« 2010年06月 | メイン | 2010年08月 »

2010年07月26日

『編集者 国木田独歩の時代』黒岩比佐子(角川選書)
『古書の森 逍遙』黒岩比佐子(工作舎)

編集者 国木田独歩の時代
→bookwebで購入
古書の森 逍遙
→bookwebで購入

「国木田独歩はビジュアル好きのすぐれた編集者だった」

古書ファンには女性が少ない。古書フェアなどでうつむき加減に、しかし内心は人にとられてなるものかと闘争心を燃やしつつ手を動かしているのは決まって男性だ。ところが、これまで男性専科だった古書界で話題を集めている女性がいる。『古書の森逍遥』という本を出したばかりの黒岩比佐子である。ノンフィクション作家の彼女は、執筆の途上で必要に迫られ古書を手にとるうちに、おもしろさに魅せられはまっていったという。

彼女のコレクションを解説した『古書の森逍遥』については後述するとして、まず取りあげたいのは、古書の知識を活かして知られざる事実を明らかにした、『編集者国木田独歩の時代』という彼女の著書である。独歩が有能な編集者であったという、ほとんど忘れかけられている事実に光を当てた驚愕の書だ。

国木田独歩と言えば、だれもが浮かべるのは「武蔵野」。自然主義文学を代表するこの有名な小説のせいで、独歩といえば小説一筋で生きたような印象が強いが、実は彼はグラフ誌の編集者として、時代を先取りするような仕事をたくさん成し遂げていた。『婦人画報』という、いまも読み継がれている婦人雑誌を創刊したのは彼である。版元は変ったものの、明治期にスタートしたものがいまもその名前でつづいている事実からは、自然主義文学者だけに収まらない彼の顔が想像できるだろう。

20代の独歩は新聞社に勤めたり雑誌に寄稿したりしているが、鳴かず飛ばずと言った感じが強い。27歳で発表した「今の武蔵野」(のちに「武蔵野」に改題)も評判にならず、結婚して子供もいる身なのに、生活は困窮をきわめている。ところが31歳で『東洋画報』の編集長に抜擢されてから、身辺がにわかに活気づいてくる。それまでの仕事は活字が中心だったが、今度の『東洋画報』は写真や挿画で見せるグラフ誌である。そこに彼の才覚が開花したのだった。

グラフ誌の成長をうながしたのは皮肉にも戦争である。日清戦争で大本営に写真班が設けられ、写真が積極的に使われるようになるが、当時はまだ戦況の記録ではなく、作戦を練る資料として活用するのが主だった。現在わたしたちがあたり前のように接している空撮やコンピュータグラフィックスが軍事目的で開発されたことを見ても、戦争と写真が手をとりあって進んできたことがわかるが、江戸時代とちがって戦争が外国との戦いになり、ふつうの人々が異国に出征するようになったこの時期、写真が戦争への関心と興味を満たす役割をも担っていったのは必然だっただろう。

『東洋画報』は6号目から『近事画報』と名を変え、版元も変って、グラフ誌らしい体裁を整えていく。そのあたりのいきさつは本書に詳しいが、興味深い事柄として著者はふたつのことを挙げている。ひとつは『近事画報』の2号から全国各地で写真を撮って編集部に送る「特別通信員」制度がはじまっていること、3号に「満韓最新全図」の折り込み付録と、朝鮮で撮影された写真が多数掲載されていることである。日露戦争の開戦は翌1904年だが、独歩は戦争の気配を察してビジュアルなページ構成で読者の興味を惹きつけたのだった。

戦争の火ぶたが切って落されると、戦争雑誌の創刊ラッシュが起きる。近事画報社にとっても日露戦争は「経営を軌道に乗せる千載一遇のチャンス」となったのだが、「そこでの独歩の動きは素早かった」。画家を戦地に派遣して臨時増刊『戦時画報』を出すことを発表。この臨時増刊号は月3回発行されて本誌のペースを上回り、日露戦争中はずっと『近事画報』が『戦時画報』と名を変えて出しつづけられる。「戦時」をビジュアルを伝える「画報」というイメージが、大衆にとっていかに新鮮だったかがわかるだろう。

戦地に送られた画家のなかには、のちに小杉放庵の名で有名になった画家の小杉未醒の名があった。わたしは独特のユーモアと知性の光る放庵のファンで、日光にある彼の個人美術館も好きな場所のひとつである。彼が漫画やポンチ画を描いていたことは知っていたが、独歩の雑誌で挿絵画家として活躍していたことは知らなかったから、この事実にはとりわけ興味を引かれた。独歩より10歳若く、83歳まで生きた放庵には、独歩と同時代人という印象は薄いが、独歩が没するまでずっとそばにいた良き伴走者だったのである。

未醒の挿絵が『戦時画報』に果たした役割は小さくないと著者は見る。当時は写真の技術がまだ稚拙だったので、写真と挿絵を半々くらいに載せたと未醒は後に回想しているが、写真が力をつけてくるまで、ジャーナリスティックな視線に満ちた彼のコマ絵(カット画)は、誌面を大いに活気づけたのだった。たとえば「足のいろいろ」と題して、歩兵、砲兵、新聞記者など5人の足を観察し、職種や地位によって履いている靴がどうちがうかを描いて見せたりしている。

当時は臨時増刊号が大はやりで各社が競ってだしたが、この企画にも独歩の独自の視点が光っていた。日露戦争終結の1905年には『捕虜写真帖』を出している。日本軍の捕虜となったロシア兵の数は7万人を超え、全国各地に29箇所もの捕虜収容所が造られたそうだが、そこでの捕虜の日常生活を写した写真集を出したというのだから驚く。当時の日本の読者にはほとんど受けなかっただろう。「敵国の捕虜のなどには関心がなく、戦地で戦っている日本の兵士の状況を知りたい、というのが多くの人々の本音だっただろう」という著者の意見に同感である。だが、捕虜のロシア人は異国の空の下でどんな日々を過ごしているのだろうという率直で人間らしい好奇心には、現代のわたしたちの心にも触れてくる何かがありはしないだろうか。いま見ても新鮮な写真だそうだから、ぜひ見てみたものだと思った。

『富士画報』という臨時増刊も出している。はじめは軍艦「富士」の特集号かと思ったと著者は言うが、文字どおり富士山の特集で、編集部員が富士登山して書いた紀行文と写真と絵で構成されていた。当時、戦勝祈願に富士登山するのが流行っており、とくに戦争が終結したこの年には女性がたくさん登ったという。戦勝の高揚感にブームをあおったのだろうが、編集部でも富士登山を体験してその息吹を伝えようというのがおもしろい。

未醒の戦地での足の観察もそうだが、捕虜のドキュメントといい、この富士登山ブームの特集といい、独歩の考えることにはいまでいうカルチャー誌的な発想が感じられる。直線的に切り込むバリバリのジャーナリズムとはちがう。ひとつの事柄を別の視点で見たらどう見えるのか、と考えてみる着想家の一面があったように思う。

もうひとつ著者ならではの取材力が発揮されているエピソードがある。独歩の妻治子は、夫が病気で亡くなった翌年の1909年に、「破産」と題した小説を新聞に連載した。これは夫が独歩社という出版社をはじめてから解散にいたるまでのいきさつを書いたもので、実在の人物が仮名で出てくる。著者はその20余名の登場者のモデルを資料を駆使して突きとめているが、そのなかでひとりモデルのわからない女性がいた。近事画報社に女性の写真部員として入社した「梅子」という女性である。実在のモデルがいるにちがいないと察した彼女は、「梅子」探しに乗りだす。

だが、いろいろと手を尽くしたが見つからず、九分九厘まで諦めたとき、かつて目にした明治期の女性のための職業案内書がよみがえる。そこに女性の職業として「写真師」がでているのではないかと調べてみると、予想どおりそういう項目があり、「女子写真伝習所」という教育機関のあったことがわかる。さらには『文芸倶楽部』に掲載された「女子の写真術」という記事のなかに、「梅子」と思われるその学校の卒業生が触れられているのを見つけ出す。最後には彼女の遺族を探してインタビューもしているのだ。

明治期に女性のための写真学校があったこと、愛媛から出てきてそこで写真を学び、独歩のもとで働いた女性写真家がいたことなど、驚くべき事実がつぎつぎと明らかになるこの箇所は、古書の森を分け入る著者の面目躍如といった感があり、手に汗をにぎりながら読んだ。

技術的にも体力的にも彼女より優れた男性カメラマンがいただろうに、独歩が日野水ユキエという駆け出しの女性カメラマンを雇ったのはなぜだろう。独歩はぐずぐずするのが嫌いな、恐ろしく短気な人で、「驚きたい」「感覚を鋭く新しく」というのが口癖あったらしい。彼と同い年の友人、田山花袋が「国木田独歩論」のなかでそう書いている。そんな独歩にとって、女性カメラマンという新人種が興味をかきたてなかったはずがない。

日野水雪子の例に見られるように、古書を古書に終わらせずに現代に繋げるダイナミズムが、本書の著者であり、古書のコレクターでもある黒岩比佐子の大きな魅力となっている。村井弦斎の評伝を書くために明治期の婦人雑誌を調べる過程で『婦人画報』が国木田独歩の作ったものだと知り、興味をもったのが最初で、その後、『日露戦争 勝利のあとの誤算』を書いて日露戦争とジャーナリズムの関係を探ったとき、戦時下で読まれた『戦時画報』というグラフ誌がまたしても独歩の編集だったのを知り、驚きがさらに増したという。

このように彼女の場合は知りたいことがあって古書にむかうのであり、ただ物珍しさに稀覯本を集めて悦に入るのとちがう。また資料で明らかになったことを後づけるために、関係者への取材も怠らない。こうして古書と現実とを行き来しながら、歴史のなかに埋もれてしまった事実を掘り出していく姿には、知的好奇心に裏付けされた瑞々しさが満ちていて、知ることの楽しさを読者に教えてくれる。

『古書の森逍遥』には、彼女のインスピレーションの元になった古書の数々が紹介されており、本書を読んだら、つぎにはこれを手にとりたくなるだろう。人物別の索引がついていて、「国木田独歩」で引くと、ここに登場する古書や使用した資料などが逆引できるのも楽しい。古書の世界をこんなふうに演出してみるところに、独歩にも通じる新鮮な眼が実感できるはずである。


 『編集者 国木田独歩の時代』→bookwebで購入


 『古書の森 逍遙』→bookwebで購入


 「古書の森 逍遥ブックフェア」の詳細はこちら

2010年07月16日

『山田脩二 日本旅 1961ー2010』山田脩二(平凡社)

山田脩二 日本旅 1961ー2010 →bookwebで購入

「時代を超越して写しだされたもの」

『日本村 1969ー79』という写真集を見たのは、1979年の出版時よりずっとあとのことだが、日本中をこんなにエネルギッシュに撮りまくっていた写真家がいたのかとびっくりした。しかも作者の山田脩二はそのときすでに職業写真家に「終止符宣言」をし、瓦職人に転じていた。のちに『カメラマンからカワラマン』という本が書かれる。人間的におもしろくて変わり種が多い写真家のなかでも突出した存在だ。彼がなぜカラワマンになったかも興味深いが、いまは写真の話のほうである。その後に撮り溜めたものも集めて、この度、『日本旅1961ー2010』という写真集を上梓した。

1961年、22歳のときに瀬戸内の四国側をまわったひと夏の旅の写真からはじまる。最初からものすごくうまいのに驚く。いや、「うまい」などという言葉は平板すぎる。写真では「うまい」と言うと、ただうまいだけでそれ以上のものが感じられないニュアンスがあって、褒め言葉にならない。山田の写真からは「うまい」を超えたものがほとばしり出ており、ただひたすら見ていたい気にさせられる。

よく知られる彼の写真に蝟集する人間を撮ったものがある。新宿西口広場の渦巻き型の道路を埋め尽くした1969年のフォークゲリラの群衆。船橋ヘルスセンターで何列にも並んだ長い座卓で飲み食いする客たち。豊島園のプールの水際ぎりぎりにまであふれかえった水着姿の男女。どの写真にも人が集合したり密着したときの熱やエネルギーが横溢する。撮影は素早いはずだ。被写体がもっともダイナミックに見える位置を直感的にとらえ、撮りたいものをど真ん中にすえてシャッターを切る。思い惑いは一切ない。そのストレートな一撃が、どんと胸を撃つ。

山田は60年代から70年代を通じて建築写真を撮っていた。建物の完成時に居抜きの状態でとる「竣工写真」ではなく、人と建物と環境の関係を探った独特の建築写真で評判をとった。彼の写真を見ていると、そうやって建築を相手に鍛えあげた「眼」を感じる。建築は大きくモノを見なければとらえられない面が多い。対象が人間より巨大だから当然そうなるのだ。もちろん、建物の構造や細部の仕上げや収まりなどを見せるタイプの写真も重要であろう。だがそうした情報性や資料性が主ではない、環境のなかの建築を体感させるような写真を撮ろうとすれば、物事を大づかみにする視線がなくてはならない。

ビルの胴体から地下鉄がぬっと現れる渋谷駅ビルを俯瞰で撮った写真、そのとなりページのビルの裏側に「女の座」という映画の文字看板がでかでかとかかっている写真。どちらもコンクリートの塊のようなビルの、ふてぶてしい存在感が迫ってくる。風景をわしづかみにしているような実に大胆な手つきだ。都市風景だけではなく、人を間近でとらえたものもすばらしい。そこでは写真家の眼は人間のしぐさに引き寄せられている。頭をかいたり、笑ったり、列を作ったり、荷物をしょったり、立ち話したり、ただぼうっと佇んだりと、五体の表現する人間らしさに魅せられているのだ。

蝟集する人間をよく撮っていると書いたが、ページを繰るうちに、モノが蝟集するさまにも惹かれているのに気がついた。焼き物の町、常滑の道角に集積する瓦やドカンや便器。登り窯の鱗のような屋根瓦。林立する煙突。窯にくべる薪の山。おなじ形状の繰り返しが生み出すパターンに本能的に引き寄せられている。私はそれらの写真に、のちにカワラマンとなる彼の宿命のようなものを感じとった。瓦への興味がそこに現れ出ていると言いたいのではない。モノを生みだす循環のエネルギーと、パターンの繰り返しがもたらす造形的なダイナミズム。そこに彼は生命のリズムに似たものを感じとっているように思えるのだ。

そう思い至って初期の写真にもどってみると、最初の旅ですでにそういうものに反応しているのに心づく。海に面した棚田には細かな曲線の繰り返しがあるし、自然石を積み上げた石垣にも連続の美がある。へらのように舳先の尖った手漕ぎ舟の居並ぶさまにも、屋根瓦をおさえている石の連なりにも、トタン屋根の波うつさまにも、海岸を埋め尽くす小石にも、繰り返しのおもしろさと、ロンドのようなリズムが脈打っているのである。

巻末の対談で篠山紀信は「写真ってさ、寝かすとすごいよくなっちゃうわけだよ」と述べている。たしかに写真には撮り手の意志を超えて時が醸してくれるよさがある。もうなくなってしまった風景、情景、人のたたずまいに再会するのは、写真にだけに可能な、人と記憶との不可思議な邂逅のときである。だが山田脩二の写真から私が受け取ったのは、そうした特性を超えた何ものかなのである。2005年に撮られた東京ビッグサイトのコミケの写真がある。会場にひしめき合う人、人、人。手前から奥の壁際までフロアを隙間なく人が埋め尽くしている。この光景には、船橋ヘルスセンターや新宿西口広場の写真に通じる生命の律動があり、その時代を超えたものに肉体が感応するのである。

2007年に撮られた六本木ヒルズの写真も同様だ。低いビル群からぬっと建ち上がるさまをバストアップで撮っている。背後に山並みが写っており、見たことのないような六本木ヒルズがあらわになっている。1970年の神戸商工貿易センタービルの写真に見たのとおなじ暴力的なエネルギーが漂っていて、ここでも時間の越境がなされているのを感じる。

つまりこの写真集から伝わってくるものは、変っていった風景ではなく、むしろ変らない何かなのである。人も変る、風景も変る、建築も変る、風俗も変る。変らないものなど何一つないと言っていいほど、私たちの環境は絶え間なく変化しつづけている。彼はその変化をたどるのでも、逆に変らないものを追求するのでもなく、人や風景や、モノの形、その繰り返しのパターンが発するエネルギーの粒子に感応するのである。その結果、変らないものが明らかになった。それは何なのか。

人間関係の萎縮が言われたり、草食系男子が取り沙汰されたりするマスコミの物言いとは無関係に、彼は風景のなかに、モノの形のなかに、人の情景のなかに、生命の波動を見いだし、シャッターを切っていく。相手が生き物であれ、モノであれ、同じことである。屋根瓦にも薪の束にも生命を喚起させるリズムを見いだし、あたかも呼吸するように自らの肉体に取り込んでいく。彼にとって写真とは、外界にさざめく生命感とのやりとりなのだ。

最後の2点が作者の風景観を物語っていてすばらしい。3人の男が野良で一服している。1点が寄りで、もう1点が引きだ。寄ったカットでは三人三様のしぐさがおもしろく、物語が生まれてきそうな気配がある。引きのカットは中央に縦にあぜ道が通り、奥の用水路を越えて二手にわかれる。背後は森の繁みだ。なにげないようでいて、とても立体感のある風景である。いや、写真家がそのように撮って見せているのだ。男たちはその道の分かれ目に座っている。等間隔に座って膝に両手を置き、風景の一部になって溶け込んでいる。


→bookwebで購入