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2010年06月30日

『名残りの東京』片岡義男(東京キララ社)

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「写真機がもたらす孤独、それが物語る「東京」」

街を歩くのが何よりも好きな私は、天気のよい夕方など、いまこのときに輝いている何かがどこかで待っているような気がしてそわそわする。風景は光や湿度や風の具合によって佇まいを変える。その変化の瞬間には風景と自分とのあいだに夾雑物がなくなり、一対一でむきあっているような、この世にあらざる場面に遭遇したような独特の気分になる。とくに曇り空が切れてそこから西日が差してくるときなどはそうで、そういう状況下でデスクにむかっていると、原稿なんか書いている場合かという気分に攻め立てられるのである。

文章を書くにも心身のコンディションが関係するが、写真はそれ以上にかかわりが深く、撮る意欲がわきおこるためには内的必然と外的必然が合致しなければならない。そのチューニングが良好だと「うまく歩ける」状態がやってきて、シャッターを押す指にはずみがつく。逆にシャッターを押すことがそれを促進することもあって、写真と歩行のあいだには不可思議な関係が存在するのである。

文章を書きながら同時に写真も撮っている作家は多くないが、そのひとりに片岡義男がいる。彼には東京を歩くことから生れた何冊もの写真集がある。ある雑誌で彼と対談したとき、どのように撮っているかと尋ねたら、外出のついでに撮るというのではなく、写真を撮るためにカメラだけを持って出かけ、くたびれるまで撮り歩くのだと答えた。とくに「晴天の日だともったいない気がして、写真機をもって歩いていたほうがいいな、あそこでシャッターを押してみたいなと思う」という発言には、同士を得たような気がして心のなかで喝采を送ったのだった

『名残りの東京』は著者自装の美しい写真集で、東京の写真を収めた6冊目にあたる。東京だけを歩きまわってこんなにもたくさんの写真を撮っているのに驚く。たぶんここに収まっている量の何十倍もシャッターを切っているだろう。撮影のスタンスは一定しており、撮りたい対象を中心に据えて近距離でスナップする。車窓から撮ったり、高い場所に上がってとらえることはしない。路面に足をつけて歩行するその位置と速度から見えてくるもののみが対象で、路上の視野が徹底されている。

1ページずつ繰っていくと、私も撮るであろうものが次々と登場して興奮を覚える。いや、自分も撮る、と思うのは錯覚で、見るうちに彼の視線に同化して意識化されると言うほうが正しい。たとえば最初のぺージに登場するのは、細かな砂を吹きつけたコンクリートの門柱と、そこに貼り付けられたほうろう引きの番地表示だ。たしかにこういうものを見たとき、心がピクッと反応する。だが、撮ったことはないのだ。くるくる回転する床屋のポール、錆びついたシャッター、穴のあいた商店の幌、プラスチックの波板、板塀、店頭の手書きの値札、ショーウィンドーの食べ物のサンプル、路面に描かれた「止まれ」の文字、モルタル壁、マンホールだらけの商店街の路地、雨どい、破れた窓、錯綜する電線……。無意識のはじっこにひっかかっていたものが、つぎつぎと写真になって現われ、ああ、そうだ、たしかにこういうものを何度も見た、と思い至るのである。

これらの被写体は彼に選ばれ撮られたわけだが、本を編むときにはそれをさらに絞りこむ作業がある。繰り返し撮られたものが、写真集を編むときにもう一度選ばれて、「繰り返しの駄目押し」がなされている例が、いくつも見られた。雑貨屋の店先に下がった手ぼうきやタワシ、ショーウィンドーにある作り物のオムライス、にぎり寿司のサンプル、八百屋の店先の大根、コンクリートの階段などである。

先の雑誌の対談で繰り返し撮ってしまうものが話題になったとき彼は、「また撮ったな」と思ってこんどは意志を強くして、「いままでなら撮ったけど、今日は撮らないぞ」などと思いながら撮るのだと語っている。路上スナップを経験している人ならかならずやこのセリフに共感するだろう。どういうわけか、出会うとかならずカメラを向けてしまうものがあるのだ。犬がオシッコをかけるように、見ればシャッターを押さずにいられない。押しながら自分で笑ってしまう。写真を介して自分自身を前後左右に動かしているような具合で、街のスナップがやめられないのも、それがおもしろいからではないか私が問うと、彼は身を乗り出すようにして、「まさにそれが面白い。いちばん面白いですよ」と答えたのだった。

撮るときは無意識でも、セレクトは意識的だし、しかも写真集はページ展開によって流れが決まるから、「オムライス」をどこの順番に入れるかには意図が込められている。自分を前後左右に動かす手つきがそこに出るのだ。この写真集には、それまでのもの以上に、片岡義男の「意識」が描き出す「東京地図」が表出しているように思う。言葉を使った小説の創作とおなじことを写真で試みるように、彼はここで東京を物語っている。それは語り手のなかにだけにある幻の「東京」であり、私たちは写真という入口からそこへ入っていくのである。

ふと彼が『ホームタウン東京』(2003年)のなかで書いていることを思い出した。「ただひとり東京と向き合う」という短文で、こう述べているのだ。

「こんなにありふれた、どこと言わずそこらじゅういたるところにある平凡きわまりない光景を、なぜわざわざ写真に撮るのかという問題は、写真機から発生する。写真機のなかでそれは生れ、僕へと伝わり、その僕はこんな光景を写真に撮る。そのときほどに僕がひとりきりになる瞬間は、いろいろ考えてもほかにない。そしてそのひとりきりの瞬間は、僕にとっては大事なものだ」

小説を書くときもひとりきりを実感するだろう。だがそのとき彼がさまよっているのは脳内の世界だし、もしかしたらそこには登場人物が多数蠢いていて、意外にもひとりきりの実感はないのかもしれない。写真には現実の街を歩いて実体あるものに接しつつ孤独を味わえるという不思議さがある。その甘美さに魅せられてしまうと街のスナップはやめられない。しかも東京の現実は刻一刻と変化し、たえず未知なる孤独を運んでくるのである。


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2010年06月25日

『現代写真論』シャーロット・コットン(晶文社)

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「あたかも世界を編集しているような「現代写真」のありよう」

写真ほど誕生以来、激しく変し多様化を遂げてきたメディアはないだろう。撮り方のスタイルや様式だけでなく、それがもつ社会的な意味が大きく変化してきた。写真はカメラで撮るものだから、おなじ二次元の表現でも絵画よりもスピード感がある。変化の変遷にはそうした「生産しやすさ」がどこかで関係しているのだろう。

「現代美術としての写真」という原題が示すように、本書はアート作品としてギャラリーや美術館で流通している写真を8つのカテゴリーに分けて語ったものだ。評論というよりは紹介というような内容だが、分類の仕方に著者の論点を読み取るべきなのかもしれない。カテゴリーは以下のように分けられている。

1.あるコンセプトに従っておこなわれた行為の記録としての写真、2.物語を喚起させる絵画的要素の強い写真、3.中判や大判カメラで風景や建物をとらえた高画質の写真、4.日常で見過ごしがちな事物や空間を写し出した写真、5.親密な対象との深い感情的つながりを追求した写真、6.フォトジャーナリスティックなシーンを報道とは異る視点でとらえた写真、7.名作写真・広告写真・映画のスチールからのリメイク写真、8.写真メディアの変化に着目した「写真論」的写真。

こうした分類のもとに243点の写真が紹介されている。なんでもアリな印象で、これらすべてが写真の名のもとに展示されている場面を想像すると頭がくらくらするほどである。題材が写真ということだけが唯一の共通点。インターネットからとった画像を加工したトーマス・ルフの作品では、カメラすら使われていないのだ。

こうした多様な写真群がいま「コンテンポラリーアート」に場所を得て、美術館やギャラリーで展示され、コレクションされ、売買されている。「アート写真が急速にその実体を現しはじめたのは1990年代に入ってからのことだ」と著者は書く。どうしてその頃に表に出てきたかは触れてないが、「実体を現しはじめた」という言い方は、ふたつのことを暗示しているように思われる。ひとつは「アート写真」という概念の登場によって従来の写真表現にそれまでとはちがう光が当てられたこと、それによってギャラリー展示にフィットする写真のあり方を模索する写真家が出てきたことである。

写真には本来決まったサイズがない。それが絵画との大きなちがいである。引き伸ばし機によって大きくも小さくも作れるし、一部をブローアップすることもできる。カテゴリー3の写真群は、そうした写真の融通無碍な特質をむしろ制御する動きと言えよう。最初からサイズを決めて撮影に入る写真家もいる。つまりタブローに対するのと同じ態度で制作するわけで、それだけが理由ではないにせよ、美術館やギャラリーの空間が創作のプロセスを変化させたことはまちがいないだろう。

カテゴリー1の行為を記録した写真は、60〜70年代のコンセプチュアルアートの記録写真から派生したものだと著者は言う。パフォーマンスアート華やかなりし頃は行為そのものが重要視され、写真は付随的なものにすぎなかった。だが、写真が作品として流通する制度と市場の成立により、作品の最終形として写真の比重が増してきたのではないだろうか。かように写真の存在は曖昧でゆらぎやすく、文脈によって立ち位置が変化する。かつて「日和見主義」ということばが揶揄的に使われたことがあったが、写真はまさに「日和見」的な性格をその本質に抱えもっていると言える。
ものの典型であるのがわかる。

写真と言葉の関係という古くて新しいテーマについても考えなくてはならないだろう。たとえばカテゴリー2のタブロー的写真では、作られたシチュエーションで撮ったものと、まったく手を加えていない現実場面を撮った作品とが紹介されている。写真がもたらす印象はどちらもドラマチックで映画のワンシーンのようだが、その現場が演出されたものかどうかという情報は作品は含み込まれるのだろうか。こうしたタブロー写真の創作プロセスをどうとらえるのか、もっと突っ込んで語られてもいいように思う。

テーマに分けて論じた本書は、写真によって世界を編集しているかような写真表現の現在をあぶり出している。写真には世界を可視化しようという欲望があり、実際ありとあらゆるものがとらえられてきた。とくに小型カメラが一般に普及したと1950年代、60年代、写真家はコンセプトなしに目にするすべてのものを写真に収めようという無邪気な興奮に燃えた。それが過ぎ去ったあとにやってきたのが「現代写真」の時代であり、それぞれがテリトリーを決め、欲望の一部を分担し、見せ方を考えて世界を再編集しているように見える

「本書では、最終的にはコンテンポラリーアートとしての写真は自律的なものであると考えており、写真の歴史を通してのみ考えうるという立場はとっていない」と著者は書く。だが「自律的」という印象はあまり受けないのである。70年代の「現代美術」がそうだったように、「現代」と名のつくものはある文脈の上に成り立っているが、おなじように「現代写真」も美術の文脈の上に咲いた花のように思えてならない。

日本の写真家の作品も数人挙がっているが、あくまでも欧米の写真の動向にそって紹介されている。そのなかでいちばん年長なのは荒木経惟だ。「モダニズムが絵画や彫刻に匹敵する写真家の殿堂を作り上げようとした一方で、ポストモダンはそれとはことなる立ち場から写真を捉えていた。すなわち、写真というメディアを、制作、伝達、受容という観点から検証し、写真が本来持っている複製可能性や模倣性、虚偽性に注目したのである」。これはカテゴリー7のリメイク写真についての解説だが、70〜80年代に荒木がやってきたことの説明とも読めてしまった。それほど彼の写真活動は多岐にわたり、この本に登場する現代写真のほとんどを試みてきたと言っても過言ではない。

だが彼および彼より上の日本の写真家たちは写真を「アート作品」とみなすことに違和感をもち、「タブローとちがう」点に写真の特質を求めようとした。「写真とはなにか」を切実感をもって自問したのだった。だが、90年代以降の「現代写真」を見るのにそうした問いは不要である。むしろ理解のさまたげになるだろう。こうした問いを無意味なものにするほど、欧米の「現代写真」に制度的な強さがあったということだろうか。

日本の戦後写真には欧米の影響をほとんど受けずに独自に進んできたおもしろさがある。そのことを主張する視点が日本の写真界に欠けているのを残念に思う。これは写真家ではなく、評論家やキュレーターの課題なのだ。


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