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2010年02月26日

『崩壊』オラシオ・カステジャーノス・モヤ(現代企画室)

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「距離をもって描かれる映像的効果」

書店に行って買う予定だったものとちがう本を買ってきてしまう。そんなことがたまにある。予定している本のことはもう頭に入っているからあせって買わなくてもいい。ところがいま目前で電波を送ってくるこの本はいま手に入れないと忘れてしまうかもしれない。そんな心理が働いてそっちをつかんでレジに行ってしまうのだ。

この『崩壊』もその例だった。日本ではじめて紹介されるエル・サルバドルの作家の小説である。目を留めさせたは書店のポップだった。「ボラーニョも絶賛」と書いてあった。ボラーニョは昨年『通話』が初翻訳されてたちまちファンになった作家で、「書評空間」でも取り上げている(2009.10.31掲載)。

彼がいいと言うならと読んでみたいと購入し、すぐに読了した。とても読みやすい文章である。翻訳のよさもあるだろう。開くと章扉に「第一部 結婚式 (テグシガルバ 一九六三年十一月二十二日」とあり、イザベル・アジェンデの作品に出てくるような石造りの荘厳な館がちらっと浮かんだが、読みはじめてすぐにそれは消えた。生き生きした会話が展開するちょっとスラップスティックふうな文体なのである。

会話しているのは小太りのエラスモと痩せて骨張ったレナ。ふたりは夫婦で、娘テティの結婚式が間もなくはじまろうとしている。エラスモは妻をそこに出席させようと迎えに来たのだが、レナはぜったいに行かないとがんばる。娘の相手が不満なのだ。娘の倍以上の年齢で、離婚歴のあるエル・サルバドル人で、しかも共産主義者。彼女にとってはいやなことだらけだ。

この1部で、ふたりの夫婦関係がうまくいってないこと、レナと娘との長年の不和、そうなった理由などが見えてくる。レナの気性の激しさがひときわ光っている。だれの身辺にもひとりくらいはいるであろう人間臭い人物。実際につきあうのはごめんだが、小説にはこういう生命感あふれる人物が欠かせない。ぜんたいを通じて芝居を観ているような印象があるのは一室を舞台に家族の会話が進行していくからだろう。しかも台詞が絶妙だ。

第2部の扉には「(エラスモ・ミラ・ブロサの保管書類から)」とあり、父エラスモが娘テティに書いた手紙のカーボンコピーと彼女からの返事が交互に登場する。最初のページで、テティがエル・サルバドルで家庭を持っていること、エル・サルバドルとホンジュラスのあいだに戦争が起こりそうなこと、父はそれを心配して帰国するように促していることなどがわかる。

ここに至ってようやく物語の骨格がつかめた。彼らはホンジュラス人なのである。第1部にはホンジュラスのホも出てこないのでわからなかった(章扉の「テグシガルパ」がホンジュラスの首都だと知っている人は察しがついただろうが……)。ホンジュラスとエル・サルバドルは隣国同士で敵対している。と同時に家族内でも夫と妻、母と娘のあいだに諍いが生じており、この二重の亀裂と対立が物語の構造なのだ。

演劇的手法に近い1部の雰囲気は、書簡で構成された2部でがらりと変るが、3部にはまた別の形式が用意されている。「鷲の岩山」(テグシガルパ 一九九一年十二月〜一九九二年二月)と扉にあり、開くと「レナ夫人は、意識を失って廊下の床に倒れていました。」と最初の1行にあり、その後もずっとひとり語りがつづく。語り手はミラ・ブロサ家の使用人のマテオ。激昂しやすいレナに唯一気に入られていた人物だった。

このマテオはカズオ・イシグロの『日の名残り』に出てくる老執事を彷彿させる。出過ぎた態度はとらず、すべきことだけをきちんとこなす勤勉でつつましい人柄だ。彼はブロサ家の出来事を距離をもって眺めている。そういう立ち場が身についているのだ。彼は60年代から現在までの20数年間の一家の出来事を回想しながら、娘テティがレナと和解するさまを観察する。もっともレナは意識不明状態で、息はしているもののもう激しい言葉は発しない。テティが語りかけるだけのワンウェイのコミュニケーションだが、そういう状態になってはじめて訪れる心の平安が暖かに伝わってくる。

母の猛反対を押し切って異国で家庭を持ったものの、夫は暗殺され、息子の一人はヤク中で手がつけられないなど、テティの半生は幸福とは言いがたかった。屋敷にもどって意識不明の母とすごした日々は、生者であるテティに与えられたやすらぎの時間だったように思える。まだかろうじてこちら側の世界にいて同じ空気を吸っていることが、彼女の長年の重荷を解放し心身を癒す。時代や状況はちがってもだれもが経験する極限状態にある生命とのやりとりである。

作者はそれぞれの心の内に切り込まず外からそれを伺うように描く。3部それぞれに手法が異なることもその距離感を印象づけている。人間の本性をえぐるのではなく、家族の情景を描きだして読み手の記憶を喚起させる、そんな雰囲気をもった小説だ。描写がとりわけ映像的とは感じられなかったが、写真を見ているときに近い感覚に包まれたのはそのためかもしれない。ボラーニョと同様に今後訳されていくのが楽しみな作家である。


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2010年02月20日

『光と重力』今井智己(リトルモア)

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「奇妙なほどモノが克明にみえる瞬間」

写真集にはおもしろいと感じて、そのおもしろさがすっと言葉になるときと、時間のかかるときとがある。今井智己のこの写真集がそうだった。感じとっているものはたくさんあるはずなのに、そうでなければこんなに何度も見ないのに、それが何なのかがつかめない。心の印画紙はたしかに感光しているのに像を結ばないのだ。

写真は言葉より先の世界を目指すものであるから、こういう反応が生まれるのは写真らしい写真と言える。言葉よりもずっと先を走っている。「写真度」が高い。それなら無理して言葉にせずに写真を見て満足していればいいかもしれないが、言葉人間である私はそれではだめなのだ。自分の反応の仕組みをなんとか探ってみたいともがく。

まず写っているもののことから話そう。最初は崖の岩肌。つぎは針葉樹の森。地面に少し雪が残っている。そのつぎは松林で地面に雑草が生えていて、前の写真より少し季節が暖かそうだ。ほかにも杉の樹皮と枝が写っているもの、新緑の梢を下から見上げたもの、潅木の蔓が複雑に絡まったもの、光が差し込んだ杉木立など、自然のなかで撮ったものが多い。

ところがそのあいまに突如、トンネルや街路やガラス窓やカーテンなどの写真が入ってくる。樹木が好きで開いた人はがくっとするかもしれない。それらが夾雑物にしか見えないければ反感すら抱くだろう。どうしてこうしたものが挿入されているのだろうか。写真集のテーマが自然でないことを言いたいがためだろうか。だとしたらこの写真集のテーマは何なのか。

ここに入っている写真を展示した彼の写真展を本日見てきた。そこでふっと思い出したことがあった。2週間前のすばらしくよく晴れた日曜に葉山に行ったのだが、そこではじめて見るような巨大な富士山を見た。海を隔てて眺めているにもかかわらず鬼気迫るものがあり、海を渡ってこちらに歩いてきそうな異様さを感じた。山のサイズが変わるはずがない。背景の空の色、光の具合、空気の透明度、山肌を覆う雪の状態などの条件が絡み合って異様な大きさに見せたのだろう。その日は沖合に浮かぶ大島も見えたが、これも巨大だった。

このように物の大きさやディテールは変化する。おなじものがまったくちがって見えてしまうことがある。変化には振幅があり、小さいときは気づかずに見すごしてしまうが、あの日の富士山のような変化はだれも見逃さない。そういうときは富士ばかりでなく、身の回りのものすべてがやけに克明に見えたりする。

話を写真集にもどすと、今井の写真にはこの日の富士山に共通するような異常なほどの克明さがある。枝の細部が、樹木の表皮が、地面に落ちた枯れ葉が、キリキリと音がするほどレンズを絞り込んでとらえられている。カメラは機械だから絞り込めばディテールが出る。だれがやってもそうなる。だからここで気になるのは、なぜ今井がそのように撮ったのかということだ。

ガラス窓の写真を見てみたい。表面に凹凸模様のあるすりガラスで、室内が暗くて外がぼんやりと明るいために、皮革製品の表面を思わせるガラスの模様がくっきりと浮き上がっている。非常に気になる克明さだ。物が見えすぎたときの不安と恍惚に襲われる。空気がキーンと音を立てているのが聞こえてくるような静謐感がある。

だんだんとわかってきた。この写真集に収められているのはすべて「物事が克明に見えてしまったとき」の写真なのである。克明に撮ろうとして計算して撮った克明さとはちがう。物事がそう「見えた」ときがあった。奇妙なほど細かく見える屹立した時空が、彼は気になる人なのだ。なにかを「見た」ことではなく、こう「見えた」ことの恩寵をこれらの写真は示している。

もうひとつ感じたのは写真展と写真集がもたらすものとのちがいである。写真集とはプリントしたものがもう一度プリント=印刷されて出来るものであり、「これらは写真である(=印刷物である)」というステートメントが強い。ところが写真展ではプリントがそのまま展示されるので、ディレールの克明さが際立ち、その分絵画に接近している印象を持った。ここで言う「絵画」とは見た人が「写真みたい!」と驚きの声を上げるような絵画のこと、かつでスーパーリアリズムと呼ばれたこともある絵画の種類である。

図版でしか見たことがないのだが、ずっと気になっている画家がいる。犬塚勉という画家で、自然に分け入って写真を撮り、それを絵筆で描いて緻密な絵画作品を残した。図版で見るかぎりは「写真のように」見える。図版は写真だからそれで当然なのだが、実際に作品を見たときにどう感じるか興味深い。絵筆で描写されたものと、レンズで写し取られたものとでは人の心身を喚起させるものが異なってくるだろうか。

蔓が絡み合った写真、杉の樹皮の写真、杉木立に光が差し込む写真など、今井の写真から感じ取る狂的なエネルギーは、克明な絵画を見たときに感じるものに近いようにも思える。写真と絵画の境界はどこにあるのかという問いがここでわき起こってくる。克明であればあるほどふたつは接近してくる。おそらく離れて見たらちがいは認識できないだろう。写真だと思って近づいたら人の手が描いているとわかったとき、その驚きは人の意識をどう変えるのだろうか。その逆にやっぱり写真だったと知ったとき、どんな感慨が生れるのだろうか。私にとって写真のおもしろさとは、こういう問いを運んできてくれることなのだ。


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2010年02月11日

『 斜線の旅』管啓次郎(インスクリプト)

 斜線の旅 →bookwebで購入

「生命運動そのもののような旅のあり方」

この本を読んでいるあいだずっとふんわりした至福に包まれていた。日常を変えてしまうような急上昇の興奮ではない。時間の色が変わり、ルーティーンワークすらが楽しくなるような変化である。生活というのは繰り返しで、繰り返しが得意でない私はときどきそのことに苛ついたりするが、この本をかたわらに置いて1篇ずつ読むことでそれが避けられた。本はやっぱりありがたい。

旅の本である。いろいろな旅がある。フィージー、タヒチ、ニュージーランド、クック諸島、トンガ、イースター島、ニューオリンズ、パリ、ナント、知床、下北半島、武漢……。だが単なる旅の報告とはちがう。あの旅の経験をこの旅で思ったことと結びつけ、そこからなにかの認識を導き出し、それをつぎの旅に接続し、そこから生じた考えをまたつぎの旅で育てていく。歩行と思索が一体となった生命活動に重なってくるような旅。読めばおのずと精神が快活になってくる。


「驚くべきことをまのあたりにした人は、その事件を言葉に編み上げ、人に語るべきだと思う。目が覚めるような話を耳にした人は、その話を中継し、さらに語り直すべきだ。その連鎖には、もちろん数々の嘘や誤解がつけいることだろう。しかし少なくとも連鎖を続けてゆくこと、とぎれさせないこと、最終ヴァージョンの存在を許さないことが、人々の興味を対象につなぎとめ、つねに新たな見方や思いがけない知識を呼び込むことになる」


24篇の多くが島での体験や思索を書いており、島空間というテーマが通奏低音のように流れている。なぜ島なのか。「島は人を、何かの出発点まで引き戻す。引き戻してくれる」場所だから。たしかにそうだ。アイシングが塗られすぎの都市では人の営みのかたちが見えづらいが、島にいけばたちどころに物の起源がわかり、自分の足元が明るくなる。

「島旅ひとつ、また」はイースター島への旅を書いたものだ。旅の動機は「ポリネシアの三角形を完成させること」。著者は若いころにハワイに暮らした経験があり、最近では大学のサバティカルでニュージーランドに1年間滞在した。この2つの場所とイースター島を線で結ぶと巨大な三角形ができる。このポリネシア圏では言語やライフスタイルに共通点が多く、人が海を渡って移動した長大な道のりが想像できる。「地球上でもっとも広い面積に拡散した、最大の文化圏」なのだ。その事実にわくわくし、三角の残る1点を自分の目でたしかめる見べく旅立つのだ。

彼は言う。自分の旅は徹底的に観念的なものだと。それが弱みであり、強みでもあると。


「弱みだというのは、いうまでもないだろう。いらないことばかり考えて夢遊の足取りで歩くため、目の前のこと足下のものに気がつかない。見すごす、聞き逃す。出会いをあらかじめ見失い、具体的な経験をばかばかしいと取り逃がす。そして一粒の麦や米から、唐突に世界史や「国際関係」の非情を思って、ひとり呆然と日暮れの海岸にたたずんだりもする。観念的であるがゆえに楽しめない性格のつけは、すでに充分に支払ってきた。だがその一方で、そもそも観念的な工程を脳裏に描かなければけっして行かない場所に行ったりもする」


この一節に私は深く納得した。そういうことだったのかと腑に落ちた。自分の旅の仕方はその逆だからだ。イメージや、気分や、気候や、友人がいるという現実的な理由や、それやこれやの思いつきの総合によってなんとなく旅先が決まる。それは心の波長とチューニングする感じに近く、うまく合えばいいけれどそうでないと気分がのれないまま帰ってくることになる。そういう行き当たりばったりの旅をしてきた結果なのか、最近自分の「旅力」が減ってきたのを感じていた。

この世には、見ようという意志をもって見ないかぎりは見えてこないものがある。「旅力」の減退は目に見えるものしか関心をもってこなかったツケとも言える。市場経済がゆきわたり、グローバリズムが進行し、どこの風景も似通ったものになっている今、旅に出ても「別に来るほどのことはないなあ」とつぶやきがちではないだろうか。

感覚だけを頼りにした旅の弱さがここにある。ここを押せば気持ちがいいというツボの在りかは知っているが、ツボとツボが連鎖して生み出すダイナミズムをつかんでない。いきおい、旅が点の散在に終わって先細っていく。耐久性のある旅にするには点のつなぎ方を学ぶことだ。モアイ像をみてぎょっとなるだけでなく、頭の筋肉をつかって思考する。その想像力がつぎの旅の動力となるのだ。

この本をすがすがしいものにしているもうひとつの理由を述べよう。「観念的な旅人」はとかく悲観的になりがちで、地球や人類の未来を嘆き批判するあまり、説教がましい口調になったり、世の中に警鐘を鳴らす式の文章になることが多いが、この本にはそうしたネガティブなトーンがない。「最終ヴァージョンの存在をゆるさない」情熱のようなものが書く推進力となっている。本質的に詩人の文章なのだ。

たとえば「青森ノート」には、恐山の俗っぽい光景に唖然となりながらも、強い風に狂ったようにまわる風車に突発的な清浄感を感じとる箇所がある。


「この土地に死後はない、魂はない。ただ遺され生きている者たちの、やり場を知らない悲哀、考え抜かれることのない喪失感が、なんということもない石ころのように投げ出され、転がっている。」


また「オタゴ半島への旅」の小型ペンギンの群れを見に行くシーン。海から一斉に上がったペンギンたちが濡れた体と翼をふるわせながらまっしぐらに海岸の藪へとよちよち歩いていく。「観客は、うれしくて大笑い。」


「かれらが見せてくれるのは、悠久であり、進化の時間であり、太陽と月の巡りであり、潮の交替だった。見ていると、生命の糸の何かがそこにあらわになっていることを思う。そこには何か、さびしい感動がある。そしてかれらの日々の上陸を(また多くの他の野生動物たちの恒久を)維持するために、ここらでヒトという種が滅びを選ぶのもいいんじゃないか、とさえ思えてくるのだ。」


こういう想像や思索が日々の色を変化させ、至福のときを運んでくるのだ。



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