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2007年08月12日

『ハワイ』森山大道(月曜社)

ハワイ →bookwebで購入

「ハワイの彼方にある孤独」

世界の観光地で、ハワイほど陳腐なイメージを担っているところはないだろう。どちらにご旅行へ? と聞かれても、ハワイだとは言いたくない、そんな感じがある。
あらゆるものが旅行者のためにお膳立てされ、消費されるのを待っている、文化もなにもない、スカスカの観光地。 そんなところに行くなんて、わたしはアホのミーハーです、 と告白しているようなものではないか……。

そのハワイに、森山大道が五度にわたって出掛けていき、
一冊の写真集を作った。
新宿のような魑魅魍魎の跋扈する暗黒街を撮る写真家が、
どうしてあんな健康指向のリゾートに出掛けていったのか、
まったく解せないと首を振る人がいても、不思議はない。
森山大道とハワイとの関係性は一見、どこにも見当たらないのだ。

あるいは森山がかつて熱海を撮ったことを覚えていて、
それを重ね合わせて理解する人も、いるかもしれない。
ワイキキを熱海に見立てて、熱海の国際版を撮ろういう魂胆で、
森山ばりのハイコントラストのプリントで、ハワイの猥雑さが映像化されるにちがいない、と。

だが、4センチほどの分厚い写真集を広げているいま、
そうした目論みが見事に破られている小気味よさを感じる。
たしかにここに撮られているのは紛れもないハワイである。
だが、きめ細かな視線の先に浮かび上がってくるのは、
ハワイという固有名詞を超えた、島空間の孤独だ。
写真家の眼は、イメージの海を超えて裸の島に到達している。
かつてハワイをこのように見た人はいなかった。

写真集の中ほどに、小さな無人島の全景を海上からととらえた写真がある。
海は黒く焼き込まれ、クジラのような形をした島の上空には、
雲が低く垂れ込めている。
森山のハワイを見る視点が、ここに象徴されていると言っても過言ではない。

なにもなかった太平洋上に、海底のマグマが吹き上げるようにして出来た陸地。それがハワイの島々だ。
このクジラ形の島には、たった今海中から盛り上がってきたような不気味さが漂い、島が生まれる現場に立ち合っているかのようだ。

実際に現場に行っても、ただ小さな島が海上に浮かんでいるだけのはずである。このような写真を産み出したのは、森山大道の透視力だ。なんの変哲もない風景に、島の成り立ちを幻視したのである。

人々の抱くハワイは、さまざまなイメージの集積で成り立っている。フラダンス、レイ、ビーチカルチャー、アロハシャツ、ハワイアンミュージック、高級コンドミニアム、芸能人、新婚カップル、ゴルフ客、日系人など、雑多なイメージが重なり、コピーされ、夢のハワイ像ができあがった。

はじめて訪れた土地でわたしたちは、まずそれらの既存のイメージを手がかりに街を歩こうとする。陳腐と知りつつも、それをとっかかりにするしか動きようがないのだ。
ハワイに降り立った森山も、まずはその作業をしたはずだ。
映像感覚にすぐれ、イメージハンターとして場数も踏んでいるから、
未知の土地を映像的に処理することは、
彼にとって少しもむずかしくないはずだ。

だが、その興奮は長くは持たないだろう。
ワイキキ海岸を行き来し、ホノルル界隈をドライブすれば、
すぐに退屈し、行き詰まる。
ハワイのイメージはオアフ島のごく限られた場で量産される、
薄っぺらな書き割りにすぎないのだ。

もっとも、そうした消費されるイメージだけを蒐集して、
ハワイを批評的に映像化することだってできたはずだが、
森山はその方法はとらなかった。
そうではなく、書き割りの背後に踏み込むほうを選んだ。
厄介で忍耐のいる作業だったことが想像できる。

イメージのストックが尽きて、なにを見ても肩透かしを食ったような気がするとき、なかなかシャッターが押せなくなるものだ。
たとえ押しても気持ちが高揚しないから、次につづかず、
終ってしまう。
ハワイくんだりまでやってきて、結局はなにもつかめないまま終るのではないか、とそんな不安が兆したこともあっただろう。

帯の裏側に載っている、ハワイ島のヒロの町について森山の書いた短い文章には、そんな戸惑いのようなものが伺える。
はじめてヒロを訪れたとき、町のたたずまいのあまりのわびしさに言葉を失ったという。
ヒロは日系人が切り拓き、定住した町として知られるが、
彼らが働いた巨大なサトウキビ農園はいまはなく、
海岸に沿ってちっぽけなダウンタウンがあるだけだ。

「しかしカメラを手によるべもなくヒロの町をほっつき歩くうちに、ぼくはしだいに、この町に不思議な愛着をおぼえはじめていた。(中略)それは、遠い昔のある日に、”たしかにここを歩いていたことがある”といった、どこかぼくの躯の細胞の網目からにじみ出てくる奇妙な懐かしさなのである。見た、という既視感ではなく、居た、という感覚なのだ」

この懐かしさの源泉を、森山の過去に求めても見つからないだろう。これは経験に拠ってない感情だ。
島にたどり着き、家を建て、田畑を耕し、自分の肉体を頼りにわずかな手だてで生きてきた人間たちの営みの記憶に、気持ちが一瞬ショートする、そんな感覚だったのではないだろうか。
生活の始原を想像させるにおいがヒロの町にあったのだ。

そうした生活の痕跡を、さらにさかのぼってみれば、
まだ人が訪れていない無人島の記憶、
海中から盛り上がったばかりの島の姿にたどりつくだろう。
「懐かしさ」の根はとても深いところまで届いている。

裏扉には、クジラ形をした無人島と対を成す写真が載っている。
ホノルルのダウンタウンを、高台の草地から眺め渡したものだ。
家々の屋根が白く光り密集する向こうに、高層ビル群が連なり、
そのはずれにダイヤモンドヘッドの断崖が鋭角を描いている。

この写真を見ていると、わたしたちの抱く「ハワイ」のイメージが、
この草原からあの岬までのあいだに詰まっているのを感じる。
海上に浮上してできた陸地が、ビルの密集する都市となるまでのあいだに、さまざまなイメージ群が生産され、そのイメージを手がかりに、
いまこのときも世界各地からハワイを目指して人が流れ込んでくる。
だが、最初は偏西風の吹き抜けるただの島だった。
奇岩と断崖と砂浜に囲まれた無人の島だったのだ。
草原に立つ写真家は、そうつぶやきながらシャッターを切っているように見える。

森山大道の撮影は実にシンプルで、小型のコンパクトカメラを片手に、ひたすら平面移動をつづけるものだ。
新宿であっても、ヴエノスアイレスであっても、ハワイであっても基本的なやり方は変わらない。
歩き回って気になるものにシャッターを押しつづける、
とそれだけだ。

そして暗室に入ったとき、路上の徘徊者から、もうひとり別の人格が抜け出て新たな成果を加えるのだ。
路上にあっても幻視する瞬間はあるだろうが、
彼がその抜きんでた透視力をもっとも発揮するのは、
現像液のにおいが漂う暗い小部屋の中なのだ。

クジラ形をした無人島は、引き伸ばし機のライトを浴びたとき、
海中から姿を現した出自を明らかにする。
ただの島影から、太古の時間が導きだされる瞬間だ。
もちろん、それが出来るためには、ハワイへの座標軸が定まっていなければならない。そして、その視座は路上でしかつかみとれないものだ。
路上と暗室は、写真家の意識を循環させる二大装置なのである。

森山には、モノの原形質を見ようとするところがあるようだ。
どんな土地にあっても、歴史書には出てこない、無名の人間の雑多な営みを瞬時に拾い出す。人は本当はひとりなのだという事実と、それがもたらす不安と愛おしさが、同時にとらえられていて、世界を見渡す視線の深さに、いつも粛然とさせられるのだ。



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