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2013年09月25日

『死にたくないんですけど――iPS細胞は死を克服できるのか』八代嘉美・海猫沢めろん(ソフトバンク新書)

死にたくないんですけど――iPS細胞は死を克服できるのか →紀伊國屋ウェブストアで購入

「生と死をめぐるおもしろ対談集」

 まったく科学的な知識のないわたしでも、「再生医療」とか「ES細胞」とか「iPS細胞」とかは聞いたことがあるし、京都大学iPS細胞研究所の山中伸弥教授がノーベル賞を受賞したことや、iPSのiが小文字なのはiPodのようなキャッチーさを出すためだったらしいとか、その程度は知っている。

 でも、いったいiPS細胞で何がどこまでできるのか、よくわかっていない。なんだかすごそうだ…ということしかわからない。「再生医療」というからには「再生」をしてくれるのですよね? でもなにを再生してくれるのでしょう。美肌とか?身体や内臓が部分的に欠損したときに、その代わりをつくってくれるのでしょうか? クローン技術とは違うの…ですか?  

 あまりに質問がドシロウトすぎて、たずねることさえはばかられるというもの。とはいえ、やっぱりこの話題になっているiPS細胞とは何なのか、知りたいという気持ちもある。でも誰に聞いたら、何を見たら、このドシロウトにも再生医療が容易に(←重要)理解できるのか…。

 果たして、それはこの本によって(ほぼ)解決された。八代嘉美・海猫沢めろん『死にたくないんですけど−−iPS細胞は死を克服できるのか』(ソフトバンク新書)。本書は、ユニークな作風と飄々とした雰囲気の作家・海猫沢めろん氏が、再生医療の最先端について、京都iPS細胞研究所准教授の八代嘉美氏に直撃している対談集である。八代嘉美氏といえば、『再生医療のしくみ』(日本実業出版社)や『iPS細胞−−世紀の発見が医療を変える』(平凡社新書)などの著書があるが、なんといっても山中教授がノーベル賞を受賞されたとき、さまざまなテレビ番組で、わかりやすい解説をされていたのが印象的だ。

 本書のきっかけとなったのは、マーカス・ウォールセンの『バイオパンク−−DIY科学者たちのDNAハック!』(NHK出版)を読んで衝撃を受けた海猫沢氏が、遺伝子組み替えや現在の医療技術の最先端に興味津々となったことにあるようだ。そこで、海猫沢氏がその興味をぶつける代償として選んだのが八代氏。なんでも、海猫沢氏と八代氏は、お住まいがご近所だったこともあって、ご飯を食べに行く仲だったとか。

 さて、「死にたくない!」という海猫沢氏の不老不死への野望で幕を開ける本書は、再生医療が延命−−究極的には不老不死をも可能にするのか−−という海猫沢氏の大胆な質問に答えるかたちですすんでいく。

めろん:(前略)さてさてご多忙な八代さんとせっかく対談することができるので、いろいろ質問してみたいと思っているのですが。どこから聞けばいいか…。

八代:なんでも気軽に聞いて下さい。

めろん:じゃあ、まずはドラえもんの話から。名門で知られる麻布中学校の入試に、「ドラえもんは、なぜ生物ではないか」という問いが出題されて注目を集めました。とても面白い問題だな、と思ったんですが、よくよく考えてみると、奥が深いですよね。ドラえもんが猫型ロボットだということはわかっています。でも知性も感情もある。だから実際にドラえもんのような高度なロボットが開発されたら、もうそれは生物ということでいいのではないか、と。(19)

この海猫沢氏の質問を皮切りに、命とはなにか、再生医療というものがどのように発展してきたのか、ES細胞およびiPS細胞にいたる歴史的背景を丹念に(しかもわかりやすく)繙くとともに、現在の再生医療の限界、そして未来の見取り図を示している。

 いわゆる「万能細胞」というような言葉から生まれる誤解についての指摘、ES細胞からiPS細胞への道のり、また混乱して使われることの多い「遺伝子」「DNA」「染色体」「RNA」「ゲノム」といったキーワードの解説がなされる第一章で、おおまかにiPS細胞の枠組みが提示される。そして、ここで一気に安心感がつのる−−「あ、わたしにも、(だいたい)わかる」。
 
 海猫沢氏自身が実際に試した「遺伝子検査キット」での検査結果からわかる自らの身体にまつわるデータと向き合いながら、体内にある遺伝子の作用について、あれこれ検討する第二章、また再生医療が提起する生命倫理の問題をあつかう第三章がこれに続く。身体(ハード)があっての生命なのか、あるいは自分にまつわる情報(ソフト)だけ保存できれば生き続けられるのか…。海猫沢氏から八代氏つきつけられる生命の問題は、実際には海猫沢氏のとある友人の死に端を発していることが、本書の中で述べられている。本書を通読して感じるのは、再生医療の話をきけばきくほど、その裏返しとしての死の問題が迫ってくるということだった。

 もっとも印象的だったのは、やはり再生医療にその初期から付随していた、生命の発生や、生命の終わりを、人がどのように考え、どのように扱うべきかという問題だ。生命倫理の問題というと、キリスト教の影響のつよい西欧諸国の方が規制が厳しいようなイメージがあるが、実はそうではないと八代氏は述べる。

めろん:ローマ法王やアメリカのブッシュ前大統領が ES細胞の研究に懸念をしめしていました、という件ですね。日本はキリスト教的な価値観が弱いので、どんどん研究が進められたということはないんですか?

八代:それが、実は逆なんですよ。ES細胞の研究規制については、日本は研究のみを目的とした受精卵の作成は禁止、患者対応ES細胞については条件が整えば可となっているのに比べて、イギリスはどちらも可能となっています。(中略)日本は宗教的な背景がなく、生命倫理について議論する必要がなかったからiPS細胞を発見することができた、なんて記事をみかけたことがあります。でも、この分析は現場の感覚でも実際の経緯から言っても、明確な間違いです。(148-49)


八代氏は生命倫理についてのきちんとした議論の場を持つことが必要と提案する。その後話題は、やはり生殖の問題へと移っていく。iPS細胞によって出産年齢などにどのような影響がありうるのか、出生前診断はどうとらえればよいのか。八代氏はいくつかの場面で印象的な発言を残している。

八代:(前略)いずれにしても、iPS細胞の成功を、「生命の姿」「社会の姿」を問い直すきっかけにするべきでは、と思っています。わたしたちの手元には、あるがままの自然、なんてものはとうにありません。人間は生のままでは生きていけない。周囲を変えるか自分を変えるか、いずれにしても「技術」が介入することで、「死から遠ざかりたい」という本能を満たしてきたわけですから。(165-66)

また出生前診断にまつわる箇所では、八代氏はこう語っている。

八代:(前略)私はそもそも「生まれてこられる」程度の遺伝子のトラブルなのだから、社会全体でそうした人が生きにくくない世界にしていくべきと思っています。所詮、すべての遺伝子がモデル通り、なんて人は一人もいない。めろんさんの遺伝子検査でも出たとおり、なんだかんだで背景はさまざまなんです。そうした個性のひとつと考えたらいい。(227)

 そして なんといっても本書で興味深いのは、ご自身も生物学にかんする書物やSF作品を大量に読み込んでおられる海猫沢氏が、八代氏にさまざまな角度からボールを投げ、八代氏がひとつひとつ打ち返している対話のおもしろさである。上記のような八代氏の発言は、海猫沢氏が投げかけるボールから引き出されている。海猫沢氏の、ときに挑戦的な、ときに好奇心に満ちた、そしてときにしみじみとした発言が、八代氏の魅力を引き出していると言っていいだろう。たとえばつぎの海猫沢氏の「人」に対する感覚は、とりわけ忘れがたい。

めろん:ここからが本題なのですが、最近になってやっと友人の自殺に違和感を覚えて理由がわかってきたんです。僕が思うに、人間の実存ってデータとハードにわかれていて、こうやって八代さんと話しているときは、データとハードが同期している状態なんですよ。わかりやすく言うと、前回会った際に、iPS細胞研究所に勤めることになったことを聞きました。それから今回の対談まで、その情報が八代さんからいただいた最後のデータだったんですが、もちろん周りから「八代さんが引っ越しした」とか「もうすでに忙しく働いているらしい」とか、さまざまな情報が入ってくる。そのデータを勝手に更新して、八代さんというイメージを心の中で構成していたんです。(中略)

 そして、その情報が僕の中では八代さんそのものでした。(中略)それで今日実際お会いして、データとハードを同期させているわけです。(中略)

 でも、僕の友人は死んでしまったので、もう同期させることができません。ハードが突然なくなってしまったわけですから。でも、共通の友だちとかに会えば、「あいつってこうだったよね」とか(中略)あれこれデータが更新されていってしまうんですね。サポートが終わったソフトウェアを「2ちゃんねる」の有志が集まって更新し続けるみたいに。(119-21)


 iPS細胞ってどんなものかわかるかな、という軽い気持ちで本書を読み始めたのだが、読了後はこれまでわたしが出会った死について思いをめぐらせていた。啓発的であり、かつ魅力的な対談集である。
 


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2013年09月20日

『アメリカ文学のカルトグラフィ—批評による認知地図の試み』新田啓子(研究社)

アメリカ文学のカルトグラフィ—批評による認知地図の試み →紀伊國屋ウェブストアで購入

「文学研究の新たな地平へ」

 作家であれ研究者であれ、この人と同じ時代を過ごすことができてよかった、と思える人々がいる。新刊を心待ちにしたり、掲載論文を探したりする対象は、多い方が楽しい−−すべてをフォローするのは大変であるにしても。そして読むたびに「ああ、いまこの作品(論文)を読めてよかった」と幸せをかみしめるのだ。

 わたしにとって新田啓子氏はそんな同時代(そして同世代の)の批評家・研究家の筆頭にくる人物だ。けれども、新田氏の論文を読むのは、少しだけ勇気がいる。なぜなら、彼女のクールで知的興奮に満ちた文章を読むたびに、自分は彼女のいる場所からはるか遠く離れたところで、ただもがいているだけであることを思い知らされるからだ。それでも、ただ彼女が立っている批評的見地からはいったどんな風景が見えるのかを知りたくて、新田氏の文章を読んでいる自分がいる。

 昨年刊行された『アメリカ文学のカルトグラフィ−−批評による認知地図の試み』は、そんな新田氏が、従来のアメリカ文学研究とは一線を画す自身の立ち位置を明示した上で、今後のアメリカ文学研究の進むべき方向を高らかに宣言した著作である。彼女が本書で成し遂げているのは、ほかならぬアメリカという国の(そしてこれまでのアメリカ文学研究の)「認知地図」を根本から作り直すことであった。

「国民文学」の創出に対する意識が根強く残るアメリカにおいて、国家という枠組みにおいて算出される個々の文学作品は、「アメリカ」を表象していることが所与のこととして、アメリカ文学研究では受け止められてきた部分がある。その際に使われていた切り口を思いつくままにあげれば、ジェンダー、人種、階級、あるいはマジョリティとマイノリティ、帝国主義、境界などがあるだろう。こうした批評的フレームは、いまや前提となっているといってよい。

 だが、果たしてこれでいいのだろうか、と新田氏は問い直す。

これらの既存フレームは、作品を読むうえであまりに粗い。物語を規定する語りの委細や、人物たちの置かれる葛藤、さらには特殊な倫理構造をことごとく抽象化し、単一の読み方を形成する「抜き型」の役しか果たさないと見えたからだ。むしろ、現代批評で承認されたそうした読みの義務的角度が、作品解釈に「死角」を作ってしまうことに、無関心でいることは避けたかった。(vi)

もちろん、どのようなフレームを使っても「死角」が生じることは承知の上で、新田氏は「空間認識と結びついた主体化」を探るための作図法を読者に提示する。すなわちそれは、「家庭、都市、漂流、歓待、南部、私秘性、国際移動、異界、親族、伝染病、動物、商品」からみる、アメリカ文学の再配置に他ならない。序とコーダを除くと全十二章からなる本書からは、こうした作図法によってでなければ見えないアメリカの姿が立ち現れる。

 本書は、したがって、従来のクロノロジカルな研究区分をも軽々と乗り越える。たとえば「家庭」を主題とした第一章「領域化する家、内密の空間」では、ドメスティシティ関する先行研究を概観し、家庭小説へと論が展開するのかという期待を読者に抱かせつつ、卓越した「家への感受性」を持つ作家としてヘンリー・ジェイムズを紹介する。安全であるはずの家の地図を書き換える本章は、イーディス・ウォートンを経由して、ガートルード・スタインで着地する。各作品の時代背景を綿密に踏まえた上で、ある作品からは時間が何層にも重なったあとで出現する別の時代の作品に、同じテーマを看破する新田氏の手際は鮮やかだ。

 情動を前景化した第三章「逃走という名の空間領域−−情動変化の生態系」では、リチャード・チェイスからはじまるアメリカン・ロマンス論とドゥルーズ=ガタリの上同論を結びつけたあとで読者が目にする作品は、ジャック・ケルアックの『路上』である。情動というものがもたらす「変容」に着目しつつ、「放浪」と「逃走」を論じる本章の後半は、アメリカ文学の古典であるマーク・トゥエインの『ハックルベリー・フィンの冒険』へと続く。『路上』から『ハックルベリー・フィン』への接続は、「逃走」というテーマによって可能であるが、本章の読みどころは、むしろ「情動」の方にある。有名なハックによる良心の認識の場面を「恥」の表象として読み解く新田氏は、そこに「情動の間主体的な働き」と、「共同体の限界を超えた」ところにあるモラリティを見る。

 『アンクル・トムの小屋』で幕をあける第八章「回帰する場所——憑在者たちの複数空間」では、「幽霊」「亡霊」の回帰の意義をさぐる。新田氏は、幽霊物語を「模倣」し、それを「本物の幽霊物語」としたストウの反奴隷制小説の中に、あの世からの告発を見て取っている。さらに新田氏はデリダの『マルクスの亡霊たち』を補助線に用いながら、「幽霊の回帰がもたらす倒錯的な時間/世界にのみ」見える倫理をうかびあがらせる。では幽霊が回帰する「場」とはどのような空間なのか。新田氏は次のように論じている。

おそらくこのような「超自然者」を拒まない時空とは、排除され、忘れられたものに意識的であろうとする場のことではなかろうか。(中略)彼らが回帰し、反復的に「異時性」を運ぶ空間は(「他者の場所」284)、喪失された生の刻印を引き受けて、「歴史認識に回収されない「記憶」を行き始めようとする混成空間に違いない。(180)

かくして本章は、ストウから、ポール・オースターの『幽霊たち』を経て、トニ・モリスン『ビラヴィド』の亡霊へと紡ぐアメリカン・ゴースト・ストーリーの系譜を紡ぎ出す。

 わたしにとって最も印象深い章は、第六章「親密圏をマッピングすること−−公と私の攻防」である。本章はセクシュアリティを意味的に内包してきた「親密性」を、公に承認させる方向に進んでいる批評家(ローレン・バーラント、マイケル・ウォーナーら)に一定の評価を与えつつも、公の領域へと私の領域を拡大させることに警告を発することから始まる。個の問題を個のままに置かせてくれないこと、私の問題を−−「個人的なことは政治的なこと」のスローガンが表すとおり−−つねに政治的問題に還元すること、とはいったいどのような「死角」を生み出すのか。むしろそうした公的承認に回収されない「私秘性」をこそ、文学は表象できるのではないか。性愛にも還元できない親密性。まったく関係のない者たちの間にのみ許される親密な関係性。そのような関係性をレイモンド・カーヴァーの短篇「親密さ」に読み取る新田氏は、公に回収されない「あくまで個別的な」親密な関係を描き出す。本章の末尾の一節には、ことに胸を打たれる。

だが、こと親密性という現象に関しては、そのコースに則ると、本来見極めるべき、親密な関係の多様性と特殊生を見失うことになるかもしれな。男と女が親密になれば異性愛、女と女が生をともにすればシスターフッドやレズビアン、男と男が絆を結べばホモソーシャルかホモセクシュアルという名に当てはめるような手法は、例えば親密圏をマッピングする際、いかに作用するのだろうか。我々はおそらく、領域化されすぎた地政図やイメージが過剰化した視点を離れ、「感情の潜在的可能性」を一から読み取る作業の方に、回帰せねばならないだろう。それがいかに「政治」から離れた孤独な作業であったとしてもだ。(134)

 この孤独な作業をひきうける覚悟と、新たな認知地図を創り出す新田氏の覚悟は、どこかで共鳴しているように思われる。これまでの「抜き型」を捨て、「一から読み取る作業」をすすめる本書は、アメリカ文学研究の新たな地平を静かに指し示している。


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