« 2007年09月 | メイン | 2007年11月 »

2007年10月28日

『貧しい音楽』大谷能生(月曜社)

貧しい音楽 →bookwebで購入

「複製技術を介した音楽体験を考察する」

私は本書にインタビューが載っているミュージシャンをひとりも知らず、
しかもテクノやアブストラクト・ヒップポップやミュジーク・コンクレートなるジャンルにもうとい。
書評するのははなはだおこがましいのだが、
それでもなにがしか書いてみたいと思ったのは、
「複製品」におおわれた私たちの日常について
思考が広がっていく喜びがあったからである。

現代生活の中で、身体が刻印された生な芸術品を数え上げるのはむずかしい。レコード、写真、映画など、繰り返し鑑賞できる複製品に取り囲まれている。
本書はそうした状況を前提に音楽を論考したものだ。
複製芸術とオリジナルのちがいを問うのではなく、
聴くことをも含めた音楽的体験を問題にしている。

私たちは二重化された「死の空間」に身を映しながら音楽を享受している、と著者は言う。
音がスコアになったときに身体と切れ、
録音されたときにもう一度切れる。
「ふたつの「死の空間」のあいだを多様に乱反射していく音のイメージの広がりこそ、二〇世紀音楽の豊穰さ」だと語る。

語り言葉が文字になったときの「死」と、
それが印刷されたときの「死」、
あるいは人の姿がフィルムにとどめられたときの「死」と、
プリントになって可視化されたときの「死」というふうに、
他のジャンルに置き換えてみるとわかりやすいかもしれない。

このように、複製作品はいくつもの「死」を経過して私たちの目の前に現われ、「見」たり「聴」いたりする行為を通してその「死」が行く通りにもよみがえるわけだ。
「生」そのものを直接享受していた時代と比べると、
記憶の回路が複雑化するのは明らかであり、
「乱反射」という表現は、
そうした多様化した記憶の関係性を言っているのだろう。

写真について考えることの多い私には、
「ホロコーストを録音するために/耳のために夜を用意する」
という聴覚イメージと視覚イメージを比較した最終章が、
とりわけ興味深かった。

聴覚のイメージは音を発している対象そのものから作られるが、
視覚のイメージは対象物自体ではなく、
光源とその反射物との組み合せによって生成される。
だから視覚イメージはスクリーンに投影してまわりとシェアすることが可能でも、
「無数の太陽につねに晒されてる」のも同然の聴覚イメージにはそれができない。

また聴覚は瞼を閉じることでイメージを切断できるが、
聴覚にはそうではなく、
生きているかぎり音が聞こえ、
その音の震源にむかって意識が作動しつづける。

「聴覚イメージにはそれが変形されるための夜が用意されておらず、鼓膜にはそれを閉ざすための瞼もない」。

この言葉は、視覚イメージにおける想像のあり方と、
聴覚イメージにおける想像のあり方とが原理的にちがうことを、
強く印象づける。

章タイトルの「耳のために夜を用意する」とは、
このような違いに対して繊細でありたいという著者の意思表明だ。
聴覚イメージのモンタージュは、聴覚ほどたやすくないゆえに、
多大な想像力を必要とする作業なのである。

→bookwebで購入

2007年10月15日

『NEW DIMENSION』石川直樹(赤々舎)

NEW DIMENSION →bookwebで購入

「平面と直線の世界以前の記憶」

北海道のプゴッペ洞窟にはじまり、南米のパタゴニアに終る旅の記録写真である。
旅の目的は壁画と洞窟を訪ねることだが、目的地だけでなく、
そこに行着くまでの過程も一緒に撮られていて、
気がつくとページをめくる手がだんだんゆっくりになった。

子供のころ、ラスコーやアルタミラの洞窟に夢中になったことがあった。
図画の時間に粘土の課題を与えられ、洞窟に描かれていたバイソンを作ろうと燃えたが、いくら奮闘してもあのキレのいいラインが出なくて無念な思いをした。
なぜあんなに動物の壁画に魅了されたのかいまもってわからないが、
写真を見ているうちに、あのころと同じ凝視の視線にもどっていた。

サバンナのシマウマやウシ、北の地のカリブーの群れ、岩の上にたたずむラクダなど、生きている動物の写真も出てくる。
知らないまに眼が角や胴体や足のラインをなぞっている。
その反応は壁画に対しても同じで、
形ぜんたいを見るのではなく、ラインのもつリズムを呼吸している。

自然の造形物はラインによってその存在を他と区分している。
それは静止したラインではなく、たえず動き変化しているラインだ。
そしてそのラインにはぜったいに直線がない。

そのことを気付かせる興味深い写真があった。
フランスのドルトーニュ地方にある、岩壁の窪みを利用して造られた民家の写真である。
まるで岩に擬態するように石積みの建物がへばりついている。
背後はデコボコした岩壁、人の手の造ったファサードだけが平らで、
曲線と直線、平面と曲面の関係が馴染んでいるような、拮抗しているような、えも言われぬ面白さをかもしだしている。
改めて、自然界には平面も直線もなくて、かならずデコボコだらけで歪んでいることを思い知った。

洞窟に描かれる壁画も同じで、
キャンバスのような平らな場所に描かれたものはひとつない。
凹凸のあるざらついた面、垂直でなくて天井のようにかぶさっている曲面に描かれ、絵のあるところと、ないところの明快な境界線がなく、
絵のある場所は、そのまま洞窟の出口につづいて、外部の岩肌に溶け込んでいく。

そのせいか、壁画には何かの上に描いたというより、
奥にひそんでいるものを取り出したような感じがつきまとう。
そう、スライドプロジェクターの光をスクリーンに当て損なって、
まわりの家具や壁に像が映ってしまったときの、
空間にイメージが満ち満ちているあの感覚に近いのだ。

直線で区切られてないということは、どこまでが外部でどこまでが内部かが判然としない状態に身を置くことであり、
そこでの知覚は当然のことながら、直線と平面で隔てられた空間とはちがってくるはずだ。

写真集の最後にパタゴニアの洞窟に残る無数の掌の像が登場する。
岩に手を置いて口に含んだ顔料を吹きつけて形抜きしたもので、
「ネガティブ・ハンド」と呼ばれている。
世界各地にこの像が見られるそうだが、
不思議なのは、手に顔料をつけて押し付けることも出来たはずなのに、
なぜそうしないで陰画を作ったのかということだ。

顔料をぬった手を岩に押しつける陽画の行為には、
何かを刻印するような意志的なものが感じられる。
それまでなかったものを加えるというニュアンスが濃いのだ。
ところが陰画には、加えるのではなく、抜き取っている感じがある。
あたかも岩の中にあるものを取り出すように、手形を抜いている。
 
岩の内部と外部に隔たりがなく、自在にその中を往還できるというのが
古代人の感じる世界観だったのだろう。
つまり岩はただ岩として自立してあるのでなく、
生き物の死骸や糞を含んだ生命とつながった存在であり、
人間と等価だった。
ネガティブ・ハンドはそうした考えの顕れなのかもしれない。

おそらく、平面と直線の世界に移行したとき、わたしたちは自然から断ち切られ、自分の内部を行き来する回路をも失ったのだ。
壁画はそんな置き去りにした記憶をよみがえらせ、
私たちの心を騒がしつづける。

→bookwebで購入