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2009年04月30日

『トオヌップ』小栗昌子(冬青社)

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「遠野郷のはるか昔に眼差しを注ぐ」

まず目を引かれたのは、写真集の表紙に載っている男の顔だった。眼光が鋭く、見るものをはっとさせる凄みがある。ただ「濃い」とか「個性的」とか表現されるものとはちがう、生活の起伏や歴史が刻まれた顔、人間の営みの原初に立ち返らせてくれる顔である。

本のタイトルは『トオヌップ』だが、これもはじめて聞く言葉だった。北海道の地名に響きが似ているなと思ったら、予想通り、トオ・ヌップは「湖のある丘原」を意味するアイヌ語だった。

だがその場所は北海道ではなく、東北地方にある。いま私たちが「遠野」と呼んでいる、柳田国男の『遠野物語』で全国的に有名になった岩手県の盆地は、大和朝廷に支配される以前は「トオヌップ」だったのだ。タイトルを「遠野」ではなく「トオヌップ」とし、この男の写真を表紙にもってくることで、この写真集の視点が示唆されている。

最初のページには遠野郷を俯瞰した写真が載っている。雲間から差し込んだ光が、山に囲まれた平原と、蛇行する川を照らし出している。見ていると、ここが湖だった太古の時代がありありと目に浮かんでくる。と同時におなじ場所に立って、おなじ風景を眺めた人のいたように感じられてきて、不思議な感慨が湧いてくる。

天狗の面と装束をつけた若者、光の差し込む森の木立、古代人の墓と言われている巨岩、冬の凍てつく川、霧の降り立つ野の写真などがつづき、農家の納屋が現れる。天井からさがった無数の細長いものはタバコの葉だ。このようにタバコの葉を屋内で乾燥させている光景は他のページにも出てくるが、人の存在を凌駕する力が天井から放射されているようで、何度見てもぎょっとさせられる。

宮沢賢治の『風の又三郎』のなかに、「なんだい、この葉は」と専売公社がきびしく管理しているタバコの葉を又三郎がちぎって、地元の子供たちを恐れさすシーンがあった。遠野と宮沢賢治の生まれた花巻とは遠くない。同じ釜石線で結ばれ、昔からタバコの栽培が盛んだった。鉄道の北側には神楽で知られる早池峰山がそびえ、近隣の人々の精神的な支柱となってきた。写真集には神楽の写真も収められいる。

炭窯の中に膝を折って座っている炭焼き職人、雑然とした納屋に独りぽつねんといるおばあさん、台所の床で足をのばして笑っている女の人、両手を腹の上に重ねて床の間に腰かけ目をつむる婦人、杖をしかと握って切り株に座るおばあさん……。だれもが黄泉の国の人影を背にして立っていて、物語のなかから現れ出て、いまにも何かを語りだしそうだ。

ある土地の魅力を写真で綴った写真集は数多くある。だが、この『トオヌップ』には、遠野の人と暮らしを伝える以上のものがあり、それはいったい何によってもたらされているのだろうと思った。

著者の小栗昌子の仕事を知ったのは、写真集『ひまわり』を見たのが最初だった。彼女は遠野の茅葺き屋根の家で暮らす病を背負った姉弟と知り合いになり、ふたりのつつましくも美しい暮らしぶりに惹かれて写真を撮りだす。それを一篇の物語のように編んだのが、2005年に出た1冊目の写真集だった。

そのとき、写真表現としては目新しいものはないにもかかわらず、描きだされたものの豊かさと確かさに瞠目した。一点一点に、物を見ることを通して獲得した作者の考えが滲み出ていて、オーソドックスな手法に秘められた写真の潜在力を、改めて知らされた思いがした。2冊目に当たる本書もそうで、モノクロ写真のセレクトと順番に、直感と思考がうまくかみ合った構成力が感じられる。

小栗は東北出身ではなく、1972年、名古屋の生まれである。遠野に旅して深く魅せられ、10年前からここに移り住んで写真を撮りだした。「その時に出会った、夏の雲や風、お祭り、力強く生きる人達。……私は心の中にある芯が揺さぶられ、ひとつの蓋が外されたような気がしたのです。そして同時に”この場所を撮りたい”と強く思いました」とあとがきに書いている。

自然の中の暮らしや、狭い共同体での人間関係は、なにもかもが思い通りには運ばないだろう。むしろ、矛盾点や解決不可能な問題に直面することのほうが多いかもしれない。だが小栗はそのような現実には触れず、彼女が「美しい」と思うものだけにカメラを向ける。その美しさとは、視覚的な美ではなく、与えられた生をありのままに受け入れる人の営みの尊さ、その生命が発する輝きと美しさだ。

ひとつの場所をとらえようとして、あまりにテーマを広げすぎて、隘路に落ち込むことがよくある。また肯定的な事柄には必ず否定的な側面もあって、それらを斟酌するうちに考えが拡散してしまうことも少なくなくない。このように一つの場所をストレートに力強く賛歌することは、簡単なようでいてそうではない。

素晴らしいものを、素晴らしと、たしなみをもって語る勇気が、この写真集の品格を作っている。ここにあるのは、だれもが還ることのできる永遠の「美しさ」であり、それはストイックな創作行為によってのみ、浮き彫りになるのだ。



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2009年04月21日

『堕ちてゆく男』ドン・デリーロ(新潮社)

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「「揺らぎ」と「非揺らぎ」のはざまで」

9.11の同時多発テロが欧米の作家にとっていかに大きな出来事だったかは、事件後に書かれたいくつかの作品を読んでみるとわかる。書評空間でも、これまでイアン・マキューアン『土曜日』(2008年1月14日)クレア・メスード『ニューヨーク・チルドレン』(2008年5月14日)の2冊を取り上げた。

欧米の作家にとって、小説の舞台を事件以前にするか、以後にするかは大きな決断だろう。それによって書く内容が影響される。直接事件に触れなくても、執筆にむかう意識が左右されるように思う。

日本の作家が彼らほどには影響されないことを思うと、やはりこの国は「極東」なのだと感じる。「極東」というのは、言うまでもなく欧米サイドの距離感だが、それは私たちのリアリティーとも密接に関わっている。いくら生活が欧化され、飛行時間が短くなり、インターネットが発達しても、西洋社会が刻んできた歴史的時間はそう易々とは縮まらないのだ。

ニューヨークのブロンクス生まれのドン・デリーロが、9.11についてどのような作品を書くかは、事件以来、アメリカ社会の大きな関心事だった。彼はまず2004年に『コズモポリス』を発表、投資アナリストを主人公に市場経済の行き着く果てを描いた。アメリカではバッシング、反対にフランスでは絶賛されたそうだが、9.11に直接触れていないにもかかわらず、この作品からは、事件が彼の意識に大きく影響しているのが伝わってきた。

それから5年たって発表された本作『堕ちてゆく男』で、デリーロはさらに深く事件に突っ込んでいる。主人公は被害者とその家族だから、これ以上の接近はあり得ないだろう。実にシンプルで率直な問いが、作家を突き動かしているように思える。「こういう事件が自分の身に起きたとき、人はどのようにしてその後の人生を送っていくのだろうか」ということだ。

ワールドトレードセンターで働くビジネスマンのキースは、現場から脱出してアップタウンにある自宅に帰り着く。夫の姿に妻リアンは二重の驚きを覚える。彼女はキースが生きてはいないだろうと思っていた。それに、もし生きていてもここには帰ってこないだろうと感じていた。彼らはもう何年も別居していたのである。

どうして妻のところに帰ったのか、彼自身にもわからない。気がつくと元のアパートにもどっていた。彼の手にはブリーフケースが提げられていたが、それは彼のものではなかった。これもまた、どこでどう手にしたのか憶えてない。

持ち主はフローレンスという女性で、彼と同じように事故から生き延びた人だった。ブリーフケースを返すのに訪ねたのをきっかけに、ふたりは性的な関係を持つようになる。ロマンスではなく、他者とは分かちあえない特異な体験を持ってしまった者同士の無意識の行為として。

小説はこのようにしてはじまるが、ふたりの関係やいきなり再開された結婚生活の成り行きをたどることがテーマなのではない。これらの事柄は、いわば小説の時空に入るためのドアのようなものだ。間もなくフローレンスは舞台から退場し、キースとリアン、彼らの一人息子ジャスティン、リアンの母ニナと恋人のマーティン、キースのポーカー仲間の様子が断章のように描かれる。

人の意識は「いま」を生きながらも過去を彷徨う。現在と過去の比重は絶えず変化し、絡み合っている。それにそもそも人間は、自分の内部で起きていることをすべて把握できるわけではない。むしろ理解できずに行っていることがずっと多いのだ。

キースにはラムジーというタワーで亡くなったポーカー仲間がいた。彼は平凡な男だったが、目にするものを何でも数えずにはいられない性癖があった。道に駐車していある車の台数、1ブロック先のビルの窓の数、そこまでの歩数……。

「人間はーー我々誰もがーー他人に見せている生活以外の時間に、何らかの形でそういうことをしているのだ」とデリーロは書く。ラムジーは自分の癖を自覚しているが、そうでない場合もある。私たちはみな、平穏な日常では浮上することのない何人もの「私」を身の内に抱えているのだ。

ところが言葉では追いつかないような出来事が起きると、無意識の蓋が外され、隠れていた「私」が現れ出る。デリーロは無意識が司っているアナザーワールドを人物たちを通して顕現させる。そうすることで、人間が理解可能な領域と、得体の知れない領域とを揺らぐ存在であるのを示している。

その一方で、少しも揺らがない人々も登場する。作品は3部に分かれ、それぞれタイトルに、「ビル・ロートン」「アーンスト・ヘキンジャー」「デイヴィッド・ジャニャック」と人名がつけられている。彼らは「揺らがない人々」の象徴だ。そして各部の最後には、事件を起こす側の人々、すなわちテロリストのたちの素顔が描写されているのである。

現実と虚構、現在と過去とを行き来する癖が構造的に組み込まれてしまっているのが、生体としての人間だ。人の意識は揺らいで当然なのである。これまで宗教やドグマがその揺らぎを固定する装置として機能してきた。だが、西洋社会においてはそれが壊れてしまった。

他方でそれが未だに強い拘束力を持っているのが、アラブ世界である。デリーロはこの作品で、こうした世界の枠組みそのものを、浮かび上がらせようとしているように見える。読者である私たちは明らかに「揺らぐ側」にいる。だが、同じ地球上には、「揺らがない」生き方を遂行する人々がいるのだ。

何事も自分の身に置き換えて想像せずにいられないのが作家という生き物であり、多くの物書きが、9.11を自分の出来事としてとらえようと試みたはずだ。だが、デリーロは想像するだけではなく、それを書いた。

この小説には、ヒト科の生き物である私たちが直面する現実の手触りが横溢している。このテクスチャーこそが、作家ドン・デリーロの現代に対するステイトメントであると思う。




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