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2009年10月31日

『通話』ロベルト・ボラーニョ(白水社)

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失うもののない人生の「落後者」が放つ聖性


ロベルト・ボラーニョという作家を、この本ではじめて知った。本邦初訳だし、知らない作家はこの世にたくさんいるものだが、彼の場合は「こういう作家がいるとは知らなかった」と言ってみたい気持ちがある。読んだことで自分のなかで何かが変ったような気配がある。収められた14本の短編の生々しい触感がからだに残っており、作家が作品を超えて自分の人生に入り込んでくるという、めったにない現象が起きたのを感じるのだ。

「センシニ」はスペインに亡命中のルイス・アントニオ・センシニというアルゼンチン作家の話である。語り手の「僕」は二十代の駆け出しの作家。ある文学賞に応募して三位になったが、その二位の座にいたのがセンシニで、作品のファンだったので親しみを覚えて連絡をとる。センシニがさまざまな文学賞に応募してその賞金で食べているのがわかる。文学賞の公募を見つけたら教えてほしいと頼まれ、「僕」は新聞のはじに小さく出ているような地方都市の文学賞の告知を探し出しては、センシニに送るようになる。

センシニは本当はブエノスアイレスで暮らして執筆したいと思っているが、家族とともにスペインに留まり、家族が寝静まったあとの食卓で書いて応募している。「賞を追いかけてスペインの地図上を散歩しているようなものですね」と彼は書く。「もう六十歳になりますが、二十五歳の若者のような気分です」。それを読んで「僕」は悲しく感じるが、やがて「ある種の活力、ユーモアの精神にとてもよく似た活力、記憶とてもよく似たユーモアの精神を取りもどしたような気分」になるのだった。

センシニには、事件に巻き込まれて行方不明になっている新聞記者の息子がいる。物語の後半では彼の遺体と思われるものが発見され、帰りたくても帰れない祖国の政治状況や、センシニの過去の重さなどが暗示されるが、筆致は軽妙で乾いている。「ユーモアの精神にとてもよく似た活力、記憶とてもよく似たユーモアの精神」という先の言葉は、そのままボラーニョの文体を言い当てているかのようだ。

「エンリケ・マルティン」という作品に登場するのは、ある意味でセンシニとは正反対の男だ。エンリケは詩人希望で、そのために粘り強く努力しているが、書かれたものはいつもだれだれ風で独創性がない。センシニの作品にある独自の声がエンリケには欠けている。センシニは食べるために書き、エンリケは自己証明のために書くが、出てくる結果は皮肉にも逆なのだ。しかしボラーニョはふたりをそのようにとらえはしない。労働者のように書くこと。書くことに執着すること。社会に対して武装し自己に没入するさまに尊さを感じている。

エンリケは自己破滅にむかう。その過程を作家である「僕」の視点で書いていく。世間的には「三流詩人」と言われる男の迷路のような心の内側が浮き彫りにされてゆく。「僕」はエンリケを哀れみも、うとんじもしない。その詩をいいと思ったことはないが、「いくつかを覚えている」と書く。「それを思い出すときには、自分自身の青春を振り返るときにも似た気持ちになる」とも。恐れるものを持たない人間の聖性が詩の存在とあいまって、不思議な光を放っている作品だ。

ボラーニョが実際に親交を持っていたのではないかと思わせるような人物が、どの作品にも登場する。それほどまでに登場人物たちの実在感は強く、共通した特徴がある。その特徴をどう表現したらいいのだろうと思いつつ、「センシニ」を読み返していたら、これだという言葉に行き当たった。

センシニの書いた小説について「僕」が語っている言葉である。「武装し、運に見放され、孤独というか一風変った人付き合いの感覚を持つ人物の物語だ」。ボラーニョの登場人物から感じるのはこれなのだ。不遇で、にっちもさっちも行かない人生なのに、人と関わり、何かを訴えようとするその切実さが、どの人物からもあふれでているのである。

小説臭さのない、どちらかというとエッセイ風のさらりとした文章だ。その気取りのない文体に好感をもって読みはじめたが、読み終えてみると観察眼の鋭さ、人間への構えの大きさ、細部の組立の巧緻さなど、ただ者でないのを実感した。だれの作品にも似ていない。ユニークさを主張しないユニークさがあり、読み返すごとに新しい発見が与えられる。

これを機にボラーニョの作品がもっと翻訳され、読めるようになるとうれしいが、ボラーニョ自身はもう新作を書くことは叶わない。2003年にまだ五十歳という若さで他界してしまった。この事実もまたボラーニョへの思いを特別なものにした。

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2009年10月05日

『沖縄01外人住宅』岡本尚文(ライフ・ゴーズ・オンinc.)

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沖縄に花開いたコンクリート文化

はじめて沖縄に行ったときに驚いたのは、目にする住宅のひどく武骨なことだった。コンクリートの塊と呼びたくなるような、飾り気のない四角い建物が多かった。 壁が湿気で黒ずんでいたり、どぎつい色のペンキで塗られていたりする。看板代わりに壁に直に店名を書いている建物も目を引いた。沖縄タイムスの古いビルもそうで、筆にどっぷりとペンキを含ませて書いたぶっとい文字に迫力があった。

強い日差しを遮るルーバーとして、透かし模様のあるコンクリートブロックが使われているのも物珍しかった。花ブロックと呼ばれ、ブロック塀が一斉を風靡した時期には本土でも飾りに使われたが、いまはあまり見かけない。沖縄の花ブロックは種類が多く、新築の家にも用いられて現役だった。

よく見ると墓もコンクリート製が多かった。家の形をした破風墓、蛸のあたまのような形の亀甲墓……。どれもコンクリートが大量投入されて造られていた。間もなくそれが米軍の影響であることを、知ることになる。

本土向けの映像には赤瓦の民家がよく登場するので、どこにでもあるように思ってしまうが、実際には限られたエリアでしか見ることができない。空襲がひどくて赤瓦の民家は残れなかったのである。

その代わりに、経済的に余裕ができてくると、次々に「コンクリートヤー」が建てられた。丈夫そうな機能一辺倒の住宅の元になったのは、アメリカの軍人軍属用に建てられた「外人住宅」だった。

本書は、本土にいまも残っている外人住宅を撮った写真集である。一目見て面白いと思った理由のひとつは、これまでこういうものがあまり撮られてこなかったことがある。

沖縄の写真というと、人の暮らしや自然や生き物、祭祀や芸能などを撮ったものが多い。それらが魅力的な被写体であるのはよくわかるが、もっと幅広く沖縄文化を眺めわたすならば、記録すべきものはほかにもあるように思えてならなかった。

この写真集の視点は「記録」という観点とは少しちがうかもしれない。外人住宅そのものより、それらの建っている風景、あるいは建物がかもしだす空気をとらえている。花ブロック、陸屋根、屋根を囲む鉄柵、日本の住宅より高い位置にある窓、壁をおおう黴、ペンキ塗装、それがはげてきた様子、壁に直書きされたハウスナンバーなど、沖縄の外人住宅を知っている者なら、ああ、これだとうなづくような細部のあれこれが写されている。その反対に、外人住宅を知らない人が見たら、グアムかサイパンあたりを連想するかもしれない。

巻末に、琉球大学工学部の小倉暢之が「沖縄の外人住宅」という文章を寄せており、外人住宅の建てられた背景が説明されている。

米軍が駐留した当初は基地内ある住宅でまかなえていたが、アジアの政治情勢が変わって沖縄基地の重要性が高まった40年代末期から軍人軍属の数が激増し、基地の外にも外人住宅が建てられるようになった。

注目すべき点は、それらの住宅が地元の民間の建築業者によって造られたことである。その数は日本に復帰した1972年直前には1万2千戸にも達した。基地内の住宅数は約4千戸で、基地人口は約4万人にものぼったというから、いかに住宅難だったかがわかる。

東京でも福生や立川の基地周辺には「ハウス」と呼ばれる外人住宅が建てられ、空き家に若者が移り住んで、ピッピー文化と結びついたりした。それらは破風屋根のモルタル住宅で、沖縄のものとはちがった。小倉の文章によると、基地外にコンクリート住宅が建てられたのは、米国国外ではグアムと沖縄だけだったそうである。

こうしてコンクリートという建材は本土に先駆け、沖縄の住宅に広く浸透していく。台風の脅威をものともしない堅牢さに、コンクリートヤーの人気は集まり、つぎつぎと建て直しする家が現れた。沖縄の人が本土に出稼ぎに出るときの筆頭にコンクリートの型枠の現場があるのは、これはコンクリートヤーの流行がコンクリート職人を数多く輩出したためだ。

外人住宅の建設は復帰とともに終わりを告げたが、その技術と経験はめぐりめぐって沖縄の現代建築家を触発した。80年代、いまはない『SD』という建築雑誌が沖縄文化を特集をするというので手伝ったときに建築家の幾人かと知りあったが、彼らがコンクリートの素材を実にしなやかに使いこなすのに驚いた。本土のコンクリート住宅では打ちっ放しの冷たい感覚だけが強調されるきらいがあるが、彼らは三角屋根にしてそこに赤瓦を載せてたり、木を組み合わせたりと、発想が自由自在だった。

コンクリートヤーが雨後の筍のように増えた後に、建築家のあいだにひとつの反省が生まれたという。コンクリートヤーは丈夫だが、夏場の暑さが耐えがたかった。快適さで言うと、赤瓦の民家のほうがはるかに上だった。とくに沖縄では出稼ぎが世帯が多く、日中は閉めきったままになるため、帰宅したときに室温が尋常でない高さになった。それにどう対処するかが、沖縄の建築家の課題となったのである。

私の知っているある家では、通風が実にうまくなされていて、真夏でもクーラーを使わずに過ごしている。陸屋根をやめて赤瓦にしたり、随所に通風口を設けて風のとおりをよくするなどの工夫がなされた結果で、基地のもたらしたものがこんなふうに開花したことに、目をみはった。文化も人間とおなじで、揉まれ、叩かれ、鍛えられることで成長を遂げていく。

ここに写っている外人住宅は、やがては老朽化し、取り壊されるだろう。おなじものが今後建てられることもない。歴史のある時期に必然があって生まれ、いまその役割をまっとうして去ってゆく。そのぎりぎりのところに写真家は間に合った。




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