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2008年01月31日

『死刑』森達也(朝日出版社)

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「死刑を語るさまざまな声の記述」

これまで死刑についてまともに考えたことはなかった。本書を読み終えたいまはちがう。さまざまな想念が頭を過る。「死刑をめぐる三年間のロードムービー」と帯にある。死刑という言葉の重さと、ロードムービーのほのぼのした雰囲気は一見そぐわない。著書もその「軽薄さ」は認めている。それでもなお、こういう本があってもいいのではないかと思った。

死刑に関する法律や歴史をおさえつつ、死刑犯のケース、冤罪の問題、犯罪被害者の感情、死刑廃止運動の活動家、死刑囚の弁護人などを取材していく。多くの人が登場する。それぞれが肉声を発している印象がある。

著者の考えも述べられているが、素材のインパクトが大きい。もちろん著者によってセレクトされ、加工を経た素材であり、インターネット上の情報を切り張りしたものとはちがうが、それらを構成して結論を導き出すより、不可視の世界と社会とを仲立ちをしようとする意識が強い。

死刑囚の環境について教えられたことが多かった。彼らは刑務所にいるのではなくて、拘置所に入っているとは知らなかった。死刑囚に与えられる罰はただ一つ死刑の執行であり、それまでは務めるべき刑はないからだ。トイレ付きの四畳半ほどの個室にいて、死刑囚同士のコミュニケーションはない。面会は家族と弁護士以外は許されないし、手紙のやりとりも出来ない(昨年、少し緩和されたようだ)。

ところが、衣食にはある程度の自由がある。食事の制限はなくて、差し入れや自分で購入したものは好きに食べられる。拘置所内に売店のようなものがあって、そこで買えるのだ(その金はどうやって手にするだろうか?)。

服装もそれぞれに任せられる。お仕着せの囚人服があるわけではない。一定の制限はあるがラジオが聴けるし、ビデオを見ることも出来るし、本も読める。就寝時間は決められているものの、電気が消されるわけではないらしい。

これらの説明から、修行僧と入院患者の環境が混ぜ合わさったような状況が浮かび上がってくる。外部との接触は制限されているが、内部での選択はある。外とのコミュニケーションを遮断するのは、管理上の問題もあるだろうが、刑に至るまでの期間を修行のようにとらえる考えがどこかにあるからかもしれない。

刑の執行はその朝に当人に知らされる。伝えてから1時間から1時間40分くらいの間に執行されるというから、心の準備をする間はない。戦後しばらくは数日前に言い渡していたそうだが、告知後に自殺者がでてから、執行までの時間が短縮されたのだ。単に管理上の都合である。この点は改善されるべきだと強く感じた。

刑務官と教誡師を取材した部分は、もっとも読みごたえがあった。元刑務官で著書もある坂本敏夫氏は、拘置所長や処遇部長などと、日々死刑囚に接し、実際に刑も執行する刑務官とは、考え方、感じ方、傷つき方がちがうと語る。

役職にある人にとって、刑の執行は評価のポイントになる。だが、刑務官にとっては苦渋をともなう。彼らの仕事はいつ執行命令が来てもいいように死刑囚の生活を看ることであり、長く過すうちに親族や家族に近い感情が芽生えてくるという。情が移ればそれだけ執行のときが辛い。大変な仕事である。

教誡師をしているカトリック神父Tの発言も印象に残った。彼はこれまで自分が教誡した死刑囚4人の処刑に立ち会っている。みんな落ち着いた態度で感謝の言葉を述べて刑に望んだという。役職者は死亡を確認してハンコを付くと帰ってしまうが、刑務官はその後、精進落としのような会をする。先に上げた処刑への感じ方のちがいがよく出ている。また彼は最後に死刑囚を抱きしめて送るという。人の体温を感じて人生を終えて欲しいと思うからだ。

著者は会う人ごとに死刑を存置すべきか、廃止すべきだか意見を問うている。先の坂本氏は、死刑制度はあっていいが、死刑の執行はなくしたいと述べている。矛盾した言い方だが、私はそれにもっとも共感した。

死を身近に感じつつ生きる時間こそが、人を殺めた者への罰にふさわしいものだと感じられたからだ。それをわたしたちの自由な時間と比較して人権うんぬん言うことは不遜にすら思える。だから制度としては意義がある。ただし最後に訪れる執行については避けられたらいいと思ってしまう。

死刑をもっと生の側面からとらえる視点があってもいいのではないか。著者も取材された人々も、死刑の死の側面にのみこだわって是非を論じているように思えた。
人はだれも死をまぬがれられない。その意味で死刑囚も私たちも同じなのだ。末期癌の患者は、明朝、目が覚めたときに生きているだろうかと思いながら目を閉じるだろう。生まれてすぐに長く生きられないことを宣言された子供は、その恐怖と闘いながら過すだろう。

死刑囚は毎朝、死の瞬間をシュミレーションしている。死が来ることは同じでも、それが他者によって決定され、もたらされる点が私たちとちがう。処刑告知が行われる朝の時間帯は針が落ちてもわかるほどシーンと静まり返るという。そのあと運動の時間が来るが、だれもが顔をほころばせて出てくる。毎日がこんな生と死のせめぎ合いの連続なのだ。

このような極度の緊張と解放が繰り返される生活は、檻の外では到底ありえない。生きつづけるのに非常な精神力がいる。実際、精神に異常をきたす人も出るらしい。
つまり死刑囚は社会で自由に生きているわれわれとはちがう時間を生きているのだ。死が近くにあることで生が押し上げられている。そうした時間の中でこそ、殺された人の味わった恐怖や無念さが想像できるように思える。そこに償いの意味があるように感じる。

冤罪・誤判は必ずあると複数の人が答えている。ということは無実の人が殺される可能性があるということだ。これについてはどう考えたらいいのだろうか。冤罪はあってはならないが、冤罪を絶対的理由にして死刑廃止を主張するのも飛躍しすぎなような気がする。

冤罪の実情についてももう少し説明があってもよかったかもしれない。冤罪は昔は多かったが、いまはそれほどでもないはずだという漠然とした印象があるが、事実はちがうかもしれない。近年になって死刑が確定された死刑囚の中に、無実を主張している人はいるのだろうか。

また無期囚の取材はなされてないが、無期囚と確定死刑囚とでは生き方や生活態度がちがってくるものなのか、そんなことも知りたいと思った。無期囚の平均在所は25年1カ月で、仮釈放されない者もいる。彼らが服役中にどんなふうに心境を変化させていくかも、死刑を知る上で重要なことのように思える。

最後に著者は、死刑を論理的に突き詰めることを止めて情に向かう。死刑に対してどんな情緒を持つのかと自らに問いかける。死刑宣告を受けた若者に会いに行く。彼は9時に就寝だが、毎日布団の中で遅くまで本を読んでいると話す。そんなに本が好きなのと問うとニコニコ笑って、「だって、少しでも遅くまで起きていれば、そのぶん長く生きられますから」と答える。

著者は彼を死なせたくない、敢ていえば本能に近い、と述べ、情緒に溺れていることを自覚しつつ、その情を根拠に死刑廃止の立場を表明する。やや結論を急きすぎた印象があった。

だが、本当に価値があるのはこの結論ではなく、「少しでも起きていればその分長く生きられる」という若者の言葉が書き留められたことなのではないか。思わず沈黙するほどの重みを持っている。それは著者によって引き出され、記されたものである。非常にすぐれた記述者である証だ。彼が書かなければ、だれもこの若者がこんなふうに感じていることを知りえなかったのだから。そのことがなによりも素晴らしいと感じた。


2008年01月27日

『オン・ザ・ロード』ジャック・ケルアック(河出書房新社)

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「先見に満ちた旅の記録」

これまで『路上』の名で出ていたジャック・ケルアックの代表作が、原題のまま『オン・ザ・ロード』として新訳で出版された。「オン・ザ・ロード」という言葉には単に道路の上にいるというだけではなく、「旅行中」「家出中」「放浪している」「巡業中」など、動いている状態が含まれていると訳者の青山南が解説している。

「旅」という日本語もかつては「オン・ザ・ロード」の語感に近かったのではないか。よそから来た人は、目的がなんであれ、すべて「旅人」だった。沖縄の古老はいまも出稼ぎに出ていたことを「旅に出てました」などと言うことがあり、そういう表現に接するたびに、旅や旅行が観光の意味に限定されたのがつい最近であることに思い至るのだ。
 
『オン・ザ・ロード』はその名のごとく旅の物語であり、徹底した移動の記録である。語り手のサルも、親友のディーンも息つくひまもないくらい、東から西へ、またその反対に車を飛ばす。どうしてそんなに動かなくてはらないのか。

ディーンは歓喜も、怒りも、自意識も、鋭さも、快感の追求も、知識への渇望も、すべてが人並ではない。その過剰なエネルギーは方向性を持たず、ただ一瞬一瞬に放たれるだけだ。経験を積み上げてなにかを産み出すすべを知らない、人生の濃さをたったいま実感できなければだめだと思ってしまう、待てない男なのだ。

サルの移動はディーンに出会ってしまったことで決定づけられた。作家志望の学生で、マンハッタンを望むニュージャージー側におばと住んでいる。これまで彼が出会っていたのは生半可なインテリばかりだった。

「ぼくにとってかけがえのない人間とは、なによりも狂ったやつら、狂ったように生き、狂ったようにしゃべり、狂ったように救われたがっている、なんでも欲しがるやつら、あくびはぜったいにしない、ありふれたことは言わない、燃えて燃えて燃えて、あざやかな黄色の乱玉の花火のごとく、爆発するとクモのように星々のあいだに広がり、真ん中でポッと青く光って、みんなに「ああ!」と溜め息をつかせる、そんなやつらなのだ」

ディーンはまさしくそうした種類の人間だった。本で仕込んだ屁理屈を並べたてるのではなく、社会の中に突進していってパンと愛をひっつかむ。欲望をたくさん抱え込んでいて、それを隠そうともしない。

ディーンをサルは「西部の太陽の子」と呼ぶ。社会をこきおろすばかりで生きる興奮を露にしない、東海岸の学生に欠けている野生味を彼は持っていた。その魅力は未知で抗し難いものだったのだ。東と西のテーマが隠れている。その意味で、東部出身者であるサルがディーンという先達を得ておこなう西部開拓物語という読み方もできるだろう。

すべての出来事が男子の視点で描かれているのも「西部」ふうと言えるかもしれない。女子はつねに彼らの相手として登場し、身勝手ぶりに怒り、愛想をつかし、でも彼の子供を産み、追い出したり受け入れたりを繰り返す。

もっとも彼らの男女関係は束の間のものであっても、おざなりの冷たさがない。肉と肉が触れ合う暖かみにあふれている。忘れがたいひとときにしたい、という人間的な意気込みを感じさせるのだ。サルは言う。

「アメリカの男と女はいっしょにいてもひどく淋しい時を過している。すれてくると、ろくに話もしないでいきなりセックスに入りたがる。まともに口説こうともしない」

第1部の旅はロサンゼルスにいるディーンをサルが訪ね、第2部はひょっこりニューヨークに現われたディーンと共に彼の車でサンフランシスコを目指す。こあたりでふたりの関係は煮詰まり、もはやこれまでかと思われたが、第3部でサルはふたたびディーンに会いにサンフランシスコに出向き、ふたりでニューヨークにやって来る。第4部ではディーンをニューヨークに置いてサルひとりが旅立つが、デンヴァーに滞在しているといきなりディーンが現われ、一緒にメキシコに行くことになる。

このメキシコのくだりは本書の魅力のひとつだ。未知の土地を全身で受容する歓びにあふれている。これはその土地に暮してしまっては目減りする、オン・ザ・ロードにいてこそ体験できる歓喜だ。

「生まれて初めて、気候というものが、ぼくに触れてくるものでも、ぼくを愛撫するものでも、震えあがらせたり汗をかかせたりするものでもなくなって、ぼくそのものになっていた。大気とぼくは一体になっていた」

始原に遡るメキシコの旅に比べると、大陸横断には逃避的なニュアンスがある。モラルへの抵抗、日常の嫌悪、終末の予感が色濃い。現実との折り合いのつけ方がわからず、飢えたようにリアルなものを求めつづける。そのありさまは、現代を生きる私たちの姿にとてもよく似ている。

ケルアックが第1部から第3部までの旅をしたのは1940年代、第4部は1950年に行われ、紆余曲折の後に1957年に本となって世に出た。思ったより早い時期に書かれているのに改めて驚く。『オン・ザ・ロード』が世界中の若者に読まれるようになったのは60年代後半のピッピームーブメント以降であり、その時代の作品のように思われがちだからだ。当時すでに出て十年以上もたっていたのだ。いかに先見的な作品だったかがわかる。

日本でも多くの表現者がこの作品に影響を受けたはずだが、私が思い浮かぶのは写真家・森山大道の仕事である。彼はこの本に刺激されてヒッチハイクで国道を移動しながらシャッターを切った。1968年のことである。登場人物たちの生き方は無意味で、非生産的にもかかわらず、それを読んだ者は生産的になるという創作上の真実がここに見出せる。

本書は作家の池澤夏樹氏が個人編集した世界文学全集の第一巻として刊行されたものだ。世界各地の文学に目を配った興味深いセレクトの作品が、新訳や改訳版でこれから続々と出るらしい。解説も月報も充実している。とても楽しみだ。

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2008年01月14日

『土曜日』イアン・マキューアン(新潮社)

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「人の不安の根源に迫る」

正月にイアン・マキューアンの新作を読んで、早くも今年のベストが決まってしまった。いや、二十一世紀の名著に入る傑作かもしれない。

『土曜日』は文字どおり、ある土曜日の出来事を描いた小説だ。未明から、翌未明までの二十四時間の間に、現代社会に生きる私たちの直面する諸問題が、細大もらさず描き込まれている。

三分の二くらいまでは筋らしいものはない。現実の時間に回想が挟みこまれ、ある家族の人間関係が主人公の視点で照らし出されていく。それだけでも充分なドラマで、このまま淡々と終ってくれても不足はない、とすら思っていたところに、「事件」が起きる。予兆はあったものの、こんな展開になるとは思いもしなかった。

しかし現実世界で事件が起きるときはこういう感じなのではないか。何か起こりますよ、という前触れがあれば苦労しない。さまざまな要素が絡んで、ふつうなら起きるはずのないことが起きてしまうところに、恐さの本質がある。

ヘンリー・ペロウンはロンドン在住の優秀な脳神経外科医。妻のロザリンドは新聞社の法務を担当している弁護士。ふたりは週に一度、手帳を突き合わせて一緒に過す時間をやりくりする超多忙な夫婦だ。妻との関係はきわめて円満で、同僚が若い女の子と不倫する気持ちがヘンリーにはわからない。

子供がふたりいる。長女はオックスフォード出の新進詩人で、長男は高校中退だがミュージシャンとして成功しつつある。すべてが順調と言っていい。強いて挙げれば、ヘンリーの母が老人性痴呆なことと、ロザリンドの父が自己中心的で扱いにくいことが悩みだが、それらはどんな家族も経験するものだ。

その日、不思議な高揚感とともにいつもより早くベッドから起き出したヘンリーは、エンジンから火を噴きつつヒースロー空港にむかうジェット機を目撃する。「ほぼ十七カ月前、姿の見えない囚われた人たちが虐殺の場所へと空を運ばれていくさまを世界の半分が繰り返し見た」とあることから、ニューヨークの同時多発テロが起きた後の舞台設定なのがわかる。あの事件以来、ただのジェット機でさえテロを連想させる。それが火を噴いて飛んでくるとなれば不安をかき立てずにいられない。

しかし、この飛行機事故はストーリー展開に直接関わってこない。家族が巻き込まれるのはこれとは別な事件だ。その日ロンドン市内で大規模なイラク進攻反対デモがおこなわれる。そのデモが呼び水となっていくつかの偶然を引き寄せ、ヘンリーは家族とともに窮地に追い込まれるのだ。

なんの問題もない家族の日常も薄氷を踏むように危ういものだ。いや、家族関係だけでない。人間そのものが妄想にかられる脆弱な生き物であって、つねに不安から逃れられない。

その意味でこの小説は「不安の解剖図」だ。一日の出来事とそれにまつわる主人公の心の動きを描写しながら、世界情勢への不安、格差社会への不安、病気への不安、家族関係への不安、加齢への不安、というように不安をズームアップしていく。

現代は複雑多岐な不安が人を襲う時代である。だが、不安は人間の属性だから、歴史がはじまって以来ずっと不安にかられて生きてきたにちがいない。不安から自由でいられるのは唯一、なにかに熱中しているときだけなのだ。

主人公のヘンリーの場合、それは手術の現場である。専門用語を駆使した手術場面の迫真ぶりが圧巻だ。診断と手術が別物であるのを実感するに充分だ。手術は職人技の世界であり、知力と経験と判断力を投入した全身の作業なのだ。

家族がおぞましい危機に見舞われた後、彼は病院に呼び出されて手術に駆けつける。あんなことがあった後によく手術など出来るものだ、と読者は思う。とりわけ手術の相手がだれかがわかると唖然せずにいられない。

だが、手術室でヘンリーは忘我の境地で手を動かし、いっとき事件から解放される。そのことの意味はとても暗示的である。現代社会に生きる私たちの姿がそこにあるのだから。

自己を投入できるキャリアを持っていることは現代人の勲章だ。だが、なぜそれが勲章となったのか。収入や地位や自己実現だけが理由ではないだろう。

共同体社会は個を集団に縛ることで人間が本源的に持つ不安を和らげてきた。だが、共同体の崩壊とともに、人は自由という名の不安を背負うことになった。いま私たちは膨大な時間を仕事に割いている。プロフェッションの追求は不安からの逃走という一面を持つ。実際、仕事がなければ生の不安をどう薄めていいかわからないのだ。

読者の関心によってさまざまなテーマが浮き彫りになる作品である。後世に読み次がれていく古典となるだろう。



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