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2008年07月21日

『非常階段東京』佐藤信太郎(青幻舎)

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薄暮の東京が描く架空の時間

知らない街のホテルにチェックインし、カーテンを開けて窓の外を眺める瞬間が待ち遠しい。表通りに面した部屋より、裏側のほうがおもしろい。裏は裏同士でくっつきあっていて、ちょっと投げやりな、人に見られることを予想していない風景が目に飛び込んでくる。

そのおもしろさは、たそがれ時になるとより一層極まる。あたりは薄暗く、明かりのともった窓だけが浮かび上がり、暮らしの気配が濃くなる。おなじような情景は、高架電車の車窓からも体験できる。線路際に建つ家々の中に、テレビに見入る人や、卓袱台に座っている人の姿が見える。相手に気付かれない一方的な視線が、日常の流れを対岸から見ているような、あたたかな郷愁をもたらす。

ビルの非常階段から薄暮の街並みを写した『非常階段東京』を繰りながら、それに似たものを感じた。非常階段は超高層ビルにはないし、またビルの正面に設置されることもないから、せいぜい10階くらいの高さから見た街の裏側が写っている。だが、ホテルの窓や車窓から眺める薄暮の街とは、何かが決定的にちがう。

たそがれ時の街には、昼が夜にバトンを渡して去っていくざわめきがある。車は渋滞し、勤め帰りや繁華街に繰り出す人が足早に通りを行き過ぎる。ところが、これらの写真には人や車の姿がない。窓は四角い空白になり、道路はひと気の絶えた深夜のように閑散としている。

新宿歌舞伎町のもっとも人でにぎわっているはずのエリアでさえ、無人だ。はるか彼方の空にまだ夕暮れの光が残っているのに、人の営みは見えず、建物や広告塔や看板、駐車している車や自転車、街路樹、電柱や電線、墓地の墓石などだけが際立っている。長時間露光の撮影によって、動いているものがすべて消えてしまっているのだ。

つまりこれらの風景は、非常階段に昇ったらだれもが目にできるもののように見えて、そうではない。肉眼ではとらえられない、カメラアイだけが捕獲可能な情景なのである。夜景を撮った写真にはどれも同じ原理が働いているはずだが、これまでそのことを意識したことはなかった。車のテールランプが筋になった、ひと気のない夜景写真を数えきれないほど見てきたのに、無人という事実は頭にのぼらなかったのである。

それに気付かせたのは、撮影者の街との距離感だろう。窓の中までもが見えそうな高さから撮られているのに、部屋の詳細がはっきりしない。そのことが写真に漂うシュールな雰囲気を強めている。繁華街の煌々とした明かりはそのままに、人の姿だけが消えてしまっている奇妙さが、架空の都市を目の前にしているような印象を与えるのだ。

そして人間が消えた分、建物が饒舌になっている。とくに整然とした街よりも、細い道がくねくねと行き交い、三角屋根の家がばらばらな方角を向いて建っている雑然とした町並に、それを感じる。明るい色彩のビルの建ち並ぶ大通りの裏側に、しもた屋のくすんだ屋根がひしめくさまが、夜気に紛れて、密やかな会話を交わし合っているようだ。人の意図を超えた、東京の雑居性と物語性を感じさせる情景である。

40点ほどの写真が収められているが、大半が墨田区、江東区、荒川区、江戸川区など東側の東京で撮影されており、西東京の写真は、新宿の歌舞伎町が何点か入っている以外は、わずかである。これは撮影者がそちらのエリアに親しみを持っているからだろうか。

民家とビルが入り交じっている度合いや、建物テクスチャーの豊富さは、東側のほうが際立っているように思う一方、都心や西東京にもそういう場所がいくらでもありそうな予感もある。あそこならどうだろう、ここならどうだろうと、頭の中で東京地図を思い浮かべつつシュミレーションした。このプロジェクトがこの先もつづくのだとしたら、今度は西東京や南東京を見てみたいとも思った。

最後に、どこかに人が写ってないだろうかと、一枚一枚をなめるように見ていった。すると見つかった。歌舞伎町の街路にふたつの人影が立っている。立ち話して位置を動かなかったために写り込んでしまったらしい。あと墨田区八広のビルの屋上にも、柵によりかかって遠くを見ている人影がいた。どちらも写真の中に置き去りにされたような不思議な雰囲気をもっていて、忘れがたい。

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2008年07月15日

『隅田川のエジソン』坂口恭平(青山出版社)

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「都心で狩猟採集生活をする」

私がニューヨークに暮らしていたころ、街中のいたるところにホームレス・ピープルがいた。80年代初頭のことだ。彼らの多くは物乞いをして生活していたが、物を乞う卑屈さが少しもない。朝、コーヒーを買って釣り銭をもらおうとすると、さっと横から手が出る。そのタイミングのよさに、思わずコインを彼の掌に落としてしまう。いつもそうするとは限らず、機嫌の悪いときには「こっちが欲しいくらいよ!」と言い返してしまったりするが、別に恨むふうでなく、have a nice day! と言って去っていく。

それまであまり意識しなかったホームレスのありようを、帰国後、気を留めるようになった。以前は耳にしなかった「ホームレス」という言葉をよく聞くようになったのも、このころだったように思う。原稿に「浮浪者」と書いたら「ホームレス」と赤を入れられ、この名が日本でも使われているのを知った。

ところがよく見ると、日本の路上生活者は「ホームレス」とは名ばかりで、ちゃんと段ボール製の家を作って住んでいるのである。玄関があって、入口にはちゃんと靴がそろえて脱がれていて、中から人の笑い声が聞こえてくる。これにはびっくりした。方丈を作って車座になって団らんするという住文化の原点が、路上の環境においても再現されている。こういう光景はニューヨークでは見たことがなかった。彼らは段ボールを重ねて寝るだけで家は作らないし、ましては団らんなどはしなかった。

『隅田川のエジソン』は隅田川べりに暮らす路上生活者の物語である。実在の人物をモデルにしたと帯にあるが、たしかにここに描かれている生活の細部は、想像では書けないものばかりだ。読みながらニューヨークの記憶がよみがえってきたのも、彼らの肉声に触れているような気がしたからだった。路上で生きることの具体性が、実に立体的に浮かび上がってくる。

硯木正一という元土方の男が語り手である。地方で土建の仕事をしていたが、会社が倒産して上京、浅草寺横の児童公園で夜を明かした折に、持ち物一切を盗られて、無一文になってしまう。とりあえず、という気持ちで川べりで暮らすうちにこれが気に入り、パートナーの女性も現れ、ふたりで暮らすようになるのである。

土建の仕事をしていたときから、ひとりで最初から終わりまでこなすのが好きという、工夫上手の独立独歩派だった。持ち前の技術を活かして、簡単に作れ、かつ移転を求められたらすぐに解体できる段ボールハウスのエキスパートとなり、自邸のみならず、まわりの人の家も建てて上げる。

家はただ雨露をしのぐだけの空間ではない。なんと電気が使えるのである。廃棄処分にまわされる、まだ使用可能なバッテリーを、ガソリンスタンドでもらい受けてくるのだ。電灯が付き、テレビやラジカセがある電化生活。カラオケセットを拾ってきて、カラオケ付き宴会を開いたりする。水は公衆トイレで調達。拾ったカセットコンロで料理もする。炊き立てのご飯にみそ汁、ときには摘んできたタラの芽を天ぷらにするなど、なかなか気の利いた生活ぶりだ。

収入もちゃんとある。拾った電化製品を修理してドロボウ市で売ったり、テレホンカードを換金したりして得るのだ。家賃が0円だから、稼いだ何万かはすべて食材や酒代にまわせる。こんなふうに狩猟採集生活が可能なのは、多くのものが使える状態で廃棄される東京ならではだろう。近所をひとまわりすれば必ず収穫があるのだ。

こうやって暮らす彼に、住人たちがやさしく対応するのも意外な点である。携帯電話の普及でテレホンカードが減り、それを拾うだけでは収入がおいつかなくなって、彼はアルミ缶の収集に乗り換える。それもただ拾うだけでは効率が悪いので、どこの家がたくさん捨てるかを調査して、その家と交渉する。すると、彼の生活ぶりにほだされて、缶を取り置いてくれる家が現れるのである。

「おれはいつも思う。東京は一番人間があったかい場所なんじゃねえか? だけど普段の日常は、なにか仮面が覆っていて、誰にもわからない。おれみたいに、もう終わりだよー、と一度行くところまで行ってしまった人間に対しては、許容範囲広いわけよ。その真ん中がないっていうのかね。もう飛び込んじゃえばいいんだけれど、大体の人はできないからさ。やっちゃった人に対しては、尊敬の念があるのかもしれない。出家した人みたいな扱いを受ける時があるから面白いよ」

ふつうの人が出来ないことをやっている姿に、夢を託すような気持ちがあるのではないか。「出家した人」という言葉に表れるように、異界に生きる人への敬慕の念もあるのだろう。ともかく、世間が思うほどには人の心が冷え固まっていないのに胸をつかれる。素直に表しにくくなっているだけで、人恋しさは変わらないのだ。

無線でインターネットがつなげる場所に家を建てて世界と交信している男(屋根に太陽電池もつけている)、廃品アートを何百と作っている男、段ボールハウスで寺子屋を始める元中学教師など、個性派そろいである。読み進むうちに、私たちが生活する同じ地表に、もう一つ別のパラレルワールドが立ち現れつような感じを抱く。そこでは人が体を使い、知恵を活かし、工夫しながら生きている。都市のロビンソン・クルーソーである。

この著者には、段ボールハウスを建築と住空間の見地からドキュメントした『0円ハウス』という著書があるが、そのときの取材が本書の核になっているのだろう。段ボールハウスとそこに暮らす人々を、社会問題としてではなく、もうひとつの生活物語として描いている点、それによって都市環境が逆照射されているところが実に新鮮である。著者は大学で建築を専攻した。その視点が都市空間や生活環境や建物の見方に生きている。

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