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2009年04月21日

『堕ちてゆく男』ドン・デリーロ(新潮社)

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「「揺らぎ」と「非揺らぎ」のはざまで」

9.11の同時多発テロが欧米の作家にとっていかに大きな出来事だったかは、事件後に書かれたいくつかの作品を読んでみるとわかる。書評空間でも、これまでイアン・マキューアン『土曜日』(2008年1月14日)クレア・メスード『ニューヨーク・チルドレン』(2008年5月14日)の2冊を取り上げた。

欧米の作家にとって、小説の舞台を事件以前にするか、以後にするかは大きな決断だろう。それによって書く内容が影響される。直接事件に触れなくても、執筆にむかう意識が左右されるように思う。

日本の作家が彼らほどには影響されないことを思うと、やはりこの国は「極東」なのだと感じる。「極東」というのは、言うまでもなく欧米サイドの距離感だが、それは私たちのリアリティーとも密接に関わっている。いくら生活が欧化され、飛行時間が短くなり、インターネットが発達しても、西洋社会が刻んできた歴史的時間はそう易々とは縮まらないのだ。

ニューヨークのブロンクス生まれのドン・デリーロが、9.11についてどのような作品を書くかは、事件以来、アメリカ社会の大きな関心事だった。彼はまず2004年に『コズモポリス』を発表、投資アナリストを主人公に市場経済の行き着く果てを描いた。アメリカではバッシング、反対にフランスでは絶賛されたそうだが、9.11に直接触れていないにもかかわらず、この作品からは、事件が彼の意識に大きく影響しているのが伝わってきた。

それから5年たって発表された本作『堕ちてゆく男』で、デリーロはさらに深く事件に突っ込んでいる。主人公は被害者とその家族だから、これ以上の接近はあり得ないだろう。実にシンプルで率直な問いが、作家を突き動かしているように思える。「こういう事件が自分の身に起きたとき、人はどのようにしてその後の人生を送っていくのだろうか」ということだ。

ワールドトレードセンターで働くビジネスマンのキースは、現場から脱出してアップタウンにある自宅に帰り着く。夫の姿に妻リアンは二重の驚きを覚える。彼女はキースが生きてはいないだろうと思っていた。それに、もし生きていてもここには帰ってこないだろうと感じていた。彼らはもう何年も別居していたのである。

どうして妻のところに帰ったのか、彼自身にもわからない。気がつくと元のアパートにもどっていた。彼の手にはブリーフケースが提げられていたが、それは彼のものではなかった。これもまた、どこでどう手にしたのか憶えてない。

持ち主はフローレンスという女性で、彼と同じように事故から生き延びた人だった。ブリーフケースを返すのに訪ねたのをきっかけに、ふたりは性的な関係を持つようになる。ロマンスではなく、他者とは分かちあえない特異な体験を持ってしまった者同士の無意識の行為として。

小説はこのようにしてはじまるが、ふたりの関係やいきなり再開された結婚生活の成り行きをたどることがテーマなのではない。これらの事柄は、いわば小説の時空に入るためのドアのようなものだ。間もなくフローレンスは舞台から退場し、キースとリアン、彼らの一人息子ジャスティン、リアンの母ニナと恋人のマーティン、キースのポーカー仲間の様子が断章のように描かれる。

人の意識は「いま」を生きながらも過去を彷徨う。現在と過去の比重は絶えず変化し、絡み合っている。それにそもそも人間は、自分の内部で起きていることをすべて把握できるわけではない。むしろ理解できずに行っていることがずっと多いのだ。

キースにはラムジーというタワーで亡くなったポーカー仲間がいた。彼は平凡な男だったが、目にするものを何でも数えずにはいられない性癖があった。道に駐車していある車の台数、1ブロック先のビルの窓の数、そこまでの歩数……。

「人間はーー我々誰もがーー他人に見せている生活以外の時間に、何らかの形でそういうことをしているのだ」とデリーロは書く。ラムジーは自分の癖を自覚しているが、そうでない場合もある。私たちはみな、平穏な日常では浮上することのない何人もの「私」を身の内に抱えているのだ。

ところが言葉では追いつかないような出来事が起きると、無意識の蓋が外され、隠れていた「私」が現れ出る。デリーロは無意識が司っているアナザーワールドを人物たちを通して顕現させる。そうすることで、人間が理解可能な領域と、得体の知れない領域とを揺らぐ存在であるのを示している。

その一方で、少しも揺らがない人々も登場する。作品は3部に分かれ、それぞれタイトルに、「ビル・ロートン」「アーンスト・ヘキンジャー」「デイヴィッド・ジャニャック」と人名がつけられている。彼らは「揺らがない人々」の象徴だ。そして各部の最後には、事件を起こす側の人々、すなわちテロリストのたちの素顔が描写されているのである。

現実と虚構、現在と過去とを行き来する癖が構造的に組み込まれてしまっているのが、生体としての人間だ。人の意識は揺らいで当然なのである。これまで宗教やドグマがその揺らぎを固定する装置として機能してきた。だが、西洋社会においてはそれが壊れてしまった。

他方でそれが未だに強い拘束力を持っているのが、アラブ世界である。デリーロはこの作品で、こうした世界の枠組みそのものを、浮かび上がらせようとしているように見える。読者である私たちは明らかに「揺らぐ側」にいる。だが、同じ地球上には、「揺らがない」生き方を遂行する人々がいるのだ。

何事も自分の身に置き換えて想像せずにいられないのが作家という生き物であり、多くの物書きが、9.11を自分の出来事としてとらえようと試みたはずだ。だが、デリーロは想像するだけではなく、それを書いた。

この小説には、ヒト科の生き物である私たちが直面する現実の手触りが横溢している。このテクスチャーこそが、作家ドン・デリーロの現代に対するステイトメントであると思う。




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