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2011年02月26日

『きことわ』朝吹真理子(新潮社)

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「緻密な思考と言葉への信頼の高さが圧倒する」

『きことわ』というタイトルがまず気になった。音の響きにもひらがなの文字にも、こちらの心をかすかに揺らすものがある。聞こえているようで聞こえない声、見えるようで見えない影、気配だけがたしかなような状態。太古のことばのようにも感じる。いったい「きことは」とはなんだろうと思いつつページを開き、最初の2行でその答えがわかった。貴子(きこ)と永遠子(とわこ)というふたりの女性の名前がひとつになって「きことわ」なのだった。

物語の主人公は貴子と永遠子である。それはまちがいないのだが、読みすすむにつれて本当の主人公は別にいると主張したい気になった。彼女らはその主人公の姿を顕現させるために身を貸しているという思うがひたひたと押し寄せてきたのだった。

物語の設定はとてもシンプルである。貴子は葉山に別荘をもつ家の娘で、永遠子はそこの管理人の娘。7歳の年齢差にもかかわらずとても気が合っていたが、ある年を境に貴子の家族が来なくなって会わなくなり、25年がすぎて別荘が人手に渡ることになって所持品の整理のためにふたりはその家で再会する。15歳だった永遠子は40代、8歳だった貴子は30を過ぎている。

こう解説すると、過去の記憶をたぐりよせながら、会わなかったあいだのそれぞれの人生を語り合うというような内容が思い浮かぶかもしれない。丘の上の古い別荘、再会する幼なじみのふたり、とくればそんな想像を生んでもふしぎはないし、最近、こういうシチュエーションの映画が少なくないのもたしかである。だが、作品のもっているニュアンスはそれとはまったく異なる。本当の主人公はだれかということもそこに関わっている。


「午睡からめざめると草木を透かして永遠子の髪と畳みに流れていた暮れ方のひかり、明け方、緻密につむぎだされた蜘蛛の巣の露に濡れたのを惚けるようにしてみあげたこと、一瞬一刻ごとに深まるノシランの実の藍の重さ。そのときどきの季節の推移にそったように、照り、曇り、あるいは雨や雪が垂直に落下して音が撥ねる。時間のむこうから過去というのが、いまが流れるようによぎる。ふたたびその記憶を呼び起こそうとしても、つねになにかが変わっていた。おなじように思い起こすことはできなかった。いつのことかと、記憶の周囲をみようとするが、外は存在しないとでもいうように周縁はすべてたたれている。かたちがうすうすと消えてゆくというよりは、不断にはじまり不断に途切れる。それがかさなりつづいていた。映画の回想シーンのような溶明溶暗はとられなかった。もはやそれが伝聞であるのか、自分の目の記憶なのか、判別できない」


25年ぶりに別荘に足を踏み入れた貴子の目に映った庭の眺めと、彼女のなかに湧きおこる思いを描写した部分である。幼いときに見ていた庭を前にして記憶が目覚め、深い感慨をもたらすというのはだれにもあるだろう。だが、ここで心に留めておきたいのは、それを感じている心がいっときもとまらずに動いていることをも、彼女が感じとっている点である。「ふたたびその記憶を呼び起こそうとしても、つねになにかが変わっていた」という言葉がそれを示している。

「過去」が「いま」という時点に呼び出されたとき、その過去は概して固定的なものとしてとらえられ、それすらもが動いているという指摘はあまりなされない。とくに物語のなかで呼び出された過去は筆者の目的のために使役されることが多い。「いま」に流れこんできた「過去」がいまと同様に流れているということ、しかもその「過去」が体験だけでなく、伝聞によっても培養されるという認識に、著者の感覚する力のたしかさ、書くことの誠実さ感じた。

また人の意識には過去をよみがえらせるだけではなく、未来を先取りする力もある。永遠子の背丈は15歳のときと変わってないが、食器棚の整理をしながら、ガラスに映った自分の姿を見て「このひとをむかしもたしかにみた」と彼女は思う。「ちいさいころ、この食器棚の前を通ると、いまみている自分のすがたとおなじような、年をとった大人のすがたが映りこんでいるように思えた」ことが思い出されたのだった。40歳の姿は過去の自分にすでに見られていたのである。

こうした緻密な思考の軌跡をたどっていくうちに、主人公は永遠子でも貴子でもない、時間そのものがこの物語の主なのだ、と言ってみたくなったのだ。三浦海岸の地層の話や、永遠子の好きな化石や海洋生物のことなど、人間が誕生する以前の時間も巧みに挿入しながら、いっときも留まらずに流れつづけてきた時間が強調される。その時間は不可逆的なものであり人の身体を老いさせたり、生を終えさせたりする。

と同時に人の内部にはいっときも止らずに流れている別の時間があるのだ。これは物理的な時間とはちがって、前にすすんだり、逆行したりと自由に移ろうことができる。夢とはその時間が映像をともなって脳裏に現われたときのかたちなのだ。

冒頭に「永遠子は夢をみる。貴子は夢をみない」という言葉がある。貴子は幼くして母を亡くしており、その母とおなじ年齢になったいま彼女は思う。母親に会えないのは、自分が母親にみられている夢の人だからではないかと。母親が起きているあいだ貴子は眠り、貴子が起きているあいだは母親が夢をみている。「自分は夢にみられた人なのだから、夢をいつまでも見ないのではないか」と考えるのだ。死者となった母の時間のなかにいる自分、そこで母に見られているゆえに夢をみない自分。物理的時間や生きている人の内部を流れる時間とは別の次元の死者の時間がここで語られている。死者の時間と生者の時間とはすれちがい、交わることがない。

豊穰なイメージをたくみに重ねあわせているだけのようでいて、そうではない。その裏に論理的な思考と認識力と現実を把握するたしかな力がひそんでおり、むずかしい言葉をひとつも使わず、わかりやすいやわらかな言葉でそれを刻んでいく。なににも仮託せずに言葉だけで立っている潔さ、五感の伝えるものに等しく発言の機会を与える公正さがとてもすがすがしい。映像的な想像を刺激するエピソードや小道具がたくさん出てくるので一見映画化しやすそうだが、安易な映像化を退ける矜持がみなぎっている。言葉の力を心から信じている人の文章なのである。


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2011年02月20日

『臨床の詩学』春日武彦(医学書院)

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「なぜ詩と精神科の臨床現場は相性がいいのか?」

人に面と向かって「嫌いです」と言うことはないけれど、だれかと話していてそういう話題になることはあるだろう。しかも酒が入っていたりすると、「あの人、ちょっと苦手」と言うつもりがつい言葉の勢いで「あの人、嫌い!」と言ってしまったりする。

その一言で舌に毒がまわり嫌いの度合いが高まることもあれば、反対に言葉の強さにはっとしてそんなに嫌いだっただろうかと反問することもある。かのように言葉には自立した力がある。発言した人の意識の流れを変え、相手との関係を動かしてしまうようななにかが。それが言葉のおもしろさであり、恐さでもあるのだろう。

春日武彦の著作を読むようになったのは、彼独特の文学作品の読み方に興味をもったのがきっかけだった。小説をこんな切り口で読めるのかといった驚きがあった。作品の完成度ではなく、主人公のこだわりや生理などを手がかりに人の心理や意識の不思議を読み解いていく。文芸評論家のそれとは明らかにちがうこうした距離感は、彼が精神科医であることに関係あるのだろうとは思っていたが、この本を読むうちにさまざまなことが具体的に腑に落ちていった。たとえばこのような一文ある。

「それにして、わたしは言葉に興味があるからこそ精神科医として生きていけるのだなあと、つくづく思うのである」

なるほど、精神科の場合は治療すると言っても体の器官の一部を取り除いたり、破れを縫い合わせたり、パーツを取り換えたりというのとはちがう。対象となるのはブツである肉体ではなく心という曖昧模糊とした現象である。もちろん心の動きには体の器官が作用している。肉体あっての心なのだから当然そうなのだが、器官と心の働きとが必ずしも相関しないところに複雑さがある。

「診察室で患者と出会うということは、リフトに乗ったまま反対方向から互いに近づき、やがて擦れ違い離れていくといったイメージに近いところがあるように思える」

ここでも、ああ、なるほど、とつぶやかずにいられなかった。診察といっても心が収まっている体に触れることすらしないのである。状態を診るのに使われるのは言葉だけ。それが「言葉に興味があるから精神科医として生きていけるのだ」という感慨を生むのだ。


本書のタイトルは『臨床の詩学』だが、ふつう「臨床」という言葉と「詩学」は結びつきにくいだろう。日常生活に必須とはいえない文芸のなかでもとりわけ浮世離れしているのが詩の世界である。統合失調症やうつ病患者の切迫した状況とは異質なレベルにあるように見える。ところが、手にする道具は言葉だけという状態で患者にむかうとき、言葉の力によって現場が動いたり、緊張関係が緩んだりすることがあるという。論理的に煎じつめて発した言葉ではなく、会話の流れや差し迫った状況下で口をついてでた言葉が奇妙な効果を発揮するのだ。そこに著者は詩の言葉と共通する働きを見いだすのである。

こんな一例が挙げられている。入院が必要な患者が目の前にいる。さっきから説得しているが、「治療は拒否します。人権の問題だ!」と主張し膠着状態がつづく。そこに別の電話が入ったのであえて後回しにせずに出たあと、「失礼、あなたとは別の苦戦中の患者さんでした」と説明した。電話の前に彼に、あなたは苦戦中だが、ひとりで闘うのは辛い、援軍になろう、という言葉とともに紙に「苦戦中」と書いてそっと見せていたのである。患者の態度は相変わらだ。これ以上説得しても無意味で力づくもやむなしと男性の看護師を呼び、「さあ、援軍もそろったから、病室に行こう!」と言ったとたん、彼はすっと席を立って自分から病棟に入っていったというのである。

「「苦戦中」という言葉の提示が事態の分岐点となり、そこへ「援軍」といった言葉を重ねることで、N氏へ当方の思いがある程度伝わったのであった。そして今になって振り返ってみると、なぜ「苦戦中」という言葉を思いつき、しかもそれが有効であろうと信じたのか、そのあたりの経緯が自分のことながら判然としないのである。ただしあの診察の場では、思いついた途端にそれがきっとN氏に訴えかけるであろうと予測がついた。だからこそ、わざわざメモ帳に書いて相手にそっと見せるというような芝居がかった仕草もできたのである。何か確実な手応えをわたしは直感的に感じとっていたのである」

用意しておいた言葉ではだめだろう。またほかの医師がこのアイデアをまねて実践したところでうまくいくとも思えない。「思いつき」という非科学的な領域での出来事なのだ。では、その「思いつき力」を訓練するにはどうしたらいいか、というようなよくありがちな方向に発展していかないところにこの著作の特徴がある。「思いつき力」が訓練で得られるなら話は簡単ではないか。そうは問屋がおろさないところに人間の奥深さがあるし、その認識があるならば安易に自分の体験をマニュアル化はできないのである。

代わりに彼は数多くの詩を引用している。だれもが知っているようなメジャーな詩人の作品でないところがまたおもしろい。日常と地つづきのような言葉の列が途中でふっとくねり曲がって思わぬ岸辺に運ばれる。山崎るり子の「廃屋」、衣更着信の「老人」、柿沼徹の「木々」、小長谷清実「夢の中では」、相沢正一郎の「テーブルの上のひつじ雲テーブルの下のミルクティーという犬」など未知の詩ばかりだったが、こういう詩に触れ考え感じていることがある一瞬に「苦戦中」という言葉になって彼に舞い降りるのだろうと感得したのだった。

朝、ベランダに野鳥が飛んでくるように私のそばにも言葉がやって来てなにかが書けそうな気がするというめずらしい効果があったことも添えておく。


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