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2008年05月14日

『ニューヨーク・チルドレン』クレア・メスード(早川書房)

ニューヨーク・チルドレン →bookwebで購入

    大都市に生きる人間たち、それぞれの屈託と処し方

カバー写真を見ればだれでも、この本の内容に関係があるはずだ、と思うだろう。夕闇に包まれたワールド・トレード・センター。9.11以前の写真であるのが一目瞭然だ。事件以来、ツインビルの写真は紀元前・紀元後のように、ひとつの時代区分を象徴するようになった。

もっとも事件が起きるのは物語が八割方が進んでからで、話のテーマはそこにはない。著名なジャーナリストの娘で天真爛漫なマリーナ、テレビ番組のディレクターをしている頑張り屋のダニエール、アジア系の血が混じったフリーランス・ライターのジュリアス、と間もなく30歳を迎える大学の同級生三人が主人公である。女三人ではなく、男子がひとり加わっているところがいかにもニューヨークらしい。ジュリアスはゲイで属している社会がちがうから、彼女たちも心を割って話せるのだ。

主役格の登場人物はほかにもいる。いや、物語の核心はむしろ彼らふたりが担っていると言えるだろう。まずはマリーナの父で成功したジャーナリストのマレー・スウェイト。人を魅了するツボを心得た、ちょっと作家のノーマン・メイラーを思わせる反体制のリベラリストだ。自分を掘り下げるよりは社会に一石を投じようとするタイプで、発言の機会は多く、最近では執筆よりもそちらに時間を費やすことが多い。

もうひとりはマレーの甥のブーティー。大学をドロップアウトし、マレーを頼ってニューヨークに出てきた。彼には、マレーのように世の中をすいすい渡っていく要領のよさはない。見かけもさえない。頭は悪くないし学校の成績もトップクラスなのだが、自分の存在価値を見出せないでいる悩める若者である。

生き方に確信を持てないでいるのは、ブーティーだけでない。先の三人だって同じなのだ。マリーナは父のような物書きになりたいと願いつつまだ一冊も書き上げてないし、ジュリアスは安アパートに暮して雑文書きをしながら享楽的な日々を送っている。テレビの仕事をしているダニエールは三人の中で目下いちばん上向きだが、仕事一本槍で恋人ひとりいない。若さを売り物に出来ない年齢にさしかかったいま、三人三様に「このままでいいのだろうか」と自問している。

アッパーウエストに壮麗な屋敷を構えている、不惑の典型のように見えるマレーですらも、実は同じような屈託を抱えている。もっとも彼の場合はまだはじめてない悩みではなく、ピークを超えてしまったことの焦燥感だ。このままでは彼の世間的評価は「有能なジャーナリスト」止まりだ。人の生き方を説いたもっと哲学的な内容の本を著して、不朽の名声を自分のものにしたいと、密かに原稿を書き溜めている。

マレーの秘書に雇われたブーティーがその原稿を盗み見てしまうことから、話が動き出す。ブーティーはその原稿の陳腐さに衝撃を受ける。とてもこれまで抱いていた尊敬する作家のイメージにそぐわない。裏切られたような気持ちにさえなる。

そしてここからがおもしろいところなのだが、ブーティーはそのことを本人や世間に知らせるのが自分の使命であると思い込む。若者特有の潔癖さと視野の狭さで、それがどんな事態を引き起こすのかを考えもせずに実行する。巨人として君臨していた叔父に、そういう形で体当たりすることしか思いつかなくなっていたのだ。

このブーティーの謀反がいちばん爆発力をもって描かれるが、娘のマリーナも次第に父親を距離をもって眺めるようになる。才能ある野心家の編集者と恋仲になったことで、関係性に変化が生じるのだ。ここにもうひとり別の角度からマレーを観察する人にマリーナの親友ダニエールがいて、彼女はほかのだれともちがうやり方でマレーと関わり、作家の内面をのぞき見る。

このように、登場人物ぜんいんがマレー・スウェイトという恒星のまわりを廻っている。原題は“The Emperor's Children”だが、この皇帝がマレー・スウェイトであるのは明らかだ。彼は、六十年代に自由と反体制を掲げてさっそうと登場しながら、ひとつの権威となってしまった世代を象徴している。また皇帝の君臨する「帝国」とは、彼らの世代が作り上げたアメリカ社会の現在ととることも出来る。

マレーはすべてを支配下におこうとする封建的家長ではないが、権威を演じることに躊躇がない。いわばリベラルの仮面をかぶった「皇帝」だ。また仕事の面においても、過去に書いたことを再生産するような緊張の緩みがあり、またそれを居直ってもいる。なにもマレーだけが特別ではないかもしれない。社会的な地位を得た六十を過ぎた人間が、多かれ少なかれ晒していく実体を象徴的に示していると言えるだろう。

物語の最後で9.11事件が起きて、皇帝とその子供たちの運命を変える。直接的な被害者でなくても、あの事件はそれぞれの現実を揺さぶり、壊していく力をもっていたのだ。そのことを改めて実感させる説得力のあるストーリー展開である。作家の想像力のたまものだが、あの事件を身近に体験した者ならではのリアリティーが活きているのだろうと思わせる。

著者のクレア・メスードは1966年生まれで、「皇帝」と「子供たち」の中間に位置する世代である。だから本書を上の世代に対する批判ととることも可能だが、単なる批判で終らせず、悲劇的な存在であるブーティーを再起に全力を注ぐ抵抗者として描いて話を結んでいるところに、作者の主張が込められているように感じた。

ブーティーは著者にとってもっともシンパシーを抱く人物だったのではないだろうか。彼を描写する著者の筆は力強く、容赦がない。舌打ちしたくなるような鈍さと、一途なひたむきさという相反する両面があって、読者の感情を揺さぶるのだ。しっかり肉付けされた重厚な作品を読んだあとの余韻が体に残る、印象深い読書だった。

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