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2008年08月05日

『『アフリカの日々』『やし酒飲み』』ディネセン/チュツオーラ(河出書房新社)

『アフリカの日々』『やし酒飲み』 →bookwebで購入

「アフリカの視えない力」

暑い夏を乗り切るには、ここでないどこかに心を飛翔させるのがいちばんである。昨夏はボサノバを作ったアントニオ・カルロス・ジョピンの評伝を読み、夕暮れの海辺の情景や、テラスでの食事や、くっきりした日射しや、さわやかな風に暑さをいやされた。

さて今年はどうしようかと、日増しに温度を上げてくる仕事場で本の山を眺めているとき、この本が目に留まった。今年1月から刊行のはじまった池澤夏樹責任編集の世界文学全集8巻。アフリカをテーマに二作が収録されている。完璧だ。アフリカにはまだ行ったことがないから、すべてが想像の領域にあって心が自由だ。

『アフリカの日々』はデンマーク出身の女性作家、イサク・ディネセンが1937年に著したものだが、読み始めてすぐに歓びが体を走った。フィクションではないが、ただの滞在記ともちがう。長い年月をかけて体験を濾過し、エキスだけを抽出した蒸留酒のような味わいがある。だからビールのようにぐいぐいと飲まずに、舐めるように少しづつ読み進みたくなる。ひと舐めごとに、清涼な風が吹き、アフリカの草原が蜃気楼のように浮かび上がる。

「私」はンゴング丘陵の農園でコーヒー栽培をしている。敷地の中には土地の人が暮らしていて、彼らは借地料の代りに農園主のために働いている。家にはハウスボーイや、料理人など、何人もの使用人がいる。「私」はアフリカに着いてすぐにアフリカ人たちに強い愛情を覚えた。

「暗色の肌を持つ人種の発見は、私にとって自分の世界がめざましく拡がることにほかならなかった。(中略)アフリカ人に出遇ってこのかた、私は日常生活のきまりを彼らのオーケストラに合わせるようになった」

土地の人たちは、「私」の行動をすみずみまで知り尽くし、やがて下すことになる決定までも、「私」が意識しないうちから気づいたりするが、「私」の方はかれらの考えや決断を予想できないし、理解もできない。ときに孤独に陥り、話のできる白人がいたら、と思うことがある。だがそういうとき、「ふだんは、無言でかばってくれるアフリカ人たちの存在が、私の活動しているのとはちがう高さの平面を、私と平行して動いている」のを感じ取る。互いのあいだをゆきかうこのこだまこそが、この物語の神髄だ。

印象深い人々が幾人も登場する。たとえば農園に暮らす少年カマンテだ。彼は体がちいさい上に足に障害を負っていて、あきらめの境地に立って生きている。なにをも恐れず、なにをも哀れまない。世間のどんな事象に対しても感情を動かさずにシニカルに対する彼には、高貴さすら漂う。

カマンテは問われれば答えるものの、自分からは口を開かなかったが、足のけがを治してもらったことに恩義を感じて、「私」のもとで働くようになる。やがて、彼が料理の天才であることがわかってくる。鋭い観察眼の持ち主で、あらゆることを見逃さず、創造性に富んでいる。

このようなカマンテとの関係を、著者は心温まるヒューマンなドラマとして描かない。異文化の人間を理解し受け入れ、両者のあいだに交流が生まれるというような書き方を、潔いまでに拒むのである。本作の特徴はまさしくこの点にある。距離感を貫きとおすことで他者を神話的な高みに引き上げ、ひとつの世界観を結晶させるのである。

「ちがう高さの平面を、私と平行して動いている」のは、土地の人だけとは限らない。草原をゆく動物たちも、優雅さと威厳をもって、同じ地平を平行移動している。「私の目の前で創りだされ、過ぎさるというよりは、その場でかき消えるよう」なバッファロー、「世界の果てに約束があるといった様子で、ゆっくりと、決然たる歩調で進んで」いく象の群れ、「花梗の長い、花弁に珍しい斑点のある花々が、ゆっくりと動いてゆくよう」なキリンたち……。

運命を受け入れなければならないという意味において、西洋社会から来た「私」も、土地の人々も、野生の動物たちも同等だ。一方の都合でエピソードが語られることがない。互いの存在を視野にいれながら、それぞれの事情を生きていくさまが描かれ、深く胸に響く。

農場経営がうまく行かず、「私」はすべてを手放して国に帰る決断をする。借地していた土地の人は、植民政府から新たな場所を与えられ、引っ越していく。ある日「私」は解体した小屋の材料を頭に載せて移っていく途中の老女に行き遇う。名前も知らない人だったが、彼女はじっと立ち止まり、平原で行き合ったキリンの群れの一頭がそうするように、まじまじと「私」を見つめる。やがて老女は泣き出す。ふたりは一言もかわさない。ただ老女の頬を涙がつたい落ちる。著者は書く。

「平原にいる雄牛が、眼のまえで突然放尿するのに似ていた」。

人の涙と牛の放尿を重ね合わせるこの描写に、作家の強靭な精神を見る思いがした。悲しみなどという言葉ではちいさすぎる。突然の遭遇がもたらした感情すらも超えた肉体の解放と、たましいの澄んだ姿だけが記述に値するのだ。

ディネセンが農場を売って故国に帰ったのは四十六歳のときで、本書はそれから六年後に書かれた。このダイナミックなイマジネーションこそが、彼女の中に結晶として残ったアフリカの力なのだと感じた。

『アフリカの日々』の話が主になったが、このあとにつづくアフリカ人作家のチュツオーラの手になる『やし飲み酒』にも少し触れてみたい。『アフリカの日々』よりはるかに短いが、西洋作家の作品に土地の作家の作品を組み合わせて合わせ鏡のようにしてアフリカを立体化させる、という心憎い構成である。

『やし酒飲み』はやし酒の好きな男が、死んだやし酒造りの居所をつきとめようと、旅をする話である。ぶっとんだイマジネーションが発揮される。人間が「「頭ガイ骨」だけの存在になったり、火と煙になったりと、書きたい放題なのだが、そう書いた途端にそれらが物語の中で「事実化」してストーリーをぐいぐいひっぱっていくのだ。この力はいったいどこから来るのかと思わずにいられなかった。

『アフリカの日々』の中に、土地の人の物語を聞く技術について語った箇所がある。「ある男が野原を歩いておりました。歩いていると、そこでもう一人の男に出会いました」と語りはじめれば、彼らの思いは野原にいる二人の男たちの歩く道を想像し、そこを共に歩きだす。『やし酒飲み』のストーリーテリングは、まさしくその技術とつながっている。書斎でひとりでひねりだしているのではない。見えない聞き手の存在や、自分が聞き手になったときの実感が、荒唐無稽なストーリーを支えているのだ。

この作品の最初の数ページを、私は寝る前に読んだ。ふだんは就寝前の読書はしないことにしている。頭がさえてしまって、寝入りばなにかならず妙な夢を見て金縛りに遭うからだ。このときも読み出してすぐに悪い予感がし、すぐに本を閉じて寝たが、ときすでに遅しで、ものすごく強烈な金縛りがやってきた。

自分が狂っていく夢なのである。ふつう狂っている人は自分が狂っていることに気づかない。ところが、夢の中の自分はどんどん狂気に落ちていくのをわかっていて、どうにかしようとあがくが、それができずに焦りまくっている。さっき読んだ物語のせいだと頭の隅で感じているものの、狂気の力がすごすぎて太刀打ちできない。必死で叫んで自分の声で目を覚まさせるといういつもの方法もうまく働かず、恐怖の極地だった。

狂っていることが狂っている本人にわからないのは、現実世界のやさしさなのである。夢は無情で思いやりがない。意味の綱はいとも簡単に断ち切られて、底なし沼にまっさかさまに落ちていく。その恐怖たるや、現実体験のそれをはるかに超えている。ようやく金縛りが解けて目が開いたとき、『やし酒飲み』のような物語を書く作家の精神は、どのようにして均衡が保たれているのだろうかと切実に思った。私たちが持っていない大きな支柱なくしては、こういう作品を書きながら、かつ現実世界に踏みとどるのは不可能である。




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