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2012年03月07日

『リスクの誘惑』宮坂敬造・岡田光弘・坂上貴之・坂本光・巽孝之 編(慶應義重大学出版会)

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「リスクに寄り添う」

 リスクとは何だろうか。試みに手元にあるリーダーズを引いてみる。「危険、冒険、危険性(度)、損傷(損害)のおそれ、リスク、危険要素 保険対象としての危険、事故、危険率、保険金、被保険者…」といった語義がならぶ。リスクとは不確定要素、それも危険な要素である。不確実なものを孕んだ未来をどのように予測し、それをどのように回避するのか。そもそも回避できるのだろうか。
 いま、2012年3月の段階でこうした定義を読むと、昨年の未曾有の震災のことが頭をよぎる。おそらくこの一年の間、多くの人が自分の人生に起こるかも知れないリスクについて、これまで以上に頭を悩ましたことだろう。どうすればいいのか。自分は何をするべきなのか。何をしたいのか。なにを選ぶのか。本書は、こうした問いに直接答えるものではない。しかしながら、「リスク」とは何かを知ることで——「リスク」と正面から向き合うことで——リスクとどう付き合っていくのか、そのヒントを教えてくれるだろう。

 本書の出版は2011年9月だが、もともとは2002年度に慶應義塾大学文学部で開講されたオムニバスの講義をまとめたものである。慶應義塾内外から多彩な講師を招いていた講座であることが、目次からもわかる。文学、心理学、社会学、美術史、文化史、犯罪学、軍事評論など、さまざまな分野で活躍する講師が、それぞれの角度から「リスク」について語っている。

 本書は「『リスクの誘惑』案内」で幕をあける。文化人類学者である宮坂敬造氏は、「高度情報化社会の揺らぎとリスクの変質、事故の変質をめぐる人類学的考察」(長いタイトルだ…と思わず見つめてしまう)において、リスクとは「近代を背負った概念」であると定義づける。近代以前の社会意識において、危機的な問題局面にたいしては、神託が行われてきた。すなわち「神意を読み取ることによって、そうした局面を出現させ、また転換させる超自然力の帰趨を占う」行為であり、そこにいわば賭博の萌芽を、宮坂氏はみてとっている。こうした偶然と寄り添う姿勢があった。しかし近代社会における市民意識は、「人間が自発的自由意志で自然を改変」するものであり、そこで人間が制御できないものを「リスク」として見なすようになる。

 リスク概念については、宮坂論文とともに、山野浩一氏の「リスクの認識、ギャンブルの試行」、ウィリアム・O・ビーマン氏の「東洋と西洋におけるリスクの概念」、広田すみれ氏の「『サイコロを振る神』の下で」を合わせて読むとわかりやすい。競馬評論家でもある山野氏は、リスクとデモクラシーの誕生の関係を論じたうえで、自己判断および自己責任をもってリスクと向き合うことの教育——知識と判断力——の必要性を説いている。
 ミネソタ大学で教鞭を執るウィリアム・O・ビーマン氏は、アメリカの同時多発テロ事件を契機として、リスク概念の文化的差異へと切り込んでいる。
 また、リスクコミュニケーションを専門とする広田氏は、リスクを「制御されないdangerに比べて、一定の予測はつくものの不確実性があるのがリスクである」と明快な定義を提示する。リスク研究が一七世紀にはじまるパスカルの確率論と保険・年金の統計的手法にはじまる歴史的背景を簡潔にのべたあと、広田氏はリスクを含んだ状況での意志決定のその合理性を論じている。

 リスクのおおまかな枠組みがつかめたところで、心理学者である坂上貴之氏の「危険の誘惑」へと進むといいだろう。広田氏の論考に引き続き、確率や統計などの数字だけでは説明できない人のリスクとの駆け引きを、具体的な実験結果とともに解説する。なぜ人はリスクがあると知りつつ危険を冒すのか。どのようなときにはリスクを避け、いかなる場合にリスクに向かっていくのか。示された実験例を見ながら、自分の「選択」が自発的なものに見えたとしても、実はある種の傾向を持っていることがわかりドキっとする。坂上氏が言うとおり「私たちが何かを選択しているというよりも、何かによって私たちの行為が選択されているにすぎない」のだ。坂上氏は「危険を避けることを学ぶのではなく、危険に対処することを学びたい」と論を結んでいる。

 危険に対処する術を学ぶことの必要性。だが現代日本でのその難しさを指摘しているのが、本書に収録されている座談会「リスクとどうつきあうか」である。英文学研究者である坂本光氏が司会をつとめ、山野浩一氏、2010年に亡くなったつかこうへい氏、前述の坂上貴之氏がざっくばらんに人生におけるリスクおよびリスク教育の重要性を語っている。リスクとは、先にも述べたように選択という意志決定と自己責任がともなう。しかし山野氏は現代の日本は「いまではみんな責任をとらないというか、まったく逆の方向にどんどん向かっていってい」ることに警鐘を鳴らす。つか氏はリスクの「教育基本法」をつくるべきだと、次のように語っている。

「それは哲学者とか教育者に、博打もリスクも人生にはつきものなんだ、女に恋したら振られることもあるんだ、そのたびに女を刺していたらいくつ命があっても足りないんだということも含め、いわば教育基本法みたいなものをつくって導いていただくと(笑)」

つか氏は、リスクを超えるためには人情みたいなものがないといけない、身近な人を「背負って愛していかなければいけない」と説く。

 リスクと愛、このふたつの組み合わせは、2011年に亡くなった小松左京氏のインタビュー「小松左京、リスクと誘惑を語る」にも読み取れるように思われる(聞き手:宮坂氏、巽孝之氏、オブザーバー:乙部順子氏)。戦争による「日本の崩壊を見ている」という小松氏は、日本を文化的・文学的に再生させた人物と言ってもいいだろう。そのとき小松氏が選んだSFというジャンルがもつ想像力は「どうも普通の常識をつきぬけた、破天荒さ」があったという。そのジャンルに賭けた小松氏が、「文学の世界の間口を広げた」とする乙部氏の評価は、小松氏がなくなったいま、余計に胸に響くものがある。折しも本書とほぼ同時期に刊行された『3・11の未来——日本・SF・想像力』(監修:笠井潔・巽孝之、編集:海老原豊・藤田直哉、作品社)の巻頭で、小松氏は「私はまだ人間の知性を日本人の情念を信じたい。この困難をどのように解決していくのか、もう少し生きていて見届けたいと思っている」と述べている。この情念と知性は、さきの座談会で話されていた人情と責任ということと通底するのではないだろうか。

 前述の宮坂氏の長いタイトルの論文でも述べられていることだが、リスクと宗教(神事)の関係性は、祈りという行為に端的に見て取れるだろう。巽孝之氏の論考「カタストロフィリア」は、アメリカ文学を代表する作家マーク・トウェインの短篇「戦争の祈り」を取りあげる。戦争に勝つことを祈ること、兵士が無事に自国へ戻るよう祈ることは、すなわち敵の敗北、敵陣の徹底的な破壊、相手兵士およびその家族らの絶望を望むことであること——祈りの中には平和への希望ではなく、「武闘派キリスト教徒の精神」が読み取れることを、巽氏は看破する。したがって、キリスト教的ユートピアニズムにはつねにすでに「テロリズムの武装が固まって」いるわけだ。その背後にある恐怖が、戦争に対する恐怖ではなく、自然災害へとずらされたとき、エコ・テロリズムの文学史があることを本論は物語る。

 戦争がリスクとの戦いであることを示しているのが、江畑謙介氏の「UNKNOWNの誘惑」である(江畑氏も2009年にお亡くなりになっている)。不確定要素を「戦争の霧」と呼んだクラウゼヴィッツの時代と比べ、現代は情報革命によってその「霧」を晴らすことができるようになったが、情報量が増えた事による「リスクの誘惑」がどこにあるかが示されている。

 闘うという意味ではより身近な存在に格闘ゲームがある。その中でも一大ブームとなったセガの「バーチャファイター」。このゲームの魅力にとりつかれた作家・向山貴彦氏の「1/60秒の永遠」は、人生の一時期の時間と金をほぼ全てゲームにつぎ込んだ——人生をリスクにさらした——向山氏自身の記録である。たかがゲームに…と思われるかもしれないが、ストイックなゲーム道と、その先に見た一瞬の永遠が記された感動的な語り口は、さすが『童話物語』(幻冬舎文庫)の作者ならではだ。

 社会的な問題を取りあげているのは、法務省の中部地方更生保護委員会事務局長をつとめる西瀬戸伸子氏の「犯罪者処遇とリスク」である。社会にとってリスクとなる犯罪と、その犯罪者とどのように対峙していくかが論じられる。とくに一般にはまだあまり知られていない保護士制度について、その役割と現在の問題点が示されているところは、ひじょうに読み応えがある。

 文学・芸術とリスクについての論考も本書には収録されている。書誌学者であり慶應義塾大学がグーテンベルク聖書を購入する際の立役者ともなった高宮利行氏は「グーテンベルク聖書を取り巻くリスク」において、グーテンベルク自身の印刷にまつわるリスクと、慶應がグーテンベルク聖書デジタル化プロジェクトのリスクと成功を物語る。またブラム・ストーカーが、ウォルト・ホイットマンにしたためたファンレターを手がかりに、ホモエロティック・ホモソーシャルな関係を小説『ドラキュラ』に読み取ったのが、武藤浩史氏の論文「触れるセクシュアリティとリスクの誘惑」である。同時代の文化史的背景を踏まえ、ストーカーがおかしたリスクは何かをさぐる。

 美術研究家・前田富士男氏の「アウトサイダー・アートの境域」は、本書の中でももっとも読み応えのある論考のひとつである。アウトサイダー・アートは、美術学校などの訓練制度の外で美術を学んだ人々の作品をさすが、なかでも特に精神的な疾患や障害を持つ人々が、医療施設で製作した作品や、受刑者や非差別者による作品のことをいう(1993年に世田谷美術館で「パラレル・ヴィジョン——20世紀美術とアウトサイダー・アート」展が開催されていたことでアウトサイダー・アートという言葉を知った人も多いだろう)。社会からリスク要因として締め出された人々が制作するアートは、「場」を意識したものであると前田氏は論じる。どこで描くか。どこを描くか。そこは中と外をつなぐ「交通そのもの」を見直す本論では、「病院画」と前田氏が呼ぶ医療機関の表象が、近代社会、政治および医療制度と「こころ」の問題を浮き彫りにすることが示される。

 本書の出版は2011年9月だが、もともとは2002年度に慶應義塾大学文学部で開講されたオムニバスの講義をまとめたものである。講義終了後のかなり早い段階から原稿を集めていたが、その編集作業に時間がかかってしまったと聞いた。その結果、刊行時期が、未曾有の災害があった昨年の3月11日から半年ほど過ぎた頃となった。本書の論考は3.11以前に書かれていることを踏まえて一読するに、本書テーマがいまの現実をひじょうに反映していることにいささかの驚きを禁じ得ない。リスクが回避できなかったいま、リスクと寄り添いつつも対応する姿勢を、本書から学びたいと思う。


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