« 2012年03月 | メイン | 2013年09月 »

2012年04月01日

『アメリカ文学における「老い」の政治学』金澤 哲 編著(松籟社)

アメリカ文学における「老い」の政治学 →bookwebで購入

「老いを受け止める」

 長い学生時代を経て、わたしが就職をしたのは29才の時だったが、そのとき真っ先に思ったのは、「あと36年しか働けない! はやく家かマンション買って住宅ローン組まなきゃ!」ということだった。実際に住宅ローンを抱えるようになるのはそれから数年後のことだが、なぜわたしが「持ち家」にこだわったかというと、その昔、確かまだわたしが二十代の始め頃、あるドキュメンタリー番組をたまたま見たのがきっかけだった。
 それは、老人の住宅確保に関する問題を扱った番組で、年老いた一人暮らしの女性が何軒もの不動産屋に賃貸契約を断わられている様子が画面に映し出されていた。孤独死や家賃滞納を懸念する不動産屋の対応と説明されていたと記憶しているが、わたしが感じたのは理不尽な対応をする不動産屋に対する怒りというよりも、こうした寄る辺ない人間に対して社会が見せる容赦無き態度への恐怖だった。わたしは不動産屋をまわるこの老女の姿が、まるで将来の自分の姿のように思われたのだった。老いて、ひとりで生きること。誰にでもあり得る未来。けれど、まさにシモーヌ・ド・ボーボワールが問いかけた「老人は本当に人間なのだろうか。この社会での彼らの扱われ方をみると、この問いを立てざるを得ないのではないか」をあらわすような老人への風当たりを見ると、この先の人生に不安を持ってしまったわたしは、とにかく自分が住むところだけは確保しなくては…持ち家を…という発想にたどり着いていた。この思考回路の単純さがわたしらしいといえばわたしらしい。

 一方で、老人というと、年を経たぶん経験値が高い尊敬すべき人——賢者だとか知恵袋といったイメージがあるのも事実だろう。また、老いてなお矍鑠とする人物や、趣味や学びを続ける人々への敬意もある。だが敬意と敬遠は近い。それに老人を誉めるときは常に、「老いているにもかかわらず、○○だ」といったニュアンスが含まれることが多いのではないか(逆に、「年を取っているくせに…(無駄に年をくっているなぁ)」と思われることもあるだろう。「老いる」ことはただ年を重ねるだけではなく、それにともなう文化的・社会的なイメージをも引き受けなければならない——あるいはそれに抗わなければならない——のだ。
 
 高齢者に関する研究分野としては医学や社会学の分野の「老年学」(ジェロントロジー)があるが、あまり聞き慣れない分野かもしれない。また、ことアメリカ文学研究の文脈では、これまでそれほどは顧みられてこなかったテーマといってもいいだろう。

 だが、アメリカ文学とて「老い」といテーマがなかったわけではない。1801年の共和制時代のアメリカで出版されたタビサ・ギルマン・テニーの『ドン・キホーテ娘』がある。また1692年から93年にかけておこったセイラムの魔女狩りは、年齢差別的要素を含んでいたという指摘もある。19世紀末に発表されたメアリー・フリーマンの短篇「ニューイングランドの尼僧」はいつかえってくるかわからぬ恋人を待って年を重ねる女性の話だった。現代文学に目を移せば、映画化もされたスコット・フィッツジェラルドの『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』が思い浮かぶし、アーサー・ミラーの『セールスマンの死』も老いが作品に色濃く影を落としている。だが、もし「老い」が文学研究において「欠落」しているとするなら、それはなぜなのか。

 この問いにこたえるべく編纂された論文集がこのほど出版された。それが金澤哲編著『アメリカ文学における「老い」の政治学』(松籟社)である。七名の執筆者による論考が収められた本書は、人生の最終ステージとしての「老年期」が、アメリカ文学においていかにヴァリエーション豊かに描かれてきたかを明らかにする。

 本書はアメリカ文学に遍在しているはずの「老人」「老い」がなぜ取りあげられることがなかったのか、「老いのイデオロギー」を簡潔に解説することから始めている。序章にあたる、金澤哲氏による「アメリカ文学における「老い」の政治学」は、従来「革新を好み、未知への挑戦を尊んできた心性のあらわれ」として、アメリカは「若さ」を重要視してきた背景があると述べる。もちろん、アメリカ文学にも「老人」は登場してきたことを指摘しつつ、こうした老人の登場はむしろアメリカがもつ若さへの執着を示していると指摘する。こうした「老いのイデオロギー」がフェミニズムからの批判、そしてサイードの「晩年のスタイル」やフーコーの権力論によって暴かれることによって、「老い」を追い求めることが可能になったというわけだ。

 この序章に十本の論考が続く。トウェインが晩年に執筆した未発表作品を取りあげた里内克巳氏の「老境のマーク・トウェイン」は、近年再評価が進むトウェインの晩年期に着目し、トウェインが「老い」をどう捉えていたかに迫るものだ。本章ではっとさせられるのは、トウェインは人が老いることによって「病気や身内の死に直面する」のではなく、因果律を逆転させ、「不運や不幸事との度重なる遭遇が人を老いさせる」と考えていたのではなかったか、という里内氏の指摘である。こうした老年期への視線が、トウェイン晩年の宗教観と結びついていた可能性が考察されている点が興味深い。

 イーディス・ウォートンの幽霊譚「万聖節」を取りあげた石塚則子氏の「ウォートンの過去を振り返るまなざし」は、ヘンリー・ジェイムズと比較しつつ、「意識のドラマ」としてウォートンによる幽霊譚の意義を再考する。そもそもウォートンにとって文学が、社会的な制約を乗り越えることができるひとつの出口であったとするならば、不可解な、かつ謎が最後まで明かされない短篇「万聖節」は、どのような「無言化された女性の欲望や情念」を表しているのか。作品社から刊行されているウォートンの『幽霊』(薗田美和子・山田晴子訳)と併せて読みたい。

 ロバート・フロストの「押しとどめる」力が表された詩と、フロスト自身の男性としての活力を重ねて分析したMark Richardson氏の「活力を保ち続ける」は、詩の分析が、詩人の人生へとスリリングにずらされていくのが心地よい論考。フロストというとアメリカ人が中高で必ず読む詩人といった、ある種健全なイメージとは異なり、年を重ねるにつれ、いかに詩の力を——そして自身の精力を——持ちこたえさせようとしていたかがわかる(なお、本論考は、フロスト研究者の寺尾勝行氏が翻訳を担当されている)。

 フォークナーと消費社会を「老い」の政治学と関連づけた山本裕子氏の「レトロ・スペクタクル」と、ヘミングウェイの『老人と海』における場所のメタファーに着目した塚田幸光氏の「「老い」の/と政治学」は、どちらも文学史的にはモダニズムに分類される作家を扱っている。いわゆるモダニズムからポストモダニズムへと移行する時期——山本氏が「モダニズムの晩年」と呼ぶ時期——に、この二人の作家が何を見ていたのか。フォークナーは『自転車泥棒』で、モダニズムの晩年すなわち自身の晩年に、アメリカ内部の消費社会を踏まえ、ノスタルジックな南部のスペクタクル性を暴いてみせたと山本氏は考察する。一方で「国民作家」ヘミングウェイが描く『老人と海』は、カリブにおける敗北する老人を描いている。塚田論文で興味深いのは、ヘミングウェイがアメリカ・キューバを結ぶだけではなく、もうひとつの点——すなわちアフリカ——のメタファーを本作品に内包させているという指摘だ。白人に付き従う奴隷としてのアフリカ人のイメージが、釣り=狩りのイメージへとずらされ、『老人と海』内部の人種観を攪乱させる。その上で狩られる存在、負ける老人のイメージが、「若いアメリカ」につきまとう。ここで、塚田氏は冷戦期のアメリカの「国家身体のメタファー」へと議論を広げ、読み応えのある一章となっている。

 後半の五本は女性作家の作品に関する論考が多い。金澤哲氏がユードラ・ウェルティ作品における祖母・母・娘の繋がりを考察した「時を超える女たち」につづいて、老女における「二重の周縁性」を描き続けた作家メイ・サートンについて、丸山美知代氏が「メイ・サートン——老いと再生の美学」で考察している。メイ・サートンは日本でもみすず書房から「メイ・サートン・コレクション」が出版されているが、まだ日本の読者にはなじみがない作家かもしれない。しかし、ここで丸山氏が紹介し、分析をするサートンの作品は、老いて孤独な女性が、いかに生きいかに死ぬか、その中でいかに自分の生に意味を見つけるかを描いている点において、もっと多くの人に読まれるべき作家のひとりであるように思われる。

 現代文学で「老い」と言えば多くの人が思い浮かべるであろう「ウサギ四部作」を執筆したジョン・アップダイクについては、「高齢者差別社会における「老い」の受容」で、柏原和子氏が鋭い分析を施している。本論文は、そもそもアップダイクの最初の小説『プアハウス・フェア』が救貧院に暮らす老人と、年若い院長との物語であったことを指摘しつつ、当時二十代であったアップダイクの老人観がどのように変遷していったかをたどっている。

 メキシコ系作家サンドラ・シスネロスの長篇『カルメロ』に関する松原陽子氏の論文「成長と老いのより糸」がこれに続く。祖母と孫娘の物語の継承という点では、さきの金澤氏のウェルティ論にも通じるものがあると思われるが、シスネロスの場合はやはりその物語につねにボーダーラインを超えようとする意識が潜んでいることが論じられる。その上で本論文で興味深いのは、最終的には祖母・孫娘の絆だけではなく、父親・娘関係へと議論が発展していくところだろう。

 語り手が黒人作家アリス・ランダルが『風と共に去りぬ』を徹底的に黒人の視線で書き直した問題作『風は去っちまった』を取りあげた白川恵子氏の「そして誰もが黒くなった」が、本書の最終章を飾っている。スカーレット・オハラの乳母マミーが、スカーレットの父親の愛人であり、スカーレットの異母妹がいたという設定のランダル作品は、実はタラの農場はこうかつな黒人奴隷たちに支配されていたというのだ。エドガー・アラン・ポーのゴシック作品あるいはハーマン・メルヴィルの『ベニト・セレノ』を思わせるような、本書はミッチェル作品の「パロディ」である。ミッチェルの名作をこれでもかといわんばかりに攪乱し、抑圧されていた黒人の声を過剰なまでにすくい取る本作品の執筆そのものが、「先行作品を常に再活性化させる(アンチエイジング)行為に他ならない」と白川氏は看破する。文学の老化を防ぐ——ランダル作品はいかにして、ミッチェル作品を若返らせたのか。本論文は、作品分析のみならず、ランダル作品が引き起こした出版をめぐる裁判をも丹念に追うことにより、文学のアンチエイジングをめぐる社会的制度の問題に迫っている。読み終わったあとに高揚感が残る論文だった。

 ここにざっと本書に収録された論文をご紹介したが、本書が射程に入れている19世紀から21世紀まで、いかに多岐にわたる「老い」がアメリカ文学を覆っているかがわかるだろう。
 「老人は本当に人間なのだろうか。この社会での彼らの扱われ方をみると、この問いを立てざるを得ないのではないか」というボーボワールの問い今一度思い出すならば、老いは決して楽しみにして待つ人生の一時期ではないかもしれない。しかし、本書が論じているさまざまな文学作品は、いずれも「老い」の持つ意味を再考し、再構成することの重要性を伝えているように思われる。
 そしてもうひとつ最後に付け加えたいのは、本書を通じて、文学のもつ力と魅力を再認識したことだ。ページ数の関係から、各章においてもっと論じてほしいと思う部分も少なくなかったが、扱っている文学作品の魅力が十分に伝わってくる一冊だった。


→bookwebで購入