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2008年02月29日

『乳と卵』川上未映子(文藝春秋)

乳と卵 →bookwebで購入

「言葉と体を貼り合わせる」

受賞作とかベストセラーとか、世が騒いでいるものにはなかなか素直に手を伸ばせないひねくれ者の私だが、今回の芥川賞受賞作は気になってすぐに買って読んだ。

一読して頼もしい女性作家が登場したものだと思った。関心領域が広く、それを作品に盛り込むことにも意識的だ。女の生理感覚を切り札にたらたらと書いているようにみえて、まったく逆なのだ。筋立て、着想、構成、言葉のセンス、文章のリズムなど、小説を成り立たせるさまざまな要素が緊密に結び合い、ひとつの建築物を見るようだった。

語り手の「わたし」のところに、大阪に住む姉巻子とその娘がやってくる。その二泊三日の短い滞在中に巻子と娘の確執が溶解する、と言葉にすると単純なストーリーだが、細部を描き込んで濃密に仕上げている。

巻子は娘の緑子がまだ小さいころに夫と離婚し、ホステスをしながら娘を育てている。最近、体がやせ細って「毛先から心意気が抜け散っている感」がある。娘の緑子は十二、三歳くらいで、初潮はまだないが体が変わっていくのが厭で、不可解で、たえず湧いてくる疑問と怒りをノートに付けている(このノートの文面がところどころに挟まれているのが効果的)。母親としゃべるのも拒否してすべて筆談で済ませている。

今回の上京は、豊胸手術をするという巻子のとっぴな計画の下調べをするのが目的だ。なぜそんなことをしたいのか、「わたし」にも緑子にもわからない。巻子の夫には結婚当初から女がいた。ならどうして妻である自分とのあいだに子供を作ったのかと詰め寄ったとき、夫は「孕むということは人為的でない」と「嘘くさい標準語」で言った。その十年前の出来事が巻子の頭の中でことあるごとに再生されている。

一方緑子は、どうしてお母さんは自分を生んだんだろう、と反発を抱いている。自分のために母が苦労しているのを見るのがつらいのだ。だがそう口に出して言えず、自分の存在を不甲斐なく思っている。

間もなくはじまるであろう初潮が気になり、緑子は排卵のことを本で調べる。卵子と精子が受精して女として発育しだしたときには、もう卵巣の中に七百万個もの卵子のもとがあって、その数は後に増えることはなく、ごく一部だけが成長して受精可能な卵子になることに驚き、ノートに記す。

「生まれるまえからあたしのなかに人を生むもとがあるということ。大量にあったということ。生まれるまえから生むを持っている。ほんで、これは、本のなかに書いてあるだけのことじゃなくて、このあたしのお腹の中にじっさいほんまに、今、起ってあることやということを思うと、生まれるまえの生まれるもんが、生まれるまえのなかにあって、かきむしりたい。むさくさにぶち破りたい気分になる、なんやねんこれは。」

この卵子の解説は(評者の)私にとっても意外だった。受精卵の段階で卵子のもとがすでにインプットされているとは思いもしなかったからで、だから緑子の感想にも深く共感した。ましてや彼女はこれから初潮を迎える(「『迎える』という言い方も変や」と緑子は言うがこれにも同感)思春期の少女なのだ。頭の中が卵子への違和感でいっぱいになるのも当然だろう。

ここらあたりで「乳と卵」という、一見、スーパーマーケットの乳製品売り場を連想するようなタイトルに、深い意味が込められているのがわかってくる。乳房と卵子はヒトの生物的側面の象徴なのだ。体は自分のものであるにもかかわらず、その全貌はとらえきれない。とらえるというのは理解することで、それには言葉をともなうが、言葉ではとても追いつかないほど多くのものが体内にはインプットされていて、またそれがつねに変化しているのだ。

体は理解しようとする言葉の努力とは無関係に簡単に物事に反応したり、他の体と交わったりする、夫の言うところの「人為的ではない」存在だ。放っておくと何をするのかわからない不安感が人をして「なぜ?」「どうして?」という問いにむかわせる。そのような認識の欲望を持つかぎり、言葉による体の追走はエンドレスにつづくだろう。

本作品の素晴らしさはまさにこの追走劇にある。一方で言葉を追いつめながら、もう一方で言葉に造反する体を追究するという二刀流を、いとも自然にやってのけているのだ。研ぎすまされた言語感覚に負うところが多い。全編が語り口調になっていて、随所に混ぜられた大阪弁が、言葉と体を貼り合わせる糊しろになっている。無駄に連発せずに、使うべきところでキメている。

「ああ、巻子も緑子もいま現在、言葉が足りん、言葉が足りん、ほいでこれをここで見ているわたしも言葉が足りん……」

これは巻子と緑子の確執が頂点に達するシーンだが、「足りない」でなくて「足りん」だからこそ切実さが極まる。「足りない」は解説だが、「足りん」は理屈ではなくてうめきなのだ。

樋口一葉の文体にヒントを得ていると著者インタビューで答えていたが、私は読みながらしきりに人形浄瑠璃の義太夫語りを思い浮かべてしまった。「足りん」の後につづく部分は、汗をだらだら垂らしながら語る太夫の姿が二重写しになるような語感にあふれ、迫力満点だった。

「仕掛けとたくらみに満ちた小説」と審査員の池澤夏樹氏が述べている。たしかにそう。しかも仕掛けに凝った小説は色気に欠けがちなのに、それも濃厚なのが見事だ。ぜひ本人による朗読を聴いてみたい。



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2008年02月17日

『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』内山節(講談社現代新書)

日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか →bookwebで購入

「人の身体と生命を介して記憶する「みえない歴史」」


ずいぶん前にキツネについて調べていたことがある。といっても生きているキツネではない。お稲荷さんのキツネである。社の前に座っているキツネの石像に惹かれて写真に撮るうちに、それにしてもどうしてキツネなのだろう、と興味をもったのだ。取材するにつれて、東京都心でもキツネに化かされたり、キツネを神聖視する話がごく最近まであったのを知り、驚いた。

というわけでタイトルにそそられてこの本を手にとったのだが、前書きを読んでキツネがテーマではないらしいとわかった。1965年を境に日本全国から人がキツネにだまされる話が一斉に聞かれなくなった。それはどうしてか、1965年に日本の社会の何が変わったのか、その謎を解いていきたいとある。

日本社会の変化を象徴するものとしてキツネが挙げられているのであり、テーマは日本人の自然観の変化なのである。ちょっと拍子抜けだったが、それでも最後まで読み通したのは、自分のペースで執拗に問いつづける著者の「声」に惹かれたからだった。

日本人がキツネにだまされなくなったのは、高度経済成長を遂げた1965年を境に人と森林との関係が変化したからではないか、という仮説はだれでも思いつくものだ。だが、その凡庸な問いを溜めつすがめつして、近代化によって何が変ってしまったのか、変化の中味を探究していく。

本の知識を動員して引用などをちりばめつつ、教養主義的に書く人は多いが、著者はそうしない。歴史、民俗学、哲学、人類学、自然誌などを縦断しながら、また随所に群馬の山里に暮している著者自身の体験などを織り込んで、自分の言葉で語っていく。わが意を得るとことがたくさんあって、こういうと大変おこがましいが、まるで私自身が書いているように錯覚したほどだった!

人の歴史は「直線的な歴史」と「みえない歴史」とで成り立っていると説く。「直線的な歴史」とは歴史を発達史とみなす考え方で、近代社会の矛盾に目をむけたマルクス主義経済学の登場によって生み出された。国民国家と資本主義を肯定的にとらえる側と、批判的にとらえ側とに分れるが、どちらも歴史を発達史として語る点では変わりがない。

では、「みえない歴史」とはどんなものか。これは人と森林が結びついていて、死者の魂が森に還り、自然と一体になって村の神になるという歴史である。これは発展とか、発達とか、乗り越えていく、というような発想とはかけ離れている。人がキツネにだまされてきた歴史も、この「みえない歴史」のひとつなのではないかと述べる。

「直線的な歴史」は知性を介して認識されるが、「みえない歴史」はそうではなく、身体で再生される記憶や、生命それ自身がもっている記憶などで成り立っており、たえず受け継いでくれる人を探す。だからこの歴史は発展的にではなく、循環的に進んでいくことになる。

この歴史の対比を読みながら、思いだしたことがあった。かつて稲荷信仰を調べていたときに、なかなか本質をつかみとれずに往生した。いくら稲荷信仰の解説書を読んでも腑に落ちないことだらけだったのだ。

稲荷信仰は田の神としてはじまるが、社会が変化する(直線的な歴史でいえば「発展する」)につれて担うものが変わってくる。中世期には鉄を扱う鍛冶の神になり、江戸期には商売繁盛の神になり、とくに芸能者や三業関係者の信仰を集めるようになる。さらにこれに陰陽師が絡むようになると、複雑怪奇でとらえどころがなくなっていく。皮をむいていけば自然神にたどりつくのだが、その後の姿はまるで人間の欲望のカタマリのようである。

これは自然を崇拝する「みえない歴史」と経済優先の「直線的な歴史」が合体していった結果なのではないだろうか。「みえない歴史」は「直線的な歴史」から切り離されて消滅の一途をたどるわけではない。自然との関係が絶えてきたいまも、「直線的な歴史」の裏にコバンザメのように張り付いて、したたかに生き長らえているのではないか。わたしたちの生活のさまざまな場面に、ふたつが重なり、絡み合った姿が見出せるように思う。

稲荷信仰ではキツネは神様ではなく神様のお遣いであると説く。だが、信仰する人の頭の中ではそれがごっちゃになっていて、キツネ=神になっている感がある。これもふたつの歴史の融合と見ることができるように思う。

五来重の『稲荷信仰の研究』によれば、稲荷神社の祀られているのは古墳だった場所が多く、キツネの巣穴になっている例がよくあるという。昔の人々は死者の祀られた場所に出入りするキツネを見て、彼らが霊的世界を行き来している特別な生き物に感じられたのではないかと書いている。

キツネは稲荷神のお遣いであるという考えは、宗教教義としての整合性をもたせるために後になってでっちあげたことかもしれない。昔の人々にとって、霊的存在にヒエラルキーはなく、ただ素朴に崇め畏れたはずである。いまだってお稲荷さんにイワシや油揚を供える人の心の中に、キツネと神さまの区別はない。なにかに祈りたい一心で頭を垂れるのだ

お稲荷さんを追いかけていた二十年前にこの本に出会っていたら、もう少し頭の中が整理されたかもしれない。稲荷信仰の教義に振り回されて、ついに匙を投げてしまったあの頃を、無念さと懐かしさが入り交じった思いとともに振り返った。



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2008年02月10日

『燈火節』片山廣子(月曜社)

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「生のメカニズムを観察する眼」

片山廣子と聞いても知らない人がほとんどではないかと思う。私も本書の元になった『燈火節』が出る数年前までそのひとりだった。そのとき、大部な本をひもとき、こんな作家がいたのかと驚かされた。

今回の新編は、その中からおもだった随筆作品を選びだし、旧字旧かなづかいに戻して編み直したものである。読み返してみてやっぱりおもしろい人だと思った。いや、おもしろいでは足りない。実に得がたい人だと感じた。

1978年に生まれだから与謝野晶子と同じ生年だが、彼女のように闘う人ではない。21歳で大蔵省の役人と結婚して一男一女をもうけ、家庭人の道を踏み外さぬようにしながら短歌を詠み、エッセイや小説を書き、松村みね子の名でアイルランド文学の翻訳をした。

こう書くと堅実すぎて地味な人物に思えるかもしれないが、作品から受ける印象はまったく逆である。さっぱりして、味わい深く、自己憐憫とは無縁に物事の変化や自分の内と外との関わりをとらえている。まるで内部に精工な機械が埋め込まれているような曇りのない観察眼だ。

「赤とピンクの世界」は、近所の独り暮しのおばあさんが急にいなくなり、一カ月後にどこかの井戸から水死体となって発見された話だ。自分で飛び込んだとしか考えられない。息子夫婦のところに泊りに行ったり、むこうが訪ねてきたりで、はた目には楽しく静かな何不自由のない暮しに見えたが、「もつと貧乏なもつときうくつな生活をしてゐたら、死ななかつたらう」と片山は書き、貧乏には貧乏なりの楽しさがあるものだと説く。

ここまでは結構、ありきたりな展開である。だが、最後の400字分のところで凝縮された転と結が訪れる。この話を聞いたある人から、あなたは本当の貧乏の味を知らない、赤貧洗うがごとしという貧乏加減を知っていたらそんなことは言えない、と諭される。

そこで彼女は考える。なるほど彼の言うことは正しい、自分の知っているのは赤ではなくピンクくらいの貧乏だ、苦しいのはたしかだが、死のうという気にはならない。そこまでになるほど、自分は欲も得もすっかり忘れきれないと。

生きる力は欲と得から湧く。それを浄化してしまっては人の生命は絶える。本能的に生きている生き物との差はそこにあり、人の感じる幸不幸も実は欲望を源泉にしていることを、この文章は気付かせる。情緒に傾くのでもなく、モラルで収めるのでもない。人を生かしているメカニズムを冷静に見つめる自然誌的な視線とも言える。

40代以降の片山はたくさんの死に接しているような印象がある。42歳のときに夫が他界し、67歳で今度は長男を失い、つづいて弟や妹が自分より先に逝った。彼女はまた芥川龍之介や堀辰雄らと親交があり、芥川は「或阿呆の一生」で「才力の上にも格闘できる女」と書き、堀は彼女をヒントにして「聖家族」や「物語の女」を著したと言われているが、はるかに年若いふたりですら、彼女よりはやく死んでいる。

片山の厳格な自己認識はそんなこととも関係していたのかもしれない。だがその一方で、生来的に情熱を遠ざける資質を持っていた人のようにも思うのである。心の水盤が斜めになると、水が流れ出す前に気付いて平らにもどそうとする。そうした敏感な心の働きが随所にうかがえる。

このことから、「情熱の根源には、たいてい、汚れた、不具の、完全でない、確かならざる自己が存在する」(『魂の錬金術』)というエリック・フォファーの言葉を思い出した。もしかしたら、彼と近い感覚の人だったのかもしれない。どの年齢を生きていようと、どの時代を通過していようと、精神の均衡を求めるメカニズムを作動させ、その静寂の中で聞こえる小さな声を信頼した。

「赤とピンクの世界」は「死ぬといふことは悪いことではない。人間が多すぎるのだから。生きてゐることも悪いことではない。生きてゐることをたのしんでゐれば」という文で締めくくられる。一見なげやりに見える言葉の中に真実が光っている。途方に暮れたとき、一篇か二篇を読むだけで水盤の水が平らになり、生きる力が湧く。手ごろな価格の新編によって、彼女の文章を必要とする人に届くのはうれしいことだ。



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