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2008年01月14日

『土曜日』イアン・マキューアン(新潮社)

土曜日 →bookwebで購入

「人の不安の根源に迫る」

正月にイアン・マキューアンの新作を読んで、早くも今年のベストが決まってしまった。いや、二十一世紀の名著に入る傑作かもしれない。

『土曜日』は文字どおり、ある土曜日の出来事を描いた小説だ。未明から、翌未明までの二十四時間の間に、現代社会に生きる私たちの直面する諸問題が、細大もらさず描き込まれている。

三分の二くらいまでは筋らしいものはない。現実の時間に回想が挟みこまれ、ある家族の人間関係が主人公の視点で照らし出されていく。それだけでも充分なドラマで、このまま淡々と終ってくれても不足はない、とすら思っていたところに、「事件」が起きる。予兆はあったものの、こんな展開になるとは思いもしなかった。

しかし現実世界で事件が起きるときはこういう感じなのではないか。何か起こりますよ、という前触れがあれば苦労しない。さまざまな要素が絡んで、ふつうなら起きるはずのないことが起きてしまうところに、恐さの本質がある。

ヘンリー・ペロウンはロンドン在住の優秀な脳神経外科医。妻のロザリンドは新聞社の法務を担当している弁護士。ふたりは週に一度、手帳を突き合わせて一緒に過す時間をやりくりする超多忙な夫婦だ。妻との関係はきわめて円満で、同僚が若い女の子と不倫する気持ちがヘンリーにはわからない。

子供がふたりいる。長女はオックスフォード出の新進詩人で、長男は高校中退だがミュージシャンとして成功しつつある。すべてが順調と言っていい。強いて挙げれば、ヘンリーの母が老人性痴呆なことと、ロザリンドの父が自己中心的で扱いにくいことが悩みだが、それらはどんな家族も経験するものだ。

その日、不思議な高揚感とともにいつもより早くベッドから起き出したヘンリーは、エンジンから火を噴きつつヒースロー空港にむかうジェット機を目撃する。「ほぼ十七カ月前、姿の見えない囚われた人たちが虐殺の場所へと空を運ばれていくさまを世界の半分が繰り返し見た」とあることから、ニューヨークの同時多発テロが起きた後の舞台設定なのがわかる。あの事件以来、ただのジェット機でさえテロを連想させる。それが火を噴いて飛んでくるとなれば不安をかき立てずにいられない。

しかし、この飛行機事故はストーリー展開に直接関わってこない。家族が巻き込まれるのはこれとは別な事件だ。その日ロンドン市内で大規模なイラク進攻反対デモがおこなわれる。そのデモが呼び水となっていくつかの偶然を引き寄せ、ヘンリーは家族とともに窮地に追い込まれるのだ。

なんの問題もない家族の日常も薄氷を踏むように危ういものだ。いや、家族関係だけでない。人間そのものが妄想にかられる脆弱な生き物であって、つねに不安から逃れられない。

その意味でこの小説は「不安の解剖図」だ。一日の出来事とそれにまつわる主人公の心の動きを描写しながら、世界情勢への不安、格差社会への不安、病気への不安、家族関係への不安、加齢への不安、というように不安をズームアップしていく。

現代は複雑多岐な不安が人を襲う時代である。だが、不安は人間の属性だから、歴史がはじまって以来ずっと不安にかられて生きてきたにちがいない。不安から自由でいられるのは唯一、なにかに熱中しているときだけなのだ。

主人公のヘンリーの場合、それは手術の現場である。専門用語を駆使した手術場面の迫真ぶりが圧巻だ。診断と手術が別物であるのを実感するに充分だ。手術は職人技の世界であり、知力と経験と判断力を投入した全身の作業なのだ。

家族がおぞましい危機に見舞われた後、彼は病院に呼び出されて手術に駆けつける。あんなことがあった後によく手術など出来るものだ、と読者は思う。とりわけ手術の相手がだれかがわかると唖然せずにいられない。

だが、手術室でヘンリーは忘我の境地で手を動かし、いっとき事件から解放される。そのことの意味はとても暗示的である。現代社会に生きる私たちの姿がそこにあるのだから。

自己を投入できるキャリアを持っていることは現代人の勲章だ。だが、なぜそれが勲章となったのか。収入や地位や自己実現だけが理由ではないだろう。

共同体社会は個を集団に縛ることで人間が本源的に持つ不安を和らげてきた。だが、共同体の崩壊とともに、人は自由という名の不安を背負うことになった。いま私たちは膨大な時間を仕事に割いている。プロフェッションの追求は不安からの逃走という一面を持つ。実際、仕事がなければ生の不安をどう薄めていいかわからないのだ。

読者の関心によってさまざまなテーマが浮き彫りになる作品である。後世に読み次がれていく古典となるだろう。



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