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2007年11月28日

『「三十歳までなんか生きるな」と思っていた』保坂和志(草思社)

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「思考の散歩道」


「これは自問自答の本です」と最初にある。「私にとって書くことは考えつづけることだ」とも記されている。なるほど、結論と見えたものは、すぐに新しい問いに転じてつぎの章にバトンタッチされる。山頂を目指すのではなく、くねくねと森の中を行くように。

半分を越える第三章あたりから、思考のネジがギリギリと巻かれていく。前の章ではじめられた、広さを称揚する世界観を再度批判した「大は小より脆弱である」や、組織の合理主義に抗して「身内に不幸があったら一日余分に休もう」「ペットが死んで悲しんでいる人がいたらその人の話に耳を傾けよう」と提案する「冷淡さの連鎖」あたりは、まだやや月並みな印象があるが、三つ目の「「命」について」でいきなり思考が離陸する。

「自分が生まれていない可能性」のことを考えはじめるのである。十代の頃からこの気持ちに襲われるようになって、そうすると同じ電車に乗り合わせている人がすべて自分とつながっているような感覚に囚われたという。電車の中のだれかが自分の父か母とすれ違っていたら自分は生まれなかったと思うと、世界の深淵を垣間見た気持ちになった。

もっとも、ふだんは「自分の生まれていない可能性」なんて考えない。考えたらとても日常生活が送れないが、それは「自分に与えられた状況を動かしがたいものだと感じる」人間の心の特性によるものだ。だが、悲劇的な出来事に遭遇すると、その動かしがたさが肥大し、あのときああすればよかった、こうしたら免れたのではないかと思い惑う。

そうした状態のとき、出来事の最中とはまったく別の場所に立っている。状況の外から過去形として俯瞰しているのであり、ということは「自分の生まれていない可能性を考える」ことも同様に「自分が生きている状態をパッケージして、その外に立つという誤りを犯してしまっている」のではないかと思い至る。だが、最後にはこう述べるのだ。

「それにしても「自分がうまれていない可能性」をリアルに感じる瞬間が、吸い寄せられるような魅力を持っていることは否定しがたい……」

くねくねした道を歩いていたら、知らないまにもとの場所にもどっていたというようなエンディングである。だが、もどってしまったから、歩いたことに意味がないというのではない。目的地に急いでいるならそうかもしれないが、歩くことそのものが目的なら、もどることはむしろ必然とも言える。


第四章では、空間と時間は似たものとして混同しされがちだが、両者はまったく別物で比較の対象にはならない、ただ空間は見えてしまうから「わかった」という錯覚をもちやすいが、時間は目の前にないからわかりにくい、と説き、こう結ぶ。

「人間とは自分が生きた、過ぎ去った時間に向かって無数の触手を伸ばす生き物なのだ、と考えてみると、「わからない」とばかり言っていた時間が自分の身体の延長のようになって、自分の生が別の意味を持って新たにはじまるように思われてこないだろうか」

散歩の時間を連想させるような言葉だと思った。散歩の楽しさは歩いている最中にあり、その時間のなかに喜びが詰まっている。本書も筆者の思考の道筋をたどりながら読みすすんでいく時間そのものが楽しく、行きつ戻りつする思考が身体を活性化させてくる。

著者は「自爆テロも辞さず」に分類されうるタイプだと自認していたが、小学校で同じクラスだった女友達からに二十八歳のときに「保坂君は昔から、ぐだぐだ、テンションの低い子どもだったわよ」と言われたという。たしかに最初はだらだらはじまり、しだいにテンションを上げていく、その上げ方の執拗さに「自爆テロも辞さず」の構えがうっすらと漂っていて、読み終えて本を置いたとき、しみじみとはほど遠い熱さが体に残った。



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2007年11月19日

『son of a bit』内原恭彦(青幻舎)

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「デジタルな状況を生き抜く覚悟」

最初のページにあるのは、廃品を寄せ集めてブルーシートで覆った、雑草だらけの河原にある小屋。ページを繰ると、今度はアップで撮った廃物が目に飛び込んでくる。プラスチックのオイルタンク、ロープ、電気の笠、竹箒、錆びた機械。つぎのページはタンクローリー車で、そのつぎは張り付いたタイ文字のノートと、それをはがす手。

写真はそれからアジアの街角へと移って行く。行き場のない人やモノたちが吹き溜まるスラムがつづき、オイルと排気ガスと腐った食べ物の臭いに取り囲まれる。地名が明かされないことが、かえって都市の普遍性を直感させる。

ここから矛盾や悲惨さを感じとるには、見る側が別の場所に居なくてはならないが、写真の発するものが自分と地続きで言葉が成り立たない。批評が追いつかない速度感があるのだ。

ページが進むうちに生き物の気配に惹き付けられた。ただ廃品の氾濫を見るだけでなく、そこにある生の痕跡を見つけて反応しようとする。人がいる。犬がいる。蜂がいる。豚がいる。鶏がいる。快適とはいいがたい場所に、増殖のエネルギーが渦巻いていることに圧倒される。

合間に挟み込まれたノートパソコンに見入る人の写真が暗示的だ。整頓されたオフィスではなく、物の散乱する汚れた部屋やビルの屋上でキーを叩いている。顔が青白く照らされ、スクリーンを見ているより、むこうから来るものにその人が見られているような印象を受ける。

都市はいったん生まれてしまうと制御がきかず、それ自身の運命を生きて行くしかない存在だ。人が造ったにもかかわらず、人の手を離れて増殖しつづける。そうした都市のイメージは、世のデジタル化が進んだことで、より一層明確になってきたのではないだろうか。

インターネット上を流れる大量な情報と、それがクリックひとつで消去されたり更新されたりするスピード感は、都市の増殖のエネルギーに驚くほど酷似している。だれもがこの小さな函の中に都市を感じているはずだ。ヒマラヤにいようが、パタゴニアにいようが、この平たいボックスがあれば、都市はすぐそばに立ち上がる。ジャンクヤードのパワーは、インターネットのアナーキーさと同質なのだ。

著者の内原恭彦は東京をはじめとしてさまざまな国の首都を、毎日6時間くらい自転車でさまよい、イメージの捕獲をつづけているという。フィルムではあり得ない膨大な量の撮影を、デジカメが可能にしたと書いている。デジタルを自明なものとして、その状況を身に引き受け、新陳代謝するようにシャッターを切りつづけているのだ。デジカメ映像の良否を議論するようなのどかさとまったく別の位置にいるのがわかる。

だが、そんなふうにやみくもに視覚を更新しつづけるなんて、狂気じみた行為ではないか。写真集にはそれがもたらす不穏な空気が漂っている。デジタルな状況のまっただ中から届けられた映像というのを、これほど強く印象づける作品集に出会ったのははじめてだ。


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