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2008年08月30日

『じいちゃんさま』梅佳代(リトルモア)

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「梅佳代「出生の秘密」に迫る」

『うめめ』『男子』と立てつづけに写真集を出してきた梅佳代の第3弾である。彼女のことは新聞雑誌でよく取り上げられ、テレビにも出るので、いまや82歳の私の母までもが「ああ、あの人ね」と言うくらい、よく知られた存在である。

帯には『うめめ』11万部突破! 『男子』4万部突破!とある。タレント写真集以外でこれほど売れた写真集は近年では珍しいのではないだろうか。彼女の写真がいわゆる写真ファン以外の一般層にも浸透しているのがわかる。

だが、そうした人気の高さが写真家梅佳代への理解につながっているかというと、どうもそうは思えない。カメラを首から下げて四六時中動き回っているキャラクターが強調され、おもしろがられているきらいがある。世間の反応はそんなものだと思いつつも、歯がゆくてならない。梅佳代の存在価値はそんな珍獣を眺めるような視線ではとらえきれないからだ。

石川県能登町の実家に暮らす祖父と家族を撮ったもので、一作ごとに姿をあらわしつつある彼女の本質が全開になっている。世間はたぶん、あのおじいさんを撮ったやつね、という感じで流すだろうが、まさに梅佳代の「出生の秘密」を語ったものとして意義深いのだ。

『うめめ』や『男子』が出たとき、私はこの写真家のあまりにも真っ正直なありように驚き、たじろいだものである。写真の神様が「ストライク!」と叫びそうなほど、表現意識を捨てて直球勝負で挑んでいる。だれもが表現者たらんと躍起になっている今の世で、原石のまんまでどっかりと座っているような安定感があるのだ。どうしてこんなに自意識から自由でいられるのだろうと不思議でならなかった。

だが、『じいちゃんさま』を開いたとたんに、その疑問がすとんと腑に落ちた。ああ、そうか、そいうことか、とひとりうなづいた。彼女が育った環境とあの写真とが分かちがたく結びついていることが、一目で了解できたのだった。まず、じいちゃんさまの暮らす(そして彼女が生まれ育った)家がすごい。太い木の梁が浮き出た白いしっくい壁の、屋根には銀鼠色の瓦を載せた、何世代も経たような古い民家である。長い縁側には大きなガラス戸が何枚も連なり、大きな踏み石が下に置かれ、家の周りにはじいちゃんさまと家族が作っている田んぼと畑が広がっているという、じいちゃんさまご自慢の、農家の見本のような住まいなのである。

「あえのこと」という田の神様を迎える儀式を撮った写真がある。じいちゃんさまはむかしながらの装束をつけて威厳をもって立っている。トラクターで田んぼを耕したり、ばあちゃんと梅干しを干しているショットもある。大晦日に神棚の掃除をしている写真もいい。そんな農家の日常をうかがわせるスナップショットとともに、じいちゃんさまのどっしりと落ち着きのある、しかもユーモアと好奇心にあふれた、それゆえに家族に深く慕われ愛されているとわかる写真が入っている。

なにも特別なことがない。だが、「特別なことがない」暮らしをするほど難しいことはないのがいまの時代である。前世代の暮らしぶりは往々にして否定される。家族のひとりひとりが自分の人生を主張し、人間関係を負担に感じ、共同体を避ける。社会構造的にも共同体を維持する必然性はほとんど見いだせないのだ。

この家族にも小さな諍いやもめごとはあるだろう。だが、危機的な状況になる前に解消され、穏やかな日常がもどることだろう。小さな幸せと小さな不幸とのあいだを行きつ戻りつする暮らしである。じいちゃんさまがその単調さを支えている。家長としての権威ではなく、その人間的な魅力が家族をつなぎとめているのだ。

前作の『男子』は、写真学校で学ぶために大阪に出てきた梅佳代が、近所の公園で知り合った男子グループを撮ったものだった。彼女のために奇矯で滑稽なしぐさをしてみせる少年たちの写真には、小さな共同体における人と人の信頼と慈しみの関係が写っていた。今回『じいちゃんさま』を見て、彼女の太くて確かな人間力がこの屋根の下で育まれたのを知った。からだの奥深くに刻まれた記憶なのだった。

これらの写真は、ドラマチックなことがない代りに存在をゆるがす不安もない、シンプルでまっとうな暮らしが産みおとした果実である。それゆえに見る者の心に、たしかなものに触れた歓びが滴り落ちる。心に傷を負ったり、人に不信を抱いたり、実存をおびやかされたり、精神不安に陥ったりする者が増えている世の中に、こんなにも堂々と写真のど真ん中を行く写真家が出てきたのは奇跡のようだ。原始人のパワーが炸裂している。



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2008年08月12日

『ドット・コム・ラヴァーズ』吉原真里(中央公論新社)

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「客観的記述から浮き彫りになるアメリカの男と女」

なんとも不思議な本の登場である。「ネットで出会うアメリカの女と男」というサブタイトルは、ある程度内容を伝えてはいるものの、本書を読んで感じとったものはもっと多様で豊かだ。著者はアメリカ文化研究を専門とするハワイ大学の教授である。そのようなアカデミックな立場にいる者が、こういう書き方をすることはかつてなかったのではないか。サブタイトルのもつ客観的な響きからあふれ出るものに、本書の魅力と特徴がある。

著者は勤務先のハワイ大学から一年間のサバティカル(学校業務から解放されて個人的な研究に従事する期間)をとってニューヨークに滞在中、インターネットでデート相手を探すサイトに登録し、さまざまなアメリカ男とデートする。ハワイにもどってもそれをつづけて、その体験を本書に著した。肝心なのは、本を書くためにオンライン・デーティングをしたのではない、ということだ。滞在の目的は「アジア人とクラシック音楽」という研究書のリサーチだった。それを行いながらオンライン・デーティングを重ねた結果、この本が出来あがった。

サイトに登録した理由についても正直に書いている。著者の元ボーイフレンドはその後つきあった女性にふられ、傷心をいやすために生まれてはじめて精神分析に通うようになった。アメリカのミドルクラス、とくに知識階級のあいだでは精神分析にかかるのはごく当たり前のことだが、これまでその人は意固地なほどに行くことを拒んでいた。その元カレが、精神分析に通わなければならないほど女性と深く関わったこと、またその出会いの場がオンライン・デーティングだったことに、著者は二重のショックを受ける。

「実は彼は、誰に対しても愛情を注ぐことができないのではなくて、たんに私のことを愛していなかったということか。納得いかないことこの上ない。しかしそこで、自分の魅力不足を嘆き反省するのではなく、彼がそんなに愛する相手を見つけたオンライン・デーティングというものを試してみなくちゃ、という方向に頭がいくのが私の性格である。(中略)これから一年間を過ごすニューヨークには、あまり知り合いもいないし、サバティカルというかなり優雅な時間が与えられたからには、普段仕事をしているときにはあまり知り合えないような人と友達になってみたい。ニューヨークのような大都会には面白い男性がいろいろといるに違いない」

この書きぷりのよさにたちまちこの著者を信用した。エリート研究者が、ここまで自分のことを突き放して書くのに感動する。自分のためにやった、と書いてはばからない。研究ネタを探して行動するさもしさもなければ、本心は出会いを求めているのに、研究という隠れ蓑をまとって防衛することもない。

ニューヨーク滞在中に10余人の男性とサイトを通じて知りあい、つきあう。広告代理店経営者、料理批評家、劇作家、メディア調査専門家、東洋医学士、テレビプロデューサーなど、さまざまな職業に就く男性との出会いとデートの顛末は、さながら小説を読むようなおもしろさがある。

もちろん、アメリカ社会に引きつけた分析がところどころに挟まれ、単純な告白記には終わってない。外国人の異性と付き合えば、必ず異文化交流の側面が出てくる。互いの育ってきた文化を知ることから関係がはじまり、相手とのちがいを、個人よりも文化のちがいとして認識する場面も少なくない。そもそも「ただの男女関係」などというのは存在しないもので、相手の「他者性」こそが男女関係の本質なのだが、異国人同士の関係においてはそれがより浮き彫りになるのだ。

オンライン・デーティングという媒体について論じるのではなく、インターネットで出会った男性との関係を介して、「私の主観以外のなにものでもない、現代アメリカの断片像を描くこと」が主眼だと著者は言う。たしかに「主観的」な記述だが、この「主観」の背後には自己との距離を厳格に保ち、最後までその緊張関係をくずさないストイシズムがひかえている。その手綱さばきの見事さがこの本を成立させ、客観的に分析されたオンラン・デーティングの実態調査などよりもずっと、このシステムについて多くのことを考えさせ、想像させるのだ。

登録者はカジュアルなデートの相手が欲しくてサイトを見るわけではないらしい。セックス目的のサイトはほかにあるからだろうと著者は言うが、いい人に出会えたら生活をともにしたいと願う真剣さが、どの人にもうかがえのが印象的だ。読みながら日本のお見合い制度を思いおこした。いまの日本でお見合い結婚がどのくらいあるのかかわからないが、オンライン・デーティングは、その徹底した合理主義において、お見合い制度と共通するものがある。

私の祖母は仲人が趣味で、手札のようにいろいろな人のお見合い写真を持っていて、ときおり友人と見せあっては、「この方とこの方はいかがかしら」などとやっていたものだ。その身も蓋もない実利主義が若いことはいやでたまらなかったが、いま振り返ると、そう悪いものではなかったように思う。

一九六〇年代までは日常的に繰り広げられていたお見合いも、祖母の世代が終わるとともに消え、それと入れ替わるように、非婚率が上がってきた。だが、それがシングルライフを意識的に選択する人が増えたことの結果だとは、どうしても思えない。生活のパートナーなどいらないと断言できる人は意外に少ないものだ。気の合う人がいれば一緒になりたいと、だれもが思っている。だが、仕事時間が長すぎたり、知り合える場が限られていたりして、自由な出会いは現実的にはあまりないのである。

アメリカではオンライン・デーティングがかなり普及しているらしい。著者はニューヨークに着いて間もないころ、「実はオンライン・デーティングに登録した」と恥じらいをまじえて友だちに話したところ、「そんなこと、告白調で言うことではない。今どきみんなやっている」とあっさり言われたいう。また滞在中に知り合った独身男女の半数近くは、オンライン・デーティングの経験者で、そのだれもが知的な職業に就く、魅力的な人たちだった。自分で探せないからオンラインに頼るというのではなく、選択肢のひとつになっているのだ。

ということは、簡単に人と出会えそうに見えるアメリカ社会においても、そうではないことを示している。波長のあう相手を探すというのは、どの文化圏においても大変な難問なのだ。出会いをサポートするシステムがあり、それを使って出会おうと努力する人がいて、またその意志を認める社会の眼があってはじめて、出会いの機会は豊富になる。

日本においてもオンライン・デーティングがひとつの文化となる日がすぐそこまで来ているのかもしれない、そんな予感を抱いた。




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2008年08月05日

『『アフリカの日々』『やし酒飲み』』ディネセン/チュツオーラ(河出書房新社)

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「アフリカの視えない力」

暑い夏を乗り切るには、ここでないどこかに心を飛翔させるのがいちばんである。昨夏はボサノバを作ったアントニオ・カルロス・ジョピンの評伝を読み、夕暮れの海辺の情景や、テラスでの食事や、くっきりした日射しや、さわやかな風に暑さをいやされた。

さて今年はどうしようかと、日増しに温度を上げてくる仕事場で本の山を眺めているとき、この本が目に留まった。今年1月から刊行のはじまった池澤夏樹責任編集の世界文学全集8巻。アフリカをテーマに二作が収録されている。完璧だ。アフリカにはまだ行ったことがないから、すべてが想像の領域にあって心が自由だ。

『アフリカの日々』はデンマーク出身の女性作家、イサク・ディネセンが1937年に著したものだが、読み始めてすぐに歓びが体を走った。フィクションではないが、ただの滞在記ともちがう。長い年月をかけて体験を濾過し、エキスだけを抽出した蒸留酒のような味わいがある。だからビールのようにぐいぐいと飲まずに、舐めるように少しづつ読み進みたくなる。ひと舐めごとに、清涼な風が吹き、アフリカの草原が蜃気楼のように浮かび上がる。

「私」はンゴング丘陵の農園でコーヒー栽培をしている。敷地の中には土地の人が暮らしていて、彼らは借地料の代りに農園主のために働いている。家にはハウスボーイや、料理人など、何人もの使用人がいる。「私」はアフリカに着いてすぐにアフリカ人たちに強い愛情を覚えた。

「暗色の肌を持つ人種の発見は、私にとって自分の世界がめざましく拡がることにほかならなかった。(中略)アフリカ人に出遇ってこのかた、私は日常生活のきまりを彼らのオーケストラに合わせるようになった」

土地の人たちは、「私」の行動をすみずみまで知り尽くし、やがて下すことになる決定までも、「私」が意識しないうちから気づいたりするが、「私」の方はかれらの考えや決断を予想できないし、理解もできない。ときに孤独に陥り、話のできる白人がいたら、と思うことがある。だがそういうとき、「ふだんは、無言でかばってくれるアフリカ人たちの存在が、私の活動しているのとはちがう高さの平面を、私と平行して動いている」のを感じ取る。互いのあいだをゆきかうこのこだまこそが、この物語の神髄だ。

印象深い人々が幾人も登場する。たとえば農園に暮らす少年カマンテだ。彼は体がちいさい上に足に障害を負っていて、あきらめの境地に立って生きている。なにをも恐れず、なにをも哀れまない。世間のどんな事象に対しても感情を動かさずにシニカルに対する彼には、高貴さすら漂う。

カマンテは問われれば答えるものの、自分からは口を開かなかったが、足のけがを治してもらったことに恩義を感じて、「私」のもとで働くようになる。やがて、彼が料理の天才であることがわかってくる。鋭い観察眼の持ち主で、あらゆることを見逃さず、創造性に富んでいる。

このようなカマンテとの関係を、著者は心温まるヒューマンなドラマとして描かない。異文化の人間を理解し受け入れ、両者のあいだに交流が生まれるというような書き方を、潔いまでに拒むのである。本作の特徴はまさしくこの点にある。距離感を貫きとおすことで他者を神話的な高みに引き上げ、ひとつの世界観を結晶させるのである。

「ちがう高さの平面を、私と平行して動いている」のは、土地の人だけとは限らない。草原をゆく動物たちも、優雅さと威厳をもって、同じ地平を平行移動している。「私の目の前で創りだされ、過ぎさるというよりは、その場でかき消えるよう」なバッファロー、「世界の果てに約束があるといった様子で、ゆっくりと、決然たる歩調で進んで」いく象の群れ、「花梗の長い、花弁に珍しい斑点のある花々が、ゆっくりと動いてゆくよう」なキリンたち……。

運命を受け入れなければならないという意味において、西洋社会から来た「私」も、土地の人々も、野生の動物たちも同等だ。一方の都合でエピソードが語られることがない。互いの存在を視野にいれながら、それぞれの事情を生きていくさまが描かれ、深く胸に響く。

農場経営がうまく行かず、「私」はすべてを手放して国に帰る決断をする。借地していた土地の人は、植民政府から新たな場所を与えられ、引っ越していく。ある日「私」は解体した小屋の材料を頭に載せて移っていく途中の老女に行き遇う。名前も知らない人だったが、彼女はじっと立ち止まり、平原で行き合ったキリンの群れの一頭がそうするように、まじまじと「私」を見つめる。やがて老女は泣き出す。ふたりは一言もかわさない。ただ老女の頬を涙がつたい落ちる。著者は書く。

「平原にいる雄牛が、眼のまえで突然放尿するのに似ていた」。

人の涙と牛の放尿を重ね合わせるこの描写に、作家の強靭な精神を見る思いがした。悲しみなどという言葉ではちいさすぎる。突然の遭遇がもたらした感情すらも超えた肉体の解放と、たましいの澄んだ姿だけが記述に値するのだ。

ディネセンが農場を売って故国に帰ったのは四十六歳のときで、本書はそれから六年後に書かれた。このダイナミックなイマジネーションこそが、彼女の中に結晶として残ったアフリカの力なのだと感じた。

『アフリカの日々』の話が主になったが、このあとにつづくアフリカ人作家のチュツオーラの手になる『やし飲み酒』にも少し触れてみたい。『アフリカの日々』よりはるかに短いが、西洋作家の作品に土地の作家の作品を組み合わせて合わせ鏡のようにしてアフリカを立体化させる、という心憎い構成である。

『やし酒飲み』はやし酒の好きな男が、死んだやし酒造りの居所をつきとめようと、旅をする話である。ぶっとんだイマジネーションが発揮される。人間が「「頭ガイ骨」だけの存在になったり、火と煙になったりと、書きたい放題なのだが、そう書いた途端にそれらが物語の中で「事実化」してストーリーをぐいぐいひっぱっていくのだ。この力はいったいどこから来るのかと思わずにいられなかった。

『アフリカの日々』の中に、土地の人の物語を聞く技術について語った箇所がある。「ある男が野原を歩いておりました。歩いていると、そこでもう一人の男に出会いました」と語りはじめれば、彼らの思いは野原にいる二人の男たちの歩く道を想像し、そこを共に歩きだす。『やし酒飲み』のストーリーテリングは、まさしくその技術とつながっている。書斎でひとりでひねりだしているのではない。見えない聞き手の存在や、自分が聞き手になったときの実感が、荒唐無稽なストーリーを支えているのだ。

この作品の最初の数ページを、私は寝る前に読んだ。ふだんは就寝前の読書はしないことにしている。頭がさえてしまって、寝入りばなにかならず妙な夢を見て金縛りに遭うからだ。このときも読み出してすぐに悪い予感がし、すぐに本を閉じて寝たが、ときすでに遅しで、ものすごく強烈な金縛りがやってきた。

自分が狂っていく夢なのである。ふつう狂っている人は自分が狂っていることに気づかない。ところが、夢の中の自分はどんどん狂気に落ちていくのをわかっていて、どうにかしようとあがくが、それができずに焦りまくっている。さっき読んだ物語のせいだと頭の隅で感じているものの、狂気の力がすごすぎて太刀打ちできない。必死で叫んで自分の声で目を覚まさせるといういつもの方法もうまく働かず、恐怖の極地だった。

狂っていることが狂っている本人にわからないのは、現実世界のやさしさなのである。夢は無情で思いやりがない。意味の綱はいとも簡単に断ち切られて、底なし沼にまっさかさまに落ちていく。その恐怖たるや、現実体験のそれをはるかに超えている。ようやく金縛りが解けて目が開いたとき、『やし酒飲み』のような物語を書く作家の精神は、どのようにして均衡が保たれているのだろうかと切実に思った。私たちが持っていない大きな支柱なくしては、こういう作品を書きながら、かつ現実世界に踏みとどるのは不可能である。




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