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2010年02月28日

『悪魔の発明と大衆操作―メディア全体主義の誕生』原克(集英社新書)

悪魔の発明と大衆操作―メディア全体主義の誕生 →bookwebで購入

「現代によみがえる大衆社会論」


 2003年に出版された本書を、なぜいまになって語るのかということからお話ししておきたい。
 昨年出席した某書籍の出版記念パーティーで本書著者の原克(はら・かつみ)さんにお会いした。そのときの原さんのスピーチがとても印象に残っているのだ。ワインがほどよく回っていた頃だったため曖昧な記憶で、正確に再現する自信はないのだが、原さんのご研究が「メディア研究では古い仮説とされる「弾丸効果説」に依拠しているのではないか」というようなことをどなたかから聞かれて、確か原さんは「僕の専門はメディア論ではなくて表象文化論だからかもしれないが、メディア研究のなかでの流行など気にしていない」という趣旨のことを語っておられた。
 考えてみれば、メディア研究の教科書や概論の多くが、時代を区分してメディアが及ぼす効果の度合いを一本の連続した線のようなものとして理解している。①弾丸効果説(1915~1940年頃)、②限定効果説(1945~1970年頃)、③強力効果説(1970年頃~)、というように(この区分は佐藤卓己著『現代メディア史』 (岩波書店)によるが、年代の細かい分け方は諸説ある)。それでもって、より新しい説に注目が集中し、過去の説が振り返られることはあまりない。
 評者が関西の大学にいて東京での大学院進学を決めた際、先輩にあたる社会学専攻の大学院生から「東京の研究者は流行に左右されすぎちゃうか。好きなテーマをとことん追究したらえんやん」というような趣旨のことを言われたことを覚えている。
 東京と関西の研究動向をそのように分類してしまうのはいささか単純すぎるが、確かにメディア研究でいえば(いや、それは何もメディア研究に限るものではないのかもしれないが)、全体的に上記のような発展史観的な(つまり、「新しいものはいいものだ」という)価値観が趨勢となっているのは事実な気がする。しかしながら、過去の遺物としてではなく現在、限定効果説にこだわって研究する人がいてもいいし、弾丸効果説も然りであろう。冒頭の原さんの言葉は、評者自身がメディア研究内のものの見方にとらわれすぎていることを教えてくれている。

 「こうしたメディア環境は、われわれの第二の自然になってしまっている。それらの前で、われわれは大衆である。ひとりで視聴しているときでも、決してわれわれは個人ではない。大衆の一部なのだ。なぜなら、放送の送り手の方が、われわれを生身の一個人として扱ったことはないからだ。われわれはどんな時でも、平均的な視聴者のひとりとしか見なされない」

 このように、メディアに対する「能動的な受け手」や「多様な読み」が指摘されるようになって久しい現在において、本書はあえて「大衆社会論」の立場に依拠することを高らかに宣言する。
 本書はラジオやテレビといった古くからのマスメディアも対象にしているが、メディア研究者ではないと著者が自任するとおり、メディア研究者が論じない「パンチカード」や「火葬炉」のようなものを広い意味でのコミュニケーション・メディアと位置づけて言及したり、マスメディアのコンテンツとして料理番組に着目したりしているのが特徴だ。というか、このあたりの考察に本書の真骨頂があるといえよう。
 第二章「【パンチカード】個人情報は悪魔の囁き」は特に興味深い。メディア研究者の多くは近代メディアの始まりを語るときにグーテンベルクによる活版印刷から始めるし、現代のメディア社会のルーツを語るときに、ラジオであったりテレビ、インターネットであったりといったマスメディアの成り立ちから始める。しかし、著者が着目するのはそういったマスメディアのまたルーツとなる、今となっては忘却されている発明品の数々なのである。
 パンチカードとは、1882年に「マサチューセッツ工科研究所」(MIT)で開発された大量情報処理システムのことである。

 「これこそ、国家がシステマチックに、個人情報を収集、管理した最初の事例である。ホレリス型パンチカード処理機は、高速情報処理時代の幕開けを告げた。輝かしいテクノロジーである。これにより、今日のコンピュータ社会、デジタル情報処理社会が到来することにもつながったからだ。その功績は計り知れない」

そして、この高速情報処理機がそのシステムに組み込むことができなかったものが、すなわち人間の「割り切れなさ」であり、その割り切れなさを捨ててしまった思想が現代に連綿と繋がっているということを鋭く喝破するのである。

 パンチカードの例に限らず、本書には現代社会を大衆社会として理解するため、そのルーツとなる発明品の数々(蓄音機やラジオ受信機など)がときには理論的に、また、あるときには詩的に紹介されている。

 「テレビ、ラジオ、パンチカード。これら情報メディアが技術的に発展する中で、いったい何が獲得され、何が失われていったのだろうか。人間が固有名を持った一回限りの存在として、その交換不可能性を維持する。そうした存在のかけがえなさを伸長する方向で、これらテクノロギーは、われわれメディア大衆に資するところが大きかったであろうか」

 新書であるため、記述のスタイルや取り上げられる事例はポピュラーだが、著者からの問いかけは重い。

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2010年02月26日

『娘と話す メディアってなに?』山中速人(現代企画室)

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「メディアと人間の失われた全体性の回復」


 曲がりなりにも教育に携わっていながら、最近まで「入門書」というものにまったく興味がなかった。何より入門書の押し付けがましさが好きになれなかったし、入門書の類には著者自身が心底面白いと思っているものやこだわりといった身体性のようなものがまるで投影されていないと感じてしまうからだ。どちらかというと、学問であれ習い事であれ、門などというものは人に導かれて入るものではなく、多少無謀であっても強引にこじ開けてみるものだろうと思っている。そんな評者が入門書に興味を持つようになったのは、昨年、自分自身がほぼ同時期に2冊の入門書(藤田真文・岡井崇之編『プロセスが見えるメディア分析入門』(世界思想社)伊藤守編『よくわかるメディア・スタディーズ』(ミネルヴァ書房)の出版に携わる経験をしたためである。
 近年、「○歳からの」「○○でもわかる」「○時間でわかる」というように、いかにハードルを下げたかを競うように宣伝する「形容句付き入門書」が次々に出版されている。その様相は、視聴者を獲得するため他局より放送開始時間を1分、2分と早めるニュース番組の競争のようでもある。
 自分の高校・大学時代を思い出してみると、「誇示的消費」(ウェブレン)というのか、大して分かりもしない哲学や現代思想の本を無理して読んでいたものだ。しかし、現在「おバカキャラ」といわれるタレントが広く受容されていることが示すように、教養がないことを人に見せることは恥ずかしいことではなくなっている。そればかりか、「おバカになれないとうまくコミュニケーションが取れない」といった内容の話をよく学生から聞く。

 さて、本書の紹介へと移ろう。
だが内容へと話を進める前に本書のスタイルについてもう少し考えてみたい。本書の内容も「形容句付き入門書」同様、かなり分かりやすいものとなっている。だが内容の分かりやすさとはまた別に、興味深い工夫がスタイルに埋め込まれているのである。
  「娘と話す」というのはシリーズ全体に共通する形容句だが、なぜ、「息子」ではなく「娘」なのだろうか。文化やメディアを子どもに語るということを想定した場合に、「父」が「息子」にという構図が暗黙のうちに設定されがちである。書籍検索サイトで見てみると分かる。「父と息子」で検索すると無数に出てくるが、「父と娘」だと、田中角栄と真紀子氏のような有名人親子の話か、もしくはアダルトなジャンルに限定される。しかし、「娘と話す」といったときに主語は母かもしれないし父かもしれない。また、「娘」は血縁関係の娘ではないかもしれない。このように、本書はまず読者の固定観念をずらすところから出発する。
 先日、知人から「『父と娘』をテーマにした絵本があったら教えてほしい」と頼まれた。だが、自宅の本棚を見渡しても、大型書店で探してもなかなか見つからない。「7匹のねずみ」シリーズ(山下明生著/いわむらかずお絵)のように子どもたち(あるいはキャラクター)のなかに女の子が含まれるものはあっても、父親と娘が2人で向き合うというものがないのである。そこで考えたのは、恐らく、父と娘(あるいは他人の娘)が対話するという設定が日本の文脈では成立しにくいのではないかということだ。これまで多くの父親が子育てに参加してこなかったし、子どもと話し合う回路を持っていなかったことの表れかもしれない。
 もう一つの特徴的なスタイルは、会話体であることだ。「Q&A」のような会話体は確かに分かりやすい。日常会話を用いているため読み手の身体に違和感なく入り込んでいく。しかし、著者自身が疑問(アジェンダ)を設定して、同じ著者が答えるというのはある種の情報操作につながりやすい側面も併せ持つ。例えば政党紙などを見ると、ある政治問題について親子の会話などのスタイルをとった記事をよく見かけるが、あれは明らかに政治的メッセージを盛り込んだ説得コミュニケーションとして設定されている。つまり、分かりやすい会話体ほど、実のところメディア・リテラシー(批判的読解能力)を要するのである。
 しかしながら、本書がとる会話体はそのような陳腐な定型ではない。フィクションであるとはいえ、生きた言葉・物語となっており、まったく新しい入門書スタイルといえるものだ。

 ハワイの大学に留学してきた架空の少女・ナニは、ゼミの指導教授の勧めで小さなFM放送局で番組制作に携わる。そして、制作現場での経験を通じてメディアが持っている歴史的な意味合いから今日的な問題までを学んでいく。メディアと戦争・プロパガンダから、効果論、産業論、法制度論、メディアイベント論にいたるまで実に幅広いテーマがカバーされている。

 「ナニがおそるおそるカモメFMの玄関のドアを開けると、フロアの一部を防音ガラスで仕切った小さなスタジオが目に飛び込んできた。スタジオの中ではパーソナリティらしい女性が、ヘッドフォンを耳にかけ、マイクに向かっておしゃべりを続けていた。スタジオには、この女性一人だけしかいなかった。驚いたことに、この女性はみずからミキサーらしい機械も操作していた。何もかも一人で放送番組を進行しているのだった」

  「たとえば、一九七〇年代のアメリカでは、それまでのアフリカ系アメリカ人に対する否定的な決めつけに対して、逆に「ブラック・イス・ビューティフル(黒人は美しい)」という肯定的なイメージをぶつけるというやり方をとった。否定的イメージに対して、マイノリティたちが戦略的に肯定的イメージをぶつける遣り方を戦略的本質主義と呼ぶ人もいるわ」

 このように、語られている内容も何気ない現場の描写から理論的に踏み込んだものまでバラエティに富む。
 著者が本書全体を通じて意図しているのは、二重の意味で「全体性」を取り戻すということではないだろうか。現在、メディアを語る言葉は、現場/学問、批判学派/経験学派のような二項対立的な立ち位置、あるいは法制度論、産業論、歴史学のようなアプローチによって非常に細分化されている。そのせいかどうかは分からないが、「メディアってなに?」という問いに全体的に答えようとする本がめっきり少なくなった。一つめの意図はそこにあろう。
 二つめは、メディアによって失われてきた人間の全体性や身体性の回復である。本書で繰り広げられる物語は、大学生のナニがラジオ制作という実践を通じてメディアが人間をとりかこむ環境を理解していく過程を描いており、圧倒的なテクノロジーのなかで失われた人間の全体性を再構築していくような試みといえるものだ。

 「被災のまっただ中で、在日外国人などのマイノリティが生きるために必要な情報を自らの手で地域にとどけるために、当初は無許可のいわゆる海賊放送局として設立されたこのラジオ局に、メディアの原点をあらためて発見したのです」

 著者が、本書の設定をミニFMとした理由が、甚大な被害を出しライフラインも寸断された阪神大震災後のFMの活動に携わった経験にあると言うことからも、評者にはそのように読めた。そこらの「形容句付き入門書」とはひと味もふた味も違うこだわりと奥行きが本書にはある。

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2010年02月25日

『メディアスポーツ解体―〈見えない権力〉をあぶり出す』森田浩之(NHKブックス)

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「五輪期間に、メディアとスポーツを考えるために」


 「メディアとスポーツ。両者は互いに切磋琢磨する。単独でも十分に力のあるふたつが結びつくと、そこに強大な〈権力〉が生まれているはずだ。でも意識していなければ、その正体は思いのほか見えづらい」

 本書の表紙を開くとこのような要約が目に入ってくる。
この問題関心から、メディアとスポーツのカップリングによってもたらされた「ナショナルなもの」「ナラティブ/物語」「ジェンダー」「神話・ステレオタイプ」 「ヒーロー〈イチロー〉の意味」が主題化される。そこで言及されるスポーツ・ジャンルは、著者がジャーナリストとして専門にしてきたサッカーにとどまらず、野球、フィギュア・スケート、テニス、マラソン―など多岐にわたる。

  スポーツ・ジャーナリズムの関心は日々の競技結果やその記録、選手個人にあり、スポーツをめぐる社会的・政治的な背景についてまでは十分に論評機能を発揮できていない。ましてや、メディアが介在することがスポーツに何をもたらすのか、スポーツをどう変容させているのか、といった自己言及的な省察など、言うにおよばずである。
 翻って、アカデミズムの世界を見ると、本書が前出の主題のなかで導き出した論点、例えばメディアとスポーツ、ジェンダーとスポーツの関係、黒人の身体能力をめぐる言説―などはスポーツ社会学の学術雑誌やアンソロジーで研究者が従来から指摘してきている。
 そのようななか、本書の持ち味は主張のオリジナリティにあるというよりは、むしろアカデミズムとジャーナリズムを往来し、スポーツの視聴者に届く平易な表現でスポーツが内に含む政治を描くことができているところにある。前作『スポーツニュースは恐い』(NHK出版)も然り。著者はジャーナリストを称しつつも最新の研究を追えるスキルとバランス感覚を兼ね備えた人であることが容易に分かる。
 しかし、やや乱暴な言い方になるが、本書における主張自体はスポーツ社会学を専門とする者においてはある種「当たり前」「ベタ」とさえ思えるものである(例えば、正確さを期すならば「メディアスポーツ」とは「メディエイテッドスポーツ」でなければならないし、媒介とは何か、媒介のメカニズムがどのようなものかをこそ問う必要があるだろう)。
 それでも本書が書棚で輝きを放っていると感じられるのは、前述の著者のスキルの高さに加え、評者自身を含めスポーツ社会学を研究する者たちのことばが広く人々に届いてない、響いていないことの反映であると考えられる。評者自身、反省させられるところだ。

 いずれも本書の価値を否定するようなものではないが、いくつか指摘しておきたいこともある。まず、本書では「権力」に全体を貫くキーワードの役割が与えられている。ミッシェル・フーコーを参照しつつこのように述べている。 

 「権力は社会のさまざまなレベルで、さまざまなかたちをとり、さまざまな影響を生み出す。フーコーによれば、それらは必ずしも、何かを禁止し誰かを抑圧するといったネガティブなものではない。むしろ権力とは、ある事柄について語りうることの領域を定め、そのなかで効果をもつことばを生み出し、それによって人びとの振る舞いや行為を編成し組織する力である」

 では、そうした、スポーツというジャンルをまとい生活に入り込んだ権力が、読者の身体から家族、さらにはビジネスや学校といった社会環境にどのように作用しているのか、言説分析を踏まえて、どこかでイントロダクションでの議論に立ち返って全体を概括する記述があってもよかったのではないか。
 また、新聞表象を論述のための資料にしているが、分析対象の選定やその分析方法が曖昧なものとなっているのも気になる。この点についてはアカデミックな基準を持ち出すと長くなるため一つだけ具体的に挙げておくと、社会的な公共性や読者対象が大きく異なる一般紙とスポーツ紙の言説が混在している。この点だけでも恣意的に資料を用いているとの批判を受けても仕方がない。

 「あとがき」を読むのが評者の一番の楽しみである。ここで著者は謙遜しながら本書執筆の経緯を述懐している。

 「どうしてメディアは決まってこういうことをするのだろう」
 「どうして私は記事にこんなことばを使ってしまうのだろう」

こういった疑問に始まる著者のジャーナリズムの現場的問題関心は、著者が「仕事をやめて、ロンドンの大学院に行っ」て出合ったと軽妙に語るメディアスタディーズ、カルチュラルスタディーズとうまくクロスオーバーしていると評者は感じる。
 スポーツを社会学的にとらえるための入門的な良書として、大学時代に多木浩二著『スポーツを考える』(ちくま新書)に触れたときのインパクトは今でも忘れないが、ことにメディアに媒介されたスポーツについていえば、本書もそれに準ずるインパクトを現在の読者に持っているのではないだろうか。
 折しも現在、テレビやインターネットではバンクーバー五輪が盛り上がりを見せている。スノーボード・ハープパイプの日本代表、国母和宏選手の振る舞いをめぐる一連の「事件」はまさにメディアスポーツの本質を体現しているのではないか。公共空間でのマナーという点で、国母選手の記者会見の態度に問題があったのは事実だろう。だが、それを受けたメディア表象、また、メディア表象に反応する形で生起した彼の応援組織、JOC、世論の動き(芸能人から文部科学大臣までがコメントするといった)は明らかに過剰なものであったように思う。
 本書を片手に、五輪をめぐってメディアが語ったこと、語らなかったことが何だったのかを考えなおしてみるのもいい。

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