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2013年09月27日

『ドアノーの贈りもの 田舎の結婚式』ロベルト・ドアノー(河出書房新社)

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「カメラを携えた語り部」

人生で写真が切実なものになるときは三度ある。一度目はこの世に生まれでたとき、三度目はこの世に別れを告げて遺影となったときで、ふたつのあいだ、人生の伴侶を得て結婚をするときに二度目が巡ってくる。
第二次大戦中に疎開先で世話になった一家の娘が結婚したとき、ロベルト・ドアノーはカメラを携えて駆けつけ、結婚式の一部始終を撮影した。ここにドアノーの写真観がはっきりと見てとれる。それは、写真は記録でも芸術でもなく、記念である、という考え方だ。

「記録」には客観的という言葉がついてまわる。現実をありのままとらえるという含みもある。一方、「芸術」にあるのは、自己を考えや思想を表現することだ。ドアノーはそのどちらからも遠かった。彼の写真は自己表現でもなく、冷徹な記録でもない。写真のもつ記録という特性は意識していたはずだが、そこから物語のほうに一歩踏み込んだ。記録よりも記念という言葉がふさわしく感じられるのはそのためだ。自分の目撃したことを写真を通して物語ることにいちばんの歓びを見いだしていた。

『田舎の結婚式』には1951年、パリの南西30キロにあるサン・ソヴァン村で執りおこなわれたその結婚式の一部始終が、時間の進行にそってレイアウトされている。ページをめくっていくと、さながらその場に立ち会っているかのようだ。巻末にはドアノーの残したノートからとった説明が載っており、そこからは当時の農家の結婚式の様子がより深く伝わってくる。パーティーに用意されたチーズケーキは400個で、宴の用意には一週間が費やされ、ふたりが結婚の約束を交わした場所で薪束を燃やす風習があり、婚礼の行列はその前をとおって4キロ先の村役場にいって式を挙げ、おなじ道をたどって農場にもどり、そこで隣人が行列の終了を告げる銃声を鳴らし、農場内にしつらえたテントの下で宴がはじまる……。

撮るべき場所でシャッターを押し、それがどのような意味をもつかを書き記す。ドアノーがすぐれた記録者でもあった証だが、それだけでなく、結婚というものを物語る語り部であったと感じたのは、つぎの2点の対照が目に留まったときだった。

ひとつは村役場での式の模様を撮ったものである。着席している新郎新婦の背後に親族が立っているが、そのなかの女性のひとりがレースの手袋をはめた左手を頬に当ててハッとしたような表情をしている。彼女の左側の男性も大きな目を見開いて意外な感に打たれたように右手前方を見つめている。おそらく、彼らの視線の先で人々の関心を引くなにかが起きているのだ。だが、新郎新婦はそちらを見ていない。蝋人形のように固まってまわりで起きていることに心を乱されまいと緊張している。

もうひとつは宴が進行してだいぶたち、ローソクの立ったケーキをふたりが見つめている写真である。新婦の手は新郎の腕にまわされ、新郎のネクタイは緩められている。まわりの気配は消え、ふたりだけの心のうちにすっぽりとおさまりくつろいでいる。表情のちがいがおもしろく、新婦はもう何年も妻をやってきたような落ち着いた顔をしているが、新郎はうれしさと、はにかみと、不安が入り交じったような複雑な表情をしている。おそらく、この彼の顔は結婚に臨む多くの男性の気持ちを代弁しているのだろう。そしてこの新婦の顔には、本人は自覚していない生き物としての女の表情が現れでているのだろう。そして、このふたつの写真のあいだに人生の起伏ある時間がこれから流れるのだ。

「私の仕事は俳優のようなものだ」そうドアノーは語った。撮影する人物の肌の内側に入っていくという意味で、彼は写真業を俳優業と重ねたのだった。対象と一線を画するのではなく、その表情やしぐさを自分の体を通過させてシャッターを切る。これは物語るということにほかならない。過ぎ去った物事や人々を思いだし、記憶を新たにすることが記念の意味ならば、この『田舎の結婚式』ほどそれにふさわしいものはないだろう。ドアノーはこれらの写真で手製のアルバムをつくってふたりに贈り、老年に達した彼らはいまもそれを家宝として手元に置いているという。


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