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2009年01月30日

『中国好運』エリック(赤々舎)

中国好運 →bookwebで購入

「至近距離でとらえた人間賛歌」

二十年以上前に中国を旅したときはかなりめげた。人々が強気で、強引で、毅然とした態度で、すべてにおいて負けそうな雰囲気だったのだ。きっといま旅しても印象は変わらないだろうと、中国各地の路上でスナップした人物写真集『中国好運』を見ながら想像した。

表紙には腰に手を当てた高慢そうな顔の少年が写っている。うしろには飛行機があるが、たぶん戦闘機だろう。抜けるような青空がその背後に広がり、不安など少しもなさそうな強気の気分が漂っている。

昨年の北京オリンピックの際に撮られたものもある。「中国加油!」と書いた真っ赤な鉢巻きをした子供たち。「加油」はガンバレの意味だが、文字面から想像するのは体にガソリンを注入している光景で、ここでも「ああ、負けそう」と思う。かなりの近さでシャッターが切られており、しかもフラッシュを使っているので原色が際立ち、顔のテカリさえも写っている。どの人もとてもエネルギッシュで動物的だ。

一瞬を切り撮るスナップショットは、安価な小型カメラが出回るようになった戦後に広まり、一時期は「スナップする」という言葉がはやった。欧米ではしだいにおこなわれなくなったが、日本ではいまも根強い人気があり、路上のスナップにこだわる人は若い写真家にも多い。

香港に生まれ育ち、東京で活動しているエリックも、そうしたスナップショットの写真家である。スナップということばが(日本語の場合)どこどなくエレガントな雰囲気を感じさせるのは木村伊兵衛の影響かもしれないが、彼の写真は荒々しく赤裸々で、暴力的なにおいをまとっており、スナップ=撃つという本来の意味を感じさせる。

70年代には、彼のようにストリートでいきなり相手にカメラを向けて撮る「撃つ」タイプの写真家が多くいた。だが個人情報保護や肖像権などが言われるようになると、写真家も萎縮してそんな蛮勇は発揮できなくなった。だからこの写真集を見たとき、無名の人々をこんなにも間近にとらえていること、その大胆さとエネルギーにまず感服した。

人間の中に入っていって人間を切りとるというのは、人間の無意識を写しとることであり、社会の倫理を超えた領域に踏み入ることを意味する。その覚悟は固めるには、いいところも悪いところも含めて人間存在を慈しむ心がなくてはむずかしい。つまり、よほど人間が好きでないとこういうことはできないのである。


はじめは、自分と顔は似ているけれど、ちがう人種が写っている、と思いながら写真集を繰っていた。だが、果たしてどこまで人種の線引きができるものだろう。もしこの写真家が群衆のなかに私を見つけてシャッターを切ったなら、ここに写っている人々と同類のように写るのではないか。

そんな想像をしつつ見るうちに、「中国人」であることより、「人間」であることのほうに感情がシフトされてきた。実にへんてこな生き物に見えてくる。サルのほうがもっと統一感があると思えるほど、表情がてんでばらばらなのだ。にらむ人、口をあいている人、呆然とする人、懸命な人。悲しむ人、喜ぶ人、得意顔の人。退屈している人、熱中している人。考え込む人、なにも考えてない人。自信たっぷりの人、不安気な人。千差万別な行為に没頭する人の中に、ありとあらゆる表情が見える。一瞬の閃光がとりつくろう間のない、無意識の状態を照らし出しているのだ。

奇妙さを拡大しているもうひとつの一因は、着ているものがまちまちなことだろう。意味不明の文字や絵の描かれたTシャツを着た人がなんと多いことか! これは中国に限らず全世界的な傾向だが、だれもが文字入りのシャツを、文字の意味に無頓着に身につけている時代。写真だとついその文字のひとつひとつを読んでしまうので珍妙さが際立つ。

どこまでが「彼ら」であり、どこからが「自分自身」なのか。この写真集が問いかけてくるものには答えがない。白人や黒人だったならちがうかもしれないが、だれもが黄色い肌と黒い髪を持っているから、私の自意識は「彼ら」と「自分」とのあいだをたゆたい、どちらの岸にも寄り着かないのである。

中国旅行のときの実感はたしかに体に残っているが、その実感だけで見ようとすると、あふれるものがあまりに多いのに気づく。人は記憶を介してものを見る。だが、すぐれた写真は記憶そのものにゆさぶりをかける。『中国好運』はそのことを教える。

巻末にエリックの書いた短い文章が載っているが、この内容もとても興味深かった。香港の人はたいがい大陸の中国人に優越感を持っているという。 


「私は香港に生まれた。1997年に返還されるまで、香港は一世紀半の長きに渡り、イギリスの統治下にあった。その環境に生まれ育った私には『自分は中国人よりあらゆる点で優れているのだ』という自意識が形成されていた。ほんの数年前まで、私は中国人の姿をしたイギリス人で、欧米人が陥りがちな偏見にどっぷりとつかり、染まっていた。それは私固有のことではなく、香港人の大多数が、今日でも、大なり小なりそうなのだ。
 そんな私が日本に来て、写真家としてのキャリアをスタートし、スナップ写真の経験を積むために、エジプト、ハワイ、北米、南米と世界を廻り始めても、中国での撮影だけは自意識に災いされて、かたくなに拒んできた。私はいわば「食わず嫌い」の状態にあった」


2005年、彼ははじめて中国に行く。「自分の「食わず嫌い」が正当であるのを一度実証しておこうというという底意地の悪さがあったかもしれない」と告白しているが、そこで彼は自らの反応に驚く。彼らに肯定的な感覚をもち、感情移入をしているのに気づくのだ。

エリックは日本語が話せ、日本人とのコミュニケーションに不便はないが、ファインダー越しに日本人を見るとき、彼らがその場のものごとをどのように感じとって反応しているかを直観することはできないという。理解不可能というのではないにせよ、感情を介さない外からの認識で撮影することになる。だが中国人を前にしたとき、言葉がわからないにもかかわらず(彼の母語は広東語だ)、皮膚感覚で彼らの感情の動きをとらえ、シャッターを押している。

「感情移入をして眺める彼等に、私は共感ばかり覚えるものではない。強く反発することも決して少なくないし辟易することさえもある。「食わず嫌い」は癒えても、香港に生まれ育った私に「ルーツ」たる彼等は、あまりに濃厚で、あまりに赤裸々で、撮影旅行の初期、私は「胃もたれ」をおこしたーーーおかしくねじれて珍妙な、しかし愛さずにはいられない、この「ルーツ」の実体験」

「胃もたれ」を起こしても撮影を止めなかったところに、彼にとてこの写真集を出す必然があるだろう。いい面も悪い面も含めて人間を容認しする気持ちが賛歌となってあふれ出ている。


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