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2011年03月29日

『都市 風景 図鑑』中平卓馬(月曜社)

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「中平卓馬の写真をめぐって(その1)」

4センチほどの厚みのある大部な本には、中平卓馬が1964年から1982年に雑誌に発表した写真が、掲載ページの複写というかたちで収められている。2年前にこのスタイルで、森山大道の『にっぽん劇場』『何かへの旅』がおなじ月曜社から出版されている。このかたちが採用されている理由については、2009年11月の「書評空間」でも触れたが、写真の場合、掲載されるもののかたちが変わると、見え方が大きく変化する。

小説などにもそういうことはあるだろう。文芸誌で発表したあと単行本化のときに手が加えられるから、作品研究をするには初出時から追う必要がある。写真はそのような意味の「加筆」や「改稿」はないが、写真集では独立した「作品」としての性格が強まるのに対し、雑誌ではそれが撮られたコンテクストが強く浮き出てくる。新聞記事をネットで見るのと、新聞紙面で見るのとのちがいに近いような、なにか非常に生々しいものが立ち上るのだ。今回も写真家の生きた時代が物質となって現れ出てくるような印象があり、写真の生命は画質だの再現性だのを超えたところに息づくものなのを、改めて感じた。

中平卓馬と同世代の写真家たちとのちがいは、カメラ雑誌との関わりが薄いことだろう。1960年代はカメラ雑誌の威力はいまとは比べものにならず、写真界の動向はすべてそこに集約されていたし、またかけ出しの写真家はそこに写真を載せてもらうのを目標に励んだ。だが、写真の技術をなにも持たずに「写真家になる」と宣言して編集者から写真に転向した中平卓馬は、なりたての頃はそれ以外の雑誌での活動が多い。

最初に写真を発表したのは『現代の眼』である。これは彼が編集者をしていた左翼系雑誌で、そこに東松照明にそそのかされて写真ページをもうけたことが、彼が写真に興味をもったきっかけだった。造成地につくられた巨大団地を引きで撮影したそのカットは、まだ編集者だったために名前を変えている。「デビュー」というような華々しい言葉とは無縁の、写真の世界にふっと出現した人だったのである。

その後は、『アサヒグラフ』『朝日ジャーナル』などの週刊誌や、松田政男が編集長をしていた『映画批評』の仕事が目立つ。赤瀬川原平との共同連載「赤馬が見たり」などは時代感がたっぷりでているし、いろんなジャンルの人間と交流していた彼らしいスタンスがうかがえる。60年代の中平のもっとも大きな功績は、一種の職人芸であった写真の世界に「写真とはなにか」という問いを投げかけて自意識を目覚めさせたことにあったが、それは写真界の外にいたゆえに持てた発想だったのである。

70年に入ると『アサヒカメラ』での発表が増えていき、1982年に同誌で「新たに出会った子供たち」を掲載、その複写で本書は締めくくられている。その後の活動については次回の「中平卓馬の写真をめぐって(2)」で触れるとして、いまここで考えてみたいのは、1982年で本書が区切られている意味についてである。

中平は言葉への関心が強く、写真家になるか、詩人になるかで迷ったあげくに写真をとったというほど、独特のセンスの持主だった。70年に入って彼は「植物図鑑」という言葉を盛んに使うようになる。初出は71年の『朝日ジャーナル』で、タイトルにそう付けて6点のカラー写真を発表、それに添えた文章では、植物の繁茂する姿に恐怖を覚えること、しかし植物のリアリティーはそうした自己投影を拒絶するところにあること、恐怖を遠ざけるには植物を植物図鑑のように撮るべきことなどを語っている。

そうは言っても、撮られた写真は彼の深層心理をあぶり出すような気配の濃いものばかりである。しかし、まず言葉の花火を打ち上げてしまうのが中平なのだろう。その後も、ほかの雑誌で繰り返し「植物図鑑」というタイトルをつけて発表をしている。『カメラ毎日』(72年8月)では「植」を「博」に変えて「博物図鑑」とし、物を物として見るには暗室操作が介入しないカラー撮影のほうが適切だとし、「そのいさぎよさが今、ぼくがカラーに興味をもっているたった一つの理由である」と述べるが、「まだ情緒による「幻想化」の残滓がある」と自ら言うように、目指す写真にはほど遠い結果となっている。夜間や暗い場所の撮影が多いからそうなるのだ。

「植物図鑑」の写真にもっとも接近しているのは、奄美と吐噶喇列島を撮った2回で(『アサヒカメラ』76年2月、77年3月)、物を物として白日のもとにとらえたいという意志がたしかに伝わってくる。都市にいるかぎりはだめだとわかっていたのだろう。南の島の光に触れてはじめて夜間や暗い場所の撮影から脱することができたのだった。

ところが吐噶喇列島を発表した77年9月、思わぬ出来事が起きる。自宅でフランス人アーチストの歓迎パーティーをおこなっている最中に急性アルコール中毒症で昏倒し、意識がもどったときは、それまでの記憶が一切失われていたのだった。

つねに言葉の花火を先に打ち上げる中平であるから、病後は「先ず何よりも、私が写真家で在る」ということを生きる原点として撮影を開始する。倒れた77年ではなく、82年で本書が区切られている意味もそこにある。記憶喪失によって切断されたものと連続されたものを、写真のなかに確認するという意図が込められているのだ。

さて、ここからの展開が非常に興味深いだが、退院した翌年の78年、家族とともに沖縄に行き、そこで撮影したものを「沖縄 写真原点1」として『アサヒカメラ』に掲載しているが、その写真はカラーで、撮り方も病前の「奄美」や「吐噶喇列島」に近い。

だが、その後、モノクロにもどり撮影する時期がしばらくつづく。本書を締めくくっている「新たに出会った子供達」もモノクロである。ただし夜間撮影ではなく、対象はしっかりととらえられている。なぜモノクロにもどったのかわからないが、病前の撮影とレンズが変わっている点が注目に値する。かつては28ミリの広角レンズしか使わなかったのに、100ミリになっているのだ。この極端なレンズの変更にもなにか大きな理由があるはずなだが、彼の口から説明を聞くことはむずかしい。脳細胞が損傷を受けたためだと思うが、言葉による認識力が以前ほど明確には働かないのだ。

このように病前と病後の撮影を比べてみると、連続と不連続の要素が絡み合っている。カメラは機械だが、それを扱うのは人間である、という事実を見せつけられるかのごとく、事は単純ではないのだ。その一方で、たしかな「切断」も存在する。病前の中平は写真の発表が極度に減っていた。76年、77年などは年間1回くらいしかなく、写真について書くほうが多くなっている。

「植物図鑑のような写真」と方針は決まったものの、それに集中できる状態ではなかったのがわかる。だが、病後は撮ることに一途に邁進するようになる。それは、写真だけが自分に残された唯一の生き方だ、という自覚があったからだ。「(写真家であるという)その一点を、私、放棄することは全く不可能です」という「写真原点1981」に寄せられた彼の言葉は、障碍を背負って生きていくことへの決意表明でもあった。

世界中を探しても、彼ほど写真の奥深さ、不思議さを体現している人はいないだろう。写真の意思に沿おうという自意識をもつことで、物を物たらしめる自意識のむこうにある写真に到達している。この二律背反を彼は身を呈してくぐり抜けたのだ。次回は新作写真集『Documentary』を取りあげて、彼の現在について考えたいと思う。


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