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2010年05月31日

『極東ホテル』鷲尾和彦(赤々舎)

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「現代社会の肖像か? それとも人間の普遍的肖像なのか?」

「極東ホテル」という名前のホテルが実在するわけではない。だが、どこかにありそうな気持ちにさせるところが、この写真集のタイトルのうまさだ。時代のズレを感じさせる懐かしさと古くささとが入り交じった響きがある。この先はもう太平洋しかないという、東の果てのぎりぎりにある架空のホテルに引っかかっている旅人たち。その素顔がとらえられている。

実際、この写真が撮られたホテルは、別の名前で東京のイーストサイドの場末に実在する。かつて日雇い労務者たちが吹きだまっていた山谷というエリアである。小さな部屋に蚕棚のようなベッドが並んでいて、仕事を求めて全国から渡ってきて人々が暮らしていた。簡易旅館と呼ばれたその宿が、時代の趨勢で使われなくなると、外国人向けの安ホテルとして営業するところがあらわれ、日本社会の「吹きだまり」が世界各地の旅人の「吹きだまり」となった。

「吹きだまり」と感じさせるのは彼らの表情である。どこの国から来たどういう職業の人かということが外見から読みとれない。国籍、生業、生い立ちなど、その人を社会的存在ならしめる手がかりが脱ぎ捨てられているのだ。おなじ旅人でも観光客ならばもっとそれらしい顔をしているが、彼らにはそうしたフレームワークが見いだせず、ただひとりの個としてたたずんでいる。

帰属していた枠組みを出ると人間の弱さが露呈する。主張も弁護もできない。経済活動にも加われない。いわれのない罪をきせられても抵抗するすべもない。社会の庇護の外側に押しやられた状態のときに人のなかから浮上してくる、繊細であると同時にあやうさを感じさせる表情。

旅をしているのだから、楽しい瞬間だってあるはずなのに、それはほとんどとらえられていないのだ。不安、戸惑い、孤独、寄る辺なさ……。何かを棚上げにして意識が宙づりなっている姿だけにシャッターが切られている。写真家にとって何か痛切なものがそこにあるようだ。

フランス、イタリア、スイス、スペイン、スウェーデン、フランス、ベルギー、オーストラリア……。写っている人のほとんどが西洋人だ。かつて私たちは彼らの国を旅して、ドミトリー式の安宿に泊まり、こういう表情を見せていたのだろう。そしていま、彼らがこちらにやってきて、東京の東側にあるちいさな宿で、おなじようなうつろな顔をして写真におさまっている。それは人間が生来もっているものが旅の時間によってあばきだされるからだろうか。それとも、こうした寄る辺のない表情が世界の肖像のひとつとなってきているのだろうか。

前回に取りあげた「シェイクスピア&カンパニー書店の優しき日々」にも、行き場のない若者がユートピア思想を実践する書店にたむろするさまが描かれていた。生きにくい時代であるのはたしかだ。だが、社会と折り合いのつかない人はいつの時代にもいるし、生きることに誠実であろうとしてさまようことを求める人も普遍的な存在といえるだろう。写真家は旅人をそのような象徴としてとらえているように思える。彼らを介した自写像のようにも見える。


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2010年05月27日

『シェイクスピア&カンパニー書店の優しき日々』ジェレミー・マーサー(河出書房新社)

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「伝説の書店、そのユートピア思想と混乱ぶり」

本書のタイトルを見て、イギリスではなくパリの街を思い浮かべた人は、シェイクピア&カンパニー書店の元祖についてご存知だろう。戦前のパリにその名を馳せた伝説的な書店で、ガートルド・シュタイン、ヘミングウェイ、フィッツジェラルド、ジッド、ヴァレリーなどが出入りし、ジョイスの『ユリシーズ』を最初に出版したことでも有名だ。

その書店を率いたのはシルヴィア・ビーチという女性だが、この店がドイツ占領下で閉店となったあと、彼女の仕事に大きな霊感を受けて同じ名の店を開いたのは、ジョージ・ホイットマンという男性だった。店はいまもセーヌ川を挟んでノートルダム大聖堂と向かいあうビュシュリ通りで営業をつづけており、上階のアパートにはジョージ自身も住んでいる。

書店の目的は本を売ることだが、それのみならず、本を介して場を作れるところがほかの商店とちがう。ドラッグストアーが売り物で場を作ることはむずかしいが、本ならばトークショーや朗読会というふうにさまざまな方向に広がっていける。人と人をつなぐメディアとなり、知を引き渡す役を果すものとして、本の上をいくものを探すのはむずかしい。若い世代に古書が人気なのも、本の潜在力をどこかで直感しているからだろう。

2000年のはじめにパリのこの書店にカナダ人の青年がやってきた。所持金が尽きかかっているのに、国にもどれない事情があり、にっちもさっちもいかない状態でこの書店に拾われたのだった。店主のジョージは無類の読書家だが、理想主義の行動家でもあって、開店当初から行き場のない人に宿と食事を提供してきた。書店が無料宿泊所も兼ねていたのである。

こうしてジェレミー・マーサーは店の手伝いをしながら数ヶ月間この店に滞在することになる。本書は、当時20代後半だった彼がそこで出会った人々や見聞きした出来事を綴ったものだが、21世紀のことが書いてあるのに、60,70年代のシーンを見ているような感じもある。だれもが自意識過剰で、文学をかじり、物書きを夢み、根拠のない自信と、根拠のあるコンプレックスのあいだを揺れ動いている。書店にたむろする人に共通するにおいが立ちこめているのだ。

その理由はなによりもジョージ・ホイットマンその人にあるのだろう。名前を見ておわかりのとおり、フランス人ではない。1913年、アメリカ東海岸に生まれ、子どものときから本の虫だった。十代で破天荒なビジネスマンの父に連れられて家族とともに中国で1年過ごし、その後アジアと中東を巡る。この父親ゆずりの冒険心がジョージにも乗り移り、大学のジャーナリズム科を卒業した後、世界放浪がはじまる。やがてパリに定着し、シルヴィア・ビーチと同じように「パリのアメリカ人」となったのだが、これはパリが異邦人に居心地のいい街であるだけが理由でなく、アメリカで反共運動がはじまり、共産主義の思想に燃える彼のような人物がいずらくなったことも大きかった。

異国に長くいると母国語の本に飢える。だから書店の萌芽が彼が最初に住みついたパリの一室で芽生えたという話は、よく理解できる。英語の蔵書がうずたかく積み上げられたその部屋には旅人がよく本を借りにきた。ジョージはつねにパンとスープを用意し、彼らをもてなしながら書物談義にふけった。そうなると宿を提供するまでもう一歩である。本が人を選んでくれるわけで、この部屋のなかで彼のユートピア思想は膨らんでいく。

だが、人通りの多い路上に書店を構えるのは、小さなアパートに人を招きいれるのとはわけがちがう。何年もろう城している詩人がいるかと思えば、無責任にやってきて去っていく人があとをたたない。理想主義者のジョージは物事の管理には一切興味はなく、秩序を保つものはむずかしい。もちろん経営状態もおもわしくない。

ジェレミー・マーサーは、そんな書店の混乱ぶりを、出会った仲間や自分のライフストーリーと織り交ぜながら語っていく。少々話が広がりすぎで、だれがだれやらわかりにくいところもあるが、ジョージには店に出入りする奇人が束になってかかってきてもゆらがない分銅のようなキャラクターがあり、混乱しがちな小宇宙の羅針盤になっている。物質的快楽を求めず、人間の潜在的な力を信じ、私利私欲ではぜったいに動かないところが徹底しているのだ。

ジョージが体現してきた「異邦人」「放浪」「本」という3点セットの価値観が、清水のように流れていて、現代の物語にもかかわらず、そうと思えないような懐かしさが漂っている。矛盾した人間性と前後をかえりみない彼の行動力に、歴史を生きてきた人の重みがにじんでいて印象深い。ネット社会がいくら浸透しても、この3点の普遍的価値は変らないだろう。人間が人間であるかぎりは。



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