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2008年03月31日

『夜になるまえに』レイナルド・アレナス著/安藤哲行訳(国書刊行会)

夜になるまえに →bookwebで購入

「めまいと戸惑い、そして冷水」

何かの都合で中断せざるを得なくなった未読の本の山から、この本を引き抜いて読み出したのは、フィデル・カストロ引退のニュースが報じられたことと無関係ではなかった。そして再び読みはじめてみて、あのときに中断した理由のひとつが、カストロの記述にあったことに思い至った。カストロの独裁体制ぶりがこれでもか、これでもかと描かれていることに、あれっと思ったのだ。カストロってそんな人だったのかと。

キューバの作家、レイナルド・アレナスの自伝で、記憶の断章とも言うべき短い回想が時間軸にそって展開される。『夜になるまえに』という忘れがたいタイトルは、それ自体がアレナスの置かれていた立場を物語っている。彼は夜が来る前にこれらの文章を書きつづけた。陽の光のあるうちに、監獄生活というもうひとつの「夜」が来ないうちに、書きつづけなければならなかった。

「六〇年代ほどキューバでセックスが盛んだった時代はないと思う」とアレナスは書く。それを証明するように、本書では最初から最後まで息苦しいほどの同性のセックスシーンが展開される。同性愛に走るのは同性愛者だけではない。ヘテロセクシュアルの人も、男であれ女であれ同性とのセックスに耽溺した。キューバでは同性を愛するのにホモになる必要はなかった。性差による仕切りはなく、欲望だけが強烈だった。

カストロがキューバ革命を樹立して政権をとったのは一九五九年。同性愛の高まりはこの革命のエネルギーと呼応しあっていた。

「フィデル・カストロに拍手を送りながら革命広場の前をパレードするあの若者たちのほとんどが、ライフルを手に軍人らしい顔をして行進するあの兵士たちのほとんどが、パレードのあとぼくたちの部屋に来て体を丸め、裸になって自分の本当の姿をさらけだした。(中略)二人の男が到達する悦びは一種の陰謀みたいなものだった。暗がりでも真っ昼間でも構わないが、秘密裏になされるものだった。一つの視線、一つの瞬き、一つの仕種、一つの合図、そうしたものがすっかり満足するためのきっかけとなった。その冒険そのものが、たとえ望んだ肉体で絶頂に達しなかったとしても、すでに一つの悦びであり、一つの神秘、一つの驚きだった」

性の解放というとアメリカが中心のように思っていたが、キューバで同じころ同性愛をも含んだよりアナーキーな性的高揚があったのに正直驚いた。革命の熱気はキューバ国内のみならず世界へと波及し、世界中の若者を夢中にさせた。カリブ海のちっぽけな島国がアメリカという大国に盾突いたことは、性的欲望が爆発するほどの生命の高揚だったのだ。

後にアレナスはアメリカに亡命するが、そこでの同性愛の世界にはカテゴリーや区分があって、退屈で飽き足らなかったと書いている。制度化の傾向の強いアメリカでは、性すらもカテゴリー化される。同じ同性愛の行為でも目指すものがちがった。

だが、この異様な性的解放をキューバ政府が黙って放置するはずがなかった。同性愛を取り締まる法律が公布され、同性愛者たちに対する迫害が猛り狂い、強制収容所が造られた。同性愛者である上に作家であるアレナスは二重の桎梏を背負うことになる。反政府的な言動や同性愛が当局からマークされ、逃亡の果てについに投獄される。為政者が私腹をこやそうとする腐敗した体制下であれ、大国と闘って民衆を貧困から解放しようとする理想主義体制であれ、独裁政権であるかぎり、表現者は窮地に追い込まれる。

三年後に「自己批判」して刑務所を出たアレナスは、一九八〇年に船でアメリカに亡命する。このアメリカ滞在について書いたところは、前半の同性愛への記述とともにとても印象深く、考えさせられる。

まず亡命したことで、キューバで逃亡し幽閉されていていた時期よりも海外での出版の機会が減るという矛盾した事態に見舞われる。キューバにいるあいだは、いくら体制から迫害されていようと、輝かしい革命が進行する国の作家だった。アメリカをはじめとして、世界の左翼知識人にとって、カストロ体制への評価はそれほど揺るぎないものだったのだ。だが、亡命作家がカストロ批判をするにつれてキューバ文学は色あせ、大学のブックリストからも外されていく。

「亡命地ではぼくたちは自分を表現してくれる国を持っていない」とアレナスは書く。生きる許可を得られているものの、それはいつ拒否されるとも知れない危ういものだ。どこにも駆け込む場所がない刹那的な実存を生きるしかない。

アレナスは自由を求めて渡ったアメリカでも幸せを得られず、エイズの進行で死を悟り、一九九〇年に自殺している。
「ぼくの新世界は政治力に支配されていなかったが、同じくらい忌まわしいもう一つの力、つまり、金力に支配されていたのだ。何年かこの国でくらしてみて、ここは魂のない国であることがわかった。すべては金次第なのだから」

ここに至って私は大きく溜め息をつかずにいられなかった。まず同性愛を介して広がったエイズのために死を選んだことが痛々しく、また拝金主義のアメリカ批判にも胸に迫るものがあった。というのも、この金次第の資本主義や快楽主義に反旗を翻し、それに抵抗しうる体制を五十年という長きにわたって治めてきたのがカストロだったのではないか。その確固たる姿勢と実践力に、よりよき社会を夢見る世界中の人々が魅了された。だが、その体制維持のために自由を奪われ苦しめられた人間の数は半端ではなかったし、またその彼らは脱出した先のアメリカでも希望を見出せなかったのだ。この事実をどう受け止めたらいいのだろう。

カストロにはどんな大国の政治家の前に出ても動じない存在感があり、その魅力には抗しがたいものがある。だが、彼にとって国民は理想の政治体制を実現するための部品のようなものに過ぎないのだろう。政治とは組織の形成であり、その維持であって、人間はそのためのコマとみなされる。それは政治の宿命であるし、人の中にはなにか大きなものの一部になる悦びがたしかに存在するのだ。と同時に個として声を発したり、欲望を実感する悦びもまた不可欠であり、その両方がなくては人は生きられない。となれば私たちはアレナスの言う「政治力」の国と「金力」の国のあいだでうろうろと彷徨うことしが出来ないのだろうか。

さまざまなラテンアメリカ作家がカストロ体制の操り人形としてやり玉に挙がっている。その中の最重要人物としてガルシア・マルケスの名があるのに驚いた。私はこの発言を判断する手がかりをなに一つ持たないので言うべき言葉はないが、ひとつの価値世界が反転するような眩暈を覚えたのはたしかだった。

実は眩暈を感じたのはここだけでなく、本書を読んでいるあいだずっとくらくらしどおしだったのである。信じるとまではいかないまでも、これまで描いていた価値世界が幻のように消えていくのを感じた。世界がグローバリズムに傾いていく中でキューバ革命は未だ輝きを放っていると思っていたし、キューバを旅してきた友人たちが一様に「貧しくても人々が生き生きしていた」とその魅力を称えるのを聞けば、ますますそう思い込んでいた。きっと旅人にそんな表情を見せる場所なのだろう。だがその国に作家として暮したなら世界はまったく変わってしまう。そのことに冷水を浴びせられたようにぱっと目が開いた。


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2008年03月18日

『わがままなやつら』エイミー・ベンダー著 管啓次郎訳(角川書店)

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「嘘の嫌いな奇想の作家」

エイミー・ベンダーの短編をどう説明したらいいのだろう。

「終点」はいつでも一緒にいてくれる相手を求めてペットショップで小人を買った男の話、「オフ」は黒髪の男、赤毛の男、ブロンドの男の三人にキスをするという目標を決めてパーティーに出むく女の話、「マザーファッカー」は行く先々で母親たちをファックするさすらいの男の話。

かなり突飛な内容であることは、これだけでも充分に伝わるだろう。
では奇抜なセッティングをして思いつくままさらさらと書いているのかというと、そういう感じは少しもしない。たしかに非凡さは感じられるものの、人と感性のちがうことをことさらアピールしようとする印象はない。そうせずには生きられない自己愛の持ち主にはとても思えないのだ。かといって教訓や風刺を含んだ寓話とはまったくちがう。

では奇想を軸にしながらエイミー・ベンダーはなにを語ろうとしているのだろうか。

小人とそれを買った男との関係を描いた「終点」では、男が小人をいたぶるシーンが多い。マスキングテープでぐるぐる巻きにして冷蔵庫に一時間閉じこめる。小人が失神すると、低温に設定したオーヴントースターに入れて回復させ、勃起しろ、と命じて、その小さく立ったペニスを笑う。

ワルの女の子たちがちょっとズレているデビーという女の子をいじめる「デビーランド」にも意地悪で残酷なにおいがするし、毛の色がちがう三人の男にキスすることだけを目的にパーティーに出掛ける「オフ」の女主人公も露悪的な人物だ。
 
これらの描写から伝わってくるのは、エイミー・ベンダーが偽善のにおいにとても敏感だということだ。実に注意深く偽りの感情を排除している。ヒューマズムについても同じ態度で、決してそれをふりかざしたりオチに使ったりしない。人は簡単にわかり合えるものではないし、他者を受け入れることについても安易に考えないほうがいい。世の中が称揚する人間関係のあり方に、根源的な懐疑を投げかける人なのだ。

そういう考えの持ち主が書くのものには当然ながら孤独がにじみでる。実際、登場人物たちはひんやりした孤独感を発しつつ屹立している。しかしここが彼女の作品の特異な点なのだが、一見、冷ややかなタッチの中にチロチロと燃えているものがある。冷たさと熱の奇妙な同居が実現しているのだ。目を開けながら夢を見ているような、醒めつつトリップしているような、あやうくもエロチックなバランス感覚があって、絶望を知っている人の暖かさとでもいうべき、簡単には失われない人への信頼が、奇妙なストーリーを運んでいく船底を洗っている。それは懐疑の果てに訪れた愛であるだけに、読む者に深い安堵を与える。

痛み、熱情、冷淡さ、憎しみ、恐怖、不安など、人のもつ感情を観察し、それをくっきりと的確に描くことに、とりわけ心血を注ぐ人である。それは偽善のにおいを排するためであるのと同時に、公正に物を見ようとする彼女の倫理観に因っているようにも思える。突飛な虚構的世界を描いているが、嘘の嫌いな人なのだ。

いま、『わがままなやつら』というタイトルに思いを巡らしていて、収められた十五篇にこのタイトルのものがひとつもないことに気がついた。なるほど、出てくる人物はだれしも強情さを抱えている。偽善を見抜き、妥協を嫌う、一筋縄ではいかない人たちである。自分の作り上げた人物たちに、このような名を与えて世に送りだすところに、この作家のならではの独特の肌が感じられる。

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