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2011年08月23日

『SF文学』ジャック・ボドゥ 訳・新島進(白水社)

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「地図をもってSF文学の旅に」

 
 SF——サイエンス・フィクション——ときくと、すこし身構えてしまう。うっかりしたことを言ってしまうと、その道に通じた人たちから(つまりSFファン)完膚無きまでにたたきのめされてしまうか、「フッ…こいつ、何もわかってないんだな…」という哀れみの目で見られるか、どちらかだと思っているからである。だからSFファンの前にいくと緊張して、「あの、わたしはただアメリカ文学の有名どころをつまみ喰いして読んでいるだけの人間ですから…」と小さくなってしまう。
 わたしのSF読書歴を振り返ってみるに、おそまつきわまりない。「SFの黄金期は読者が14歳のとき」といわれる、14歳頃に読んでいたSFとおぼしきものは、レイ・ブラッドベリとかJ. P. ホーガンの<巨人シリーズ>くらいで(あとは竹宮惠子の『地球へ…』)、他には少女マンガばっかりよんで愚にもつかない恋愛にまつわる妄想ばかり繰り広げていたわけで、狭い読書空間にとどまっていた私はSF読者としての黄金期を逃していたのは確実である。実質わたしがSFというジャンルを意識してSFを読み始めたのは、大学に入ってからだった。卒業論文の指導教授だった方が日本SF界の大御所であったために、「お前、こんなのも知らないの?」と驚かれつつ、おそるおそるSF作品を読み始めただけなのだ(だいたいそのとき90年代の初頭だったが、わたしは「サイバーパンク」という言葉を知らなかった)。そのときになって初めて、ウィリアム・ギブスン、ブルース・スターリング、コニー・ウィリス、マリオン・ジマー・ブラッドリー、クリストファー・プリーストらの名前を知り、大原まり子、野阿梓、柾悟郎といった作家の作品を読むようになった。
 そのときの驚きをいまでも覚えている。「うわ〜、なに、こんな面白い小説があったんだ〜。SFって単に宇宙の話だけじゃなかったんだ〜」(身も蓋もない感想ですみません。無知とは恐ろしいものです)。それから約20年。書店で面白そうなSF作品を買って読んだり、話題になった作品を読んだり読まなかったりという、つかず離れずの関係を保ってきた私とSFではあるが、実は系統立てて読んできていないことを、ずっと気にしていたと言ってもいい。
 じゃあどんどん読めばいいじゃないか———。ごもっとも。だけど何から読み始め、どういう系統をたどっていけばいいのか。名作、古典、ヒューゴー賞・ネビュラ賞受賞作、オールタイムベスト、近年○○年のベスト、今年のベスト、日本のもの、海外のもの、あれもこれも。多すぎる。どの順番でどこへいけばいいか、道案内あればいいのだが…。

 と思っていたら、見つけてしまった。万年SF初学者であるわたしにぴったりな本を。作家や作品だけパラパラポツポツと知っていても、それを文学史的に捉え切れていない私にうってつけの本を。それが、本書ジャック・ボドゥ『SF文学』(新島進訳)である。本書は、訳者あとがきによれば自身が細胞生物学の博士号を持つフランス人の大衆文学研究家によるSF文学案内である。150頁に満たない本文には、SFの定義、起源、そして主に英米仏を中心としたSF作品の特徴をまとめた後、おびただしい数のSF作品から抽出したSF的テーマにそった作品紹介が収録されている。
 ボドゥは冒頭の「ジャンルの誕生と定義」において、SFとは何かを問うことから始めている。とはいえ、どのジャンルであれ、ひとつのジャンルを定義するのは難しい。フランシス・ボナーがいみじくも「ジャンルとはプロセスである」と述べているとおり(Jessica Evans, and David Hesmondhalgh, ed. Understaning Media. Open UP, 2011. p. 77)、ジャンルは反復と差異から成り立つものであるために、ルールをつねに少しずつ逸脱しながらジャンルの範囲を新たに生成するプロセスそのものなのだ。ゆえに、ジャンルの定義は「あれでもない、これでもない」となることが多いが、ボドゥはジャンル定義の難しさを踏まえた上で、ひとまずSFとは「われわれが暮らす自然界から自由になった文学」であるとする。すなわち、SF文学は「不可能事の芸術」であり「幻想についての創作」であるとする。ひじょうに明快だ。
 とはいえ、それではいわゆる幻想文学やファンタジーとの違いはどこにあるのか。それはSF文学はあくまでも「合理や科学、あるいは見かけの科学を基礎にしており、その上でエクストラポレーションが展開される」ジャンルである。すなわち、不可能事を扱うが、そこにはかならず合理的な説明が付されなければならない、というのである。この「合理的推論」と「不可能事」の両立こそが、SFジャンルの特徴であるといえるだろう。なるほど。この定義を読者に提示した上、ボドゥはそのほかの定義へと読者を誘う。いわく進歩を第一とした未来の見取り図としての「教育的文学」、「思索文学」、「もしもの文学」「内的・外的世界の探求」「センス・オブ・ワンダー」が続く。
 第二章「SFの地理学」において、アメリカ、イギリス、そしてフランスにおけるSF文学の歴史と現状を簡潔にまとめながら、ボドゥはいかにSFが既存の文学ジャンルを換骨奪胎しつつ、科学と合理性と不可能事いう約束事による独自のジャンルを形成していったかを概観している。ここで重要なのは、各国のSF専門誌が果たす役割である。いわゆるパルプ・フィクションとしての出自を持つSFは、雑誌文化によって開花したといってよい。たとえばアメリカでいえば『アメージング・ストーリーズ』にはじまり、現在の『マガジン・オブ・ファンタジー・アンド・サイエンス・フィクション』であり、イギリスでいえば季刊誌『インター・ゾーン』がSF作品を提供し続けている。フランスでは大衆的作品と文学的作品に二極化したうえで、いわゆる叢書としてSFが刊行されていたという点で、各国の事情の違いがわかり興味深い。
 さて、本書の中核をしめるのが、第三章に当たる「SFの主要テーマ」である。この章は、SF作品に見られるテーマを抽出し、「宇宙」「時間」「機会」「異世界、異次元」「改造人間」の五つに分類した上で、具体的な小説作品を列挙しながら説明するという離れ業が展開される。ここではSF文学はいまだかつで誰もテーマにしなかったフロンティアへ入り込む文学、旅の文学としての位置づけがなされている。こうしたボドゥの語り口は、次のような一節からも明らかだろう。

SFが目指した二つ目のフロンティアは時間だった。時間と、その両方向、つまり過去と未来である。歴史をたどり直し、あるいは先取りする。この主題は明らかに哲学的な広がりを有する。なぜなら、われわれは誰もが時の旅人であり、時という、誕生から死へといやおうなく人を導く、不可逆的な流れの中に存在しているのだから。  文学における最初の時間旅行者はハーバード・ジョージ・ウェルズ『タイム・マシン』に登場した、名のない学者であった。(97頁)

第三章は、テーマの解説のみならず、紹介するSF小説作品の解説をかねており、各作品の読みどころがたちどころにわかる点でありがたい。既訳のものはもちろんのこと、数多くの未訳作品(とくにフランス作品)にも言及があり、翻訳が待たれるものもある(個人的にはラシェル・タネールの『神々の指紋』が読んでみたいところ)。あとがきで訳者・新島進氏が「作品個々のあらすじは極力おさえられており、実際の読書の楽しみが奪われることはありません」と述べているとおり、短くも魅力的な作品紹介もまた、本書に華をそえている。
 結びにあたる「SFがはらむ問題点」で、ボドゥはSF作品とは何かをふたたび問い直している。ここでボドゥはSF小説の地位の是正を求めているようにも思われる。「大衆文学」と目されてきたSF文学ではあるが、ボドゥ曰く「多くのSF作品はその読解に相当の教養を要する」。さらに「われわれの文明に入り込むであろう変化、あるいは、すでに文明を根底から覆すような影響を与えている変化を反映させることができるのは『普通小説』ではなく、SF作品だけなのである」という主張には、ボドゥのジャンルとしてのSF文学へ懸ける情熱が感じられる。
 もちろん、本書のラストにあるファンタジーというジャンルとの比較についてのボドゥの見解には、異を唱える向きもあるかもしれない。たとえば「ファンタジーは不合理なものを美化するが、SFは世界に対して問いかける道具である。またファンタジーは純然たる逃避文学であるが、SFはつねに、舞台がはるか彼方の世界に投影されていても、現実と結びついている」などといった主張に対しては。だが、もしこの主張の方向に行きたくなければ別の道を探せばいいだけのことだ。

 ボドゥはSF文学の地図を読者の目の前に広げる。SF文学の成立するための要件として「想像の旅物語」と「ユートピア物語」という文学形式を見るボドゥは、未知なる場所への旅行記としてのSF文学の意義を強調する。その意味で、本書のなかでももっとも印象深い一節は、ボドゥの次の言葉である。「SFは、どういわれようと、つねにどこかへのチケットである」。旅行記としてのSF文学。そしてSF文学を旅するのための地図が、本書にほかならない。旅がつねに未知なるものへの不安と期待をもたらすように、何度も行った場所であっても、行くたびに新たな発見があるように、反復と差異を重ねながらSF文学を旅する読者への、本書は格好の道しるべなのだ。

 なお、本書はフランス語からの翻訳であり、膨大なSF作品への言及があるが、丁寧な訳注がさりげなく入っているため、SF初心者も違和感なく読めるかと思う。日本語版では独自に詳細な索引が巻末に付されており、作家名・作品名の原綴を確認することができる。SF文学に造詣の深い訳者・新島氏ならではの名訳でフランスSFを読める日を楽しみに待ちながら、本書の地図に従ってSF作品を少しずつ旅していこう。

 


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2011年08月19日

『<少女小説>ワンダーランド――明治から平成まで』菅聡子編(明治書院)

<少女小説>ワンダーランド――明治から平成まで →bookwebで購入

「<少女>の底力――少女文化研究の見取り図」

 
 ここのところ、三歳になる愚息につきあってケーブルテレビのディズニー・チャンネルをよく見る。ディズニー・チャンネルの番組は、男女を問わず様々なティーン・アイドルの登竜門であることは、ディズニー・ファンではないわたしでも知っているほどだ。いま最も注目されているディズニー番組出身のアイドルといえば、ジャスティン・ビーバーとのオープンな恋愛がゴシップ誌を賑わしているセレーナ・ゴメスだろう。古いところではミッキーマウスクラブに登場していたブリトニー・スピアーズ、クリスティーナ・アギレラがいたし、比較的新しいところではヒラリー・ダフ、マイリー・サイラスなどが思い浮かぶ。
 こうしたティーン・アイドルを見ながら、ふと「果たして彼女たちが出ているドラマやバラエティショーを<少女番組>と呼べるだろうか」という問いがわたしの頭をよぎった。ディズニー・チャンネルのアイドルである彼女たちは(番組に出演している段階では)十代の女の子であり、年若き存在であり、それは<少女>と呼ばれうる時期と重なる。オーディエンスである同じ十代の女の子たちの憧れの的でもある。しかし一方で、彼女たちアメリカン・ガールは、日本において<少女>という言葉が伝えるニュアンスに完全に合致するのだろうか。わたしの研究分野であるアメリカ文学研究では、ティーン文化や若者文化や、「女の子 (Girl)」の表象に関する研究書を昨今よく目にするようになっているが、Girlがすなわち<少女>というわけではないことは、例えばウィキペディアのエントリーに “Shôjo”があることからもうかがい知ることができるだろう。<少女>ははたして日本特有のものなのか。

 <少女>とは何者なのか。
 この問いは、以前紹介した渡部周子氏による『<少女>像の誕生——近代日本における「少女」規範の形成』(新泉社)を書評した際にも思ったことである。渡部氏は、そのひとつの答え——すなわち日本が近代国家として歩むその途上で、公教育によって管理された存在としての「少女」像——を提示していた。その緻密な議論は説得力に満ちたものであったという感想は、いまも変わることはない。
 渡部氏の著書はおもに日本の近代国家形成期に焦点が当てられていたが、現代にまで続く「少女小説」「少女文化」を歴史的に概観する少女研究の見取り図があると、<少女>像の輪郭がよりはっきりしてくるのではないか。さらにアメリカ文学を研究する筆者の関心である英米文学の家庭小説・児童文学との関連が論じられていれば、冒頭で筆者が感じたようなアメリカのティーンと<少女>の共通点と差異を理解する方向がつかめるのではないか。
 そうしたわたしの漠然とした希望を満たしてくれたのが、菅聡子編『<少女小説>ワンダーランド』である。本書は少女小説を中心とした少女文化を歴史的に概観するとともに、1980年代前後に始まるコバルトシリーズを中心としたジュニア小説ブームや現在の宝塚人気までを網羅する。そのなかで、少女とは何か、少女とはどのような存在か、そして少女がうみだした「文化」とはどのような意義があるのかを明らかにしようとする。

 編者である菅聡子氏と藤本恵氏による「<少女小説>の歴史をふりかえる」では、少女小説の成立、吉屋信子の果たした役割、雑誌の読者投稿欄の重要性、戦後の少女文化を支えた雑誌『ひまわり』と村岡花子の存在、そして現代のジュニア小説へと至る道のりがひじょうにわかりやすくまとめられている。ここでは少女小説は「少女を読者として想定して描かれた作品」として規定されるが、興味深いのはこの読者であった<少女>たちが初期の段階で目標とされていた良妻賢母主義の色合いの濃い小説がかかげた理想から「逸脱し、<少女>たち自身の言葉」をうみだしていったことが指摘されている点である。これは、本書に収録されている本田和子氏のインタビュー中でも指摘されている。男性の編集者のもとで良妻賢母を志向しているはずの少女雑誌に掲載される小説を読み、「物を書くことが好きな女の子たちがいて、勝手に書き始めた」わけである。

小説家というのは健全な家庭の子女がなる職業ではないと考えられていたものですから。だけれど、文章を書くのが好きな女の子だったら、そういうフィクショナリーな物語の中に自分を仮託して、いろいろ展開させるというのは、ひとつの遊びとして楽しいでしょう。たぶんそういうことをしたい子どもたちがいっぱいいて、投稿欄にじゃんじゃん投書してきた。その代表が吉屋信子ですよね。そこで『花物語』が出てくると、これぞ自分たちの求めていたものだ、ここに私がいる、と感じた少女達が熱狂したんです。(27頁)

「これぞ自分たちの求めていたものだ、ここに私がいる」という感覚は、いま自分がいる場所ではなく、作品の中に自分の本来の場所を見出すことである(ちなみに、筆者が2007年に開催された世界SF大会にて「やおいパネルディスカッション」に参加したとき、パネリストのひとり——女性だったが——が最初にやおいを読んだときの感想として、まったく同じ言葉を述べていた)。それによって<少女>たちは、「社会的条件に規制されるけど、歩き出してしまうと内発的動因に促されて制度的な目的や理念を曖昧化」するという「したたかさ」を手に入れるのだ。<少女>の底力はまさにここにあるといえるだろう。

 本書が対象としているのは、基本的に日本の<少女>であるが、彼女たちの形成に「海外」が重要な役割を果たしていたことが指摘される。ルイザ・メイ・オルコットの『若草物語』と日本の少女文化を論じたドラージ・土屋浩美氏の「『若草物語』と日本の少女」は、『若草物語』の翻訳氏と戦後の影響をつまびらかにしている。日本でもよく知られているジーン・ウェブスターの『あしながおじさん』に登場する主人公ジルーシャ・アボットを「モテ系女子大生」として読み直す越智博美氏の論文「『あしながおじさん』と1912年のモテ系女子大生」(なんと魅力的なタイトルか!)は、1912年に刊行されたこの小説が持つ「したたかさ」をあざやかに論じている。こうした海外文学からの影響のもとで日本の<少女>が作られ、いまやその<少女>像がshôjoとして海外に輸出されているのだ。
 明治期に成立した少女小説は、なんの試練もなく現代に受け継がれているわけではない。戦時下における少女小説を論じた藤本恵氏の「戦時下の少女小説」は、「主人公・敵対者・援助者」という<少女>たちの三角関係が、戦時下には出兵兵士によって崩されることを指摘する。<少女>たちの「S」関係(本書の末尾にあるキーワード解説では「女学生同士の親密な友愛関係」と説明される)が、愛国というイデオロギーと出兵する男性によって壊される点は興味深い。斎藤美奈子氏は「現代文学に見る『少女小説』のミーム」において、少女小説のパターンを抽出し、その「ミーム」を、現代の日本女性文学(たとえば綿谷りさにいたるまで)の中に見出している。
 菅聡子氏の「私たちの居場所—氷室冴子論」は、コバルト文庫が80年代の文学シーンに果たした役割を丹念に追い、コバルト・ブームを牽引した作家・氷室冴子の描く<少女>像に肉薄する。ここで菅氏は氷室冴子が創り出した「私が私でいられる世界」であることを指摘する。それは、ジュニア小説に見られた<少女>のステレオタイプ——恋愛のことしか考えていない「恋愛バカ」——に縛られることのない、「女の子がなにものにも矯められず生きられる世界」である。自分が自分でいること——それが本来当たり前の姿なのかもしれない。しかし、それが叶わない世界にいる<少女>たちの本来の姿を虚構の世界に創り出すことで、絶大な人気を得た氷室ワールドを再認識させる論考である。
 アマンダ・C・シーマン氏の「少女小説からジェンダーフリー小説まで」では、世界的大ヒットとなったハリー・ポッター・シリーズを取り上げる。根村直美氏は、主に女性が消費するふたつのエンターテインメント——宝塚とジャニーズ——の意外な接点を看破する。美術的な側面から<少女>を考察する渡部周子氏は、吉屋信子の『花物語』に添えられた挿絵——特に目や眼差し——に注目することで、<少女>の図像を解析しており、印象深い論のひとつであった。

 本書に収められた論文はどれもが読み応え十分だが、それに加えて前述の本田和子氏とコバルト文庫を手がけた田村弥生氏のインタビューが収録されている。また、尾崎翠、野溝七生子、森茉莉、金井美恵子についてのコラム、少女文化のキーワード、そして<少女小説>の名ゼリフを付した解説もあり、わかりやすく、かつ飽きの来ない構成になっている。さらに面白いのが、フランス、イタリア、韓国、台湾、中国における<少女小説>事情を解説したセクションである。とくにアジアにおける海外文学の受容という点で、非常に興味深い。全体で200頁に満たない分量でありながら、内容の充実度が高い本書は、少女文化研究の優れた入門書である。

 <少女>とは何者なのか。本書を読むと、<少女>の輪郭が少しずつ見えてくる。かりに<少女>とは「社会的条件に規制されるけど、歩き出してしまうと内発的動因に促されて制度的な目的や理念を曖昧化」する存在だとするならば、こうした<少女的なるもの>は、ある種の普遍性を持つとも考えられる。その意味で、冒頭に挙げたアメリカン・ガールたちと<少女>たちとの関係性をじっくりと考えることもまた、意義のあることではないか——などといったことを考える契機となった一冊である。少女はこれからまだまだ語られるべき存在である。これこそが<少女>のもつ底力なのかもしれない。


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