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2007年08月17日

『千年の祈り』イーユン・リー(新潮社)

千年の祈り →bookwebで購入

「ことばの「引っ越し」と潔い孤独」

イーユン・リーというはじめて名前を聞く作家の短編集を手にとる。
中国系の女性作家であることが、カバーの著者紹介からわかる。
1972年に北京で生まれ、96年に渡米し、 現在はカリフォルニアのオークランドに住んでいる。

アメリカに住んで10年ちょっとなのだから、
中国語で書いているのだろうと思って読みはじめたが、
途中でそうではないような気がしてあとがきを確かめると、
英語で書かれていた。
難しい言い回しは使わずに、短い言葉で的確に表現した文章。
ペダンティズムとは一切無縁だ。

最初の「あまりもの」という作品は、
独身のまま歳を重ねた林ばあさんが主人公。
勤めていた縫製工場が倒産し、世話好きの友人の紹介で、
妻と死別した病気の老人と再婚する。
熱心に看病するも、夫は二ヶ月で逝き、再び独り身に。
しかし夫の息子が全寮制の学校の寮母の口を斡旋してくれ、再就職する。
すると今度はそこで、親が離婚し、父親が新しい女性と一緒になったために厄介払いされて寮に入れられた少年に、思い入れるようになる。
人を愛したことのない林ばあさんは、
相手が子供であれ、気遣ったり、思いやったり、その反応に一喜一憂したりと、恋愛にも似た感情を抱くのだ。

読みながらアゴタ・クリストフの作品を思い出したのは、
感情をまじえない淡々とした文体ゆえだろう。
クリストフはハンガリー動乱のときに故国を脱出し、
亡命先のスイスのでフランス語を覚え、
五十歳をすぎてフランス語で作品を書くようになった。
語彙や表現が制限されている中で書いた切実さが、
言葉に直球の威力をもたらしている。

アゴタ・クリストフの作品世界を重ねあわせたのは、
「あまりもの」が寓話的な性格を持っていたことも理由だったが、リーの作品を二つ、三つと読み進むうちに、
この作家がまったくちがうタイプの作品も手がけているのを知ることになった。

表題作の「千年の祈り」は、アメリカに暮す娘を、
中国にいる父親が訪ねてくるという、
作家自身の生活環境に近い内容だし、
アメリカでソフト開発で成功している男が、
北京にいる母親のもとに里帰りする「息子」は、
中国の現代社会をかいま見させてくれる面白さがある。

かと思えば、川に投げ込まれて死んだ息子の仇をとって、
一七人を殺害した男のことを友人たちが回想する「柿たち」は、
全編がほとんど会話で成り立っている、
卓越した発想と技巧をうかがわせる特異な作品だ。

テーマに即してさまざまなスタイルを書き分け、
さりげなく本質に踏み込んで人生の不条理を描きだす。
読みやすく、美しい文章だが、それだけではないのだ。
見た目は細いのに、内部にしっかりした骨をもった腕に
つかまれるように一篇ごとに引込まれていく。

一九七二年生まれの作家が、これほど鋭い人間観、歴史観を
持ち、作品化していることに驚くのだが、
十七歳で天安門事件を遭遇したり、
免疫学の研究途上で文学に転向したり、
故国を離れて異文化の中で暮したりという起伏ある人生が、
世界に対するゆるぎない視座を築かせたのだろう。

リーは英語で書いた理由について、
中国語では自己検閲して書けなかったと語っている。
具体的に何についての「自己検閲」なのかは判らないものの、
母国語で書くときに、意識の流れをブロックするものがあったことが想像できる。

「千年の祈り」に、父親に対しては無口な娘が、
男に英語で電話しているときにはやけ闊達になり、
そのことに気付いた父親がなじるシーンが出てくる。
娘は、「自分の気持ちを言葉にせずに育ったら、ちがう言語を習って、新しい言語で話すほうが楽なの。そうすれば新しい人間になれるの」と答える。

新たな言葉を獲得したことで、リーは「新しい人間」になったのだろうか。ともあれ、ひとりの作家が誕生したことは明らかである。
もしかしたら、このような再生は、男性作家より女性作家のほうがしやすいのかもしれないとも思った。

「千年の祈り」の娘は英語を話すとおしゃべるになるが、
リーの文章は完全に饒舌の対極にある。
ことばの「引っ越し」をすることで、きっと多くを捨てられ、
初心にもどれたのだ。

言語を変えるのは、あるコンテクストを抜け出ることである。
しかしリーは脱出のあとに別のコンテクストに移行するのでなく、軽い身のまま、ひとりで立つほうをとった。
本当に必要なものだけを選びとることを知った人の軽みと潔さ。
ことばが屹立した文章には、その孤独な強さが漂っていて、
読むほうの姿勢もしゃんとしてくるのである。



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