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2009年06月25日

『夜想曲集 音楽と夕暮れをめぐる五つの物語』カズオ・イシグロ(早川書房)

夜想曲集 音楽と夕暮れをめぐる五つの物語 →bookwebで購入

「定年なしの表現者の人生」

カズオ・イシグロというと長編作家という印象が強い。最初に邦訳された『日の名残り』から、2006年の『わたしを離さないで』まで、これまで翻訳出版された作品はどれも長編だった。だからこの本の広告を見たときに、おや?と思い、すぐに書店に向かった。

そう、これはイシグロ初の短編集である。「音楽と夕暮れをめぐる五つの物語」と副題にあるように、音楽が一本の糸として通っている。「老歌手」には1950年代のポップス歌手が、「降っても晴れても」にはジャズを聴きあった旧友が、「モールバンヒルズ」には若いシンガーソングライターが、「夜想曲」にはうだつの上がらないサックス吹きが、「チェリスト」には文字どおりクラシックのチェロ奏者が出てくる。

経歴によると、イシグロはいっときロックミュージシャンを目指していたらしい。音楽の仕事は寿命が短いので断念したそうだが、音楽に思い入れていた時期があったのだ。以前、イシグロの若いころの短編を雑誌で読んだことがあったが、それもミュージシャンが主人公だった。それはここには入っていない。5編すべてが書き下ろしである。

それでは5作とも音楽がテーマかというと、そうとは思われない。音楽そのものについて書こうとすれば、もっと別の書き方になるだろう。音楽はむしろモチーフであり、音楽をほかの芸術、ダンスや芝居に置き換えることも可能だろう。

「降っても晴れても」以外の4作は、まがりなりにも人前で何かを表現することを選んでしまった者たちの物語である。彼らの人生は順風満帆ではない。表現にたずさわるというのは、生涯を通じてなにかに就職するようなもので、定年がない。つねに向上を目指して精進しなければならない強迫観念につきまとわれつつ生きる。努力が実らなければ寂しく、諦めたら諦めたで虚しさがつのる。どうやっても「進化」と「向上」の業から離れられない。

定年のないもうひとつの「就職の形式」は夫婦関係である。5作すべてにこの問題が絡んでいる。会社勤めならば定年と同時に仕事から解放されるが、夫婦関係はそうではない。どちらかが死ぬまでつづくし、もし「退職」したいなら離婚するしかない。どの登場人物の人生も先が見え、「たそがれ」の時期を迎えている。副題の「夕暮れ」が腑に落ちる。

「チェリスト」は音楽を媒介に支配しあう男女の師弟関係を描いている。ハンガリー出身の若いチェリストが、ヴェネツィアで年長の女性チェリストに出会い、ホテルの部屋で個人指導を受けるようになる。彼女は言葉であれこれ言うだけで自分では弾いてみせない。それを不思議に思いつつも、ツボを得た批評に操られて、青年は彼女の存在に呪縛されていく。

これはある意味でふたつの「就職」の合体なのではないだろうか。表現への没入が異性への傾倒によって成就されている。ふたりは肉体関係は持たないし、結婚するわけでもないのだが、関係がつづいているあいだは、ほかの価値観が入ってくる余地はなく、彼女の言葉が絶対的なものになる。呪術にも通じる言葉の魔性を感じさせる作品だ。

もっとも印象深く読んだのは「夜想曲」という4番目の作品だった。もしこれだけを単独に、作家名を伏せて読んだら、イシグロの作品だと言い当てられるだろうか。たぶん出来ないだろう。『日の名残り』や『わたしを離さないで』に流れる静謐さなトーンとは百八十度ちがうし、完成度も高いとは言えない。というより完成することを拒否するようなバイタリティーと、ドタバタ喜劇に通じる荒唐無稽さにあふれていて、イシグロはこういうものも書くのか!と思った。そしてその瞬間、『充たされざる者』(1995年)のことが思い浮かんだ。

『充たされざる者』は長編作品のなかでもっとも長く、もっとも奇妙な小説である。ピアニストがコンサートのためにある街を訪れたが、なかなかコンサート開催にたどりつかないという、ストーリーがあるようでないような、現実と非現実が錯綜したシュールな作品である。イシグロは、これこそがもっとも書きたかった作品だと述べ、ある批評家はこんな退屈な作品はないとこき下ろしたそうだが、その大長編小説と似た味わいがあるのが、5編のなかでいちばん長く、本のタイトルにもなっている「夜想曲」なのである。

才能はあるけれど醜男のサックス奏者が、妻の再婚相手の男から整形手術の費用を贈られる。術後、高級ホテルに滞在して回復を待ているあいだに、隣室にいる有名ミュージシャン(「老歌手」に出てきた歌手)の妻と親しくなる。ふたりとも顔は包帯でぐるぐる巻きで見えないが、その格好で深夜のホテル内を徘徊するシーンが荒唐無稽の極みなのだ。

批評家にどう言われたって構わない。書きたいように書くんだという勢いがあって、ロック青年だったころの片鱗が伺えるようだ。この「収まりの悪さ」さこそ、カズオイシグロの「実力」なのかもしれないと感じ入った。静謐で精緻な作品を書いていると、言葉も技術もその方向に修練されて行き詰まりかねない。どこかでそれを振りほどいてリセットする必要に迫られるのではないか。ばかばかしい物語はその意味で効果があるように思える。自分のなかのおろかで野蛮な部分に降りていって、動物的なエネルギーを確認し、解放できる。

収まりの悪さこそが次の作品を生みだす力になるのだ。定年なしの文学に「就職」した作家の、持続の秘訣をかいま見た気がした。



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