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2008年05月30日

『家族の昭和』関川夏央(新潮社)

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文芸作品にみる昭和の家族のうつろい


「二〇〇八年は平成二十年ではない。昭和八十三年だ。あえてそういいたい昭和人である」と著者の関川夏央は言う。その彼が、昭和戦前から昭和戦後へと移り変わっていく家族像を、小説、テレビドラマ、映画の中に探ってみた。

題材となっているのは、向田邦子『父の詫び状』『あ・うん』、吉野源三郎『君たちはどう生きるか』、幸田文『流れる』『おとうと』、鎌田敏夫『金曜日の妻たちへ』『男女七人夏物語』など。

八十三年間の「昭和」には戦争が挟まっているが、それぞれの作家によりそうことで、むしろ戦前・戦後の区切りを飛び越えようとする。歴史の切断はむしろ男子的態度であり、親から受け継いだものを自分の核にするのが、戦前生まれの女性の生き方だった。それが昭和の家族を支えてきたという思いが随所に出ている。私自身、読んでいて戦前生まれの身内のことがしきりと思い出されたものである。

向田邦子のところで描かれるのは、彼女と父親との関係だ。向田の父は大手保険会社のサラリーマンである。祖母が亡くなったときに弔問にきた社長に父は、「お辞儀というより平伏」と思える態度をとる。「私達に見せないところで、父はこの姿で戦ってきたのだ」と向田は書く。つまり彼女は平伏する父を「軽蔑」しない。日ごろ家では威張っている父の、掌を返したような態度を、「卑屈」とみなさず受け入れる。男子だったら、ましてや戦後育ちだったら、と著者は問う。

向田は癇の強い性格を父から受け継いだが、その遺伝を恨まなかった。戦後の民主主義と個性尊重主義で育った世代のように、なにごとも親のせい、他人のせいにしなかった。それが読者に静かな勇気を与え、戦前という時代を知らない者にも懐かしさをもたらした、と分析する。

幸田文もまた厳しい父、幸田露伴に家事をみっちりと仕込まれて育った。そして父が亡くなるとその思い出を書き、これが思いのほか好評で執筆をつづけるようになる。だが頼まれるのは父の思い出ばかり。ついには「私は筆を絶つ」という談話記事を新聞に発表する。

「自分として努力をせずにやったことが、人からほめられるということはおそろしいことです。このまま私が文章を書いてゆくとしたら、それは恥じを知らざるものですし、努力しないで生きていくことは幸田の家としてもない生き方なのです」

「努力せずにしたこと」とは言うものの、もちろん書く努力はしているのである。だがその努力は本物の作家たちの努力、その死まで自分が見届けた父の努力には較べるべくもない。それが身にしみているだけに、いい気になれないのだ。

やがて文は芸者置屋の住み込み女中となり、その体験をもとに小説『流れる』を書く。父に仕込まれた家事や暮しの技術には自信があった。それがどれ程のものなのか、腕だめしのような思いで玄人の世界に飛び込み、そこで力を認められる。

小説の主人公梨花は文自身がモデルだが、梨花と置屋の女性とは生活観がまったくちがうにもかかわらず、互いに認め合う。単に生命力という言葉では済まされない、生きる技量とも言うべきものが讚えられ、細やかに描写されている。『流れる』の醍醐味はそれだと改めて思った。

第3部で取り上げる『金曜日の妻たちへ 3 恋におちて』では、「回想」が物語の駆動力となっている点に着目する。たかが三十代後半の男女が、二十代の出来事に回顧し、それに翻弄される。「平和と退屈ゆえに「過去をひきずる快楽」に身をゆだねているだけではないか」という指摘が、「金妻」に漂うだるいムードを言い当てている。「回想」に溜めがなく、また「回想」される対象もうすっぺらいのだ。

それに較べると、『男女7人夏物語』に出てくる人たちは「回想」をしない。過去にとらわれず、現在を楽しく生きようとする爽やかさが、観る者を惹きつけた。だがその続編の『男女7人秋物語』では、一年前の出来事が早くも回想の対象となっている。

回想のスパンがおそろしく早く、のみならず「介入してくる「過去」が「昭和戦後の貧乏臭さ」をまとっている」のである。ここで言う「貧乏臭さ」とは、「嘘臭さ」「成金趣味」と同義語だ。「パティオ」「ボジョレ・ヌーボー」「美食ブーム」など、実体のないあぶくのようなものに乗せられて人間関係が右往左往する。昭和59年に出た渡辺和博の『金魂巻』は、その傾向をマル金とマルビに分けて揶揄したが、それがまじめに受けとられたところに、すでに世間の自意識のなさが出ていた。

向田邦子の作品も、幸田文の小説も、「回想」を経由した創作である。無から何かを構築したものではなく、自分の体験や身に起きた出来事が下敷きになっている。そこには当然ながら振り返る行為が介在しているが、「貧乏臭さ」はみじんもない。矜持が際立っている。つまり金のあるなしではなく、金まわりのよさを誇示する態度が「貧乏臭い」のだ。

向田邦子の『あ・うん』の中に、「おとなは、大事なことは、ひとこともしゃべらないのだ」という言葉がある。著者はそれを引いて、「家族を維持するには緊張感が必要だ。秘密が必要だ。そして、それを守ろうとする努力が必要なのだ、と向田邦子は逆説的に語っている」と述べる。

まったくその通りだ。男女が一緒になればとりあえず家族は生まれる。簡単なことだ。むずかしいのはその家族を経営していくこと、そのための緊張感と距離を維持することである。それを欠いたら関係は破局にむかう。現代の家族の崩壊はその結果であるのだろう。

詩人井坂洋子の母親は、実践女専で向田邦子の二年先輩だったという。その井坂の言葉を著者は書き留める。

「向田邦子と母親の差は、才能を別にすれば、それほどないとも思える。二つの像を、表と裏として貼りあわせれば、ほぼ完璧に当時の女の人の原型ができあがる。
私には頭のあがらない、勤勉でこわい原像である」。

向田邦子と同世代の母を持つ私は、この言葉に深くうなずく。だれかのせいにしない生き方。戦前の女性が示す強さはそれに尽きる。保守的かもしれない。それがミニ天皇制のような家父長制を温存してきたという批判もあるだろう。だが、彼女らの矜持が昭和の家族像を支えてきたのはまぎれもない事実であり、そのことに粛然とするのである。おそらく著者も同じ思いにちがいない。

ここに取り上げられているのは、サラリーマンと作家の家庭の家族像だが、夫婦そろって家業をおこなう商家や農家の家族像にも目線を延ばしたら、また別の女性像が浮かび上がってくるだろう。興味の尽きないテーマである。

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2008年05月14日

『ニューヨーク・チルドレン』クレア・メスード(早川書房)

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    大都市に生きる人間たち、それぞれの屈託と処し方

カバー写真を見ればだれでも、この本の内容に関係があるはずだ、と思うだろう。夕闇に包まれたワールド・トレード・センター。9.11以前の写真であるのが一目瞭然だ。事件以来、ツインビルの写真は紀元前・紀元後のように、ひとつの時代区分を象徴するようになった。

もっとも事件が起きるのは物語が八割方が進んでからで、話のテーマはそこにはない。著名なジャーナリストの娘で天真爛漫なマリーナ、テレビ番組のディレクターをしている頑張り屋のダニエール、アジア系の血が混じったフリーランス・ライターのジュリアス、と間もなく30歳を迎える大学の同級生三人が主人公である。女三人ではなく、男子がひとり加わっているところがいかにもニューヨークらしい。ジュリアスはゲイで属している社会がちがうから、彼女たちも心を割って話せるのだ。

主役格の登場人物はほかにもいる。いや、物語の核心はむしろ彼らふたりが担っていると言えるだろう。まずはマリーナの父で成功したジャーナリストのマレー・スウェイト。人を魅了するツボを心得た、ちょっと作家のノーマン・メイラーを思わせる反体制のリベラリストだ。自分を掘り下げるよりは社会に一石を投じようとするタイプで、発言の機会は多く、最近では執筆よりもそちらに時間を費やすことが多い。

もうひとりはマレーの甥のブーティー。大学をドロップアウトし、マレーを頼ってニューヨークに出てきた。彼には、マレーのように世の中をすいすい渡っていく要領のよさはない。見かけもさえない。頭は悪くないし学校の成績もトップクラスなのだが、自分の存在価値を見出せないでいる悩める若者である。

生き方に確信を持てないでいるのは、ブーティーだけでない。先の三人だって同じなのだ。マリーナは父のような物書きになりたいと願いつつまだ一冊も書き上げてないし、ジュリアスは安アパートに暮して雑文書きをしながら享楽的な日々を送っている。テレビの仕事をしているダニエールは三人の中で目下いちばん上向きだが、仕事一本槍で恋人ひとりいない。若さを売り物に出来ない年齢にさしかかったいま、三人三様に「このままでいいのだろうか」と自問している。

アッパーウエストに壮麗な屋敷を構えている、不惑の典型のように見えるマレーですらも、実は同じような屈託を抱えている。もっとも彼の場合はまだはじめてない悩みではなく、ピークを超えてしまったことの焦燥感だ。このままでは彼の世間的評価は「有能なジャーナリスト」止まりだ。人の生き方を説いたもっと哲学的な内容の本を著して、不朽の名声を自分のものにしたいと、密かに原稿を書き溜めている。

マレーの秘書に雇われたブーティーがその原稿を盗み見てしまうことから、話が動き出す。ブーティーはその原稿の陳腐さに衝撃を受ける。とてもこれまで抱いていた尊敬する作家のイメージにそぐわない。裏切られたような気持ちにさえなる。

そしてここからがおもしろいところなのだが、ブーティーはそのことを本人や世間に知らせるのが自分の使命であると思い込む。若者特有の潔癖さと視野の狭さで、それがどんな事態を引き起こすのかを考えもせずに実行する。巨人として君臨していた叔父に、そういう形で体当たりすることしか思いつかなくなっていたのだ。

このブーティーの謀反がいちばん爆発力をもって描かれるが、娘のマリーナも次第に父親を距離をもって眺めるようになる。才能ある野心家の編集者と恋仲になったことで、関係性に変化が生じるのだ。ここにもうひとり別の角度からマレーを観察する人にマリーナの親友ダニエールがいて、彼女はほかのだれともちがうやり方でマレーと関わり、作家の内面をのぞき見る。

このように、登場人物ぜんいんがマレー・スウェイトという恒星のまわりを廻っている。原題は“The Emperor's Children”だが、この皇帝がマレー・スウェイトであるのは明らかだ。彼は、六十年代に自由と反体制を掲げてさっそうと登場しながら、ひとつの権威となってしまった世代を象徴している。また皇帝の君臨する「帝国」とは、彼らの世代が作り上げたアメリカ社会の現在ととることも出来る。

マレーはすべてを支配下におこうとする封建的家長ではないが、権威を演じることに躊躇がない。いわばリベラルの仮面をかぶった「皇帝」だ。また仕事の面においても、過去に書いたことを再生産するような緊張の緩みがあり、またそれを居直ってもいる。なにもマレーだけが特別ではないかもしれない。社会的な地位を得た六十を過ぎた人間が、多かれ少なかれ晒していく実体を象徴的に示していると言えるだろう。

物語の最後で9.11事件が起きて、皇帝とその子供たちの運命を変える。直接的な被害者でなくても、あの事件はそれぞれの現実を揺さぶり、壊していく力をもっていたのだ。そのことを改めて実感させる説得力のあるストーリー展開である。作家の想像力のたまものだが、あの事件を身近に体験した者ならではのリアリティーが活きているのだろうと思わせる。

著者のクレア・メスードは1966年生まれで、「皇帝」と「子供たち」の中間に位置する世代である。だから本書を上の世代に対する批判ととることも可能だが、単なる批判で終らせず、悲劇的な存在であるブーティーを再起に全力を注ぐ抵抗者として描いて話を結んでいるところに、作者の主張が込められているように感じた。

ブーティーは著者にとってもっともシンパシーを抱く人物だったのではないだろうか。彼を描写する著者の筆は力強く、容赦がない。舌打ちしたくなるような鈍さと、一途なひたむきさという相反する両面があって、読者の感情を揺さぶるのだ。しっかり肉付けされた重厚な作品を読んだあとの余韻が体に残る、印象深い読書だった。

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