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2015年02月01日

『菜食主義者』ハン・ガン(CUON)

菜食主義者 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「食という闇」

 食べ物の嗜好が合っている人や、味付けの好みが似ている人と一緒にテーブルを囲むのは、楽しいことだ。自分が美味しいと思うものを、他の人も美味しいと言ってくれることは、どことなく安心感をもたらす。まるで自分が認められたかのように。 

 “You Are What You Eat”というフレーズがある。人は食べたものでできあがっているということだ。自分が何を食べるのか、それで自分という人間はどんな人間かがわかる。食べるという行為は、したがって、単に自分の身体を保持することを意味するのでない。何をどのようにして食べるのか、はひとつの主張となり、自分という人間の表現手段なのだ。

 だからこそ、自分の「食」とは異なる食生活を持つ人ーーとくに主義主張の上で異なる食生活を選び取っている人ーーを見ることは、ときに人を不安にさせる。それは、暗に自分の食を否定されているようにも思えるからだ(相手にそうした意図はないにせよ)。それは、もしかしたら、自分の意見を否定されるよりもつらいことかもしれない。なぜなら、自分の存在そのものを否定されることへと繋がっていくからだ。

 その「食」を選び取る態度は、いったい何に左右されるのか。なぜ自分は特定のものを食べるのか(あるいは食べないのか)。そこにはいったいどのような意味があるのか。

 韓国の現代作家ハン・ガンの小説『菜食主義者』(きむ ふな訳、CUON)は、「食」にまつわる不安と闇をわれわれにのぞかせる。本作品は「菜食主義者」「蒙古斑」「木の花火」というそれぞれ独立した短・中篇の連作になっている。物語の中心は、エリートサラリーマンの妻で、平凡な主婦だったヨンヘである。彼女はあるとき突然、動物性の食べ物を口にすることを拒否するようになる。彼女はほとんど自分の内面を語らない。それぞれの作品は、ヨンヘのまわりにいる人物が視点人物となり、ヨンヘの不思議な行動に巻き込まれていく。

「菜食主義者」の語り手である夫もまた、妻の変化にとまどいを隠せない。理由を聞くと、ヨンヘは「夢をみたから」といって、気味の悪い夢を話し出すのだった。

最初から妻が肉を嫌っていたのなら、それでも理解できただろう。しかし、妻は結婚前から食べることが好きで、それが私の気に入ったところでもあった。彼女が鉄板の上のカルビを慣れた手つきでひっくり返し、両手にトングと大きなはさみを持ってちょきちょきと切る姿は頼もしかった。(25頁)

 肉を拒否する妻の態度は、夫とのセックスを拒む態度へと繋がっていく。自分の思い通りにならない夫は苛立ちを隠せなくなり、とうとうヨンヘの両親にSOSを出す。ベトナム戦争への従軍経験のあるヨンヘの父親は、ヨンヘの口元に酢豚を突きつけ、暴力的なまでに食を強要すると、ヨンヘは悲鳴を上げ、精神のバランスを崩してしまう。ヨンヘの食はーーただ肉を食べないとう決意はーーまわりから完全に否定されてしまうのだった。

 「蒙古斑」では、ヨンヘの姉の夫で、ビデオアーティストである男性が、ヨンヘをモデルにした新作のビデオ作品を作ることを思いつく。ヨンヘの身体に植物の絵を描き、同様にペインティングを施された男性モデルとの絡みを撮影するというものだ。ヨンヘの身体への欲望を抱きつつ、義兄はあくまでも芸術作品だとしてヨンヘをカメラに収めていく。男性モデルが途中で撮影を放棄したあと、義兄は自分の身体に植物の絵を描き、ヨンヘと撮影に臨むのだった。

 ここでもヨンヘは男達の欲望の的にはなるが、しかし誰も彼女が菜食主義者になった理由をーーつまり彼女の内面をーー理解しようとはしない。ヨンヘも理解されるとは思っていない。

 孤独のただ中にいるであろうヨンヘは、最終的に家族からも見放され、病院に収監されているところから始まるのが、「木の花火」である。彼女の姉インヘだけが、妹の面倒を見ている。病院で食事をとることを拒否したヨンヘに対して、チューブを入れ、流動食を強制摂取させる提案を病院側から提示されたインヘは、いったい妹がなぜこのような状態になったのかを考える。そして、妹と関係をもってしまって以降行方不明になっている夫、自分が育てなければならない息子、自分が大きくしてきた化粧品販売店、長女として耐えなければならなかった数々の記憶をたどりながら、インヘは問い続ける、「いつからこれらすべてが始まったのだろう。いや、いつから崩れ始めたのだろう」と。
 
 ヨンヘの孤独は、インヘの孤独と重なる。インヘがーー妹に夫を寝取られた妻というレッテルを世間から貼られながらもーーヨンヘを見捨てることがないのは、彼女がヨンヘの姿に自分を重ねているからにほかならない。「菜食主義者」「蒙古斑」では、理解できないものとして描かれてたヨンヘの心の闇は、「木の花火」のヨンヘによって、すこしずつ手探りで探し当てられようとする。しかし、その闇は深く、ややもすればインヘをも引きずり込もうとするかのようである。

 食の問題は、自分がどういう人間かということを突きつける。キャロル・アダムズが著書『肉食という性の政治学―フェミニズム・ベジタリアニズム批評』(新宿書房、1997年。原著1990年)で論じるように、肉食と性差意識は密接に結びついていることをふまえるならば、『菜食主義者』もまた、家父長制社会に暮らす女性の内面をえぐる作品と位置づけることもできるかもしれない。だが、本作が筆者の胸を打ったのは、ほとんど言葉を語ることのないヨンヘにかわって、彼女を守ろうとするインヘの次のセリフに、闇から出ようとする力強さであった。

夢の中では、夢がすべてのようじゃない。でも、目が覚めたら、それが全てではないってことがわかる…だから、いつか私たちが目を覚ましたら、そのときは…。(289頁)

 ヨンヘが闇を打ち破ったのか。インヘは目を覚ますことができたのか。その先の物語を読者に考えさせる本書は、同時に食という行為の意味をもういちど再考することを、われわれに迫る。



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2013年09月20日

『アメリカ文学のカルトグラフィ—批評による認知地図の試み』新田啓子(研究社)

アメリカ文学のカルトグラフィ—批評による認知地図の試み →紀伊國屋ウェブストアで購入

「文学研究の新たな地平へ」

 作家であれ研究者であれ、この人と同じ時代を過ごすことができてよかった、と思える人々がいる。新刊を心待ちにしたり、掲載論文を探したりする対象は、多い方が楽しい−−すべてをフォローするのは大変であるにしても。そして読むたびに「ああ、いまこの作品(論文)を読めてよかった」と幸せをかみしめるのだ。

 わたしにとって新田啓子氏はそんな同時代(そして同世代の)の批評家・研究家の筆頭にくる人物だ。けれども、新田氏の論文を読むのは、少しだけ勇気がいる。なぜなら、彼女のクールで知的興奮に満ちた文章を読むたびに、自分は彼女のいる場所からはるか遠く離れたところで、ただもがいているだけであることを思い知らされるからだ。それでも、ただ彼女が立っている批評的見地からはいったどんな風景が見えるのかを知りたくて、新田氏の文章を読んでいる自分がいる。

 昨年刊行された『アメリカ文学のカルトグラフィ−−批評による認知地図の試み』は、そんな新田氏が、従来のアメリカ文学研究とは一線を画す自身の立ち位置を明示した上で、今後のアメリカ文学研究の進むべき方向を高らかに宣言した著作である。彼女が本書で成し遂げているのは、ほかならぬアメリカという国の(そしてこれまでのアメリカ文学研究の)「認知地図」を根本から作り直すことであった。

「国民文学」の創出に対する意識が根強く残るアメリカにおいて、国家という枠組みにおいて算出される個々の文学作品は、「アメリカ」を表象していることが所与のこととして、アメリカ文学研究では受け止められてきた部分がある。その際に使われていた切り口を思いつくままにあげれば、ジェンダー、人種、階級、あるいはマジョリティとマイノリティ、帝国主義、境界などがあるだろう。こうした批評的フレームは、いまや前提となっているといってよい。

 だが、果たしてこれでいいのだろうか、と新田氏は問い直す。

これらの既存フレームは、作品を読むうえであまりに粗い。物語を規定する語りの委細や、人物たちの置かれる葛藤、さらには特殊な倫理構造をことごとく抽象化し、単一の読み方を形成する「抜き型」の役しか果たさないと見えたからだ。むしろ、現代批評で承認されたそうした読みの義務的角度が、作品解釈に「死角」を作ってしまうことに、無関心でいることは避けたかった。(vi)

もちろん、どのようなフレームを使っても「死角」が生じることは承知の上で、新田氏は「空間認識と結びついた主体化」を探るための作図法を読者に提示する。すなわちそれは、「家庭、都市、漂流、歓待、南部、私秘性、国際移動、異界、親族、伝染病、動物、商品」からみる、アメリカ文学の再配置に他ならない。序とコーダを除くと全十二章からなる本書からは、こうした作図法によってでなければ見えないアメリカの姿が立ち現れる。

 本書は、したがって、従来のクロノロジカルな研究区分をも軽々と乗り越える。たとえば「家庭」を主題とした第一章「領域化する家、内密の空間」では、ドメスティシティ関する先行研究を概観し、家庭小説へと論が展開するのかという期待を読者に抱かせつつ、卓越した「家への感受性」を持つ作家としてヘンリー・ジェイムズを紹介する。安全であるはずの家の地図を書き換える本章は、イーディス・ウォートンを経由して、ガートルード・スタインで着地する。各作品の時代背景を綿密に踏まえた上で、ある作品からは時間が何層にも重なったあとで出現する別の時代の作品に、同じテーマを看破する新田氏の手際は鮮やかだ。

 情動を前景化した第三章「逃走という名の空間領域−−情動変化の生態系」では、リチャード・チェイスからはじまるアメリカン・ロマンス論とドゥルーズ=ガタリの上同論を結びつけたあとで読者が目にする作品は、ジャック・ケルアックの『路上』である。情動というものがもたらす「変容」に着目しつつ、「放浪」と「逃走」を論じる本章の後半は、アメリカ文学の古典であるマーク・トゥエインの『ハックルベリー・フィンの冒険』へと続く。『路上』から『ハックルベリー・フィン』への接続は、「逃走」というテーマによって可能であるが、本章の読みどころは、むしろ「情動」の方にある。有名なハックによる良心の認識の場面を「恥」の表象として読み解く新田氏は、そこに「情動の間主体的な働き」と、「共同体の限界を超えた」ところにあるモラリティを見る。

 『アンクル・トムの小屋』で幕をあける第八章「回帰する場所——憑在者たちの複数空間」では、「幽霊」「亡霊」の回帰の意義をさぐる。新田氏は、幽霊物語を「模倣」し、それを「本物の幽霊物語」としたストウの反奴隷制小説の中に、あの世からの告発を見て取っている。さらに新田氏はデリダの『マルクスの亡霊たち』を補助線に用いながら、「幽霊の回帰がもたらす倒錯的な時間/世界にのみ」見える倫理をうかびあがらせる。では幽霊が回帰する「場」とはどのような空間なのか。新田氏は次のように論じている。

おそらくこのような「超自然者」を拒まない時空とは、排除され、忘れられたものに意識的であろうとする場のことではなかろうか。(中略)彼らが回帰し、反復的に「異時性」を運ぶ空間は(「他者の場所」284)、喪失された生の刻印を引き受けて、「歴史認識に回収されない「記憶」を行き始めようとする混成空間に違いない。(180)

かくして本章は、ストウから、ポール・オースターの『幽霊たち』を経て、トニ・モリスン『ビラヴィド』の亡霊へと紡ぐアメリカン・ゴースト・ストーリーの系譜を紡ぎ出す。

 わたしにとって最も印象深い章は、第六章「親密圏をマッピングすること−−公と私の攻防」である。本章はセクシュアリティを意味的に内包してきた「親密性」を、公に承認させる方向に進んでいる批評家(ローレン・バーラント、マイケル・ウォーナーら)に一定の評価を与えつつも、公の領域へと私の領域を拡大させることに警告を発することから始まる。個の問題を個のままに置かせてくれないこと、私の問題を−−「個人的なことは政治的なこと」のスローガンが表すとおり−−つねに政治的問題に還元すること、とはいったいどのような「死角」を生み出すのか。むしろそうした公的承認に回収されない「私秘性」をこそ、文学は表象できるのではないか。性愛にも還元できない親密性。まったく関係のない者たちの間にのみ許される親密な関係性。そのような関係性をレイモンド・カーヴァーの短篇「親密さ」に読み取る新田氏は、公に回収されない「あくまで個別的な」親密な関係を描き出す。本章の末尾の一節には、ことに胸を打たれる。

だが、こと親密性という現象に関しては、そのコースに則ると、本来見極めるべき、親密な関係の多様性と特殊生を見失うことになるかもしれな。男と女が親密になれば異性愛、女と女が生をともにすればシスターフッドやレズビアン、男と男が絆を結べばホモソーシャルかホモセクシュアルという名に当てはめるような手法は、例えば親密圏をマッピングする際、いかに作用するのだろうか。我々はおそらく、領域化されすぎた地政図やイメージが過剰化した視点を離れ、「感情の潜在的可能性」を一から読み取る作業の方に、回帰せねばならないだろう。それがいかに「政治」から離れた孤独な作業であったとしてもだ。(134)

 この孤独な作業をひきうける覚悟と、新たな認知地図を創り出す新田氏の覚悟は、どこかで共鳴しているように思われる。これまでの「抜き型」を捨て、「一から読み取る作業」をすすめる本書は、アメリカ文学研究の新たな地平を静かに指し示している。


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2011年08月23日

『SF文学』ジャック・ボドゥ 訳・新島進(白水社)

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「地図をもってSF文学の旅に」

 
 SF——サイエンス・フィクション——ときくと、すこし身構えてしまう。うっかりしたことを言ってしまうと、その道に通じた人たちから(つまりSFファン)完膚無きまでにたたきのめされてしまうか、「フッ…こいつ、何もわかってないんだな…」という哀れみの目で見られるか、どちらかだと思っているからである。だからSFファンの前にいくと緊張して、「あの、わたしはただアメリカ文学の有名どころをつまみ喰いして読んでいるだけの人間ですから…」と小さくなってしまう。
 わたしのSF読書歴を振り返ってみるに、おそまつきわまりない。「SFの黄金期は読者が14歳のとき」といわれる、14歳頃に読んでいたSFとおぼしきものは、レイ・ブラッドベリとかJ. P. ホーガンの<巨人シリーズ>くらいで(あとは竹宮惠子の『地球へ…』)、他には少女マンガばっかりよんで愚にもつかない恋愛にまつわる妄想ばかり繰り広げていたわけで、狭い読書空間にとどまっていた私はSF読者としての黄金期を逃していたのは確実である。実質わたしがSFというジャンルを意識してSFを読み始めたのは、大学に入ってからだった。卒業論文の指導教授だった方が日本SF界の大御所であったために、「お前、こんなのも知らないの?」と驚かれつつ、おそるおそるSF作品を読み始めただけなのだ(だいたいそのとき90年代の初頭だったが、わたしは「サイバーパンク」という言葉を知らなかった)。そのときになって初めて、ウィリアム・ギブスン、ブルース・スターリング、コニー・ウィリス、マリオン・ジマー・ブラッドリー、クリストファー・プリーストらの名前を知り、大原まり子、野阿梓、柾悟郎といった作家の作品を読むようになった。
 そのときの驚きをいまでも覚えている。「うわ〜、なに、こんな面白い小説があったんだ〜。SFって単に宇宙の話だけじゃなかったんだ〜」(身も蓋もない感想ですみません。無知とは恐ろしいものです)。それから約20年。書店で面白そうなSF作品を買って読んだり、話題になった作品を読んだり読まなかったりという、つかず離れずの関係を保ってきた私とSFではあるが、実は系統立てて読んできていないことを、ずっと気にしていたと言ってもいい。
 じゃあどんどん読めばいいじゃないか———。ごもっとも。だけど何から読み始め、どういう系統をたどっていけばいいのか。名作、古典、ヒューゴー賞・ネビュラ賞受賞作、オールタイムベスト、近年○○年のベスト、今年のベスト、日本のもの、海外のもの、あれもこれも。多すぎる。どの順番でどこへいけばいいか、道案内あればいいのだが…。

 と思っていたら、見つけてしまった。万年SF初学者であるわたしにぴったりな本を。作家や作品だけパラパラポツポツと知っていても、それを文学史的に捉え切れていない私にうってつけの本を。それが、本書ジャック・ボドゥ『SF文学』(新島進訳)である。本書は、訳者あとがきによれば自身が細胞生物学の博士号を持つフランス人の大衆文学研究家によるSF文学案内である。150頁に満たない本文には、SFの定義、起源、そして主に英米仏を中心としたSF作品の特徴をまとめた後、おびただしい数のSF作品から抽出したSF的テーマにそった作品紹介が収録されている。
 ボドゥは冒頭の「ジャンルの誕生と定義」において、SFとは何かを問うことから始めている。とはいえ、どのジャンルであれ、ひとつのジャンルを定義するのは難しい。フランシス・ボナーがいみじくも「ジャンルとはプロセスである」と述べているとおり(Jessica Evans, and David Hesmondhalgh, ed. Understaning Media. Open UP, 2011. p. 77)、ジャンルは反復と差異から成り立つものであるために、ルールをつねに少しずつ逸脱しながらジャンルの範囲を新たに生成するプロセスそのものなのだ。ゆえに、ジャンルの定義は「あれでもない、これでもない」となることが多いが、ボドゥはジャンル定義の難しさを踏まえた上で、ひとまずSFとは「われわれが暮らす自然界から自由になった文学」であるとする。すなわち、SF文学は「不可能事の芸術」であり「幻想についての創作」であるとする。ひじょうに明快だ。
 とはいえ、それではいわゆる幻想文学やファンタジーとの違いはどこにあるのか。それはSF文学はあくまでも「合理や科学、あるいは見かけの科学を基礎にしており、その上でエクストラポレーションが展開される」ジャンルである。すなわち、不可能事を扱うが、そこにはかならず合理的な説明が付されなければならない、というのである。この「合理的推論」と「不可能事」の両立こそが、SFジャンルの特徴であるといえるだろう。なるほど。この定義を読者に提示した上、ボドゥはそのほかの定義へと読者を誘う。いわく進歩を第一とした未来の見取り図としての「教育的文学」、「思索文学」、「もしもの文学」「内的・外的世界の探求」「センス・オブ・ワンダー」が続く。
 第二章「SFの地理学」において、アメリカ、イギリス、そしてフランスにおけるSF文学の歴史と現状を簡潔にまとめながら、ボドゥはいかにSFが既存の文学ジャンルを換骨奪胎しつつ、科学と合理性と不可能事いう約束事による独自のジャンルを形成していったかを概観している。ここで重要なのは、各国のSF専門誌が果たす役割である。いわゆるパルプ・フィクションとしての出自を持つSFは、雑誌文化によって開花したといってよい。たとえばアメリカでいえば『アメージング・ストーリーズ』にはじまり、現在の『マガジン・オブ・ファンタジー・アンド・サイエンス・フィクション』であり、イギリスでいえば季刊誌『インター・ゾーン』がSF作品を提供し続けている。フランスでは大衆的作品と文学的作品に二極化したうえで、いわゆる叢書としてSFが刊行されていたという点で、各国の事情の違いがわかり興味深い。
 さて、本書の中核をしめるのが、第三章に当たる「SFの主要テーマ」である。この章は、SF作品に見られるテーマを抽出し、「宇宙」「時間」「機会」「異世界、異次元」「改造人間」の五つに分類した上で、具体的な小説作品を列挙しながら説明するという離れ業が展開される。ここではSF文学はいまだかつで誰もテーマにしなかったフロンティアへ入り込む文学、旅の文学としての位置づけがなされている。こうしたボドゥの語り口は、次のような一節からも明らかだろう。

SFが目指した二つ目のフロンティアは時間だった。時間と、その両方向、つまり過去と未来である。歴史をたどり直し、あるいは先取りする。この主題は明らかに哲学的な広がりを有する。なぜなら、われわれは誰もが時の旅人であり、時という、誕生から死へといやおうなく人を導く、不可逆的な流れの中に存在しているのだから。  文学における最初の時間旅行者はハーバード・ジョージ・ウェルズ『タイム・マシン』に登場した、名のない学者であった。(97頁)

第三章は、テーマの解説のみならず、紹介するSF小説作品の解説をかねており、各作品の読みどころがたちどころにわかる点でありがたい。既訳のものはもちろんのこと、数多くの未訳作品(とくにフランス作品)にも言及があり、翻訳が待たれるものもある(個人的にはラシェル・タネールの『神々の指紋』が読んでみたいところ)。あとがきで訳者・新島進氏が「作品個々のあらすじは極力おさえられており、実際の読書の楽しみが奪われることはありません」と述べているとおり、短くも魅力的な作品紹介もまた、本書に華をそえている。
 結びにあたる「SFがはらむ問題点」で、ボドゥはSF作品とは何かをふたたび問い直している。ここでボドゥはSF小説の地位の是正を求めているようにも思われる。「大衆文学」と目されてきたSF文学ではあるが、ボドゥ曰く「多くのSF作品はその読解に相当の教養を要する」。さらに「われわれの文明に入り込むであろう変化、あるいは、すでに文明を根底から覆すような影響を与えている変化を反映させることができるのは『普通小説』ではなく、SF作品だけなのである」という主張には、ボドゥのジャンルとしてのSF文学へ懸ける情熱が感じられる。
 もちろん、本書のラストにあるファンタジーというジャンルとの比較についてのボドゥの見解には、異を唱える向きもあるかもしれない。たとえば「ファンタジーは不合理なものを美化するが、SFは世界に対して問いかける道具である。またファンタジーは純然たる逃避文学であるが、SFはつねに、舞台がはるか彼方の世界に投影されていても、現実と結びついている」などといった主張に対しては。だが、もしこの主張の方向に行きたくなければ別の道を探せばいいだけのことだ。

 ボドゥはSF文学の地図を読者の目の前に広げる。SF文学の成立するための要件として「想像の旅物語」と「ユートピア物語」という文学形式を見るボドゥは、未知なる場所への旅行記としてのSF文学の意義を強調する。その意味で、本書のなかでももっとも印象深い一節は、ボドゥの次の言葉である。「SFは、どういわれようと、つねにどこかへのチケットである」。旅行記としてのSF文学。そしてSF文学を旅するのための地図が、本書にほかならない。旅がつねに未知なるものへの不安と期待をもたらすように、何度も行った場所であっても、行くたびに新たな発見があるように、反復と差異を重ねながらSF文学を旅する読者への、本書は格好の道しるべなのだ。

 なお、本書はフランス語からの翻訳であり、膨大なSF作品への言及があるが、丁寧な訳注がさりげなく入っているため、SF初心者も違和感なく読めるかと思う。日本語版では独自に詳細な索引が巻末に付されており、作家名・作品名の原綴を確認することができる。SF文学に造詣の深い訳者・新島氏ならではの名訳でフランスSFを読める日を楽しみに待ちながら、本書の地図に従ってSF作品を少しずつ旅していこう。

 


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