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2011年09月16日

『世界一あたたかい人生相談』ビッグイシュー販売者・枝元なほみ(講談社)

世界一あたたかい人生相談 →bookwebで購入

「路上の声、台所の音」


『ビッグイシュー日本版』を買うようになってから、もう6年ほどになるだろうか。最初はホームレスの支援運動を手伝っている母から、「こんな雑誌があるの、見かけたら手にとってみてね」と渡されたのがきっかけだったと思う。それまで、この雑誌の存在にまったく気がついていなかった。だが雑誌を知ってから、大きな駅前やバスターミナル、繁華街のそばにある高架下などを見回してみると、暑いときも寒いときもそこに立つ販売員さんがこのストリートペーパーを販売している姿を見つけられるようになった。路上に立つ販売員さんは、立派な販売台ももたず、人の注意を引くような音をたてることもない。ただ静かに雑誌を持った片手を高く上げて立っている。

『ビッグイシュー』は、ホームレスの社会復帰と自立支援のために、イギリスで始まったストリートペーパーだ。月に二回発行される日本版は、日本版公式ホームページによれば2003年9月からの刊行だという。販売員は基本的に家を持たぬホームレスの人々であり、定価300円の雑誌が一冊売れるごとに、160円が販売員の手元にはいる。その売上をもとにして、次の雑誌を購入販売する、というシステムになっている(最初の10冊は無料で提供される)。つまり、購読者がふえ、販売員の売上が多くなればなるほど、ホームレス状態から抜け出し、経済的な自立への第一歩を踏み出す路上生活者が増えるということになる。現在は発祥国イギリスの他に、日本、ナミビア、南アフリカ、ザンビア、ケニア、エチオピア、オーストラリア、韓国、台湾で発行されている。

 本誌は300円で購入できる手軽なペーパーではあるものの、内容はとても充実している。日本独自の取材記事もあれば、上記の国際ネットワークで入手される記事も多い。冒頭にはハリウッド・スターやミュージシャンをはじめとした国内外の著名人(最近ではウディ・アレン、ボブ・ディラン、レディー・ガガ、ダライ・ラマ14世、ジョニー・デップ、オノ・ヨーコ、細野晴臣、トータス松本など…)のインタビューが掲載され、セレブリティのさりげない素顔や活動を読者に伝えている。また特集には、時事的な社会問題が取り上げられることも多い。

 『ビッグイシュー日本版』で冒頭インタビューや特集とならんでわたしが毎回楽しみにしているのが、「ホームレス人生相談」である。これは、タイトルの通り、日々の悩みについて——シリアスなものからちょっとしたものまで——、販売員さんからアドバイスをもらうというコーナーだ。内容はさまざまだ。家族のこと、人間関係のこと、自分の性格のこと、つきあっている恋人の愚痴、仕事のこと…それらは誰もが程度の差はあれ、心の中で気にしていることがらである場合が多い。それにこたえる販売者さんも毎回異なる。本書『世界一あたたかい人生相談』は、この「ホームレス人生相談」をまとめたものだ。

 相談内容にたいする、販売者さんたちのコメントがいい。「あなたはこういう人ですね」などと決めつけて判断することもなく、「こうすべき」といった指針を押しつけることはない。むしろ拍子抜けするほど肩の力が抜けている回答がほとんどだ。「そういうこともあるわなあ」「それはつらいね」といった、まずは相談者の現状を受け入れるスタンスが多いのが印象的だ。そこから「こうしたらいいかもしれないなぁ」「その場合相手はこういうふうに考えているのかもしれないねぇ」といういささかおずおずとしたアドバイスが出てくる。おそらく相談する側は真剣で、それなりに切羽詰まっているところもあるかもしれないが、販売者さんによる回答には、その張り詰めた緊張感を、するりとかわすしなやかさがある。おれが偉そうにいえないなあ、お互いさまだからなあ、はっきりした答えがなくて難しいねぇ、といった販売者さんの多くの回答は、なんだか縁側でお茶を飲みながら話しているような、そんな雰囲気を醸し出している。

 たとえば、部屋が片付けられない25歳女性からの相談に対する回答はこう始まっている。

直らんこともないやろうけど、直りにくいわなぁ。俺はもう散らかすほうやな。男はみんなだいたいそうやないかな。

「直るよ」でも「しっかりしろ」でもなく、「直りにくいわなぁ」。男も散らかすしなぁ、人のことは言えないわ、といった口調は、読んでいる方もおもわず「そうだわなぁ」と言ってしまいそうになる。それからおもむろに、この回答者さんは昔つきあっていた女の子のなかで、ゆいいつ「散らかし」だった人の思い出を話し出す。

中に入ったら、布団も敷きっぱなし、足の踏み場もないくらいにゴミやら服やらが散乱してる。それはもう、びっくりして唖然とした。  でも俺は何も言えんかった。その子のこと好きやったし、傷つけたくなかったからなぁ。

ここから回答者さんの人柄が透けて見えてくる。「びっくりして唖然と」するけれども、そこで彼女への想いが急に冷めたわけではなく(その後別れたそうだが)、「何も言えんかった」という一言に、回答者さんのやさしさが垣間見えるようだ。この相談に対しては、女友達を呼んで「何よこの部屋!?」と思い切って忌憚のない意見を言ってもらったほうがいいと言う。そしてこう付け加えることを忘れない。

ただし、最初に呼ぶ相手、彼氏はあかんで。好きな子を傷つけないようにって、何も言えないもんな。

 自分の過去の人生や知っていることをぽつぽつと話す回答者さんのアドバイスは、読んでいるだけでもちょっと泣けてしまうものもある。たとえば、認知症の母親の介護を、父親からも兄からも押しつけられてしまった30代の女性の相談。日に日に変わっていく母親を見ながら、自分も母親と一緒にいっそ死んでしまいたい、自己嫌悪に陥ったり、生きていく意味がわからないという相談者に対して、販売員である回答者さんはこう応えている。

この人ほんとにつらいんやろね。
この人、1時間でも2時間でも家から出られたらなぁ。それだけでも気分が楽になると思うんやけど。

相談者の心に添うことだけがもちろんいいこととは限らないかもしれないが、この回答者さんのまず相談者の現状を認めて「つらいんだろうなぁ」という共感を示していることが、なんだかとても心に染みる。

 さらにこの回答者さんは、自分の体験を相談者と(読者と)共有する。

実は俺の息子が一歳ぐらいの時、奥さんが出て行ってね。その時は乳飲み子を抱えて仕事にも出られず、本当にもう、この子を殺して自分も…って考えたこともあったよ。でも寝顔を見てたらかわいいやん? そんなんでけへん。いろいろあって息子が5歳の時、別れたきりやけどね。

その上で、逃げずにいまできることを少しずつやっていけば、いつかかたちになるよ、という回答者のアドバイスは、すっと心に染みいってくる。相談内容を「よくあること、おれもこうだったからね」という形で片付けてしまうのではなく、かといって明快な手続きを示すわけでもないが、心の奥にあるしこりをすこしでも取り除くことができるかもしれない、と思わせるような回答者さんたちの言葉がある。

 時には、おそらく相談者がそこまで真剣に相談してきたわけではなさそうな相談に、ものすごくシリアスな回答をよせる回答者さんもいる。読んでいて面白かったのが(人の悩みをおもしろがって申し訳ないが)、仕事が終わっても、まっすぐ家に帰れないという32歳男性の相談だ。仕事帰りに、用もないのに飲み屋や本屋に立ち寄り、終電になるまで家に帰らない。妻は夕食を作ってくれてはいるが、結婚生活はうまくいくだろうか、という文面から察するにわりと軽い調子の相談に対して、回答者さんは「この相談は、怖いね」と述べる。

この相談は、怖いね。この相談の人は、「妻はちゃんと夕食を作ってくれています」なんて、のんきなこと言っているけど、人間ってそんなキレイごとじゃ済まないからね。

というのっけから剣呑な調子だ。

女の人って、怖いよ。夕食は作ってくれているかもしれないけど、実のところはらわたが煮えくり返っていると思うよ。ひょっとしたら、奥さんは不倫してるかもしれないしね。夕食なんか早めに作って、自分は出かければ、わからないわけだからさ。
事故や事件って、そういう何もないように見えているところからもう始まっているもんだ。男女の別れは、何もないところからもう出発点に入ってるんだから。

一見何も問題なさそうに見えるところから、すでに問題は始まっているのだ、というこの回答者の販売員さんはどういう人生を送ってきたのか、そちらが気になってしまう。相談者の人生や回答者の人生を想像しながら読み、読者である自分の人生も考えることができるのが、本書の醍醐味だ。

 相談に対して、販売員さんたちの言葉による回答の他に、悩んだ身体を直接癒やす「アドバイス」が付されているのも、本書の大きな特徴のひとつである。それは、料理研究家・枝元なほみさんによる、レシピによる悩み相談——「悩みに効く料理」である。相談内容と回答のあとに、その相談に「効く」料理が紹介されているのだが、この料理の選び方もまた面白い。

 たとえば、最初の片付けられない女性に対する「効く」レシピは、「15分でできる簡単カレー」。カレーの具をトマトジュースで煮込んで、ルーを入れるだけという簡単さ。なぜこれが「片付けられない」相談への回答レシピなのか? それは「友達をむりやり呼ぶのが、やっぱりいいですよ。定期的にごはん会を催すと、励みができるんじゃないかしら?」という枝元さんの言葉にあらわれている。

 母親の介護を一人でこなさなければいけない相談には、「鶏とジャガイモのスープ」。煮込んでほったらかしにしておけばよいというスープは、「コトコトと火にかける時間が、料理をしてくれます。時間に任せるしかない、そんな時もありますよね。スープだったらお母様にも食べていただけるかな、と思いました」というコメントがついている。

 「まっすぐ家に帰れない」相談者に対しては、渇を入れる枝元さん。「用もない場所に行くかわりに、スーパーに行って買い物して、とっとと帰ってあなたが自分でごはんを作りなさいっ!」というわけで、「焼きイカ定食」のレシピを教えてくれる。販売員さんの路上の声と、台所で枝元さんが調理をする音が、ゆるやかに調和のとれたアドバイスを提供している。

 販売員さんの回答と枝元さんのレシピ――相談をした人たちはどうとらえたのだろうか。全員ではないが、何人かの相談者たちの感想が掲載されいるところも面白い。
 また、ビッグイシュー基金の活動や、日本も参加したホームレスワールドカップサッカーに関する記事、枝元なほみさんのインタビューなどが収録されている。

 通勤に使う駅で見かける特定の販売員さんから『ビッグイシュー日本版』を購入するようになって2年ほどになる。冬の寒いときも、夏の一番暑いときも決まった曜日に駅前に立つ販売員さん——彼もまたホームレスないしはそれに近い立場なのだと思われるのだが——が、どんな暮らしを送っているのか、またこれまでどんな人生を歩んできたのかは、まったくわからない。もちろん販売員さんもわたしの人生を知らない。けれども、知らないところで、見えないところで、たくさんの人生があるのだな、という当たり前のことを教えてくれる一冊である。

 もちろん、「ホームレス人生相談」は『ビッグイシュー日本版』でいまも続いている。路上にいる販売員さんたちをみかけたら、ぜひ手にとってみてほしいと思う。



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2011年09月06日

『和ごよみで楽しむ四季暮らし』岩崎眞美子(学研パブリッシング)

和ごよみで楽しむ四季暮らし →bookwebで購入

「夜空を見上げて、暦を感じる」


 書評空間という場を与えていただいているにもかかわらず、長く休んでしまったり、かと思うと思いついたように書評をアップするいいかげんなわたしとは対照的に、ストイックなまでにコンスタントに書評を発表しつづける阿部公彦先生にエールを頂いてしまった(エール…ですよね?)。ありがたいことである。

 この「快調」さが崩れないうちに、以前から紹介したかった本を取りあげたい。だが、まずはわたしの思い出話から始めたいと思う(「ドロドロの××劇」ではありません…)。

 夏に母の郷里である滋賀県彦根市の祖父母宅に行くと、祖父は庭の水まき、祖母は土間の入口にござを敷いて、裏の畑で取れた大きなかんぴょうをむいていたのをよく覚えている。広い土間には竈がいくつかあり、横にある木戸をあけると薪をくべて湧かす五右衛門風呂があった。水道は井戸水をくみ上げていて、足元の暗いところにはお酒とお札がそなえられていた。「そこにはかみさん(神様)がいるから近づいたらあかん」と祖母によく言われていた。

 お盆が近づくと、祖父は毎晩夕食後に仏壇の前でお経を上げる。その声が聞こえると祖父母宅に集まったおじ、おば、従兄弟たちが仏間に集まって、一緒にお経を唱え始める。母と伯母の調子っぱずれな読経につられて、祖父の音程もゆれ始め、最後には「ちゃんとやらんか!」と祖父が大声を出して、みんなが笑う。ご縁さん(お寺の住職さん)がお見えになる日は、大人たちはみんな少し忙しそうにお迎えする準備をしていたのを覚えている。

 なんとなく子供の頃のこうした夏の暮らしを思い出したのは、岩崎眞美子さんの『和ごよみで楽しむ四季暮らし』を読みながらのことだった。本書はわたしたちがふだん見聞きしているけれども、その由来や意味をあまり理解していない「節目」や「行事」を、旧暦を使ってていねいにわかりやすく説明してくれている。

 著者の岩崎さんは、神社や各地の祭り、神話・民俗学に造詣の深い方である。雑誌『幽』において「日本の古き神々を尋ねて」という各地の神社を取材した連載を担当されていたことは記憶に新しい。それだけではなく、音楽・環境・医療問題などの記事もこなすジャーナリストだ(最近では、『朝日ジャーナル』特集「原発と人間」において、「脱原発のスウェーデンに学ぶ」で岩崎さんの名前を拝見した)。本書は2007年に刊行された『しあわせを呼ぶ和ごよみ』(学習研究社)に続く和ごよみの解説本だが、今回は解説のほかに、ご自身がどのように旧歴を楽しんでいるか、すぐにならいたくなるヒントが盛り込まれている。

 さて、現代では新暦(太陽暦)が一般的になっているし、わたしも新暦でしか一年のスケジュールを考えないけれども、旧暦は明治五年に新暦が導入されるまで千年以上ものあいだ、日本で採用されてきたという。いわば、日本の季節や行事は、旧暦で考えると「しっくり感」がある、と岩崎さんは以下のように説明している。

・・・一年が十二か月になったり、十三か月になったりする旧暦は、決して「便利」ではありませんが、人間にとって一番身近な天体である月の満ち欠けが基準になっており、月を一目みるだけで日付がわかる「しっくり感」があります。事前を人間に合わせるのではなく、人間に自然を合わせた暦。それが「旧暦」です。(11頁)

そのときどきに季節感を感じること、ふと見上げる夜空から時の流れを感じること。身体に「しっくり感」を感じること。千年以上続いてきた旧暦からは、自分たちの生活の場をどう捉えれば生きていきやすいのか、その土地に住んできた人々の智恵を見出すことができる。

 同時に、旧暦というシステムからは、そこに暮らす人々が自然をどう見ていたのかを知ることが出来るように思われる。旧暦がもつ自然への眼差しについて、岩崎さんはこう続ける。「環境問題への感心が高まる近年、旧暦は、自然のリズムを意識しやすい『エコロジー時代の暦』として、再び注目を集めています」。新暦になじむことで得た利便性はもちろん、現代社会では欠かすことの出来ない有用な制度であることはいうまでもない。だが、本書を一読すると、もうひとつの暦——旧暦——の存在が決して失われているわけではなく、むしろわたしたちの生活にしっかりと根を下ろしていることがわかる。ただ、その来歴や意味を知ることなく過ごしてしまう言葉や行事が多いということもあるだろう。いまここで立ち止まり、もういちど暮らしの中にある自然のリズムを見つめ直すのに、本書はうってつけなのだ。

 本書は旧暦の説明、二十四節気の簡潔な説明に続いて、各月にある節句(中国から伝わった季節の節目)や雑節(日本独自の暦の行事のこと)、各地のお祭りについて、カラーのイラストを用いながら説明する。本書の特色は、「和ごよみ」に親しむということであるため、一年の始まりは旧暦の一月(新暦の二月)から始まっている。

 二月の内容をかいつまんで見てみよう。立春の直前の節分にはなぜ豆をまくのか——鬼を祓う由来、そしてそのときに投げる豆の理由を諸説紹介している。岩崎さんご自身は、この季節には次のような工夫をしているという。近年ブーム(?)になっている、節分の時に食べる恵方巻。岩崎家では「鬼の飾り恵方巻」を作って楽しんでいるようだ。また、受験シーズンににぎわう道真公ゆかりの天神さまで行われる「梅花祭」、浅草寺の「針供養」と江戸時代の吉原との関係など、「なるほどな」とうなずいてばかりだ。

 立夏がめぐる五月。この時期夏祭りを目にすることが多い。京都の「葵祭」や、東京の「神田祭り」「山王祭」「三社祭」といった夏祭りが都市部で行われるのは、その多くが「疫病払い、厄払い」の意味を持っていたためだという説明に、またもや「なるほど〜」と思ってしまう。夏場の疫病がいかに人々が懸念するものであったか——そしてそれをいかに防ごうとするか——という人々の切実な願いを感じる。

 折にふれて民間伝承を再解釈する岩崎さんの視点も興味深い。たとえば六月(旧暦五月)。神社に茅の輪が設置される時期。これもまた夏を健やかに過ごすためのお祓いの意味を持つというが、そんな中で自然の薬草の知識を持っていたがゆえに、「恐れられ、忌み嫌われることもあったかもしれ」ない女性の存在を、岩崎さんは指摘している——それは、民話に登場する山姥である。民話「二口女」(わたしは「喰わず女房」という題で知っていた)に登場する、夫の前では飯を食わず、夜になると大量の米を炊いて頭にある大きな口から飯をどんどんたいらげてしまうという山姥の物語をひきながら、自然と共生する「山姥」の存在を再定義する岩崎さんのまなざしは、水田宗子・北田幸恵編『山姥たちの物語―女性の原型と語りなおし』(学藝書林、2002年)とも共通する。

 もうひとつ本書から学んだこと。七月の七夕は、本来旧暦の七月——新暦の八月——に行われるもので、梅雨の季節の行事ではなかったということ。そして七夕の笹竹飾りにむすぶ短冊に願いを書くことが知られているが、「本来は織姫彦星の二星を詠んだ和歌を書いたり、勉学や習い事などの上達を祈る言葉を記すもの」なのだとか。自分の欲望をそのまま書くべきではなかった、と本書を読みながら、昔の自分を振り返ったりもしてしまう。

 「旧暦」や「季節の行事」とは少し趣を異にするが、八月に終戦記念日が取りあげられているのも、印象深い。岩崎さんは、八月は平和に思いをはせる月であることを次のように語っている。

お盆は、親しかった亡き人やご先祖様と今生きている自分とのつながりを意識し感謝する行事とわたしは考えていますが、それは、終戦記念日や原爆記念日を思うときの心とも根底で通じている気がします。  十代二十代のころのわたしは、目の前のことで頭も心もいっぱいで、過去の戦争は遠い未来の年老いた自分を想像するのと同じくらい、遠く感じるものでした。けれども今は少し違います。わたしが今、ここに生きているということは、六十年前、そして百年、二百年、千年の昔に同じようにだれかがいて、その人たちがつなげてくれた命があったからこそ、今わたしも子どもたちもここにいるのだということを意識するようになりました。それは「血のつながり」というようなささやなか縁よりもずっと深くて大きな、人の思いの連なりのようなものです。(112頁)

この岩崎さんのことばに秘められた思いは、本書で繰り返しあらわれているように思われる。自然とつながること、過去とつながること、未来へとつないでいくこと。自分という個は、様々な縁(えにし)によって存在しているということ。そう考えてもういちど周りをみまわし、自分の生活のあり方を考えること。

 これは、旧暦からまなぶさまざまな節目や行事の意味を考えることにも通じるのではないだろうか。旧暦は、人々の生活のひとつのあり方——過去をふまえつつ、見えない未来への不安を少しでも和らげながら、自分たちの生きる道をととのえる生活——を教えてくれる。こうした生活からは、土地に根ざす風習や行事が、ひとつの世界観を形成していることが見えてくる。夜空を見上げて月をめでながら、自分なりの「しっくり感」を身体に覚えていきたいと思わせる一冊である。


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2011年09月01日

『恋とセックスで幸せになる秘密』二村ヒトシ (イースト・プレス)

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「恋のルール・新しいルール」

 
 どうしよう。何から話せばいいかわからない。読み終わったあと、猛烈に「この本について語りたい!」と思い立ってパソコンを立ち上げたものの、わたしの言葉ではこの本に追いつかないような気がしてぼんやりしてしまう。どういうことだろう。何を戸惑っているんだ、わたし。とりあえずもう一度読み返してみよう、二村ヒトシ著『恋とセックスで幸せになる秘密』を…。

あなたは「わたしのことを好きになってくれない人を好きになっちゃう」とか「向こうから好きだって言ってくれる人は、なぜか、好きになれない」ことが多くありませんか? 「私は自分がキライ……。でも、そんな自分が大好き」って思うこと、ありませんか?(4頁)
男性から「愛されよう」と無理してやっていることが、結果的に「その男性から大切にされない」ことにつながり、「軽くあつかわれる」ように自分からしむけていることになっているのです(6頁)

 ズギューン!(心を撃ち抜かれる音)——はっきりいって、これ、ぜんぶ私のことではないですか。そう、わたしは少女マンガ脳を持っているためか、恋愛に対する理想と妄想がひどい(少女マンガが悪いわけではなく、わたしがアホなのです)。それが原因かはしらないが、わたしはこれまでいわゆる「ダメンズ」と(私が勝手に認定した)人々に、何度となくひどい目に遭ってきたという自覚がある(むこうもわたしにひどい目に遭わされたと思っている可能性大だが)。いまは落ち着いた生活を送っているが、数年前はドロドロの離婚劇を繰り広げており、ようやく離婚が成立したとき、その話を聞いたとある知り合いの編集者がこう言ったのを忘れない。「大串さんって要領のいい人だと思っていましたが、ダメンズだったんですね…」。

 でもいまふと思う。相手の男性(たち)がダメだったのではなく、自分も含めてダメダメだったのではないかと。自分のダメンズぶりを笑い飛ばすかわりに、自分を見つめてこなかったわたし。…そうか、そういうことか。恋だの愛だの、人とつきあうだとかセックスだとかにまつわる事柄からはじまって、自分がいったいどんな人間なのかとかそういうことまで、まとめて全部自分の一番恥ずかしい履歴を突き付けられてしまうから、この本を語りたいのに言葉がみつからないのかもしれない。

 だがここで本書の紹介をあきらめるわけにはいかない。だって、この本を読んだら自分を振り返る人たちが、男女を問わずきっと大勢いると思うから。

 二村ヒトシ氏といえば、言わずと知れたAV監督・AV男優。わたしも彼が監督した作品のDVDを何本か持っている。

 AV監督が、女性向けの恋愛指南本を? そりゃさぞかしエロいセックスの仕方とか男のこましかたを教えてくれるんでしょうね——などと思ってはいけない。本書は、基本的になぜか恋愛に失敗してばかりの女性に語りかける本だが、最終的には万人に向けて書かれた本になっている。それは、二村氏の前著『すべてはモテるためである』(KKベストセラーズ、後に『モテるための哲学』と改題、幻冬舎文庫)が、一見男性向けに書かれてはいたものの、やはり自分を知るという意味では万人向けだったのと共通している。

 もちろんタイトルのとおり恋の話もセックスの話も出てくるが、本書の主眼は恋やセックスにいたるまでの「自分の作り方」にこそあると言っていい。恋やセックスの土台になるべき「自分」を理解し、「自分」を知ること——それは簡単なようで難しい。それは女であろうと男であろうと同じ事だ。だから誰が読んでもいいし、誰に勧めてもいい内容になっている(ただし、女性であるがゆえにもたらされる問題点についても丁寧に言及されている)。

 そもそも「恋愛」は日常に溢れすぎている。ラブロマンスはテレビドラマや映画、小説に溢れているし、ファッション雑誌を見れば「モテ系メイク」だとか「愛されコーデ」などといった見出しが目につくし、星占いをみれば必ず恋愛運が載っている。「恋愛」はしててあたりまえ、「恋をすれば綺麗になれる」などなど、(基本的に異性愛の)恋愛へのプレッシャーが日々われわれの上にのしかかっている。

 だが、「愛し方」について誰も何も語っていない、ということに気づいた二村氏は、まず「恋愛」とは何か、という問いについて明快な回答を用意することから始めている。

恋愛とは文字通り「恋」と「愛」という2つの要素から、できています。ところが、それは「恋愛」というコインの表に「恋」、裏に「愛」と書いてあるようなもの。 その2つはまったく逆の「心の動き」なのです。(29頁)

二村氏は「恋」を「欲望」と結びつけ、「愛する」ことを「相手を認める」ことだと定義づける。ただ、それだけなのだと。愛のもつ容認する力——これは他者を認めることだけではない。自分を認めること、すなわち自己肯定(ありのままを認めること)に結びついており、すべては自分を認めることの重要性を本書は一貫して強調している。自己肯定とは「自分への愛」であり、そのままの自分を受け入れること、無理をしなくてもいいことを認めること。対して自分はこうありたい、こうあるべきだ、ああなりたいといった「ナルシシズム」的な意味合いでの「自分が好き」は、「自分への恋(欲望)」でしかないと二村氏は言う。したがって「自分が好きなのに、同時に、すごく自分が嫌い」という一見矛盾した気持ちは、まったく矛盾していない。

あなたが「自分を好き」なのはナルシシズムの意味で好きなのだし、 「自分を嫌い」なのは自己肯定できていないという意味でキライなのです。 そして(例外もありますが)たいてい「自己肯定をしていない人ほど、ナルシシズムが強い」のです。(39頁)

 ではなぜ、ナルシシズムが強いと幸せな恋愛ができないのか。
 この問いに対する答えも明快だ。それは「自己肯定していない人は、恋愛の相手を使って『自分の心の穴』を埋めようとする」からに他ならない。お互いを見ないまま、自分の事も見ないまま、ただ相手を使って穴だけを埋めようとするだけでは、お互いが「インチキな自己肯定」に走ってしまう——これがつらい不幸な恋愛の原因となっている。

 二村氏の言葉はわかりやすく、あたたかい。決してものごとを一面から見て切り捨てるようなことはしない。

 たとえば、前述のナルシシズムは、一見なくてもよい心の動きのように思われるが、向上心と結びつくこともあるし、自分に対する欲望を一切なくすと世捨て人のようになるかもしれないので、適度にあったほうがいいと述べている。

 同じように、「心の穴」というと、まるで心にある欠落部分のように感じられるかも知れないが、そこから湧いてくるのはネガティヴな感情やマイナスの感情といった「心のクセ」だけではなく、自分がもつ「魅力」も湧いてくること、すなわち無理に埋めなくてもよい個性を映し出す場所であることを説いている。むしろ、その心の穴の存在を知り、どう向き合うかの方が重要なのだ。その心の穴を知る格好のチャンスが「恋したとき」である。だから、心の穴との向き合い方をしらないと、つらい恋になってしまう…というメカニズムなのだ。

 さらに、二村氏は「心の穴」の出自にまで取り組んでいる。それは、やはり親(あるいは親代わりの人)との関係にあるという。どんな親に育てられたにしろ、おしなべて子供には心に穴が空いてしまう(すなわち、心のクセがついてしまう)。だから心の穴のない人はいないし、親にだって心の穴があるのだ。だからといって親を憎むのではなく、自分の穴がどういう性質をもっているのか、どう対処すればいいのかを知ることこそが、自分がよりよく生きる——強く生きることを可能にするのだと、二村氏は語る。
 この親子関係を説明しているくだりは、発達心理学だとか精神分析だとか、学術的な裏付けは一切排除されている。むしろ「こういうふうに考えてごらん。そうしたら見えてくるでしょ、道筋が」という語りになっており、心地よい。そしてどう考えたらいいかのヒントが、あちこちにちりばめられているのだ。「人間は、自分が自分をあつかっているようにしか、他人からあつかわれないのです」という一節はその最たる例であろう。Twitterで『恋とセックスで幸せになる秘密』botがあるのも頷ける。

 二村氏は繰り返し、自分を認めること、自己肯定の大切さを説く。読みながら「ほら自分を振り返ってごらん、つらい恋をしてきてさ。でもねぇ、無理しないで自分を認めてごらん」と言われているような気分になる(勘違いでしたらスミマセン)。この感覚は、もう20年近く前に読んだ橋本治の『恋愛論』のラストで感じたものと同じだ。「なんか、この世の中には『大丈夫なの』っていう、そういう保証だけがないみたいだから言っちゃうんだけどサ、『大丈夫だよ』って、俺は、そう思うけどね。」(橋本治『恋愛論』講談社文庫、284頁)という一文で終わる橋本治の『恋愛論』は、「恋愛」をきっかけにして明らかになる生き様や、自分を見つめること、自分を受け入れること、他者を受け入れることといった関係性の物語へと拡張していった。同様に、二村氏の『恋とセックスで幸せになる秘密』は、恋を賛美するのでも否定するのでもなく、恋をする「自分自身」について考えることを怠ってきた(あるいはそれが難しい状況にある)女性たちが、その状況を抜け出でるための物語を提示する。

 思い返すに、わたしが初めて二村ヒトシという名前を知ったのは、確か1993年のこと、彼が主宰していた劇団『パノラマ歓喜団』による芝居「たらふく姫」を、相鉄本多劇場に見に行ったときだったと思う。もう芝居の内容は忘れてしまったが、舞台せましと縦横無尽に動く二村氏に、心を鷲づかみにされた。その後、パノラマ歓喜団は解散し、そのうち二村氏は風の噂にAV業界にお入りになったということをきいた。しばらく間があいたが、彼のAV作品を少し見始めたり、インタビューや著作を読んだりするうちに、ややこしいことや人が見ないふりをしていることがらの本質をずばりと言い当てる人だなと思っていた。今回の『恋とセックスで幸せになる秘密』も、そんな二村氏の言葉がたくさん詰まっている。きっとこれから何度も読み返すだろう。

 この書評の冒頭のふたつの引用に、全くピンと来ないという人もいるだろう。そういう人は、充分幸せだからそのまま生きていけばいい。でも「これは…わたし?」と少しでも思った人は絶対に読んだ方がいい。男でも女でもそれ以外の人も読んだらいい。繰り返し繰り返し読んだらいい。わたしは読む。


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