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2008年12月30日

『見えない音、聴こえない絵』大竹伸朗(新潮社)

見えない音、聴こえない絵 →bookwebで購入

「「衝動」の因って来たるところ」

東京都現代美術館の全館を、子供時代から現在までの作品で埋め尽くした大竹伸朗の「全景」展が開かれたのは、2006年秋。もう2年もたったのかと思う。「なに」と一言でいえない事件に遭遇したような生々しさが未だ残っていて、つい先日のような気がしてならない。

この本は、2004年2月号から2008年10月号まで、文芸誌『新潮』に連載された彼のエッセイをまとめたものだ。連載半ばに「全景」展があったわけで読むほうとしては、そのことを気にしつつ読んでいく。画家にとってどんな出来事だったのかとか、ひと山超えての感想などが書かれているのではないかとか、ついそんな期待してしまうだが、結論を先に言ってしまうと、そんな起承転結的なものは一切出てこないのである。

彼は18歳のころ、北海道別海の牧場で働いていたことがある。「全景」展にあわせてその牧場でも作品展をすることになり、牧場主と隣人が2年かけてサイロを改造して展示小屋を手づくりしてくれた。

作品設置に訪れた彼は、そこでふと思う。
「十八の時、ココで目指した「芸術の場所」とは詰まるところ一体どこだったのだろう、それはどこにあったのだろう」と。

18のときには、倒したい「仮想敵」もいれば、目指したい「場所」もあっただろう。それから30余年たって、都現美の全フロアーを自作で埋めるというそれまでだれにも与えられなかったチャンスを自分のものにし、その意味では「敵」に勝って目指していた「場所」にたどりついたと言える。けれどもそこで浮上したのは、「芸術の場所とは詰まるところ一体どこだったのだろう」という問いだったのだ。

大竹伸朗が、なにをおいても優先させるのは、絵を描きたいという衝動である。それはまちがいない。子供のことに感じ取ったその感覚に固執することに、いわば命をかけている。成長や成熟を拒んでいるのだ。


「作品にコンセプトを求め始めると、どうしても無意識の守りの態度に引きずられる。「今」スパークするその瞬間、自分にとって鍵はいつもソコだ。頭で考える一貫性やスタイルには今でもまったく興味が湧かない」


コンセプトは「容器」のようなものだ。それがあればなにかが溜まっていく感覚が得られる。溜まったものをのぞき見て確認することもできる。貯金が楽しいのと同じ原理がそこにある。でも彼のようにコンセプトを持たずに制作をつづけた場合、どこにそれは溜まっていくのだろうか。容器の役割を果たすものは、何なのだろうか。

おのれの肉体だと思う。生まれ持った肉体のどこかに、それが溜まっていく。でもそれは自分では見ることはできない。テーマやコンセプトのような標識が立ってないから、道をたどるのも無理だ。つぎの作品を創ったときに、溜まったものがひょいと顔を出すかも知れないし出さないかもしれない。

そもそも彼にとって溜まったものを「顕在化」させることが創作の目的ではないのだ。それはあくまでも結果であって、彼が目指すのは衝動にむきあうこと、それが感じられる時間をいかにたくさん持つか、なのである。

ではその衝動はどこからやってくるのか。
その衝動はどう動力化されるのか。
 
本書で彼がつぶやきのように発している言葉は、すべてその問いにつながってくる。自分の内側と外側との関わりをためつ、すがめつしながら、たとえば「理不尽」という言葉でその関係性を解き明かそうとする。

日常の中で感じる理不尽な力に流されないためには、「理不尽な何か」を持って作品を創りつづけるしかないという言葉のあとに、こう述べる。


「人の感情とも意図ともまた誰かの意志とも異なる何か、いつの時代にも誰かの頭上にもあり続ける名付けえぬ曖昧な透明雲、自分が感知し続けるその雲に押しつぶされないよう、そいつに吹き飛ばされないようバランスを保つ唯一の方法、それが自分にとってモノを創り続けることなのではないか?」


美術の先生は、よくモノを見て描きなさい、と言ったものである。よく見ないといい絵は描けなくて、現にうまく描けてないのもよく見てないせいだと私も信じていた。だが大竹は、こういう絵画の鉄則のようなものも白紙にもどして考える。別海高校美術部のワークショップで彼は、「目隠しコラージュ」なるものをおこなった。印刷物から気に入ったものを切り抜くまでは目を開けたままするが、そのあとは目隠しをしてそれらの素材を貼り付けていくのである。

「見ないと絵はできないのか?」という疑問がずっとあったという。70年代に見たチンパンジーの絵がきっかけだった。その絵に「明確な強さ」を感じて以来、人が「見ること」はそんなに信用できるのか、何をもって絵とするのか、というような問いが湧いてきた。

このくだりを読みながら、チンパンジーの描いた絵を見たときの私自身の衝撃を思い出した。雑誌に掲載されていたのを見たとき、とっさに「これは人間の手が描いたものではない」と思った。作者がチンパンジーだとは、その時点では知らなかった。ただ線の動きや勢いや強弱に、人間ではない者のしぐさを直感し、そう感じた自分の反応にびっくりした。

チンパンジーは腕のつき方も、筋肉の発達具合も、力の量も、生活習慣も人間とは異なる。その別の肉体をもった彼がクレヨンを握れば、人間のそれとはちがうものが生まれるのは当然だ。その秘められた「未知のなにか」に私の肉体は応答した。その絵を見ればだれもがそう感じると思う。

目隠しをしてコラージュするとき、高校生たちは視覚とはちがう感覚を研ぎ澄ませてフル回転させたはずである。実際、彼らの様子を観察していると、ただ闇雲に張り込むのではなく、「見ないで貼る」姿に共通する「秩序」のようなものが感じられたと大竹は言う。それはきっと「これまでとはちがう方法で外界を知覚しようとしている肉体」に共通する何かだったのではないだろうか。


本気でやり続けていてどこまで「わからない」でいられるか、と彼は自らに問いかける。この「わからなさ」とは生命の「わからなさ」と同じなのではないか。

生命科学がどんなに発達しても、自分の生命がいつどのような形で終わるのか、だれも知ることは出来ない。体内で起きていること(いまこの瞬間にからだのどこかで癌細胞が増殖しはじめているかどうか)なんて、どう逆立ちしてもわからないし、自分の五感がいま外界のなにをどう認知し、記憶しているのか、そのなかのなにが意識化され、なにが無意識の領域に押し込まれるかなども、まったくもって謎である。

生命活動はそんな不可解なものがすべて絡み合ってできている。 大竹伸朗が絵を描きつづけることは、どこかそれに似たものがある。



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2008年12月08日

『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』水村 美苗(筑摩書房)

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「翻訳を切り口に国語の成立をたどる」

東京育ちで、両親も、その親も東京の人で田舎というものを持ったことのない私には、方言で育った人が標準語をしゃべるときの違和感は実感としてわからない。でも英語を話しているときは、それに似たものを思いっきり味わう。

英語は何事もはっきり言い切ることを求める言語で、曖昧さをゆるさない。そう思わない部分が少しあったとしても、「そう思います」と答えることで相手とのコミュニケーションがころがっていく。言い切った直後は日本語で思い惑っていた自分を裏切ったような後ろめたさを感じるが、何度かそういう場面を繰り返すうちに、英語で話している人格が調子づいてきて、しれっと言い切れるようになる。ある言語を使うことは、その言葉がもっている論理や感情や感覚に入っていくことなのだ。

ビジネスが目的なら、割り切れる言葉で言うほうが商談がスムーズになるだろう。学問の世界においても同様に、論理的な言葉で考察や知見を説明すれば、頭で理解できるものになるから広まるだろう。
だが、文学の場合はどうなのか。
それがいま話題を集めている水村美苗著『日本語が亡びるとき』の問題提起である。

ヨーロッパの言語がラテン語とギリシャ語が元になっていることは、よく知られている。グーテンベルグの印刷機が発明されたとき、それで印刷された言葉はすべてラテン語だったという。学問する人はラテン語を知らなくてははじまらないというのが、長いこと彼の地での実情だったのだ。

それが十七世紀後半からラテン語ではなく、それぞれの国の言葉で書くようになる。つまりラテン語で物を考え書いてきた人たちが、その論考を自分の国のひとに広く伝えようとして、フランス語やドイツ語などに翻訳して書くようになったのだ。これが「国語」の誕生である。


「(国語とは)、もとは<現地語>でしかなかったある一つの言葉が、翻訳という行為を通じ、<普遍語>と同じように、美的にだけでなく、知的にも、倫理的にも、最高のものを目指す重荷を負わされるようになる。その言葉が、<国民国家>の誕生という歴史と絡み合い、<国民国家>の国民の言葉となる、それが<国語>なのである」


書き言葉の誕生を、このように翻訳の概念を通じて分析しているところが本書の特徴であり、目からウロコがおちるような指摘がたくさんある。

では日本における「国語」の誕生はいつかと言えば、明治以降である。
大陸との距離が近かったために、日本には早くから漢字が伝来し、無文字文化から文字文化に転じることがでできた。ヨーロッパにおけるラテン語と同じ役割を、日本では漢語が果たし、漢語を理解できない人のために、日本語の音に即した文字が作られたのだ。

日本では昔から識字率はとても高かったが、これは江戸時代に市場経済が発達し、市場に参加するために人々が文字を学ぼうとしたのと、印刷文化が日本独自の発達を遂げて本が普及していたことが大きい。

だが、この時点ではまだ統一された「国語」は出来ていない。地方によって書き方はばらばらだったのだ。いまわたしたちが知っている書き言葉ができたのは、明治以降のことで、ここにも翻訳が絡んでいる。西欧の制度や技術を採り入れるために、西洋語を日本の言葉に置き換える必要が出てきたからである。

「演説」「賛成」「討論」「版権」などの言葉は福沢諭吉が考え出したそうだが、漢字という表意文字があったゆえに新しい造語が速やかにつくれたという、日本語のすぐれて合理的な側面を、著者は強調する。表意文字と表音文字がミックスされた、音と概念の両方に対応できる言葉なのだ。


「福沢諭吉、西周、箕作麟祥、中江兆民、坪内逍遥------その他数え切れない二重言語者による翻訳を通じて、日本の言葉は、世界と同時性をもって、世界と同じことを考えられる言葉へと変身していったのである。
それだけではない。
<国語>へと変身していったことによって、日本近代文学-----とりわけ、小説を書ける言葉へと転身していったのである」。


なるほど、とうなづくことしきりであった。思えば、明治に移り変わるころから、あらゆる表現ジャンルに西欧の概念が入ってきた。大ざっぱに言えば絵画における遠近法、音楽における十二音階などがそれで、概念と同時に油絵具や西洋楽器なども入ってきて人々は悩み、奮闘した。「近代」と名のつく表現にはどれも、欧化と自意識との板挟みになった人々の、もがきと苦しみが刻まれているのがわかる。

考えてみると、絵画、音楽、演劇、舞踊などのジャンルでは、西欧とわたりあえるような創作活動が盛り上がってきたのは、明治よりずっとあとである。たとえば音楽家なら武満徹、舞踊なら土方巽を思い起こすなら、彼らは戦後の芸術家である。

かたや、文学シーンでは、夏目漱石をはじめとした作家が、早くも明治期に欧米のものを学びながらも独自のものを作りだしていた。イディッシュ文学を研究しているユダヤ系フランス人から、「日本文学のような主要な文学」と言われたことの意味を、著者はのちに感慨深く思い起こす。明治期にようやく成立した国語を使って世界の「主要な文学」が誕生したことの奇跡。その意義を著者は情熱を込めて語る。


文学がほかのジャンルに先駆けて世界的に「主要」なものになったのには、さまざまな要素が絡み合っていると思うが、著者は、明治の文学者が翻訳行為を通して、自らの国語に対して高い自意識をもって取り組んだこと、またそれをサポートする大学組織があったことなどが大きいと分析する。


「優れた文学の第一条件は言葉そのものに向かうことになる。「西洋の衝撃」を受けた日本の<現実>ーそして「西洋の衝撃」を通ったからこそ見えてきた日本の<現実>。日本近代文学の黎明期には、そのような日本の<現実>を描くため、詩人は当然のこと、小説家でさえ、しかもさほど才に恵まれなかった小説家でさえ、一人一人が言葉そのものに向かい合うのを強いられたのであった。そして小説家個人の資質をはるかに超えるおもしろい文学を生み出してきたのであった」


もともとヨーロッパでは、「文学」(literature)という言葉は書かれたもの一般を指し、「学問」と「文学」は分かれていなかった。「文学」が詩や、劇や、小説に限られて使われるようになったのは、十八世紀後半からだという。冒頭に私があげた例にもどってみるならば、そのとき以来、「割り切れない」気持ちを生み出す言葉そのものに、こだわり突っ込んでいくことが、「文学」の仕事になったのである。

ここまでが五章である。私たちがあたり前のように使っている言葉が、どのように成り立ってきたか、その状況論が外側から語られるので、とてもおもしろい。だが、最後の二章「インターネット時代の英語と<国語>」と「英語教育と日本語教育」はややわかりにくく、異論も多いだろうと思われる。それまでとちがって、現状を語っているからだ。

まずインターネットの普及により、世界が英語化してしまう懸念が述べられる。


「優れた文学が近代日本で生まれるのを可能にした歴史的条件ーそれが、今、目に見えて崩れつつある。学問にたずさわる二重言語者が、<普遍語>で書き、<読まれるべき言葉>の連鎖に入る可能性がでてきてしまったからである。しかも、もう、かれらが、新しい日本語で日本の<現実>を理解するため、そして日本の<現実>に形を与えるために、大学を飛び出す必要を感じたりする気運は日本にはない。黒船から百五十年たった日本は、近代化=西洋化することによって、西洋との緊張感も失っていき、それと同時に、日本語でも西洋語との緊張感を失っていった。かつて新しかった日本語は、今やその起源も忘れられ、巷ではほとんど自動的に流通している」


このあと、漱石ほどの人物が、いま大学を飛び出して日本語で小説を書こうとするであろうか、いま日本語で書かれている小説を読もうと思うだろうか、という問いがつづく。

まとめると、こういうことになると思う。

かつては言語についての意識の高い大学人が文学にたずさわってきた。だがインターネット時代になって、そのような知識人は軸足を英語に移しつつある。現代日本の書き手は、西欧文化を対象化する視点が乏しく、かつ言語に対する意識も低く、ゆえに現代文学は近代文学とおなじレベルを維持できてない。それが教養ある大学人を文学離れする方向に追いやるという、悪循環に結びついている。

つまりこの文章の基調となっているのは現代文学への不満である。いまの日本で、近代文学に比するものが書かれてないことの憂いが、本書を書かせたことを示唆している。にもかかわらず、どういう作品が憂えるべき作品なのかがはっきりしない。「日本語で流通している<文学>は、すでに<現地語>文学の兆しを呈している」とあるものの、そう考える具体的根拠が出てこないので、煙に巻かれたような感じになる。

たしかに、インターネットはどんな国の人ともつながれ、平等な立場でものが言えるツールのように思いがちである。だが実際、海外に出てみれば、無視されたり、ばかにされたり、相手の論理を押し切られたり、悔しい思いをすることはしょっちゅうである。日本人の大半はそういう経験に乏しく、ゆえに自意識をかき立てられることもなく生きている指摘は、たぶんまちがいではない。異質なものにぶち当たらないかぎり、自意識など芽生えようもないからだ。

著者は親の仕事の関係で十代でアメリカに渡り、英語嫌いになって父の書棚にある近代日本文学を心のよりどころとして生きてきた。漫画やアニメなど日本のポップカルチャーの体験がぽこっと抜けているから、日本でずっと育ってきた同世代とも、その下の世代とも意識にズレがある。だが、ズレているゆえに透視できるものがあって、五章までの記述にはそれがあふれている。近代日本文学をこれほど愛情を込めて語れる人もいないだろうとも思わせるほど、熱を帯びている。

だが、憂国のくだりは正直のところ説得力が乏しい。いまの日本文学が、もし仮に「現地語文学になり下がっている」としても、それゆえに欧米から注目される可能性があるかもしれないからだ。

日本は総じて「芸術」よりは「芸能」で力を発揮してきた文化圏で、大衆文化の影響が強い。その歴史のほうがずっと長く、明治以降の近代表現のほうがむしろ特殊な感じを受けるほどだ。その日本のポップカルチャーの厚みが、ここ二十年のくらいのあいだに表出してきているような印象がある。

その傾向は、近代の洗礼を受けてきた人には「逆戻り」に見えるだろう。だが、西欧経由ではなくて日本に元からあったものが伸びてきているから、将来、「現地語文学」が強みを発揮してこないとも限らないのだ。ということは、著者がここで述べている「憂い」は、近代日本文学という基準値から見た「憂い」、知識人にとっておもしろいと思える作品が日本語で書かれていないことへの「憂い」ということになるだろう。

この作品は、著者がアイオワ大学の作家プログラムに参加し、アイオワに長期滞在したときの体験からはじまっている。使用者の数が少ないマイナーな言語で書いている作家たちの姿が慈しみ深く描写され、彼らのぱっとしない見かけや節約家ぶりが、言語の「市場価値」や「ヒエラルキー」と無関係ではないことが暗示されている。これから展開されるテーマが生身の人間を通して感じ取れる、この作家の真骨頂とも言えるわくわくする部分だ。

そして最後はこういう文章で終わる。


「それでも、もし、日本語が「亡びる」運命にあるとすれば、私たちにできることは、その過程を正視することしかない。
 自分が死にゆくのを正視できるのが、人間の精勤の証であるように」


著者は評論家でなくて小説家なのだから、近代文学への愛を思いっきり述べて構わないし、むしろその思いのたけこそを聞きたいと、読者としては思うが、それを「私たち」ではなくて、「私」の立場に立って、社会に物申す的な視点ではなく、あの素晴らしい第一章のような書き方で書くことが、小説家の仕事なのではないだろうか。

この作家ならば、つぎの仕事は必ずやそういうものになるだろうという予感がある。実際、「新聞小説」というタイトルの小説がどこかではじまるらしいという噂を耳にして、大いに期待を寄せている。


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