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2007年08月29日

『アントニオ・カルロス・ジョビン』エレーナ・ジョビン(青土社)

アントニオ・カルロス・ジョビン →bookwebで購入

「ボサノヴァの創始者と、彼の母国の魅力を伝える」

ふとした出来心で買って開かないまま、古本屋行きになる本があるが、この本は幸いそういう運命を免れ、いつか読むだろうと、そのいつかがいつになるかわからないまま、手元に置かれていた。

その「いつか」が、ある日突然やって来た。あまりに暑かったこの夏のせいである。どこか別の場所に気持ちをいざなってやり過すしかないと、書棚を探っていると、この本が目に留まった。ブラジルに思いをはせるのにちょうどいい暑さだ。

「イパネマの娘」や「ワン・ノート・サンバ」など、多くのボサノヴァの名曲を作曲したアントニオ・カルロス・ジョビンについて、妹のエレーナ・ジョビンが書いたものだ。癌と診断され静養のためにニューヨークから帰国したジョビンが、ブラジルの家で最後の日々を過す光景からはじまる。三週間後、ジョビンは手術を受けにニューヨークにもどり、そのまま帰らぬ人となった。

ジョビンの妹という以外に、著者について何も知らずに読み出したが、におい立つような文章に引き込まれた。潮のかおり、ふりそそぐ光、花の色、風のそよぎ、魚の味、葉巻の匂い、走りまわる飼い犬、ゴムホースから吹き出す水、子供たちの笑い声……。「ここではないどこか」に連れ去ってくれる、まさに期待したとおりの内容だ。

ジョビンがどんな空気を呼吸しながら、メロディアスで、しかもしっかりした構造を持つ音楽を産み出してきたかが分かる。フライパンとヴィオラフォンを持って行く夜釣りでは、魚がかかるのを待ちながら歌をうたう。あるいは野鳥を観察しながら森を歩く。ジョビンはどんな鳥の特徴にも詳しく、鳴き声をまねて鳥たちを呼び寄せることができる。「森を歩くと曲が丸々と響いてくる」とジョビンは語っているが、彼の楽曲の肌を細かくマッサージするようなリズミカルな刺激は、自然からインスパイヤーされたものなのだろう。

技術面については、クラシック・ピアノを習い、ラヴェルやドビッシーなど近代フランス作曲家の作品を敬愛し、管弦楽編成法を独習するなど、実に正統的なアプローチである。ジョビンの作曲が単なる思いつきではなく、豊富な音楽的知識を背景にした作業であるのがわかる。

ボサノヴァの誕生は、エレーナによれば、アルバム『想いあふれて』が発表されたときである。あるヴィオラフォンの弾き語り歌手にジョビンが惚れ込み、レコーディングを持ちかけた。まだ無名だったジョアン・ジルベルトがその人である。ジルベルトは「偏執狂的な完璧主義者」で、双方が満足のいくものが出来るまで、何ヶ月も引きこもって作業したという。

完成したとき、ジョビンはアルバムの裏に、「このバイーア出身の新しい才能」と書いてジルベルトを賛美した。マスコミがこの文から「新しい才能(ボサノヴァ)」という言葉を拾って使ったことから、「ボサノヴァ」というジャンル名が生まれた。

「大学のキャンパスは、こぞってこの新しい音楽を迎え入れた。ボサノヴァは学生たちの熱烈な議論のテーマだった。若い世代は瞬く間に、この音楽の虜となった。長い間待っていた、自分たちの感覚に合う新しいスタイルを持った、完全にブラジル製の音楽が現われたのだ。ボサノヴァは、彼らの悩みを、真実を、願いを表現してくれた。また中産階級の音楽的才能も、これを機会に国内で開花した。ムーブメントは、まるで火のついた導火線だった」

上記の文章からわかるように、ボサノヴァは中産階級の若者、白人インテリ層を中心に広がった。大衆向けの土着的な音楽か、外から入ってきたクラシックやジャズしかない現状を物足りなく思う層に、ボサノヴァは歓迎されたのだ。

「ボサノヴァはパジャマと電話が好き」とはナラ・レオンの言葉だが、ボサノバが路上ではなく室内で生まれたこと、普段着の音楽であるのを、うまく言い当てている。ささやくような声で歌われるのは、彼らが夜な夜なアパートに集まって、近所の苦情を気にしながら作曲したからだという。

それから数年の間に、ボサノヴァは野火のように世界に広がった。ブラジルで愛され、親しまれただけならば味わうことのなかった苦しみと悲しみが、ジョビンを襲う。
このあたりはいちばん印象的で、考えさせられる部分であり、才能ある音楽家のサクセスストーリーに収まり切らない深みを描きだしている。

ボサノヴァは、ジャズのスタン・ゲッツが、アストラッド・ジルベルトと作った共演アルバムによって世界に広まった。このとき、ジョビンはサンバのリズムが活きるような、英語の訳詩をつけるのに苦労している。またボサノヴァが不完全な形で演奏されることが多いのにも、頭を痛めたという。

ボサノヴァが世界進出を狙ったのではなく、ジャズがボサノヴァを見つけて飛びついたのである。ボサノヴァには当時のジャズに欠けていた、リズムと、スイングと、ラテンの情熱があった。彼らはそれに喰らいついたのだった。

ジャズの経由なしに、「イパネマの娘」や「ワンノート・サンバ」が、世界中にこれほど親しまれることはなかっただろう。だが、アメリカで成功したことで、ジョビンは母国で冷ややかな視線を浴びるようになる。自国の音楽をアメリカに売って儲けた人、というわけである。

よくありがちなやっかみと言えば、それまでである。だが、そのような反応が起きてしまう社会の「閉鎖性」は、土着の文化の豊かさと無関係ではない、とも思う。閉じているために濃くなれる。そしてその濃さから、ジョビンはさまざまなインスピレーションを得てきたはずだ。

ジョビンの友人のこんな発言が引かれている。

「ブラジルは、金を稼いだ人間が後ろめたく思わなければならない、情けない国だ」

金儲けが後ろめたいというのは、富は平等に分配されなければならないという原始共産制に近い価値観が未だ生きているということではないか。儲けた人は何がしかの形でそれを社会に還元し、分かちあおうとする。そうでなくては肩身が狭くて居ずらいのだ。突出した才能を持って生また人間には、生きづらいかもしれないが、何にも恵まれずに生まれてきた者には、ストレスの少ない社会のように思える。

やる気のある人が評価され、また評価の結果としていい金を得るという実力主義は、言うまでもなくアメリカ社会が生んだものだ。ジョビンの成功はアメリカン・ジャズとの関わり抜きに語れない。意図してなかったとしても、結果的にはそうなった。背後にちらつくアメリカが本書の内容を立体的にしている。ひとりの天才音楽家について知ることが、アメリカ文化を考えさせるのだ。

山下洋輔が最後に寄せている文書が素晴らしい。彼は1994年のカーネギーコンサートでジョビンと同じ舞台に立っているが、書いているのはコンサート前日の共同記者会見でのジョビンの発言である。

ジャズとの関係を質問されてジョビンは、「ジャズはよく知らない。私は私の音楽をやってきただけです」と答えた。ジャズから何らかの影響を得ていると思っていたから、山下はこの言葉に驚き、また記者たちも納得せずにおなじ趣旨の質問を繰り返した。

だが、ジョビンは同じ答えをし、ついには司会者が寄ってきて、「スタン・ゲッツとのレコードのことを話してください」と耳打ちしたという。それでもジョビンは本当に困惑した顔で、「私はブラジルの、自分の音楽をやっているだけだ」と主張しつづけたというのだ。
これは彼自身の強い確信なのだと思わざる得なかった、と山下は書く。

既存の文化に影響を受けないということは、奥地にでも閉じこもって暮さないかぎり、あり得ない。特に音楽のように無意識のうちに体に入ってしまうものは、その影響を追い払うことは不可能だ。もちろん、ジョビンもジャズを聴いて育っている。それは事実であり、現実だ。だがそれでもなお「ジャズはよく知らない」と言い張るジョビンに、山下は感銘するのである。

「……一人の天才ブラジル人の音楽に、ある日ジャズが接近してきた。それを通じて彼の音楽は世界に広まった。勿論喜びはあっただろう。と同時にアメリカ流に変えられていく自分の音楽に、作曲者なのに印税も払ってもらえなかった現実に、あるいは前述したジャズの優位性をとなえる雰囲気などに直面して、やがて彼はアメリカに対して、ジャズに対して、徐々に違和感を抱いていったのではないだろうか。これが、エコロジーへの生まれながらの関心と共に、アメリカが象徴する現代の世界のありかたへの批判にもつながったのは、彼にとってはまったく自然なことだった。本書はそのことを、ジョビンの愛したブラジルの自然を描くことによって、何度も伝えてくれる」

本書の魅力はこの言葉に言い尽くされている。リオの森や海や光や潮の香りを描写することが、そのままジョビンの音楽の成り立ちを語っている。読み終えて本を置くと、蒸し暑い部屋に一陣の風が吹き抜けた。

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2007年08月17日

『千年の祈り』イーユン・リー(新潮社)

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「ことばの「引っ越し」と潔い孤独」

イーユン・リーというはじめて名前を聞く作家の短編集を手にとる。
中国系の女性作家であることが、カバーの著者紹介からわかる。
1972年に北京で生まれ、96年に渡米し、 現在はカリフォルニアのオークランドに住んでいる。

アメリカに住んで10年ちょっとなのだから、
中国語で書いているのだろうと思って読みはじめたが、
途中でそうではないような気がしてあとがきを確かめると、
英語で書かれていた。
難しい言い回しは使わずに、短い言葉で的確に表現した文章。
ペダンティズムとは一切無縁だ。

最初の「あまりもの」という作品は、
独身のまま歳を重ねた林ばあさんが主人公。
勤めていた縫製工場が倒産し、世話好きの友人の紹介で、
妻と死別した病気の老人と再婚する。
熱心に看病するも、夫は二ヶ月で逝き、再び独り身に。
しかし夫の息子が全寮制の学校の寮母の口を斡旋してくれ、再就職する。
すると今度はそこで、親が離婚し、父親が新しい女性と一緒になったために厄介払いされて寮に入れられた少年に、思い入れるようになる。
人を愛したことのない林ばあさんは、
相手が子供であれ、気遣ったり、思いやったり、その反応に一喜一憂したりと、恋愛にも似た感情を抱くのだ。

読みながらアゴタ・クリストフの作品を思い出したのは、
感情をまじえない淡々とした文体ゆえだろう。
クリストフはハンガリー動乱のときに故国を脱出し、
亡命先のスイスのでフランス語を覚え、
五十歳をすぎてフランス語で作品を書くようになった。
語彙や表現が制限されている中で書いた切実さが、
言葉に直球の威力をもたらしている。

アゴタ・クリストフの作品世界を重ねあわせたのは、
「あまりもの」が寓話的な性格を持っていたことも理由だったが、リーの作品を二つ、三つと読み進むうちに、
この作家がまったくちがうタイプの作品も手がけているのを知ることになった。

表題作の「千年の祈り」は、アメリカに暮す娘を、
中国にいる父親が訪ねてくるという、
作家自身の生活環境に近い内容だし、
アメリカでソフト開発で成功している男が、
北京にいる母親のもとに里帰りする「息子」は、
中国の現代社会をかいま見させてくれる面白さがある。

かと思えば、川に投げ込まれて死んだ息子の仇をとって、
一七人を殺害した男のことを友人たちが回想する「柿たち」は、
全編がほとんど会話で成り立っている、
卓越した発想と技巧をうかがわせる特異な作品だ。

テーマに即してさまざまなスタイルを書き分け、
さりげなく本質に踏み込んで人生の不条理を描きだす。
読みやすく、美しい文章だが、それだけではないのだ。
見た目は細いのに、内部にしっかりした骨をもった腕に
つかまれるように一篇ごとに引込まれていく。

一九七二年生まれの作家が、これほど鋭い人間観、歴史観を
持ち、作品化していることに驚くのだが、
十七歳で天安門事件を遭遇したり、
免疫学の研究途上で文学に転向したり、
故国を離れて異文化の中で暮したりという起伏ある人生が、
世界に対するゆるぎない視座を築かせたのだろう。

リーは英語で書いた理由について、
中国語では自己検閲して書けなかったと語っている。
具体的に何についての「自己検閲」なのかは判らないものの、
母国語で書くときに、意識の流れをブロックするものがあったことが想像できる。

「千年の祈り」に、父親に対しては無口な娘が、
男に英語で電話しているときにはやけ闊達になり、
そのことに気付いた父親がなじるシーンが出てくる。
娘は、「自分の気持ちを言葉にせずに育ったら、ちがう言語を習って、新しい言語で話すほうが楽なの。そうすれば新しい人間になれるの」と答える。

新たな言葉を獲得したことで、リーは「新しい人間」になったのだろうか。ともあれ、ひとりの作家が誕生したことは明らかである。
もしかしたら、このような再生は、男性作家より女性作家のほうがしやすいのかもしれないとも思った。

「千年の祈り」の娘は英語を話すとおしゃべるになるが、
リーの文章は完全に饒舌の対極にある。
ことばの「引っ越し」をすることで、きっと多くを捨てられ、
初心にもどれたのだ。

言語を変えるのは、あるコンテクストを抜け出ることである。
しかしリーは脱出のあとに別のコンテクストに移行するのでなく、軽い身のまま、ひとりで立つほうをとった。
本当に必要なものだけを選びとることを知った人の軽みと潔さ。
ことばが屹立した文章には、その孤独な強さが漂っていて、
読むほうの姿勢もしゃんとしてくるのである。



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2007年08月12日

『ハワイ』森山大道(月曜社)

ハワイ →bookwebで購入

「ハワイの彼方にある孤独」

世界の観光地で、ハワイほど陳腐なイメージを担っているところはないだろう。どちらにご旅行へ? と聞かれても、ハワイだとは言いたくない、そんな感じがある。
あらゆるものが旅行者のためにお膳立てされ、消費されるのを待っている、文化もなにもない、スカスカの観光地。 そんなところに行くなんて、わたしはアホのミーハーです、 と告白しているようなものではないか……。

そのハワイに、森山大道が五度にわたって出掛けていき、
一冊の写真集を作った。
新宿のような魑魅魍魎の跋扈する暗黒街を撮る写真家が、
どうしてあんな健康指向のリゾートに出掛けていったのか、
まったく解せないと首を振る人がいても、不思議はない。
森山大道とハワイとの関係性は一見、どこにも見当たらないのだ。

あるいは森山がかつて熱海を撮ったことを覚えていて、
それを重ね合わせて理解する人も、いるかもしれない。
ワイキキを熱海に見立てて、熱海の国際版を撮ろういう魂胆で、
森山ばりのハイコントラストのプリントで、ハワイの猥雑さが映像化されるにちがいない、と。

だが、4センチほどの分厚い写真集を広げているいま、
そうした目論みが見事に破られている小気味よさを感じる。
たしかにここに撮られているのは紛れもないハワイである。
だが、きめ細かな視線の先に浮かび上がってくるのは、
ハワイという固有名詞を超えた、島空間の孤独だ。
写真家の眼は、イメージの海を超えて裸の島に到達している。
かつてハワイをこのように見た人はいなかった。

写真集の中ほどに、小さな無人島の全景を海上からととらえた写真がある。
海は黒く焼き込まれ、クジラのような形をした島の上空には、
雲が低く垂れ込めている。
森山のハワイを見る視点が、ここに象徴されていると言っても過言ではない。

なにもなかった太平洋上に、海底のマグマが吹き上げるようにして出来た陸地。それがハワイの島々だ。
このクジラ形の島には、たった今海中から盛り上がってきたような不気味さが漂い、島が生まれる現場に立ち合っているかのようだ。

実際に現場に行っても、ただ小さな島が海上に浮かんでいるだけのはずである。このような写真を産み出したのは、森山大道の透視力だ。なんの変哲もない風景に、島の成り立ちを幻視したのである。

人々の抱くハワイは、さまざまなイメージの集積で成り立っている。フラダンス、レイ、ビーチカルチャー、アロハシャツ、ハワイアンミュージック、高級コンドミニアム、芸能人、新婚カップル、ゴルフ客、日系人など、雑多なイメージが重なり、コピーされ、夢のハワイ像ができあがった。

はじめて訪れた土地でわたしたちは、まずそれらの既存のイメージを手がかりに街を歩こうとする。陳腐と知りつつも、それをとっかかりにするしか動きようがないのだ。
ハワイに降り立った森山も、まずはその作業をしたはずだ。
映像感覚にすぐれ、イメージハンターとして場数も踏んでいるから、
未知の土地を映像的に処理することは、
彼にとって少しもむずかしくないはずだ。

だが、その興奮は長くは持たないだろう。
ワイキキ海岸を行き来し、ホノルル界隈をドライブすれば、
すぐに退屈し、行き詰まる。
ハワイのイメージはオアフ島のごく限られた場で量産される、
薄っぺらな書き割りにすぎないのだ。

もっとも、そうした消費されるイメージだけを蒐集して、
ハワイを批評的に映像化することだってできたはずだが、
森山はその方法はとらなかった。
そうではなく、書き割りの背後に踏み込むほうを選んだ。
厄介で忍耐のいる作業だったことが想像できる。

イメージのストックが尽きて、なにを見ても肩透かしを食ったような気がするとき、なかなかシャッターが押せなくなるものだ。
たとえ押しても気持ちが高揚しないから、次につづかず、
終ってしまう。
ハワイくんだりまでやってきて、結局はなにもつかめないまま終るのではないか、とそんな不安が兆したこともあっただろう。

帯の裏側に載っている、ハワイ島のヒロの町について森山の書いた短い文章には、そんな戸惑いのようなものが伺える。
はじめてヒロを訪れたとき、町のたたずまいのあまりのわびしさに言葉を失ったという。
ヒロは日系人が切り拓き、定住した町として知られるが、
彼らが働いた巨大なサトウキビ農園はいまはなく、
海岸に沿ってちっぽけなダウンタウンがあるだけだ。

「しかしカメラを手によるべもなくヒロの町をほっつき歩くうちに、ぼくはしだいに、この町に不思議な愛着をおぼえはじめていた。(中略)それは、遠い昔のある日に、”たしかにここを歩いていたことがある”といった、どこかぼくの躯の細胞の網目からにじみ出てくる奇妙な懐かしさなのである。見た、という既視感ではなく、居た、という感覚なのだ」

この懐かしさの源泉を、森山の過去に求めても見つからないだろう。これは経験に拠ってない感情だ。
島にたどり着き、家を建て、田畑を耕し、自分の肉体を頼りにわずかな手だてで生きてきた人間たちの営みの記憶に、気持ちが一瞬ショートする、そんな感覚だったのではないだろうか。
生活の始原を想像させるにおいがヒロの町にあったのだ。

そうした生活の痕跡を、さらにさかのぼってみれば、
まだ人が訪れていない無人島の記憶、
海中から盛り上がったばかりの島の姿にたどりつくだろう。
「懐かしさ」の根はとても深いところまで届いている。

裏扉には、クジラ形をした無人島と対を成す写真が載っている。
ホノルルのダウンタウンを、高台の草地から眺め渡したものだ。
家々の屋根が白く光り密集する向こうに、高層ビル群が連なり、
そのはずれにダイヤモンドヘッドの断崖が鋭角を描いている。

この写真を見ていると、わたしたちの抱く「ハワイ」のイメージが、
この草原からあの岬までのあいだに詰まっているのを感じる。
海上に浮上してできた陸地が、ビルの密集する都市となるまでのあいだに、さまざまなイメージ群が生産され、そのイメージを手がかりに、
いまこのときも世界各地からハワイを目指して人が流れ込んでくる。
だが、最初は偏西風の吹き抜けるただの島だった。
奇岩と断崖と砂浜に囲まれた無人の島だったのだ。
草原に立つ写真家は、そうつぶやきながらシャッターを切っているように見える。

森山大道の撮影は実にシンプルで、小型のコンパクトカメラを片手に、ひたすら平面移動をつづけるものだ。
新宿であっても、ヴエノスアイレスであっても、ハワイであっても基本的なやり方は変わらない。
歩き回って気になるものにシャッターを押しつづける、
とそれだけだ。

そして暗室に入ったとき、路上の徘徊者から、もうひとり別の人格が抜け出て新たな成果を加えるのだ。
路上にあっても幻視する瞬間はあるだろうが、
彼がその抜きんでた透視力をもっとも発揮するのは、
現像液のにおいが漂う暗い小部屋の中なのだ。

クジラ形をした無人島は、引き伸ばし機のライトを浴びたとき、
海中から姿を現した出自を明らかにする。
ただの島影から、太古の時間が導きだされる瞬間だ。
もちろん、それが出来るためには、ハワイへの座標軸が定まっていなければならない。そして、その視座は路上でしかつかみとれないものだ。
路上と暗室は、写真家の意識を循環させる二大装置なのである。

森山には、モノの原形質を見ようとするところがあるようだ。
どんな土地にあっても、歴史書には出てこない、無名の人間の雑多な営みを瞬時に拾い出す。人は本当はひとりなのだという事実と、それがもたらす不安と愛おしさが、同時にとらえられていて、世界を見渡す視線の深さに、いつも粛然とさせられるのだ。



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