK出版)も然り。著者はジャーナリストを称しつつも最新の研究を追えるスキルとバランス感覚を兼ね備えた人であることが容易に分かる。
 しかし、やや乱暴な言い方になるが、本書における主張自体はスポーツ社会学を専門とする者においてはある種「当たり前」「ベタ」とさえ思えるものである(例えば、正確さを期すならば「メディアスポーツ」とは「メディエイテッドスポーツ」でなければならないし、媒介とは何か、媒介のメカニズムがどのようなものかをこそ問う必要があるだろう)。
 それでも本書が書棚で輝きを放っていると感じられるのは、前述の著者のスキルの高さに加え、評者自身を含めスポーツ社会学を研究する者たちのことばが広く人々に届いてない、響いていないことの反映であると考えられる。評者自身、反省させられるところだ。

 いずれも本書の価値を否定するようなものではないが、いくつか指摘しておきたいこともある。まず、本書では「権力」に全体を貫くキーワードの役割が与えられている。ミッシェル・フーコーを参照しつつこのように述べている。 

 「権力は社会のさまざまなレベルで、さまざまなかたちをとり、さまざまな影響を生み出す。フーコーによれば、それらは必ずしも、何かを禁止し誰かを抑圧するといったネガティブなものではない。むしろ権力とは、ある事柄について語りうることの領域を定め、そのなかで効果をもつことばを生み出し、それによって人びとの振る舞いや行為を編成し組織する力である」

 では、そうした、スポーツというジャンルをまとい生活に入り込んだ権力が、読者の身体から家族、さらにはビジネスや学校といった社会環境にどのように作用しているのか、言説分析を踏まえて、どこかでイントロダクションでの議論に立ち返って全体を概括する記述があってもよかったのではないか。
 また、新聞表象を論述のための資料にしているが、分析対象の選定やその分析方法が曖昧なものとなっているのも気になる。この点についてはアカデミックな基準を持ち出すと長くなるため一つだけ具体的に挙げておくと、社会的な公共性や読者対象が大きく異なる一般紙とスポーツ紙の言説が混在している。この点だけでも恣意的に資料を用いているとの批判を受けても仕方がない。

 「あとがき」を読むのが評者の一番の楽しみである。ここで著者は謙遜しながら本書執筆の経緯を述懐している。

 「どうしてメディアは決まってこういうことをするのだろう」
 「どうして私は記事にこんなことばを使ってしまうのだろう」

こういった疑問に始まる著者のジャーナリズムの現場的問題関心は、著者が「仕事をやめて、ロンドンの大学院に行っ」て出合ったと軽妙に語るメディアスタディーズ、カルチュラルスタディーズとうまくクロスオーバーしていると評者は感じる。
 スポーツを社会学的にとらえるための入門的な良書として、大学時代に多木浩二著『スポーツを考える』(ちくま新書)に触れたときのインパクトは今でも忘れないが、ことにメディアに媒介されたスポーツについていえば、本書もそれに準ずるインパクトを現在の読者に持っているのではないだろうか。
 折しも現在、テレビやインターネットではバンクーバー五輪が盛り上がりを見せている。スノーボード・ハープパイプの日本代表、国母和宏選手の振る舞いをめぐる一連の「事件」はまさにメディアスポーツの本質を体現しているのではないか。公共空間でのマナーという点で、国母選手の記者会見の態度に問題があったのは事実だろう。だが、それを受けたメディア表象、また、メディア表象に反応する形で生起した彼の応援組織、JOC、世論の動き(芸能人から文部科学大臣までがコメントするといった)は明らかに過剰なものであったように思う。
 本書を片手に、五輪をめぐってメディアが語ったこと、語らなかったことが何だったのかを考えなおしてみるのもいい。

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