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2013年07月16日

『李康白戯曲集 ホモセパラトス』李康白著、秋山順子訳(影書房)

李康白戯曲集 ホモセパラトス →紀伊國屋ウェブストアで購入

<劇評家の作業日誌>(63)

 韓国を代表する劇作家・李康白(イ・カンベク)氏が来日し、池袋の劇場で講演会を行なった(6月25日)。今回の来日は、彼の戯曲集『ホモセパラトス』の刊行を祝ってのものである。
 講演の中で氏は、自分の生い立ちに始まり、なぜ演劇の道に進んだのか、そして日本の演劇および演劇人との出会いを語り、最後に先般亡くなられた訳者である秋山順子さんについて心に浸みる言葉で締めくくった。
 氏は3歳の時、伝染病に罹り、足に障がいを持った。(彼は今でも杖を使って歩行している。)彼の母はそのことに心を痛め、彼自身も自分の運命を恨んだが、ある占い師に前世では「風流を嗜む人」であったと言われ、その言葉に救われたという。子供の頃、彼は男の子たちの仲間に入れてもらえず、もっぱら女の子たちと遊んでいた。男の子たちは個人的には優しいが、集団になると弱者苛めをする。それに対して、女の子は分け隔てなく仲間に入れてくれた。ここから彼は、男性が見る世界と女性の見る世界はまったく違うのだということを知った。初期作品には集団に対抗する個の闘いが多く描かれているが、70年代の朴正煕政権時代、すなわち全体のために個人が斥けられる時代にあっては、個人と韓国史の葛藤を描くことが演劇の担う役割だと考えたようだ。
 80年代の後半まで韓国では日本語の上演が禁じられていた。88年のソウル五輪が解禁のきっかけとなり、SCOTの『トロイアの女』上演が最初の公演だった。氏が一番感銘を受けたのは、ニューヨークで観た蜷川幸雄演出の『NINAGAWAマクベス』である。最後に老婆がゆっくりと登場し、そこに桜が舞い、権力者が死を前にして世のはかなさを静かに語る。このシーンに深い感動を覚えたという。
 現在の韓国では、日韓の演劇交流が深まり、両国間で戯曲リーディングが活発となり、日本の作品が頻繁に上演されるようになった。日本人の演劇人で最初に出会ったのは劇団仲間の伊藤巴子さんだった。彼女はソウルで自作の『プゴテガリ』の初演を観て(1993年)、即座に翻訳・上演を申し込んできた。それから2年後、劇団仲間は『プゴテガリ』の日本初演に漕ぎ着けた。その時の翻訳メンバーの一人が、今回の訳者の秋山順子さんである。彼女は三十代から腎臓を患い、人工透析を続けながら限られた人生を賭けて、氏の戯曲翻訳に取り組んできた。死が目前に迫っていることを知りつつ翻訳という難作業に挑む姿に、自分だったらそんな仕事をしただろうかと李氏は自問する。「不可能」なことに挑戦する、それを教えてくれたのが秋山さんだった。こう言って氏は講演を締めくくった。1時間の枠を大幅に超える、氏の思いが伝わる講演会だった。

 長々と本書の前提になる著者の講演内容を綴ってきたのは他でもない、この戯曲集の根底にある劇思想が、氏の体験の記憶と分かちがたく結びついているからである。この講演の後に上演された『野原にて』は、韓国では教科書の載るほど有名な作品で、これもまた韓国史の断面を知らしめてくれた。
 ある時、仲の良かった兄弟の土地の真ん中に測量士が線を引いたところからドラマが始まる。たった一本の線が両者を分割し、いつしか二人は仲違いし、憎しみ合うようになった。もちろんこれは南北に分断された朝鮮半島の比喩であろう。と同時に、世界中で今なお頻発する抗争の原型が、この単純な設定の中に凝縮されている。最後に、弟は銃を捨て、タンポポの花を壁越しに兄に渡すところで両者は和解し、劇は終幕を迎える。
 李氏の戯曲の特徴は、優れた寓意性にある。彼自身の経験をベースにして描かれる小さなエピソードは、決してそれだけに留まらない。『野原にて』は分断された民族の悲しみがあるが、両者を隔てる「壁」は、そこに住む人たちによって除去できるという希望が暗示される。それはいささか教科書的な解決に映し出されるが(事実この戯曲は中学生用の教科書向けに教訓的な作品として書かれている)、本当の結末は書かれていない。ただ暗示されているのみだ。頭で納得していても、実際に行動に移すかといえば、事は簡単ではない。その根底には、人間が抱え込んだどうにも解決のつかない不条理がある。事実、1950年に勃発した朝鮮戦争は半世紀以上経っても、依然解決をみていない。ベルリンの壁が倒壊した後、いまだ先進国で唯一残った分断国家の象徴は、依然取り除かれていないのである。
 寓意性として強烈な印象を残すのは、『ホモセパラトス』も同様である。
 この戯曲は1983年に初演された。舞台となる都市もまた二つに分断されている。市長はこれをどうやって和合させるかに腐心する。この都市を訪れた観光客は、まるで合わせ鏡のように互いを映しあっていることを知る。この両者をつなぐのは、若い男女の愛である。彼らは夜な夜な、下水道を抜けて中間にある沼で逢い引きを繰り返していた。この無謀な冒険が両者の蟠(わだかま)りを決壊させる。ところで、この劇には不思議な人物が登場する。剥製師である。「分けられたあちら側で大成功を収めた」剥製師とは、一種の洗脳の名士といったところだろうか。だが彼が唯一剥製することに失敗したのが、逢い引きする女性なのである。そこで彼女を「こちら側」に連れてきて、公開の場で剥製にしたいというのが、彼の野望なのだ。
 ただ両者の結合には、多くの者たちの思惑があり、歴史的に困難さがうず高く積もっている。「長い間遮断しておけば、分けられた人びとはいっそう敵対的な偏見と憎悪をおこすから、まさにそれがホモセパラトスの特徴なんだ。」(106p)
 まさに「分断」を食い物にする商売人や、選挙に利用する政治家は後を絶たない。「ホモセパラトス」とはラテン語で「分断された人びと」を意味する。
『プゴテガリ』もまた寓意に満ちた作品である。倉庫で暮らす男たちは、扱った荷物を伝票通り出荷するのが仕事だが、いったい何が出荷されているのか、当人自身も知ることがない。あまりにも単調な日々のため、相棒のキイムがわざと間違えて出荷するが、先方からクレームも来ない。劇の終盤で、これが爆弾だったことが分かり、荷物を間違えた「失敗」が多くの人間の命を救えたという皮肉がこめられている。
「この小さな倉庫の中ですべてのことを誠実にやることが、実は倉庫の外ではとても大きなまちがいになるものだ」(186p)という逆説は、あまりに苦い。
 だがこうした善行が蛮行に代わる刹那、作者の視点が浮かび上がる。巨視的であるとともに、弱者を切り捨てない作者の価値観がそこに透けて見えるからである。

    
 著者はソウル芸術大学をこの春退官した。長らく劇作科教授を勤められ、多くの後継者を輩出してきた。同じ学科には巨匠・呉泰錫氏が同僚としており、2005年に揃って来日されたことがある。その折、わたしはシンポジウム「戯曲と上演」の司会を務めさせてもらった。彼の辛みの利いたスパイスたっぷりの皮肉は客席に笑いの渦を起こしていたことを思い出す。
 李康白氏は「韓国の木下順二」と称される。事実、彼がもっとも尊敬している日本の劇作家は木下順二である。その彼の戯曲集が木下の本を編集したことのある社主の松本昌次率いる影書房から、『ユートピアを飲んで眠る』に続く二冊目の本として出版されたことは何かの機縁だろう。



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2012年07月02日

『六〇年代演劇再考』岡室美奈子+梅山いつき編著(水声社)

六〇年代演劇再考 →bookwebで購入

「<劇評家の作業日誌>(61)」

 「現代演劇」はいったいいつから始まったのか。果たして「現代」を規定する時代区分はどこにあるのか。

 そこで1960年代に始まった「アングラ演劇」あるいは「小劇場演劇」を「現代演劇」の出発点とすることはほぼ定説となっている。とりわけ象徴的な年は1967年だ。この年、唐十郎の状況劇場は紅テントを新宿・花園神社に立て、唐のライバルだった寺山修司は「演劇実験室・天井桟敷」を創設した。

 ではその終点はどこにあるのか。わたしはオイルショックのあった1973年辺りを「運動」の終結点だと考えている。この年、蜷川幸雄と清水邦夫の櫻社は『泣かないのか、泣かないのか1973年のために?』という象徴的なタイトルの芝居で彼らの活動に終止符を打った。つまり本書のタイトルとなる「60年代演劇」とは、70年代初頭まで含んだ演劇の革命期に相当すると考えていい。

 本書は、当事者による「60年代演劇」の発言集で、2008年秋に早稲田大学で開催された国際研究集会の集成である。唐十郎、蜷川幸雄、別役実、佐藤信ら創造者が対談形式で発言し、扇田昭彦、大笹吉雄、菅孝行、佐伯隆幸ら批評家が登壇した。寺山修司に関しては、九条今日子をはじめとする天井桟敷のブレーンたちが思い出を語り、ニューヨークのラ・ママのエレン・スチュアートを中心として座談会も企画された。アングラにポスター制作で関わったデザイナーの横尾忠則も登場している。

 多彩な顔ぶれの中で、鈴木忠志、亡き太田省吾を除けば、ほぼ当時の立役者が顔を揃えた。こうした賑やかな集まりは、彼らの生まの声が聞ける最後の機会かもしれないということで、3日間で1500人の聴衆が集まったという。運動のピークだった1968年から40年経ったこの時期に催された研究集会は時宜を得ており、同時に歴史的な検証を可能にする時節でもあった。

 ではこの研究集会が目指したものは何か。ここでは2つの視点が指摘できる。1つは、近代演劇以後に「60年代演劇」を位置づけること。これに関しては、菅孝行氏によって一定程度なされているが、どちらかというと、現勢への批判と新劇への言及に主眼があった。扇田昭彦氏は、72年に書かれた総括(「脱『新劇』運動は何をなしとげたか」)から30数年経って、9つの視点から演劇の改革を分析しているが、根本的な見直しを迫っているわけではなく、いわば追補的である。全体を通じて見ると、理論化作業が十分なされているとは言いがたい。

 もう1つの視点は、同時期に勃興していた欧米の演劇の動向を視野に収めつつ、演劇論的な意義を跡付けていくことである。「国際研究集会」と銘打たれているのだから、60年代演劇を世界演劇との関連で位置づけていくことが求められているはずだが、概してそうした論稿は分厚くない。アルトーやグロトフスキーはこの種の演劇史を語るさいに必須だと思われるが、世界演劇的視点に立った論稿は皆無である。(当時、日本の劇現場と随伴して精力的に論じていた渡辺守章は今回参加していない。)鈴木や太田について論じる批評があれば、それも埋められたろうが、残念ながら国内的な領域での言説化に留まっている感は否めなかった。

 例えば、編者の岡室美奈子氏が言うように、60年代の「巨匠」たちが公共劇場の芸術監督や大学教授に就任したからといって、アングラの「知」が「さまざまな形で受け継がれ、日々更新されている」とは言い難い。アングラは「認知」され、彼らは身分的に上昇したかもしれないが、身分の格上げは彼らの演劇をなんら保証するものではない。むしろ「68年以後」が風化し、80年代のバブル化された消費空間の中で、運動も革命も痕跡を留めなくなった事態に対して焦燥感を募らせているのは、当事者自身ではないだろうか。まずそうした危機感の共有から出発すべきであろう。


 では40年の歴史をもった「60年代演劇」を語る視点とは何なのか。それを「終わった」ものとして語るのか、いまだ達成されていない「未完のプロジェクト」と考えるかで大きく異なる。昔語りで「懐かしむ」ことは勝手だが、40年という時間はある程度見通しの良い場所を提供してくれるだろう。
 
 例えば、大笹吉雄氏の論稿は、「アングラ」のイメージについて当時の受け止め方が語られていて、説得力がある。その場に居合わせないと、こうした微妙なニュアンスは語れない。他のアングラ・イメージは払拭されたのに、なぜ演劇だけ「アングラ」が残ったのか。音楽や映画などでは商売になる以前を「アングラ」段階としていたのに対し、演劇はいつまで経っても商売にならなかったという説明だ。その結果、隠微で非合法というイメージのみ流通していった。しかし、ここにはイメージとしての「アングラ」は語られていても、そこで行なわれた演劇論的内実についてはほとんど語られていない。というより、新劇に接続するものとしてのアングラや小劇場が前提にされているのだ。これは「終わったものとして」括る一つの態度だろう。

 逆に理論化で興味深いのは、扇田昭彦氏が鈴木忠志演出、白石加代子出演の『劇的なるものをめぐってⅡ』に言及したさい、「ポストドラマ演劇の流れの先駆だったと言えるでしょう」(194頁)という一説だ。まだ「ポストドラマ」という言葉が生まれるはるか以前に、すでに新しい演劇の萌芽があったこと、そこから世界演劇との同時性を見通すことは可能だったということだ。ここからアングラが「未完のプロジェクト」であったことを嗅ぎ取ることが出来る。

 なるほど時代は変わった。60年代の学園闘争と連動しながら、当時の身振りを再現してみせても、もはや滑稽でしかない。未曾有の面白い時代だったことをいたずらに神話化しないことも求められる。とすれば、どのように、しかも現在形で語るか。失われた、再生の利かない遺物と、まだ使える道具を分析的に吟味する姿勢が必要である。

 まだ整理できず、発言できないこともある。蜷川幸雄が関わった演劇集団は、明らかに政治と骨がらみであった。だから蜷川の「しゃべりたくない、よみがえりたくないことばかりです」(55頁)という発言は現在でも生々しい。演劇結社櫻社が解体し、商業演劇に転じていった蜷川への劇団内の痛烈な突き上げは、「その後の人生を変えましたね」(54頁)という。それくらい重い出来事だったのだ。40年とはその程度に近過去なのである。

 若手の後続世代が、「アングラ」をどう見ていたのか。60年代演劇を「アンチ近代」を唱えているだけで、それもまた「近代」に包摂されるという平田オリザの指摘は正しい。アングラが家父長的であることに違和感を覚えたのは宮沢章夫だ。ではそこからどう抜け出すのか。

「規律・訓練によってつくられる身体では語りだせないドラマがある、という問い直しが、その後の演劇の出発点としてあったと考えられます」(宮沢、169頁)。俳優の復権を唱えたアングラに対して、「俳優は駒」だと言い放った平田の発言も注目された。だがこれもまた、「アンチ・アングラ」でしかないだろう。脱力系の身体やゆるい演劇も同様だ。その結果として、演劇からダイナミズムが消え去り、テクストへ回帰していった。九〇年代以降の演劇は、ベケットを通過したことを除けば、アングラどころか新劇以前に回帰してしまったのではないだろうか。

 世代が近い宮沢章夫(1956年生まれ)はともかく、太田省吾も寺山修司もオンタイムで見ていない平田オリザ(1962年生まれ)になると、ずいぶん温度差が違ってくる。アングラ演劇の恐さを知らない分、自由に発想できる利点はあるのだが、同時に「アングラ」や「小劇場」の運動の意義を低く見積もっているのではないかと思われる。例えば,移動劇場や拠点劇場などの劇場論、出版や教育まで包摂した黒テントの壮大な演劇革命計画「コミュニケーション計画」(70年)を「正統に引き継いでいるのは、こまばアゴラ劇場と青年団だろうと自分では思っています」(166頁)という発言には、驚きを通り越して、失笑せざるをえなかった。さらに若い岡田利規(1973年生まれ)にいたっては、アングラについてほとんど語る言葉を持ち合わせていなかった。アングラへのシンパシーが「どちらかというと(自分も)左翼」というあたりでは、いかにも心もとない。

 前回の書評で取り上げた『唐十郎論』の著者・樋口良澄の言葉をもじれば、アングラも60年代演劇も、もちろん唐十郎も、以前として「未(解)決」なのである。そのことを改めて認識し、まだ総括できていない領域が残されていることを痛感したのが、本書を読了した感触である。


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2012年05月08日

『唐十郎論 逆襲する言葉と肉体』樋口良澄(未知谷)

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「<劇評家の作業日誌>(60)」

 唐十郎について書かれた評論は多い。近年では、扇田昭彦著『唐十郎の劇世界』(右文書院、2008)という決定版がある。唐作品と40年にわたって伴走し、時代を共有した著者による劇評集だ。
 だが唐十郎について書く権利は伴走者にのみ限定されるわけではない。ここに後発者による新たな唐十郎論が刊行された。本書の著者はもともと編集者として出発した。「現代詩手帳」の編集長、河出書房新社、そして現在は岩波書店の編集者として唐十郎の戯曲集や演劇論を何冊も手掛けている。その意味では、唐自身の背中を押すもう一人の伴走者の役割を担っていると言えよう。本書はそうした近傍者による、唐十郎を内から迫った評論である。

 本書の中で唐を「書き続ける人」と評する言葉が出てくる。そのひそみに倣えば、さしづめ著者は唐作品を「観続ける人」、「読み続ける人」と言っていいだろう。舞台、戯曲、演劇論のみならず、小説、エッセイ、ビラなど唐十郎が手がけたあらゆる文章に目を通し、それを解読するにあたって、哲学や都市論、詩に至るまで幅広く参照する。
 その中でとくに注目したいのは、唐の代表的著作『特権的肉体論』を論じた箇所であろう。発端としてサルトルの小説『嘔吐』に遡って言及している。周知のように、サルトルは唐の大学時代の卒論のテーマでもあった。唐の創作の出発点ともいえる「他者性の発見」は、サルトルから獲得したものであるとは、これまで幾度も指摘されてきた。『嘔吐』に出てくる「特権的瞬間」を小説に登場する役者の視点から捉え直している点は、唐が役者の台頭から演劇論を始めていることと符号する。これはこれまで指摘されてこなかった点だろう。それ故、「肉体や『私』を、関係から考えるところから、唐は演劇に向かったとも言える」(44頁)のだ。「私」を根拠づけるのは「肉体」であり、その「肉体」を他者との関係の中で読み解こうとする。

 ここからも分かるように、本書を貫く一本の太い線は「肉体論」である。しかもそれが、68年に刊行された『特権的肉体論』に終始するのではなく、80年代のバブル化された消費空間、そして電脳化された90年代など、それぞれの時代と格闘しながら、肉体のあり方を掘り起こそうとするのだ。肉体に着目する著者のぶれない視点が本書の最大の特徴と言えるだろう。
 例えば、80年代の代表作といわれる『ビニールの城』。ビニ本という当時の風俗のまっただ中で、「ビニール一枚へだてた肉体のふれあい」を読み解き、『ジャガーの眼』では臓器移植の問題を抉り出す。ファミコン・ゲームを扱った『電子城』など、電脳化する社会に唐作品は真っ向から取り組むが、概して苦戦しているのではないか、と著者は判断する。それは生まの肉体が仮想現実的な疑似肉体と交換可能な希薄な時代だからである。

 2000年代になるとどうか。唐の視点が、消費ゲームから次第に変化してきたことに著者は着目する。それは「労働」の現場を描き出したという指摘である。資本主義が高度化し、その行き詰まりを見せ始めた時、切り捨てられた労働現場の周縁と唐が格闘していたことが改めて浮上してくるのだ。2008年にリーマン・ショックはその象徴的な事件だったが、先が見えなくなった時代を透視するように、唐は労働や生活を次々と舞台化していたのである。
 だがそれは、一見すると、かつての下谷万年町を描いた時代とクロスする。2012年1月、蜷川幸雄演出によって『下谷万年町物語』が31年ぶりに再演された。この作品は唐が初めて生まれた町を舞台にした記念碑的な作品だったが、近年の唐組で描かれる民衆の「生活」とは微妙に異なっている。

 ここで唐が着目したのは、「もの」だった。第九章「<もの>の逆襲」は2000年代の唐作品を跡付けていく。
「ものづくりの現場や、<もの>が肉体を使って流通する場所、すなわち、小工場や小さな商店、飲食店、職人や商人の世界である」(160p)。この指摘は鋭い。

 一般にゼロ年代と呼ばれる流行的な演劇とはまるで異なった位相がここでは切り取られている。若者の風俗や喋り方が舞台に引用され、「新しい」と持て囃された時代に、唐の扱う「職人」の世界はなんと地味で、底部を描いた世界であることか。ここには、かつて下谷万年町のような「神話性」はない。だがリーマン・ショック以降の世界市場は、そうした「神話性」を無効化にした。つまり世界は、この底部からの見直し、著者の言葉を借りれば「逆襲」を必要としているのだ。唐はこうした時代が到来するのを待っていたかのように、労働や生産の現場を描き、時代の深部を抉り出したのだ。2000年代に「唐十郎ルネッサンス」(再生)と言われたのは、時代のもっとも本質的な問題に触れたからである。折しも、唐組も創設15年を迎えたあたりから、役者の力量が急速に伸びてきた。舞台の文体もまた変わった。

「唐組では、状況劇場時代のよく用いられた演出、役者同士が観客の方を向いて挑発しながら会話する演出がなくなり、会話は細かく練り上げられていく。テントの舞台空間は、美術から照明まで、桟敷席から見上げる視線に合わせてつくられている。」(156p)
 88年に状況劇場を解散し、ほどなくして唐組を立ち上げる。この「ゼロからの再出発」はバブルから遠く離れ、「唐は結局、自らを追い込み、現場の表現者の道を選んだのである。」(143p)と評価する。
 大きな別れ道である。メジャーへ行く道をあえて選ばず、無名の若者たちと時代の先端部で模索したのだから。こうした過程で、唐は横浜国立大学の教授になり、そこで出会った若者たちが、やがて「唐ゼミ☆」を結成し、唐の初期の作品を上演していく。97年以降のことである。こうした現在に至るまでの道筋にどういう意味があったのかが、本書によって初めて跡付けられたのである。

 それと関連するのは、唐にとっての浅草・上野である。唐の原点とも言えるのは、幼年時代に見た記憶だろう。その意味で、彼が生まれ育った上野・浅草周辺は、彼が描く物語群=サーガなのだ。フォークナーがアメリカ南部を、中上健次が紀州を執拗に描いたように、唐もまた上野・浅草への言及は避けて通れない。しかしそれは、決してノスタルジックな神話性に流れるのではなく、リアルな「現在形」として捉えていくところに著者の新鮮なまなざしがある。
 例えば、浅草の芸人ミトキンを論じた箇所で、「浅草は、唐にとってはノスタルジーの対象などではなく、不条理劇など全てここにある、と思わせるほどの『現在』だった。」(58p)と言うのである。ミトキンの芸は当時流行した不条理劇、例えばベケットの『ゴドーを待ちながら』さながらだった。「いずれにせよ、唐は日本の民衆の中にある肉体から考えていく発想、浅草の見世物や芸能から演劇を考えていく発想を、自覚的に自らの世界に取り込んでい」(64頁)ったのだ。

 本書で著者は、「アングラ」や「小劇場」という言葉ではなく、「前衛」を提唱している。だが「アングラ」は、果たして解決済みなのだろうか。ここで著者が「未決」という言葉を用いていることに着目したい。これは1972年から始まるアジアへの遠征にさいして使われた言葉だ。
 唐十郎と状況劇場は1972年から74年まで、戒厳令下のソウルをはじめ、バングラデシュ、シリア、パレスチナの難民キャンプを訪れた。これまでこのアジア・ツアーは唐の冒険精神のなせる業という評価だった。だが著者はこれを「アジアの四辺形」をめぐる旅として、「『戦争』を未決のもの、精算されていないもの」(104p)とした戦後日本への課題と真摯に取り組んだものと位置付けた。これはこれまでにない重要な提言だ。これは「アングラ」と言う言葉にも適用できないだろうか。60年代に始まった演劇革命は、いまだ「未決」のまま現在形として投げ出されている。その正統な歴史化が求められているとも言えよう。

 著者は公演に文字通り関わったエピソードを披露している。ここで著者はたった1日の労働に付き合っただけで、「私はその日の夜、疲労で何もできなかった。」(153頁)と述べている。テント公演にまつわる労働は並大抵ではない。テントを建てるのにどれほど神経を使い、危険をともなうことか。こうした一人ではできない「労働」は仲間を必要とし、その達成には集団の結束を必須とする。そこに唐が劇団にこだわり、家族のような小集団をつくり続けてきた根拠がある。それが半世紀近い彼の活動で変わらなかった軸である。それゆえ著者は、唐十郎と状況劇場、唐組を一貫した「運動」と捉えるのだ。

 最後に著者は、3・11の体験を語っている。あの日以来、「難民」と化した東北の人たち、それはアジアを経巡った紅テントが出会ったキャンプの人たちと似ていないか。だからこそ、状況劇場は、その場に出かけたのである。その時、テントとは非常事態にもっともふさわしい形態だった。
 今回も被災地の一つである水戸芸術館での公演にさいして、ビラに「お見舞い公演」と書き付けた。それは政治を通さない演劇の唐なりの思いだったろう。紅テントを手放さず、一貫して地面の下からのまなざしを放ち続けてきた唐十郎の演劇魂とそれは見事に合致する。そこに立つ役者体、それこそが「肉体」と呼ばれるものであったのだ。

 副題に「逆襲する言葉と肉体」とあるように、著者の「肉体」を論じる姿勢は現在の暗部を刺し貫いているのである。


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2012年01月04日

『乱歩・白昼夢/浮世の奈落』斎藤憐(而立書房)

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「<劇評家の作業日誌>(59)」

 音楽劇『上海バンスキング』で知られる劇作家・演出家の斎藤憐さんが、2011年10月12日、食道腫瘍による肺炎で亡くなった。享年70歳だった。
 本書は死後、最初に出された戯曲集である。この本は2本の戯曲が収められている。『乱歩・白昼夢』は2009年8月、『浮世の奈落』は2010年10月、いずれも結城人形座によって初演された(東京芸術劇場小ホールにて)。『乱歩・白昼夢』はこの劇作家の長年の蓄積が集約された感があって、傑作と言っていいものだった。今回はこの作品を中心に劇作家の生涯にも触れてみたい。

 年末も押し迫った12月25日、故人が最後に関わった「座・高円寺」および併設されたカフェ・アンリファーブルにて「斎藤憐さんを偲ぶ会」が催された。劇作家・福田善之や彼の舞台に数多く主演した女優・渡辺美佐子ら生前ゆかりのあった人たちのスピーチに始まり、戯曲のリーディングと故人の生涯がレトロスペクティヴに綴られた。劇作家という仕事は、概して孤独な作業ではあるが、彼は例外的に人付き合いが上手で、いろいろなものを動かしていくモーター的な存在だった。

 例えば、館長を務めた「座・高円寺」もその一つである。杉並区在住の劇作家に呼びかけて、廃館していた劇場を改装し、運営に乗り出した。黒テント以来の盟友・佐藤信を芸術監督にしたのも彼の采配だろう。

 さらに遡れば、この劇場とパートナーシップを結んでいる「劇作家協会」の設立にも、彼は大きく関与した。1992年に設立された「劇作家協会」は、それまで滅多に集まることのなかった劇作家たちが、彼の発案で一つにまとまり、事業団体として発足したのである。

だが彼は前面に出ることはなく、会長に先達の井上ひさしを押し立て、事務局長のポジションに身を引いた。二代目は同世代の別役実、そして三代目以降になると、自分より年少の永井愛、坂手洋二へと引き継がせていった。彼はあくまで黒子に徹し、若手と上の世代をつなぐパイプ役となり、時には後輩の劇作家たちの相談役にもなった。劇作家の養成セミナーを主導したのも彼である。その成果は『劇作は愉し』という著作に結実している。そこには彼の教育者の一面が垣間見える。

 劇作家・斎藤憐は1940年、朝鮮の平壌で生まれた。終戦後、引き揚げてきた彼は、やがて東京の成蹊中学・高校に進学し、演劇部に入部した。そこから彼の演劇人生は途絶えることなく続いた。早大露文を中退した後、66年に俳優座養成所に入所し、「花の十五期」と呼ばれる華やかなスタートを切った。

  だが彼は、俳優座を頂点としていた新劇に反旗を翻し、佐藤信や串田和美、吉田日出子らと自由劇場を創設し、「アングラ・小劇場運動」に身を投じていった。黒テント(演劇センター)の創設にも関わり、移動劇場用の最初の作品『翼を燃やす天使たちの舞踏』を他の3人の劇作家たちと共同執筆した。これは伝説的な舞台となったが、やがて彼は黒テントの運動から離れ、串田らの「オンシアター自由劇場」の座付き作家となり、そこで名作『上海バンスキング』を生んだのだ。だが彼は運動体としての劇集団に深く関わらず、フリーの劇作家を守り、木村光一の「地人会」など新劇側に寄っていった。

 1990年、斎藤は千田是也演出で『東京行進曲』を書き下ろした。その時、斎藤は「千田先生に演出してもらえることは望外な喜び」といった旨の発言をしている。わたしはアレッと思った。斎藤は佐藤や串田らと糾合して、俳優座に反逆したのではなかったか。それが「アンダーグラウンド」の運動であり、その打倒対象は千田是也であったはずだ。それとも、20数年経てば「蕩児の帰還」もありえるのか、と釈然としなかった。1990年という時代は、まだ新劇とアングラの対立は顕著だったのだ。逆に考えれば、両者の氷解、対立の解消の先駆けがこの頃だったのかもしれない。

 劇作家としての斎藤憐の真骨頂は、徹底した取材による記録文学とも言うべき作品性にあった。この先覚者に井上ひさしがいる。師匠格は福田善之だった。
 斎藤は後年、評伝劇にも手を染めていった。病床には、次回作、魯迅関係の書籍がうず高く積まれていたという。歌謡曲の大家・服部良一にも関心を寄せていたらしい。もっとも服部良一の次男は黒テントの俳優・服部吉次であり、彼の息子有吉は世界的なダンサーになった。公私に付き合いのあった芸術一家の評伝劇なら、さぞ興味深い作品に仕上がったろう。

 わたしは、斎藤憐さんととくに深い付き合いはなかった。ただ学生時代に、「オンシアター自由劇場」で『上海バンスキング』や『黄昏のカーニバル』の初演を観、また彼の初期作品『赤目』はとくに好きな戯曲だった。だから個人的にそれほど話す機会はなかったものの、畏敬の念を抱いていたことは確かである。

 例えば2005年に書かれた『春、忍び難きを』は、戦前のリアリズム戯曲の頂点をかたちづくった『火山灰地』の21世紀版ではないかと思ったこともある。彼の作風はリアリズム劇をも手中にしていた。斎藤憐は演出家・佐藤信という最高のパートナーを得て、この快作を生み出したのだ。上演母体は俳優座である。

 わたしは斎藤憐の長い劇作家人生の中で、節目になったのは、結城人形座だったのではないかと考えている。わたしが斎藤作品を最初に観たのが、古典と前衛を出会わせるこの人形一座だった(『河原ものがたり』)。最後に観た舞台もこの一座だったのは、奇しき縁である。

 『乱歩・白昼夢』は江戸川乱歩の四つの短編小説を組み合わせた一種のオムニバス劇である。『芋虫』『屋根裏の散歩者』『一人二役』『人でなしの恋』はいずれも「人形」が主題化されている。

例えば『芋虫』では、両手両足を戦火で失った二等兵の物語だが、砲撃音とともに右手、左手、そして足が順次吹っ飛ぶシーンは、人形劇でなければありえないリアルな表現だ。変装することで妻の恋心を試す『一人二役』は等身大の人間ではうそ臭くなるところを、人形だからこそ、かえってそのフィクション性が説得力を持った。人形一座の「八百屋お七」の人形に実在の人間以上に懸想してしまう夫を描いた『人でなしの恋』は、結城座に実際通った経験のある乱歩自身の願望が重ねられている。結城座は江戸時代に創設された四百年の歴史を持つ由緒ある一座なのだ。

 これらの小説の舞台となっているのは、1930年代の東京である。人口が東京など大都市に集中するにつれて、アパートという集合住宅が誕生する。個室が生まれてくるにつれて、アパートの住人から「屋根裏」を徘徊する人物が出現する。それが『屋根裏の散歩者』だ。乱歩が描いた小説群を浅草の木馬館で上演するとしたこの劇の設定は、演劇のからくり性をあますところなく伝えるものとなった。

 この舞台は、アニメーション作家兼デザイナー、宇野亜喜良に負うところが大きい。『乱歩・白昼夢』は副題に「人形と写し絵による」とあるが、四方の壁面に映された幻灯はドラマを補強するばかりか、それ自体が一つの表現になっている。例えば、「浅草の街並。十二階。浅草の歓楽街の人々。」といったト書きの一行は、舞台では宇野の表現として効いている。

 一般に戯曲は台詞とト書きで構成され、それは文学の一種だと考えられている。けれどもこのト書きは、舞台を構成する重要な要素であり、演出のノートに他ならない。作者自身演出も兼ねるこの舞台では、ト書きは自分自身へのメモでもあったのだ。

 台本には詩も書き付けられている。この詩は同時に詞でもあり、音楽を担当した黒色すみれの歌詞になっている。さらにはサウンドエフェクト、つまり音響効果まで書き込まれている。この舞台が単なる台詞劇にとどまらず、多様な要素が詰まったトータルな劇であることが了解できるだろう。ここには文学としての戯曲を超えた、多重な機能が満載されたテクストの空間が広がっているのだ。劇作家・斎藤憐賀たどり着いた成熟の地点がここにある。

 冒頭で、「『上海バンスキング』で知られる劇作家」と記したが、1979年に初演されたこの舞台はやはり斎藤憐の最高傑作だろう。マドンナ役の主演・吉田日出子、若く魅力的だった余貴美子、渋い味を出す笹野高史と串田を加えた四人のアンサンブルは忘れがたいものがあった。

 「偲ぶ会」もやはりこの作品で締め括られた。「座・高円寺」の舞台下手からトランペットを持った串田和美が登場する。彼は壇上に掲げられた遺影に深々と一礼した後、やおら名曲「ウエルカム上海」を吹き出した。

『上海バンスキング』は1930年代の上海に、食い詰めたジャズメンたちの行く当てのない博打のような生活を描いた作品だ。それは戦中の日本人の荒廃した心境を的確に映し出していた。彼らジャズメンたちは暗い戦争へ向かって奈落を突き進む日本社会を暗示するように、その場限りのジャズ演奏に興じる。ラストシーン、廃人となった主人公の周辺には、かつての仲間たちが楽器片手に登場し、即興で演奏する。やるせない気持ちとやけっぱちの心情が何とも滑稽で潔い。この名シーンが年を重ねた初演メンバーで見事に再現されたのである。

 それは故人への深い友情の籠もった哀悼でもあったと同時に、震災に見舞われた日本へ斎藤憐からおくられた鎮魂歌のようにも聞こえた。


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2011年06月07日

『マイ・バック・ページ ある60年代の物語』川本三郎(平凡社)

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「<劇評家の作業日誌>(56)」


この本の初版は1988年、河出書房新社から刊行された。それが昨秋、22年ぶりに新装版で再刊された。復刊のきっかけは、この5月に公開された映画(山下敦弘=監督)である。妻夫木聡と松山ケンイチが出演するこの映画は、60年代から70年代初頭の激動の時代を生きた若者たちの青春の物語でもある。

著者の川本三郎は、映画や文芸の評論家として高名であり、演劇評論を精力的に執筆していた時期もある。その彼がかつて朝日新聞に勤めていたことは知っていたが、「朝日ジャーナル」で、こんな事件に関わっていたことの詳細は知らなかった。その意味では、わたしにとっては「衝撃的」といっていい内容が盛り込まれている。

「1972年1月9日、私は埼玉県警によって逮捕された。「証憑隠滅」の容疑だった」。帯にこう記されている。川本はこの年朝日新聞社を解雇され、路頭に迷うことになった。

本書の記述は回想形式で始まるが、内容を大別すると、2つに分けられる。前半はジャーナリストになりたてての著者が、「ジャーナリスト、お前は誰だ?」(13p)と自問自答しながら、新左翼運動の昂揚期を生きた日々。運動の後退期に当たる後半部は、自衛隊員殺害事件を起こした活動家Kと著者の関係が軸となり、記述も重くなっていく。その行き着く果てが、1972年の「連合赤軍」事件だ。

そこで本書を二つの観点から読んでみたい。物語(例えば青春の)として読むか、歴史のドキュメント(学生運動の軌跡とその顛末)として読むか。前者であれば、朝日新聞に入社した著者が、大新聞の特権的な場所にありながら、新左翼運動にシンパシーを抱きつつ、その渦中に入れない中途半端な身の置き所のなさが綴られる自伝風読み物。

 映画や音楽好きの、今で言うサブカル青年が、背伸びして政治に巻き込まれてしまった運命の皮肉が主調音となる。世の中にうまく適合できない青年が、孤独な日々を映画に活路を見出し、やがて激化する学生運動の渦中に巻き込まれていく。

 その背景をなす69年前後は、アメリカのニューシネマの台頭期だった。『俺たちに明日はない』『イージーライダー』『真夜中のカーボーイ』といった映画はわたしも同時代で見た。『イージーライダー』が封切られたスバル座は今でも健在である。オールナイトで映画を見、明け方、そのまま有楽町にあった朝日新聞本社に赴き、風呂に入って、日曜の午後に気ままに読書に耽る。若く時間のたっぷりあった記者は、孤独な中に至福を味わっていただろう。

 日大や東大の大学を拠点とした学園闘争は、新聞社に入りたての著者にとっては、まずは取材の対象であった。安田講堂に立て籠もった学生たちに心のなかでエールを送りながら、バリケードの中にいるか外にいるかでまったく違うことに煩悶する。

 心情的左派だった当時の朝日新聞社系の週刊誌、その象徴が「朝日ジャーナル」だが、彼が最初に配属されたのは、保守的な「週刊朝日」だったことも、彼の思いを屈折させる。三里塚に取材に行っても、記者たちの寝泊りする旅館はいつも闘争の外の安全な場所にあった。

 そんな中で、アメリカ人のジャーナリスト、スティーヴとの出会いは心の指針になった。その言葉は「センス・オブ・ギルティ」。日本語で言えば、「良心の呵責」である。キリスト教文化圏なら「罪の意識」となろうか。

 取材をビジネスと割り切るアメリカ人ジャーナリストは自分より「はるかに精神的にタフ」(63p)ではないか。著者にとってそれは痛い認識だが、噛みしめなければならない現実だった。この「弱さ」を抱えた若いジャーナリストをどう受け止めるかで本書の見所は変わってくる。

 例えば若いアイドルタレントとのちょっとした出会いと琴線に触れる交流は、その弱さをロマンチシズムと言い換えることができる。また川本は当時、「現代歌情」という連載を担当していた。

 滝田修や秋田明大という当時の学生運動の大物たちに原稿を書かせ、彼らは好んでマイナーな歌を時代の歌として取り上げてきた。「あの時代は、こういう巷の歌こそがもっとも時代の奥底の心情に触れるものがあった」(118p)という一文は、実は川本の物書きとしての本領をよく言い当てている。

 やがて川本は、いかかがわしい活動家のKと知り合い、取材を通して「共犯者」的なところまで踏み込んでいく。それは宮澤賢治の詩を好み、ボブ・ディランやCCRなどに共感を寄せるKに、彼自身、信を置いたからに他ならない。ジャーナリストとしては、たしかに甘かったかもしれない。だが、青春のほろ苦い悔恨の物語として、主人公は適度に弱く繊細でなければならない。それが物語の隠し味となる。

 ジャーナリストとして大スクープを取りたいという野心もあった。編集部の内部にKへの疑念を抱く者もいたが、センセーショナルな記事を書きたい、これは週刊誌の記者の宿命だろう。そして、自室で密かにKと会い、密談するシーンは行き詰るドラマだ。人生は時としてドラマ以上に奇奇怪怪だ。めったに起こらない現実を前にして、川本の筆致は小説家さながらである。――と、ここまで書き進んで、映画『マイ・バック・ページ』を観た。

 映画では、妻夫木聡演ずる沢田と、松山ケンイチ扮する梅山こと片桐の葛藤がドラマの主軸となる。沢田の心情に触れる箇所では、忽那汐里演ずる表紙モデルのアイドル倉田眞子が登場する。人気男優が激突するドラマ仕立てのフィクションは、本書とは別様である。メロドラマタッチのものも、彩を添える。

 映画でのポイントは、男の涙である。眞子は、映画『真夜中のカーボーイ』を見て、ダスティン・ホフマンが男泣きするシーンに感動したと語る。 が、沢田はそのシーンに余り注目していない。当時の男性にとって、涙を見せることは「女々しい」として、禁じられていたからだ。映画の中でもひときわマイナーで見落としかねないシーンだ。

 だが闘争も40年経ってみると、この伏線は利いてくる。ラストで飲み屋に入った沢田は、かつて取材したフーテン男が子持ちの家庭を築き、真面目に店を営んでいることに、なぜか男泣きしてしまう。

「ふつう」であることの貴重さは、闘争で敗れ去った彼には痛切だ。40年前には決して見えなかった「弱さ」の肯定がここにある。言い換えれば、図と地の反転だ。1976年生まれの映画監督が本書から読み取った時代を見る目だろう。 
 
 身につまされたシーンがある。若く無名の運動集団に参加した者たちが、リーダーに本気で活動を持続できるのか、その本気度を試されるシーンだ。20代で演劇集団に関わった経験のある者なら、この困難さは誰しも共有するものだろう。政治運動も演劇活動も、それ自体では“食えない”。それらを続けていくには、相当な決意と犠牲を厭わない覚悟が必要だ。果たしてそこまで追い込んでまでやるべきことなのか。おそらく60~70年代も今も、事情は大して変わらない。依然として若者たちにとっての踏み絵は存在するのだ。

 時代の雰囲気が息づいていると思われるのは、大学キャンパス内の壁に大書された「連帯を求めて孤立を恐れず」といったスローガンを目にした時だ。60~70年代は、若者たちが初めて大人に向けて、メッセージをぶつけた時代だ。エリートだった学生が、その優位な立場を捨てて、自己を否定していく時、町の人々は彼らを受け容れた。大衆人気は確実に存在したのだ。

 だが、東大の安田講堂が陥落し、次第に孤立を深めていくセクト側は、殺人やテロに傾斜し、大衆の支持を得られなくなった。その顛末が、爆弾闘争と一般人をも巻き込んだテロリズムだ。

 なぜ闘争は敗北したのか。その結論はいまだ出ていない。それを考えることは、闘争に関わった者にとっても、またその後に生まれた世代にとっても、避けて通れない問題だろう。本書の提起したものは、今なお現在形である。


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2011年05月02日

『ドラマトゥルク』平田栄一朗(三元社)

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「<劇評家の作業日誌>(55)」

 近年、日本の演劇界でしばしば耳にする言葉に、「ドラマトゥルク」がある。それを自称する者たちも少しずつ出てきた。日本語に置き換えると「文芸部員」となるドイツ語だが、その実態は今一つ摑みがたいものがあった。その幣を拭ってくれたのが、本書である。

 著者の平田栄一朗氏はドイツ演劇を専門とする研究者で、慶応大学で教鞭をとる。彼はドイツで演劇雑誌「テアター・デァ・ツァイト」(今日の演劇)の日本演劇特集の企画にかかわるなど、日独両国間の演劇をつなぐ気鋭の批評家でもある。

 本書は六つの章から成り、ドラマトゥルクの歴史や、レパートリーをめぐる制作ドラマトゥルギー、観客とどう接するかの観客ドラマトゥルギーなどが語られ、最後に日本演劇への適用が探られる。だがそのことに関しては、概して懐疑的な側面が語られる。

「ドラマトゥルクは、演目や企画をプラニングしたり、舞台制作の条件と環境を整え、新作の制作プロセスにおける一つ一つの結果を判断し、他のスタッフに引き渡していく。また制作の芸術的(さらには社会政治的な)意図を観客や社会に橋渡しする。」(14p)

 簡潔に語られる言葉だが、ここから実態を想像することは難しい。たしかに豊かな舞台創造には、劇現場を支える陰の功労者が存在していることは、多くの関係者の知るところだ。が、実際に彼、彼女らが前面に出てくることはない。ポストトークの司会や、観客を導くワークショップの進行やレクチャーを担当することはあるが、あくまで裏方で支える役である。一方、ドラマトゥルクは舞台創造においてもっとも本質的なところに関わりを持つ。その仕事の内容は、現場の数と同じくらいの多様さがあり、その事例を挙げていくと膨大な数にのぼるだろう。複雑な組織のモーターの役割を果たすのが、ドラマトゥルクなのだ。

 本書は、著者の豊富な取材によって、数多くのドラマトゥルクの声が収集されている。各劇場で実際に活動している現役の彼らが語る具体例は、どのように舞台が創造されてくるかの内実を考えていく上で貴重である。演出家やプロデューサーとドラマトゥルクはどう違うのか。あるいは企画部担当や演出助手とどう違うのか。劇団というアンサンブルの内情に通じていないと、その相違を見極めることは難しい。その中で、著者はいくつかの特徴的な役割を挙げている。

 その一つは、年間のレパートリーを決定することだ。ドイツの公共劇場の場合、年間で十から十五ほどの作品を日替わりで上演する。しかもそのジャンルは、古典から小説や映画の舞台化、新作戯曲、実験的作品など多様な観客の希望に応えられるように策定する。これを毎月、芸術監督と協議して決めていくのである。

 また作品の内部に踏み込んで、古典ならこれまでの上演のあり方を調査することも少なくない。テクストの改変(テクスト・レジ)を行なうのもドラマトゥルクの仕事の範疇である。ドイツの少なからざる劇作家たちは、このドラマトゥルク出身者である。例えば、ハイナー・ミュラーやボートー・シュトラウスといった大作家たちもこの職名の出身者だった。日本のように、自分が意識すれば即座に「劇作家」になれるのとは違って、ドイツには、純然たる「修行時代」がある。それが舞台に厚みをもたらしていることは言うまでもない。

 観客に対する教育や宣伝に従事するのもドラマトゥルクの仕事の一つだ。上演プログラムの編集・作成では、作品の背後にある思想や哲学などを反映させる。そのために古今の文献から作品の鑑賞に役立つ文章を博捜し、観客に考えるヒントを与える。時には演出家や劇作家に材料を提供することもある。つまり舞台創造の知的な部分を担うのがドラマトゥルクなのである。

 またドラマトゥルクは有能なスポークスマンでもある。彼らの発言によって、今、世界の先端部で何が起こっているかを知ることができる。具体例を挙げよう。

 90年代に東ベルリンで絶大な人気を博していたフォルクスビューネは、演出家フランク・カストルフの名前のみ知られてきた。だが、シュリンゲンジーフ、ヨハン・クレスニク、クリストフ・マルターラーらをフォルクスビューネに招聘し、演出の機会を与えたのは、カール・へーゲマンやマティアス・リリエンタールらドラマトゥルクたちだった。彼らの存在なくしては、フォルクスビューネの活動はありえなかった。

 彼らはさらに本拠である東ドイツ、東ベルリンで活動する意味も合わせて考えていった。彼らのお膳立てがあって、初めて90年代にフォルクスビューネが「東」の劇場として脚光を浴びたのだ。こうした側面が明らかになってくるにつれて、ドラマトゥルクの役割とその重要性が了解されてくる。

 リリエンタールが来日したおり、わたしは一緒にシンポジウムを行なったことがある。当時の東ベルリンの空気を吸い込んだ彼の挑発的でラディカルな発言は、とくに記憶に残っている。彼は後に、(西)ベルリンのHAUという劇場に移り、日本演劇特集なども企画している。その意味では、世界各地を渡り歩き、世界中の刺激的な舞台を観て回り、そこから発見した新しい潮流を逸早くプログラムに反映させている。

 この延長線上にあるのが、フェスティバルを組織するプログラム・ディレクターとしてのドラマトゥルクの役割だ。世界の先端的な舞台を一つの演劇祭に集め、そこで大きな芸術の流れを見せる。つまり「状況を創り出す」のがドラマトゥルクの使命でもあろう。つまりドラマトゥルクとは、創作現場におけるバックボーン的存在なのだと言える。

 日本の創作現場は劇作家と演出家が中心となって進められるが、小劇団の場合、概して主宰者である劇作・演出家の負担が大きかった。特別な才能が続出した60年代演劇の日本では、その「独裁制」ゆえにかえって才能の「突出」を生み出した。だがそうした才能が次々と生まれなくなった時、創造現場の組み換えが求められるようになってきた。ドラマトゥルクの存在が求められるようになったのだ。90年代からゼロ年代以降の日本は、そういう時代だったと言えよう。本書の刊行はその意味で、きわめて時宜を得ており、待望された一書なのである。

 本書を読み進めていて、もっとも気にかかったのは、日独の演劇環境の違いである。

 ドイツと日本の劇現場の違いは、想像以上に大きい。主要な演劇の大半が公共劇場で制作されるドイツ演劇は、十分な施設、潤沢な資金、ありあまる時間、それに加えて豊富な人材に恵まれている。

 システムの違いも大きい。レパートリー・システムとは日替わり公演であり、これは劇場に劇団が内属していなければ、ありえないことだ。つまり一本一本にかける労力や資金力が日本とまったく異なる。日本では、公演期間は短く、当たれば再演されることもあるが、キャストによっては、数年後というのはざらである。これは近年,とみに増えてきたプロデュース公演に顕著で、人気俳優の場合、一,二年後までスケジュールが決まっていて、「再演」というイレギュラーなものが入り込む余地がないに等しい。これでは作品が「成長」していかない。

 演劇教育の違いもまた相当の開きがある。子供の頃から、劇場に親しむ習慣があるドイツの子供たちは、学校教育とは別個に市民生活の中に文化としての演劇が入っている。だから演劇というものの社会的役割と地位が違う。ドイツでは、“低級”な娯楽は、劇場文化の求めるものではない。あくまで人間の真理を探求するものが、税金を使って行なわれる舞台芸術なのである。何かにつけてテレビが参照項となる日本とは、演劇に対する意識がまったく違うのである。

 この日独の違いを乗り超えて、制作環境を整えることはできるか。それはこれからの日本の大きな課題であるし、そこに一石を投じた本書の意義は大きい。

 なおこの著作によって、平田栄一朗氏は、第16回AICT演劇評論賞を受賞した。


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2011年04月01日

『ポスターを貼って生きてきた―就職もせず何も考えない作戦で人に馬鹿にされても平気で生きていく論』笹目浩之(PARCO出版)

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「<劇評家の作業日誌>(54)」

 おもしろい人間がいたものだ。“おもしろい”という言い方が乱暴なら、“よくぞこんな風に生きてきた人間がいたものだ”と言い換えてもいい。誰も考えもしなかったことを思いつき、後先考えず大胆に実行し、それを職業にする。挙句、ついには三沢にある寺山修司記念館の副館長という肩書きまで持ってしまった! ただし本業はあくまで「株式会社ポスターハリス・カンパニー」、つまり街中にポスターを貼ることを請け合う業である。それがいつしかポスター収集に発展し、さまざまなところで展示し、世界にまで進出してしまったのだから驚きである。前人未到とはこのことを言うのだろう。

 発端は大好きな演劇を世に広めたい、ただこの純情至極の一念だった。彼の一日はだいたいこんなものだった。昼の1時頃に起き出し、近くの定食屋で昼飯を食い、事務所に使わせてもらっていたパルコ劇場の事務所に顔を出す。夕方4時頃に70枚ほどのポスターを持って街に出る。だいたい二十キロくらいあるポスターを開店前の飲み屋を訪ねては、一枚一枚貼らせてもらう。夜の10時か12時頃にようやく一枚も手元になくなる。それから元来た道を引き返し、飲み屋をはしごして朝寝に帰る。一見(いちげん)さんお断りの一家言ある飲み屋さんでポスターを貼らせてもらうのは、並大抵のことではない。とくに飲み屋街のメッカ、新宿ゴールデン街ともなると、そこには一種の“しきたり”のようなものがあって、その店の空気を乱さないように細心の注意を払い、さりげなく貼らなくてはならない。まさに空気のように存在を消すのである。他人の善意にすがり、大目に見てもらい、図々しくならない程度に甘えてみる。暑い盛りにはジュースをご馳走になることもあれば、時に飯まで食わせてくれる店もあった。そこまで行くには、店のマスターやママさんに気に入られなくてはならない。彼らは例外なく、地方出身者で頑張ってる若者を応援してくれる。

 だがいつもうまく行くとは限らない。マスターの気分を害して怒られたら、彼はすかさず「すみません」と頭を下げて、愛嬌たっぷりの表情でとりなしていく。まさにポスター貼りが人間の関係を築いていくのだ。本書の魅力の1つは、こうした著者の人柄が商売と結びついていることであり、しかもそれは資本主義という商売至上主義のすき間を縫って成立することであり、どうやらその「すき間」に著者は棲息地を見定めていることである。


 1963年生まれで今年48歳になる笹目氏はすでに十分「中年」に域に属する。氏は1982年に茨城県から受験で上京し、志望の早稲田大学に見事フラれ、浪人を余儀なくされた。何をしたいのか分からぬままバイトに明け暮れる毎日。ただここにじっとしていられない「疼き」が身体の中に埋め込まれていた。そのエネルギーを引き出してくれたのが、他ならぬ寺山修司だった。たまたま観た舞台が、寺山修司率いる天井桟敷の『レミング 壁抜け男』。隣室とを遮る壁が消失し、隣人との境界がなくなってしまった者の寓意劇だ。この舞台に触れた19歳の若者は、これはまさに俺のことだ!と思いこみ、以後、寺山修司について行こうと決意する。

 これはまるで、寺山の60年代の珠玉のエッセイ「家出のすすめ」を読んで家を飛び出してきた青年そのものではないか! 「家出のすすめ」が1963年に出された当時の若者文化のバイブルなら、それを80年代という情報化時代に引き継いだのが、笹目氏なのだ。どんな時代にも存在する「はみ出し者」の系譜、トンがってはいないが、どこか世間の生き方とは違う路線を選択してしまう人物の群像。そこに笹目氏の匂いがある。

 『レミング』を観た翌年、寺山は急死する。彼は空虚な思いにかられながら、寺山関係の周辺をウロウロしていたら、元寺山夫人で劇団のマネージャーだった九条今日子と知り合う。彼はこの機会を見事にモノにし。チャンスは偶然訪れるのではない。ちゃんと心構えをして待っていないと巡ってこない。そして機会が巡ってきた時、ためらわず掴みとるのが才能なのだ。こうして寺山追悼公演になった『青森県のせむし男』のポスター貼りが彼の人生の始まりとなった。 

 寺山修司という才能は、その周辺に類稀な人物を集めた。デザイナーの横尾忠則や音楽家になったJ・A・シィーザー、映像作家の萩原朔美、小道具づくりの美術家・小竹信節、物書きになった岸田理生……。いずれも寺山と接することで、彼ら彼女らに眠っていた才能が発掘され、開花した。寺山はある意味で絶妙な媒介者だった。そして笹目氏もまた、生前の寺山には会えなかったけれど、死後に彼の背中を追いかけて、彼の舞台ポスターを遺影として一枚ずつ大切に壁に貼り、ていねいに剥がして部屋に持ち帰ったのである。そこには、壁面を使ってメッセージを発信する六〇年代演劇の思想があった。寺山亡き後も寺山芸術と継承していきたい。そういう純情で一途な思いが30年近く、彼の背中を押し続けてきたのだろう。演技の才能も、裏方の技術もない、ましてや劇作や演出などできるわけはない。でも劇場や劇現場が大好きで、可能な限りその周辺で遊んでいたい。そうすれば関係者に会える。演劇、とりわけ小劇場演劇とはそういう狭い「世間」だ。そこには60年代に始まったアンダーグラウンド・カルチャーの余韻が漂う。ゴールデン街の時間の停止したような世間。人生を教えてくれたマスターやちょっと男優りのママさんなど、レトロがかった人生横丁がそこにあった。

 だが時代は少しずつ変質してくる。90年代になってポスターが変質してきたことを著者は指摘する。ディジタル情報が有効になってきたインターネット世代には、ポスターは宣伝材料としてもはや不要だと考えたからだ。しかしアングラの創生期から、ポスターは集客だけの宣材として重宝されたのではない。むしろ街の中にあって「動かないから目立つ」(222p)のである。横尾忠則のポスターは公演初日にようやく届くこともあったという。これでは宣伝にも告知にも役立たない。けれども、それが貼られた瞬間から、周囲の空気が一変する。そこはミニ劇場と化すのである。唐十郎や寺山修司はそんなことを考えて、B全版の巨大ポスターを街に持ち込んだのだろう。笹目氏は地方に行っても、唐の芝居のポスターが貼ってある喫茶店は本能的に分かるという。つまり文化や芸術の発信する場所には必ず独特のオーラを発する人物がいて、匂いが感じられるからである。効率主義で考えれば、ポスターは不要だろう。だがそのポスターは公演終了後もいいデザインなら壁に残り、時間を超えていく。つまり歴史を刻んでいくのだ。

 「アンダーグラウンド」とはどこか「後ろめたさ」を隠し持っている。正面向いて芸術やってます、とは言えない気恥ずかしさ。「ゲージュツ」とカタカナで表記してしまうのも、どこか照れてしまうからだろう。その含羞は、2000年代以降、演劇を制度として確立したい者たちにとっては「時代遅れ」なものに映った。むしろ「芸術」と言い切らないと、行政官は納得しない。納得させるためには、ハッタリをかまさなければならない。そうして演劇人までもが官僚化していく。

 副題に付されているように、著者はたしかに就職はしなかったかもしれないが、「何も考えな」かったわけではない。それどころか著者は実に考えに考え抜いて実践する知略の持ち主であり、現在のベンチャービジネスとしても十分通用するアイデアが本書に書き込まれている。だが同時に、進み過ぎた文明やコンピュータ社会に対する歯止め、減速化を奨励しているように思われる。人間と人間の「すき間」を埋めていく「貼ったり人生」。帯文の「ブラボー!貼ったり人生!!」とはよくぞ言ったものだ。「ハッタリ」か「貼ったり」か。わたしは、この時代にこそ「貼ったり人生」を愛嬌たっぷりに演じる後ろめたさの方に加担したい。 

 寺山修司は47歳で亡くなったが、同じ年齢で著者はこの自伝的な書をまとめたのも、何かの決意であったのかもしれない。



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2010年12月20日

『寺山修司に愛された女優――演劇実験室◎天井桟敷の名華・新高けい子伝』山田勝仁(河出書房新社)

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「<劇評家の作業日誌>(53)」

 寺山修司は生きている。本書を読み終えて、最初に感じたのはこのことだった。
 もちろんこの本は、寺山修司を主役として書かれたものではない。「演劇実験室◎天井桟敷」の主演女優であり、劇団の名華だった新高けい子(旧・恵子)についての評伝を軸にした読み物である。したがって焦点が当たるのは、あくまで新高自身であり、寺山は彼女を表舞台で輝かせてきた一演出家にすぎないのだ。にもかかわらずわたしには、二十七年前に亡くなった寺山が、今なお生きているように感じられた。

 タイトルになった「寺山修司に愛された女優」はいささか誤解を招く表題で、実際寺山と新高が愛情関係にあったわけではなかろう。むしろ寺山は一人の女性としてより、一種の崇拝に近い目で、同志としての彼女を見ていたのではないだろうか。

 新高と寺山の奇しき縁をたどった第一章~第三章は、同じ青森県出身者の紆余曲折を経て、再び同じ仕事場で再会するプロセスが描かれて興味深い。二人は同じ青森高校に在籍し、新高は学年で寺山より一年上であった。けれども、二人は高校時代に知己を得ていたわけではない。新高は俳句などで活躍していた寺山の名前を知っていただけである。

 新高は上京してから、さまざまな職を経て、大蔵映画というピンク映画の女優になった。その彼女を寺山はスクリーン上で見て、ぞっこん惚れこんだ。いかにも寺山らしいエピソードだ。彼は小まめに小さなカルチャーにも目を配っていたのだ。

 後年、寺山は天井桟敷“旗揚げ公演”にさいして、新高に招待券を送った。二人は意気投合した。それぞれ十二分に人生経験を積んだ後の“再会”だった。

 寺山の元妻の九条映子(現・今日子)もまた元松竹の映画スターだった。寺山は映画監督の篠田正浩に彼女に会わせてくれるならシナリオを書いてもいいよ、と積極的にアプローチを試み、まんまと九条と知り合い、結婚にこぎつけた。一方、寺山は新高には一歩退いたところで接していたように思われる。同じ女優でありながら、九条と新高とではどこか隔たりがあったのだろう。

 新高には他人を寄せ付けない高雅な品格が具わっていた。わたしは七〇年代半ばから天井桟敷の舞台を観てきたが、彼女の演技には何か高貴なものを感じた。だが意外なことに、本書によれば、けい子(著者はもっぱら名前で呼ぶ)は庶民的で気さくな、劇団の「お母さん」役だったと記している。海外公演に行くと、けい子の部屋はさながら臨時の日本食堂となって、お粥や梅干など、家庭の香りをたたえていたという。舞台の上からでは決して見えてこない女優の別面だ。ここらあたりが、現役の新聞記者である著者の取材力であろう。

 新高についての記述で興味深いのは、寺山の死後、多くの団員たちは演劇活動を再開したにもかかわらず、彼女だけは一線を退いたことだ。寺山に演出してもらえなかったら、彼女にとって、それはもはや演劇ではなかったのである。

 寺山の死後、天井桟敷は解散し、多くの団員たちはJ・A・シーザー(現・シィーザー)を中心に「演劇実験室◎万有引力」を結成し、寺山作品の上演は続行された。『奴婢訓』や『観客席』など代表作も再演されたが、寺山不在の舞台はかつてのコピーに過ぎず、どこか虚しいものを感じたのは、わたしだけではあるまい。むしろ寺山がいなくなったことの寂しさを痛感させられることの方が多かった。

 現代演劇では亡くなった演出家の名を冠した舞台が上演されることはしばしばある。すでに一つのフォルムとして定着した舞台は、見逃した若い観客や外国からの客のために“名作”としてロングランされる。たしかに舞台に生命を吹き込むのは俳優であり、演出家の仕事はその手前で消えてしまう補助線でしかない。にもかかわらず、演出家の生きたまなざしが消えた舞台には、抜け殻的な空虚感がただよう。寺山はそんな演出家だった。

 寺山は俳優として決して舞台に上がらなかった。つねに舞台の脇から俳優たちに視線を放ち続けた。その寺山の肉体も含めて、天井桟敷の舞台なのである。この伴走者というプレイヤーがいなくなれば、視線を浴びていた俳優たちの緊張は解(ほど)け、弛緩したものになることは避けられない。寺山作品とは、伴走者の視線を操り糸とした一回性の出来事に他ならなかったのである。

 演劇とはつねに再現、反復されるものである。と同時に、舞台は一回性の出来事でもある。この両義性において、寺山修司とはつねに問題提起的な存在だった。

 新高けい子は寺山の視線を浴び続けた女優である。それは他の俳優に比べて明らかに特別な存在だった。寺山の視線は彼女の肉体に内在化され、両者は相互に触発されるエネルギーによって、舞台上に「新高けい子」を出現させてきた。それを深く自覚していた新高にとって、寺山の代役はありえなかった。二人目の寺山は存在しようがなかったと言えよう。

 芝居のテーマを語るラストシーンは、ほとんど新高のセリフで締め括られた。だが初日の間際まで、最後のシーンが書き上げられなくて、本番の直前に寺山から生原稿を渡され、それを必死に覚えて、初日を乗り切ったことが幾度となくあった。しかしそれは、寺山はどこか新高ならそれがやれるという信頼感があったように思われる。演出家と女優の特別の絆である。新高が潔いほどあっさりと女優業を辞めた理由は、この絆が二度と再び結びえないという確信があったからだろう。

 一時代を築いたスターには三つのタイプがある。スター性を失ってもなお過去の栄光を引きづり続ける者、年齢にふさわしくまった別の路線に進む者、そして新高がそうであるように、完全に表舞台から去ってしまう者。新高は現役の姿を世人の前にさらすことはない。その彼女にインタビューの機会をかちとって本書の刊行に漕ぎ着けた著者・山田勝仁のジャーナリスト根性は見上げたものである。

 先日、寺山修司作『星の王子さま』の舞台を観た(演出=金守珍、プロジェクトNYX)。そこでわたしは、カルメン・マキのライブステージに遭遇した。寺山修司作詞の「時には母のない子のように」をもって十九歳で鮮烈に歌手デビューした彼女もまた還暦を過ぎた。同じく寺山作詞の曲を彼女は歌った。

 「♪野・に・咲く・花・の・名前・は・知らなーい♪」という一説が彼女の口から零れてきたとき、わたしは思わず胸を突かれた。言うまでもなく、寺山修司作詞「戦争を知らない」の冒頭である。高校生の頃、いやというほど耳にしたこの歌を久しぶりに聞いたとき、当時の記憶が甦り、思いが逆流してきた。舞台というライブには、現在の中に過去の時間を想起させ、想い出させる機能が備わっていたのだ。ということは、死者もまた甦るということだ。作者の寺山の肉体はもうない。けれども、四十年前にこの詞を書いた寺山は今、カルメン・マキの肉体に乗って眼前に甦り、舞台に相変わらず視線を放っているのだ。

 寺山が生きていると感じたのは、この視線をこの時・この場で察知できたからであろう。芸術の力とは、現実では起こりえないことを想像上で体験させることである。寺山はつねに現実を固定したものではなく、つくりつつ壊すものとして提起してきた。今とは一瞬であり、つねに過去へと押し流されていく。今をつなぎとめておくことは不可能に近い。死者と生者の境はほんの一跨ぎにすぎないのだ。彼が残した有名な一説が思い起こされる。

 「百年たったら帰っておいで」。
 本書を読むと、寺山同様、新高けい子もまた記憶の残像として、帰ってきたのである。



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2010年11月08日

『新宿八犬伝 (完本)』川村毅(未来社)

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「<劇評家の作業日誌>(52)」

 伝説の『新宿八犬伝』が完結した。
 1980年代の小劇場を賑わした川村毅率いる第三エロチカの代表作が、この秋、第五巻「犬街の夜」をもって、シリーズの幕を下ろしたのだ。同時に、80年に創設された第三エロチカも三十周年を期して解散した。

1985年6月に発表された『新宿八犬伝 第一巻 犬の誕生』は、けたたましく幕を上げた。風俗の最先端に解き放たれた八犬士は、劇作家の筆に乗って所狭しと走り回った。それは若い勢いのある集団が怖いもの知らずに絶頂を登りつめる瞬間でもあった。この作で劇作家川村毅は若干26歳の若さで第三十回岸田国士戯曲賞を受賞した。

このシリーズはその年の秋に第二巻「ベルリンの秋」が上演されたものの、続く第三巻「洪水の前」、第四巻「華麗なる憂国」は1991年まで待たねばならなかった。さらにその後、連作は封印され、このほど19年ぶりに第五巻が書き下ろされたのだ。初演から実に25年。これを機に、未来社からすでに刊行されていた2冊の『新宿八犬伝』を含む[完本]として、全五巻が上梓された。

1980年代とは東京を中心に生まれた小劇場演劇が隆盛を極めた10年でもあった。好景気に支えられていたことは確かだが、86年に始まるバブル前夜でも、向こう見ずで野放図なエネルギーは健在だった。とはいえ、この時代が明るい希望に溢れた未来に祝福されていたわけではない。むしろ虚無的な空気が支配し、漠たる閉塞感が押し寄せつつあったことは確かである。

そんななかで、若い世代を中心とする小劇場は、実に多彩な舞台を生み出した。とりわけ川村毅と第三エロチカの激しく攻撃性に満ちた舞台は、80年代の一方の極を代表するものであった。

なぜ新宿だったのか。新宿は1960年代以降、日本の文化や芸術の発信地であり続けた。反抗的な若者がいつしか群れ集い、劇場やライブハウス、カフェなどで新しい文化が日々胎動していた。演劇においても新宿は特別の街だった。67年に新宿花園神社に立てられた紅テントは唐十郎率いる状況劇場のシンボルであったし、68年から73年までは、アートシアター新宿文化を拠点に、清水邦夫と蜷川幸雄の現代人劇場―櫻社が並走していた。70年代の後半になると、つかこうへいの人気に湧いた紀伊国屋ホールが「演劇の殿堂」となり、80年代以降は若者演劇のメッカとなった。硬軟取り混ぜた多様性が、この街から発信されていった。新宿とは若者が集う根っこがすでに十分養生していたのだ。

川村毅は前世代の演劇に大きな影響を受けながら、80年代を背景に彗星のように登場した。彼にあって歌舞伎町とは、清濁あわせ持つ、欲望と熱気が渦巻く世界そのものだった。その変貌は日本および日本人を切り取る格好の装置でもあったろう。
第一巻「犬の誕生」は、劇作家川村毅の出世作であるとともに、80年代を代表する傑作である。この時代の勢いや元気のよさ、さらに閉塞感に向かう時代のすべてが書きこまれているといっても過言ではない。

滝沢馬琴の『南総里実八犬伝』を下敷きに、八犬士の若者たちが新宿カブキ町に放たれる。上演されたアシベホールは、実際、歌舞伎町にあったライブハウスである。(そして第三エロチカの活動を締めくくった第五巻が上演されたのは、同じ歌舞伎町のFACEというイベントスペースだった。)

ホストクラブや風俗で働く男女の無節操な生態を描きながら、かつてこの街で殺された女性の産み落とした化身ともいうべき「犬」が蘇る。そこに暗躍するモモコやルドルフといった性別を超えた怪物的な存在が絡んでくる。ここに謎の失踪を遂げた夫を探す、若く美しい人妻がマーロウ探偵に依頼に来る。こうして、街のストリートに伏した物語が浮上するのだ。物語を操っているのは、「影の滝沢馬琴」。かくして、作者の手によって邪悪なキャラクターとして変貌をとげた登場人物と、それに抗い、作者に反乱を起こすもう一群の登場人物たちの対決が開始される。

これはある意味で、「作者殺し」を画策したメタドラマでもあり、舞台という虚構のメカニズムを扱った演劇論でもあるだろう。川村のなかには大きな物語を書きたいという作家の欲望がある。だが当時は、「大きな物語」が壊れて、「小さな断片」と化したと言われた「ポストモダン思想」が隆盛していた時代だった。こうした趨勢を横目で見ながら、川村は「物語を懐疑する物語作家」として自分を位置付けようとした。が、やはり彼には物語を好む作家であり続けた。その結果、荒々しい登場人物の猥雑な行動とは裏腹に、ドラマはポストモダン的な知を内臓しながら展開していくのである。

「筆が走る」影の作者である馬琴のそれは、まさに劇作家川村毅そのものでもあったろう。劇作家によって書かれた言葉はそのまま役者たちに息を吹き込まれ、舞台に真っ直ぐ立ち上がっていった。若い川村は、まさに「筆が走る」勢いそのものだったに違いない。次々と脳裏に浮かぶアイデアは、馬琴よろしく言葉に書き取られ、目の前の役者たちに受肉されていく。こんな幸福な関係が織り成す舞台はそう滅多に立ち会えるものではない。岸田戯曲賞の審査がわずか30分で終わったというエピソードはそれを物語っている。こんな恐ろしい劇作家が登場したことに、多くの演劇関係者は驚きで目を見張ったのだ。

今、読み返してみると、この作品は80年代という空気を実によく表わしていることが分かる。例えば、大きな虚構というものが卑小な現実を覆い尽くしてねじ伏せ、破天荒なスペクタクルは、演劇のもつダイナミズムをしたたかに体現していた。それを支える観客の熱気。川村毅という劇作家は、世界や時代など、大きな構造を描くことを得意とする。弁証法的な対話ともいうべき畳み込むセリフの応酬は、彼の面目躍如である。

第二巻の「ベルリンの秋」では、歴史の謎と物語の闇が対立する。超能力をもった八犬士は、独自のパワーでもってベルリンの壁をカブキ町に出現させる。この荒唐無稽な想像力は、フィクションの力を信じるからこそ可能だったのであり、ヒトラーやゲッベルスなど実在の人物が登場し、それが虚構の物語と交差するという発想も豪快だ。しかもこの劇が、ベルリンの壁が崩壊する以前に書かれており、時代を予見した感があることも驚きを覚える。

これらの舞台を見れば、90年代以降の演劇がその対極の方向にむかっていったことがよく分かる。バブルが崩壊し、不況感が急速に増してくるにつれて、フィクションのパワーは減じていった。
 たとえば90年代の第三巻、第四巻になってくると、微妙に作風が変わってくる。上演された700人収容のシアターアプルの劇場もいささか広すぎて、空虚感が漂いはじめたことも記憶している。現実を上回る虚構は、非現実感が覆い、元気だった八犬士も勢いを持続することが難しくなったことを肌で感じた。また役者陣もこの数年で大幅に入れ替わり、存在感が希薄になったことも否めない。たった6年が経過しただけで、集団は一変し、バブル後の日本は一気に衰退を迎えた。

 第三巻では、東京都庁が西新宿に出来たことから、カブキ町と都庁が対照される。怪物的だった登場人物の存在感はすっかり姿を消し、俗物的な等身大の人物が多数登場するようになった。第四巻になると、新宿はアジア人の横行する街と化し、多国籍が入り混じる曼荼羅模様を呈する。主人公役の騒太郎は、自分の存在が分からない、まことに頼りなくあいまいな日本人の典型だ。街の子らを主人公とする劇らしく、時代の世相が否応なく劇中人物に投影されていく。若者像も変わっていった。

そして最終巻である第五巻はどうか。80年代のカブキ町が過去の遺物から取り出され、あたかも年代記を記すように、現在に書き付けられる。劇中のセリフにもあるように、一種の「玉砕」覚悟の舞台である。時代が縮こまり、小さな自分を保守する傾向が強まるにつれ、これに一矢報いられないか。そんな思いが詰まった作品だ。

19年封印した理由は何なのか。川村は、時代が動く時に、この作品を書き継ごうと狙っていたであろう。しかしシニシズムに覆われた90年代以降、エネルギーを真っ正面からぶつけることは叶わなくなった。すでに現実と虚構という二項対立は成立しようもない。表と裏のさらなる闇を掴みださないと太刀打ちできない事態が到来している。ドラマが困難になった時代でもある。

もう一つの理由は、『新宿八犬伝』を上演するには、多彩な役者群と強固な集団性を必須としたからだろう。第一巻を担った女優、深浦加奈子は昨年逝った。初期の劇団を支えた俳優たちも大半は去った。誕生譚で開始された『新宿八犬伝』は決して川村毅だけの作品ではなかった。無骨だが魅力ある役者を得て、はじめて作者は筆を揮えた。それはプロともアマともつかぬあいまい領域で成立していた小集団の誕生譚であり、精一杯の力走であった。80年代の小劇場とは、そうした熱気が確実に存在した絶頂期だったのである。
そのことの可能性と豊かさを、25年を経て、今まざまざと思い起こされるのである。
 


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2010年05月06日

『蜷川幸雄の劇世界』扇田昭彦(朝日新聞出版)

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「<劇評家の作業日誌>(51)」

 本書は先年刊行された『唐十郎の劇世界』(右文書院、2007年)に続く、演劇評論家扇田昭彦による演劇作家論の第二弾である(続編として『井上ひさしの劇世界』も予定されている)。
本書には著者自身の40年にわたる蜷川観劇体験から、66本の劇評と23本の評論が収められている。書き下ろしの1本を除いてそのすべてが新聞や雑誌、公演パンフレットなどに書かれたもので、一人の演出家の舞台をここまで長く観続けてきたことも稀有なら、これだけ多く活字化してきたことも一種の「奇跡」ではないだろうか。これはたぶん誰にも真似できない扇田氏だけの息の長い仕事であろう。まずこの「偉業」を讃えたい。

 なぜそれが可能だったかといえば、もちろん蜷川という才能に早くして出会えた幸運があったことは間違いない。最初の出会いで彼の才能に惚れ込み、以後、その出会いそのものを大事にした批評家の直観と持続力のなせる業だろう。

扇田=蜷川の底流には、もう一つ要因があったと思われる。それは扇田自身、幾度も力説するように、「1960年代の精神」が蜷川の原点にあり、それを手放さない彼の思念に扇田自身が深い共感と同時代の同走者としての連帯があったからだろう。新劇の養成所から出発し、やがてそこを辞めて同世代の者たちと劇団をつくり、時代に向けて怒りをぶつけていった反逆の魂がいまだ衰えを知らないことは驚くべきことだ。

 本書は第一部「演出家・蜷川幸雄の特質」、第二部「対談・演出家の役割」、そして第三部「劇評 1971-2009年」の3部構成となっている。蜷川幸雄の仕事を編年体風に綴ると、概ね以下のように区分できるだろう。69年の初演出『真情あふるる軽薄さ』に始まる「現代人劇場」「櫻社」時代の清水邦夫との共闘時代(~73年)。帝国劇場での『ロミオとジュリエット』の初演出以来、主として商業演劇を舞台とした80年代、そして自ら芸術監督となり、プロデュースする側に回っていった90年代後半以降。

そこでわたしは、この3つの時期を代表する3本の劇評を挙げてみたい。
まず1つめは、『僕らが非情の大河をくだる時』について書かれた劇評だ。連合赤軍へのシンパシーを隠さない清水=蜷川コンビは次第に敗走していく政治情勢に応じて、舞台もペシミスティックな影が覆っていく。だがそれを、心情ではなく、「あくまで「論理」によって超える方途を探し求めることである」(190p)と締めくくった。これは劇評家・扇田昭彦にとって白眉ともいうべき文章であり、批評という役割の究極を指し示している。30代の若い批評家・扇田の新聞記者という領分を超えた提言だ。
 
その一方で、劇評とは、「読み」の深さが求められる。その真骨頂は、『近松心中物語』に記された、世界を多面的に読み解いた劇評に代表される。近松の心中物をいくつか変奏した秋元松代の劇について扇田は、作品の主眼は『曽根崎心中』の梅川・忠兵衛の正統的な心中にあるのではなく、脇役の与兵衛とお亀にあると喝破した。

そこから心中という悲劇は反転して、「喜劇の道を選んだ」(219p)
与兵衛の側に転じていくという分析は見事である。

扇田の2冊目の著作は『世界は喜劇に傾斜する』(沖積社、1980年)だったことを想起しよう。蜷川が悲劇を得意とする演出家から次第に喜劇も手がけるようになり、90年代以降はチェーホフのような日常的でリアリスティックな世界も扱いうるようになった端緒を、扇田はすでにこの時点で嗅ぎ付けていたのである。
 
3つめは、

イラク戦争が勃発する直前の2003年に発表された『ぺリクリーズ』に見られる「いまの危機的な世界情勢を見すえた創意」(293p)への言及である。この舞台はシェイクスピアの原作を難民が語るという枠組みを設定しているが、「(戦争の当事者である)英国公演をも視野に入れて、劇中の難民がどのような批判的意図を込めたかは明らかだろう」(296p)
という指摘は、すでに演劇という枠組を超えている。

蜷川が切り開いた領域に、シェイクスピア劇の新演出がある。1998年に「彩の国さいたま芸術劇場」の芸術監督に就任した時、彼はシェイクスピア全作品の上演を目標として掲げた。

さらに翌99年には渋谷のシアターコクーンの芸術監督になったことで拍車がかかり、37作品(現在はもっと増えているが)中、現時点ですでに18作品を消化したことになる。世界のシェイクスピア劇上演史でも稀れな画期的企画である(日本では出口典雄とシェイクスピア・シアタ―による全作品上演は、すでになされている)。

現在の蜷川によるシェイクスピア劇演出は今後のスタンダードになることは間違いないだろうが、80年代のシェイクスピア劇演出は、破天荒なものだった。なにより仏壇の中での『NINAGAWEマクベス』(80)や、荒れ果てた能舞台での『テンペスト』(87)のリハーサル上演は度肝を抜いた。

「蜷川のシェイクスピア劇はたいてい、意表をつく外枠を設定したときに成功を収める」(296p)
という指摘も納得がいく。

だが女形『王女メディア』(78)を経て、近年になると、正統なギリシア悲劇も手がけるようになる。その端緒は2000年の『グリークス』にあったろうが、その変化を劇評でたどる扇田の筆致はとてもていねいで、演出家の軌跡を跡付ける。
 

清水邦夫、シェイクスピア、ギリシア悲劇に並んで重要な存在は唐十郎である。蜷川は俳優として出発したが、唐の芝居を観て、「おれみたいな俳優はいらないな」(158p)
と思ったという。そう思わせた唐の才能に惚れ込んだ蜷川は、演出助手になりたいとさえ考えた。その後商業演劇に行き、劇団から事実上追い出された窮地を救ってくれたのも、唐の友情である。名作『盲導犬』(73)はそうして生まれた。

晩年の井上ひさしと伴走した蜷川への記述も多い。1934年生まれの井上と35年生まれの蜷川。この同世代人が最初に出会うのは、実は2005年の『天保十二年のシェイクスピア』からだ。回り道しながら、ようやく周回遅れで出会った二人は、この5年間で実に5本の舞台を手がけた。

そして昨年は、井上の書き下ろし『ムサシ』を舞台化している。井上ひさしの作品については、必ずしも蜷川の演出は成功したとは言いがたい。井上劇の本質に蜷川演出の資質がマッチしていたかも疑問である。にもかかわらず、彼は福田善之の『真田風雲録』(2009年演出)を遅ればせながら手がけたように、彼が終生こだわり尊敬もしてきた同時代=同世代の作家たちへ惜しみないエールを送ったのではないか。何も今さらという影の声を聞きながら、それが演出家・蜷川幸雄の生き方だったことに、おそらく扇田は共感があったに違いない。

蜷川幸雄への同志的な共感はいまだ扇田自身のなかにも溜め込まれている。だから老いてなお「過激」であろうとする蜷川に、共感以上の憧れがあるのかもしれない。枯淡に向かうことが常套になっていく日本の芸術家にあって、断固それを拒絶する蜷川の精神の若さ。温度の低い若者に向けての叱咤、いや罵倒を繰り出す蜷川の苛立ち。権力に向かって相変わらず物申す彼の態度は、物分りのよくなった微温の世情に馴染まない。

だからこそ、蜷川の発言は重みを持つ。しかも商業的に成功し、社会的ステータスを確立してもそこに安住しない。これは誰もやりえていない、蜷川だけの特権だろう。

闘っている演出家は決して後ろを振り返らない。しかし、彼が歩いた後には、見事なロードが刻まれている。その道を寄り添うように、フォローする批評家がいる。

本書を読んでいて、劇評家と演出家は一種の相似形をなしているのではないかと思わされた。同じ演劇の職能としても、自己の世界を表現したがる劇作家と、あらかじめ表現する「自己」を持たぬ演出家と劇評家は、ほぼ対極の地点に並んで立っている。

演出家・蜷川幸雄を語った扇田昭彦は、まるで自身を投影するかのように、この演出家を語っている。それは他者によってしか表現を駆動できない者たち共通の覚悟がそこに隠されている。その慎みが、本書の隠れた美質になっている。


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2010年03月17日

『演劇のポ・テンシャル(エクス・ポ テン/ゼロ)』(HEADZ)
『ニッポンの思想』佐々木敦(講談社現代新書)

演劇のポ・テンシャル(エクス・ポ テン/ゼロ) ニッポンの思想
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「<劇評家の作業日誌>(50)」

 これは雑誌なのだろうか、それとも単行本なのか。書店の演劇書コーナーでこの分厚い本を手にした時、わたしは一瞬戸惑いを覚えた。そして一度棚に戻したが、ここで買わなければ一生手に取ることもあるまいと思い直し、レジに向かったことを覚えている。
 文庫本サイズで600頁を超える、まるで豆タンクのようなハンドブックだ。しかも縦組みと横組みが組み合わされて、それぞれ455頁と161頁となっている。薄いピンクの表紙に白抜きでタイトルが記されているが、なかなか実態がわかり辛い。どうやら、批評家佐々木敦が編集する雑誌「エクス・ポ」が本体で、第一特集「演劇のポ・テンシャル」と第二特集「雑誌のポ・テンシャル」が合体したもののようだ。少しずつ正体が掴めてきた。

 本書は佐々木らによる現代の小劇場=ニューウェーブの劇作家・演出家たちへのインタビューによって構成されている。その名前を列記してみると、――前田司郎、松井周、岩井秀人、平田オリザ、中野成樹、多田淳之介、タニノクロウ、飴屋法水、下西啓正、丸岡ひろみ、相馬千秋、岡田利規、宮沢章夫、古川日出男等々。これにインタビュアーを含むライターたちのフリートークが組まれている。要するに、すべてが「語り」なのだ。ここから現在の演劇の一断面が見えてくることは確かで、現在の最新鋭の演劇地図が浮かび上がってくる。

 ここに登場する演劇作家は、2000年代に台頭してきたサブカル系の小劇場の担い手たちである。蜷川幸雄や野田秀樹、坂手洋二、永井愛、三谷幸喜といったメジャーな演劇シーンで活躍している演劇家たちは登場せず、一般の読者には馴染みの薄い名前が多いだろう。彼らはもっぱら自分たちの「セカイ」を語る。彼らは1970~80年代生まれで、(例外は宮沢、飴屋、平田)この世代の持つ空気が漂っている。

 本書を貫く主筋はこうだ。1990年代に平田オリザによって提唱された「現代口語演劇」がゼロ地点にあり、その後、平田が運営する駒場アゴラ劇場に集結したより若い世代が、この「口語演劇」をさらに展開していった。佐々木はチェルフィッチュの『三月の5日間』に出会ったことを端緒に、ここ2,3年熱心に小劇場(もっと正確に言えば、アゴラ劇場周辺)を見て回り、それを系譜的に綴ろうとしたのが、この特集だ。最近の若い才能が「アゴラ劇場」を母地に登場してくるというのは、否定できない事実だろう。したがって2000年代に入っての流れをマッピングするのが本書の狙いであり、そのために歴史化に向かう一歩手前で、パノラマ的に人材を洗い出そうとしているのである。今から5年前、「ユリイカ」で「この小劇場を観よ!」という特集があったが、演劇が外側からどう見えているのかを知るには、絶好のサンプルになる。


 わたしはこの雑誌の特集「演劇のポ・テンシャル」とともに、佐々木敦著『ニッポンの思想』にも触れてみたい。なぜならこの「演劇特集」の背景には、昨年7月に刊行された『ニッポンの思想』があるからだ。同書は80年代以降の思想家(彼はそれを必ず「思想」家と書く)を8人に絞り込み、彼らの著書を丁寧に読み解いていくことで、ここ30年ほどの思想の流れを跡付けていく。実にコンパクトで役に立つ案内書だ。佐々木は浅田彰の『構造と力』に驚愕し、中沢新一の新著が出るたびに買い求め、柄谷行人や蓮実重彦の文章に眩惑され、90年代になって、大塚英志や福田和也、宮台真司の動向に目を配り、そして2000年代の東浩紀の独走状態を、ちょっと距離の離れた場所から見ていた。そんな体験はわたしにもある。佐々木はわたしより10歳年少だが、読書体験、共時的な時代の経験ではまったく違和感がない。ただ差異があるとすれば、80年代で、当時の未曾有の「消費時代」をどう潜り抜けたかによって、その後の針路が微妙に異なってきたように思われる。

 「エクス・ポ」の演劇特集は、2000年代の思想の流れに相当するのか、東とほぼ同世代か、その後続世代が扱われ、その対応関係を編者は探ろうとしている。そして、80年代の閉塞感を破る端緒を、ゼロ年代の小劇場に見出そうとしているようだ。両者を合わせ鏡のように読むと、そんな連想が働き、相互関連性が見えてくる。

 佐々木は60年代の「演劇革命」の最後の余燼に触れており、寺山修司と天井桟敷の舞台に辛うじて間に合った世代だ(寺山は83年に没している)。唐十郎の紅テントにも熱心に通っていたようだが、80年代になって、野田秀樹や鴻上尚史らが台頭してくると、ちょっと「軽っぽい」感じがして、劇場から遠ざかったと告白している。おそらく、俳優の身体の生っぽさや80年代の小劇場によく見られた「同調強要」に耐え難いものがあって、いわゆるバブルっぽい劇的高揚に付き合いきれぬものを抱いたのだろう。それから20年の空白を経て、再び現在の小劇場に出会った。それは、対象へのクールな距離感があり、未来に希望を持たぬニヒリズムと、現状を受け容れるリアリストの視座をそなえている。そこに閉塞した状況の突破口があるのではないか、というのが佐々木の視点だ。

 「青年団と大人計画がなければ出てこなかったであろう人たちが沢山いて、それが今の演劇を支えている状況をゼロ年代になって生んでいる」(117p)というのが佐々木の基本認識である。むろん、松尾スズキは小説も書けば、映画もつくる才人であり、エッセイストとしても活躍し、商品になるサブカルチャーのスターだ。対するに、平田は商品にはなりにくい分、大学教授や内閣官房参与といった「権威」になることで、その対極にいる。これは佐々木が『ニッポンの思想』で分析したように、売れなきゃ駄目だという論理と、有名になって成功しないと駄目だというゼロ年代の幅と相即するものだろう。

 佐々木は『ニッポンの思想』で、思想家を、世界を変革するか、世界を記述するかの2つのタイプに分けて考えている。80年代までの思想は、マルクス主義に代表されるように、世界の変革をめざすものであった。だが消費社会とバブルを経たニッポンは、もはや理想とするモデルが持てず、現状を受け容れるほかなくなった。そういう認識は保守的とも映るが、そこから出発するしかないではないかという諦念は否定しがたい。したがって対象にある距離感を持つことを必須とする。それは二項対立が終焉した後の、ある種の態度とも解すことができる。その切断を「ニッポン」というカタカナで表わした。1984年に川村毅と第三エロチカは『ニッポン・ウォーズ』を上演したが、「日本の戦争」ではなく、あくまで「ニッポンのウォー」だった。80年代を代表するこの舞台は、まさにそれ以前と以後を切断する記念碑的な作品だったのだ。先に、佐々木とわたしの差異は80年代の経験にあると記したが、ここまでは彼とわたしの認識はほぼ合致する。

 では2000年代の切断はどうか。
 佐々木はインタビューで、若い演劇作家たちにさまざまなことを聞き出すが、率直にいえば、自己の劇世界を語る彼らのボキャブラリーはそう豊かだと思えなかった。むしろ、インタビュアーの質問の言葉に、わたしは興味を惹かれた。あるいは、年長の宮沢章夫の後続世代への危惧や、プロデュースする側の、若い世代の「狭さ」への苦言の方が、わたしにはよく聞こえてきた。例えば相馬千秋は言う。

「すごくベッタリとした日常をべースとした芝居って、それはそれで同時代の身体・言語感覚で、我々目線のリアリティにすごくフィットするものだから、心地良いんですけど、でも、やっぱそれだけだと、演劇ってその後滅んじゃうと思うんですよ。」(373p)

 実は編集者である佐々木もそれを薄々感じ取っていたのではないか。ただし、「世界を記述する」側に身を寄り添わせている(?)佐々木にとって、それをあからさまに言うことは避けている。わたし自身は佐々木の分類でいうと、「世界を変革する」側にいると思うので、2000年代の保守化や「生き残り」を最優先するリアリズム現象に対して、もっと懐疑的になってしまうのだ。 

 これ以上は書評という枠を超えてしまうので別稿を必要とするが、ゼロ年代の動向を探る上で、さまざまな議論を提供してくれる特集だった。


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2009年11月10日

『「出会う」ということ』竹内敏晴(藤原書店)

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「<劇評家の作業日誌>(49)」

竹内敏晴さんが亡くなった(9月7日)。享年84歳だった。
 演出家であり、教育者としても大きな足跡を残した彼は、死後、一冊の本を残した。それが「出会い」をテーマにしたこの本で、文字通り遺著となった。

 1975年に初めての著書『ことばが劈(ひら)かれるとき』(思想の科学社、後にちくま文庫)を刊行して以来、竹内が出した本は十数冊に及ぶ。からだを解きほぐすレッスンを考案し、多くの受講生たちと一緒にワークショップを積み重ねながら、思考を深めていった。それが次々と刊行される本につながった。

 障害を持った子供たちのからだを診、不登校に陥った少年たちと対話を重ね、差別や偏見にさらされた定時制の高校生たちと演劇を通じて生きることの意味を探る。さらに晩年近くに開始された新しくもがくような生活。その集大成ともいうべき思考の痕跡が、この一冊に結実した。

 本書のキーワードである「出会い」とは何だろうか。
 

「出会い」ということの本質的な部分は実は、話し合って何かがわかるというよりも以前に……からだとからだ、或いは、存在と存在が響き合うような次元のことで、言い換えれば「言語以前のからだ」の次元でおこっている、(マルティン・)ブーバーの言い方に従えば「全存在の集中と融合」においておこることではないだろうか……(44頁)
 
竹内は、「からだ」という言葉を好んで使う。それは物質的な肉体と言葉が合わさって「からだ」と言っているのであり、両者を二元論的な対立と考えていない。コミュニケーションの根幹をなすのが「からだ」であり、ほんらい言葉と身体は不即不離なのである。

 

わたしにとって生涯最大に転機の一つ、「ことばが劈かれたとき」……劈かれたのは、今気がついてみれば、「ことば」=「声」ではなかった。外の風に吹きさらされて立ったのは、「からだ」、声を、叫びを発出する基盤、ことばを生み出す源のからだである(84頁)

 竹内の探し当てた鉱脈は、70年代半ば以降の「身体論」ブームを引き起こした。野口三千三の『原初生命体としての人間』(三笠書房)や市川浩の『精神としての身体』(勁草書房)と並んで、当時の演劇界にもっとも大きな刺激を与えたのが『ことばが劈かれるとき』だった。 
 竹内の本は実に平明な言葉で書かれている。一つ一つの課題を自分に向かって確認していくように思考を進めていくからだ。その言葉は内に向かうとともに、他人に向かって語りかけているように思われる。子供の頃、耳の障がいに悩まされ、青年期に言葉をようやく喋れるようになった経験が大きくものを言っていると彼は幾度も述べている。メルロ=ポンティの『知覚の現象学』や『眼と精神』、あるいはイヴァン・イリイチの『生きる思想』といった難解な書物も、彼は自分のことばで読み解き、読者に噛み砕いて手渡してくれる。それが他に比類なき「身体論」を構築した。

 メルロ=ポンティは、言葉を二つの段階にわけている。情報伝達のための言語と今まさに出てくる「なま」のことば、後者が第一言語なら前者は第二次言語となる。これを踏えて竹内は

うまくことばにならない身悶えや呻き声や叫びなどを第0次言語 (15頁)
と呼び、発語されるされる手前のことばもふくめて言葉と考える。それらは身体に帰属する。そこから彼にとって「ことば」が劈かれるとは、「からだ」が劈かれることなのだ。

 しかしことばは他者に対して

「ひらかれる」だけではなく、「自分を防衛するために周りに壁を作り出すのがことばである」(47頁)
とも言っている。そこから生まれることばの「嘘」と闘うこと、それもまた彼が生涯追求していたことでもある。

 では竹内が終生こだわった演劇における「出会い」とは何だったろうか。
 

劇場を出たときに、世界がなにか今までと違って見える、見知らぬものとして立ち現れる。そのようなことにならなければ、舞台を見てもらう意味がない。世界を一つ通過したときに存在が変貌する、それが舞台。出会いとは相手を理解するということではない。その人に驚かされる、驚かされたとたんに裸になっている。相手の前に見知らぬ自分が立っているという、むしろ相手に突破されてしまう。そういうことが出会いということだろうと思う(218~9頁)

 人に出会うことで、ひとは武装解除される。自分を覆っていた鎧が脱げ、自分をよく見せようとする卑しさが無化される。
 観客という他者は、竹内が考える「出会い」のもっとも具体的な相手である。しかも舞台という虚構性のなかでこそ、人は生き生きと生きてみせることが可能なのだ。
 

わたしにとって生きているとは、この非現実感の上に漂い、これに抗ってもがいていることだった (97頁)

 だとすれば、舞台で演じるとは、現実と一線を画すことで現実を対象化し、虚構の舞台だからこそ、嘘を演劇上のウソとして料理し、その瞬間を戯れ楽しむこと、それが「いま・この時」を「からだで生きる」ということではないか。

 この本はこれまでの著作と一線を画している。それは「生きる」ことへ実践的に一歩踏み出した感があることだ。「虚無感が消えた」という章では、1945年8月15日の体験が記されている。これまで信じてきた価値観が一挙に崩れ、実感のない、非現実の世界に放り出された経験が語られる。戦争を信じこまされ、動員されていった多くの若者たち。
だが敗戦後もまた同様の欺瞞が国中を覆う。

テンノウヘイカバンザイに代わるマッカーサーバンザイ、アメリカ万歳、として目の前を通りすぎてゆく (99頁)

戦後民主主義社会。この虚無感から脱出するには、やはり「からだ」の発見なくしてはありえなかった。
 その際、判断の基準は「嫌なことをしない」という原則である。これを彼は
「マイナス型の自我」(208頁)
と名付けている。さらに次の段階をゼロ地点に立つことと捉え、「裸になること」を求めている。
 その先で行き着いた言葉が「祝祭」である。
レッスンにおいてより深く生き生きと交わり裸になってゆくことをめざす (146頁)

 「からだ」の発見から自己を取り戻すこと、しかしそれは決して個人のレベルで成し遂げられるものではない。必ず他人という集団を必要とする。それが演劇という表現方法に結びつく理由がある。
 竹内は毎年「8月の祝祭」というイベントを行なってきたのも、そこに根拠がある。
 
彼は今年の8月29日、武蔵野芸能劇場で、『からだ2009オープンレッスン 八月の祝祭』を上演した。テーマは戦後を引き裂いてきた「戦後民主主義」を問うものだったという。車椅子に乗りながら演出した竹内は、この舞台に最後のエネルギーを投入し、燃焼し尽くした。その9日後、彼は世を去った。


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2009年09月01日

『新日本現代演劇史〈2〉安保騒動篇 1959‐1962』大笹吉雄( 中央公論新社)

新日本現代演劇史〈2〉安保騒動篇 1959‐1962 →bookwebで購入

「<劇評家の作業日誌>(47)」

大笹吉雄氏の『新日本現代演劇史』の刊行が始まった。すでに2冊まで出版され、今後も4ヵ月に1冊のペースで続き、来年の上半期には全5巻が完結する予定である。
 本演劇史は、実は8年前にひとまず完結していた。本書は第2期に当たる。第1期は白水社版『日本現代演劇史』である。明治の初めから昭和29(1954)年までの90年弱が扱われている。ただし、これは著者の意向で「完結」したわけではなく、版元がこの大著を出し続ける体力がないとのことで、中途で打ち切られたものだった。まことに昨今の出版不況を物語る一面でもあるが、「その後」を書き続けていた著者の意向を汲んだのが、新たに版元を引き受けた中央公論新社である。こうして続編がようやく日の目を見た。

 第1期の全8巻は、1985年に第1巻が出てから、実に16年の歳月をかけて刊行された。初出の連載が雑誌「新劇」で始まったのが1979年4月号だから、第1巻に漕ぎ着けるまで丸7年、つまりほぼ4半世紀にかけての偉業だった。A5版で、平均6、700頁にもなる大冊をおいそれと出版できる版元はそうない。その意味では、白水社という中堅出版社が出し続けたこと自体、壮挙と言えるかもしれない。
 かつて井上ひさしは、大笹演劇史について、「誰かがやれねばならないことを半生かけてやっている」と賛辞を送った。扇田昭彦の言う通り、まことに「長距離ランナー」の面目躍如たる仕事ぶりである。

 ここで新演劇史の特徴を記しておこう。
 本書では、各年ごとの編年体で綴られ、ジャンル別の個別舞台について劇評が収載される。そこに著者自身の主観的な価値評価はくだされない。最終的な判断は読者にゆだねるというのが演劇史を記述する大笹氏の一貫した態度だからである。

 その方法として、著者は複数の新聞劇評を徹底的に読み込み、そこからもっとも信頼できる劇評を選びとる。水面に浮上する一部の底には捨てられた膨大な資料があることが推察される。ここで選ばれた新聞は、朝日、毎日、読売はもとより、東京新聞に掲載さた劇評が多いのが特徴だ。

 東京新聞はかつて「都新聞」と呼ばれ、芸能記事に関してはもっとも充実した紙面を形づくっていた。著者によって選びとられた劇評群は、舞台や時代へのもっとも的確なコメントとして立ち上がってくる。劇評の選択と配列そのものが、著者の演劇への考え方になっているのだ。これは芸術の歴史記述として、一つの方法であろう。

 それが成立した理由は、当時は個性的な劇評家が揃っていたことだ。しかも今ほど舞台の数も多くなかったから、劇評家は歌舞伎から新派、新国劇、新劇、さらに女剣劇から浅草レビューまで、多様なジャンルを幅広く見ることができた。そうした劇評家、戸板康二、安藤鶴夫、三宅周太郎らの書く古典的な素養に裏打ちされた劇評は、とりも直さず「文学」としての劇評だった。
 彼らのポリフォニックな「声」を大笹は編集者として効果的に並べ、相互が交差し反響し合って、混沌とした時代空間を浮かび上がらせることに成功している。この方法が、本書を魅力ある演劇史に仕立て上げた。

 多様なジャンルを網羅する視点も、本書の特徴だ。
 例えば、今や絶滅してしまった浅草の大衆芸能が、活力ある劇場文化として生き生きと活写されている。とくにデン助劇団、脱線トリオ、てんぷくトリオなどを含めて漫才、落語などが劇場を賑わせていたこと。彼らが舞台で活躍していたのは、50~60年代前半までであり、彼らが劇場を去って、やがてテレビに活動の場を移すのはその後だ。ここにはメディアの大転換をもたらした時代の相が見えてくる。

 演劇史を読む醍醐味は、過去に起こった事象を現在に引きつけながら、その断絶や連続性を読み取っていくことである。戦後の混乱が終結し、「もはや戦後ではない」と経済白書に記された1955年度(これは第一巻のサブタイトルにもなっている)。演劇界もまた戦後に登場する幾人もの劇作家を生んでいった。三島由紀夫、安部公房、八代静一、福田善之、宮本研といった面々は、今では演劇史に残る大家になったが、当時はまだ新鋭にすぎなかった。彼らの活躍は、戦後演劇のパラダイムを形づくっていった。
 
 その推移が本書を読み進めていくと、連続した歴史として浮かび上がってくる。だが同時に、その後の着地点もわたしたちは知っている。60年代中期から後半にかけて擡頭してくる、いわゆる「アングラ演劇」はまだ産声を上げていない。辛うじて新劇の異端として「青芸(青年芸術劇場)」が1961年に旗揚げしている記述は認められるが、それがどれほどの意味を持っていたかは、その時点ではまだ判明していない。

 この「新」編の第二巻は、1959年から1962年までの4年間が対象となる。この時期の最大の争点は、「60年安保」であろう。戦後史の大転換期であると同時に、その後の日本の進路を決定したのが、「安保」をめぐる闘争だった。

 では当時、演劇はどのように歴史と対峙したか。
 本書では国会周辺の記事が拾われているが、なかでも興味深いのは、演劇雑誌「テアトロ」の6月号、7月号で新劇人の「声明」が発表されていることだ。政治的発言を厭わぬ演劇人がいて、それをフォローする専門誌が存在した。

 こうした政治的局面に呼応した舞台は、2年後に発表された福田善之作『真田風雲録』(千田是也演出)だった。新劇合同公演として上演された『真田風雲録』は、反安保闘争の敗北を総括した舞台であり、徳川=体制、豊臣=旧左翼、真田十勇士=新左翼といった図式が、当時話題になった。
 
 だが、本書でこの舞台に関する紹介資料はこの画期的な舞台を的確に語るのに十分ではない。そしてこれが、大笹方式の記述の弱点である。 著者による論評がなく、資料そのものが少ないとすれば、当然内容的に薄くなる。演劇史は、個別の事象(舞台や劇作家)へ現在から見た総括的な評価を与えることではないか、と考えるわたしは、大笹演劇史に物足りなさを覚えるのも確かだ。
 
 劇評家には、思想やイデオロギーが問われる局面がある。60年安保は、まさにその場面だったろう。その意味で、「安保騒動編」という副タイトルには違和感をおぼえた。
著者に確認したところ、これは編集者が付けたもので、著者自身も指摘されるまで気がつかなかったという。だとすると、ずいぶん呑気なことだが、このタイトルには、「安保闘争」という歴史的事象に対する姿勢、思想的構えが明確に含まれている。それはやはり「気がつかなかった」ではすまされない。

 現在に近づけば近づくほど、歴史への価値観は問われる。客観主義、他人の言説で代弁できない発言を求められる。そして今後の大笹演劇史の最大の課題は、現代という時代を演劇史家としてどのように捉え、どう関わったかを明らかにすることであろう。

 第2巻から大笹氏が実際に見た舞台が含まれるという。その意味では、次巻以降は、まさに著者にとっても同時代の体験である。これまで記録として客観化できた歴史が、これからは自分をも参与する歴史空間に身を置くことになる。そこでどう記述が変わってくるか、それもまた続巻への尽きせぬ興味を掻き立ててくれる。
 
 ともあれ本書を通読して気がついたことは、ほとんど誤植がないことだ。これは一見些末なことのように思われるが、歴史を扱った本書のような性格をもった場合、きわめて重要なことである。
 
 しかも新聞記事には、誤記や執筆者の勘違いなども多く散見される。これも引用にさいして適宜訂正されている。これはよほど校閲がしっかりしているからであり、歴史材料の正確な提出に対して著者がいかに神経を払っているかの証左であろう。 
 今村忠純氏は、この引用の表記について「原典にあたらなくともこの本から(信頼して)孫引きできる」と言っていることは、案外重要な指摘だろう。

 もとより、演劇の歴史を記述することは、並大抵の仕事ではない。わたしも大学などで明治以降の近代演劇史を講義する時、ほとんどの項目が網羅されている大笹演劇史にどれほど助けられたことか。目次を見れば、おおよそ本の概要が知ることができる。その意味では、これほど綿密で意を尽くした目次=項目をわたしは知らない。

 この演劇史は通読するだけでなく、一種の事典でもあり、小項目に当たる時に役に立つ。その意味では、これから、本演劇史を土台とした「演劇思想史」が書かれるべきだろう。


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2009年08月12日

『僕と演劇と夢の遊眠社』高萩 宏(日本経済新聞出版社)

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「劇評家の作業日誌 (46)」

 1976年に野田秀樹とともに創設し、やがて80年代の若者文化をリードした超人気劇団・夢の遊眠社の元プロデューサーによる回顧録である。著者の高萩宏は現在、東京芸術劇場の副館長を務めるが、本書では92年に人気絶頂のまま解散した遊眠社時代までが語られる。
 
 著者は劇団解散の少し前の89年に劇団から離れた。大学を卒業してから数年間、紀伊國屋書店の洋書営業のサラリーマンを勤め、80年に26歳で出戻ってから、彼は10年近く劇団の成長と発展に力を尽くした。
   この本を読みながら、わたしは1980年代という時代のことを思い返していた。今ではバブリーな時代として語られることが多くなったが、実際にその渦中にいた者が何を考え何に直面していたかが記述の底から浮かび上ってくる。それは一劇団の「サクセスストーリー」を綴るにとどまらず、もっと大きな時代のうねりが活写されていて、時代精神の軌跡が読み取れる。
 高萩は東京大学入学後、演劇研究会に入り、高校の二年後輩だった野田秀樹の入学を待って劇団を創立した。高萩は演出家としての野心を持ちながらも、野田の才能にはとても勝てないことを知って、制作の方に活動の重心を移す。では制作としての必要な資質とは何か。 いい舞台を見ると、
もっとみんなに見てもらいたい (38頁)
と思い、他人に吹聴したくなる性分である。これは唯我独尊的な芸術家肌とは一線を画す。そうした自己の発見を通じて、彼は自らを「プロデューサー」業へと導いていった。
 当時の学生劇団では、制作の仕事は一種の「雑用」に他ならなかった。稽古場をとり、日程を劇団員に告げ、さまざまな段取りをし、公演時には受付で客の応対をする。だがこうした制作のイメージを一新したのが、他ならぬ高萩だった。彼は地味な裏方に止まらず、劇作や演出同様、公演そのものを「創造」する役割を制作に付与した。彼にとって制作はビジネスでもあった。まだ学生劇団だった遊眠社の時代に、駒場小劇場の裸電球しかない暗い受付で背広姿で立っている彼の姿をよく見かけた。それは、演劇という前近代的な職人の世界から一歩抜け出した、近代的なビジネスマンにも映し出された。

 本書の読ませどころは三つに集約される。一つはアートマネジメント能力を備えた「プロデューサー」の草分けとして彼がどう個人史を形成していったか。二つめは、彼がともにした小劇場(団)の活動した80年代が、波瀾万丈でありながら、いかに魅力的で楽しい時代であったか。最後に、小劇場の限界を薄々感じ取りながら、その先のヴィジョンとして、演劇の「公共性」への制度構築こそ今後の自分の仕事だと見極めていくプロセスである。ベンチャービジネスに身を投じるように、高萩は演劇の世界に没入していった。その危険な魅力が本書を通じてますところなく語られている。
 
 初期の遊眠社は、大学構内にあった駒場小劇場を拠点に、学生離れした観客動員を誇り、やがて学内に出て、プロへの一歩を踏み出した。紀伊国屋ホールへの進出はその一歩であり、その過程で、野田秀樹は『野獣降臨(のけものきたりて)』で岸田國士戯曲賞を受賞し、弾みをつけた。
 

何でもアリだった時代。/限界が見えなかった時代。/日本が奇妙な自信を持っていた時代 (15頁)

 
 それが80年代だったとしたら、若く冒険的なアーティスト(志望者)は後ろを振り返ることなく、どこまでも走り続けるしかなかった。          
 この80年代の遊眠社は、ホップ-ステップ-ジャンプの三段跳びをやってのけた。
 85年に「科学万博-つくば85」に参加、86年、代々木第一体育館における「石舞台星七変化(ストーンヘンジ)三部作」一挙上演、そして87年の初の海外公演である。当初は、野外公演をやりたいという漠たる思いから始まった企画だったが、それが巨大なイベントである「万博」の出品につながった。これは広告代理店による働きかけがあってこそ実現したものだが、根底には彼らが何かこれまでとは違うことをやってみたいという壮大な夢があったからだ。
 代々木の体育館で一日だけ行なわれた三部作一挙上演は計6時間に及ぶイベントとなり、観客は延べで2万6400人に達した。これは演劇興行の規模を超えた空前の“事件”だったと言ってもいい。勢いがついた劇団はそのまま公演会場を海外にまで雄飛させた。世界的な演劇祭「エディンバラ・インターナショナル・フェスティバル」への参加である。

 まさに80年代の勢いが劇団の成長史と重なり、その加速度的な飛躍には驚嘆させられる。高萩は

劇団として行けるところまで行ってみようという感じだった (178頁)
と後で述べているように、時あたかもバブルの時代の波に乗るように突っ走ったのである。

 劇団には、ピークといった時期が存在する。遊眠社にとってこの三年間は、さしづめそれに相当しよう。だがどんなに順風満帆に見えても、苦難の予兆がなかったわけではなかった。
 

僕は遊眠社には勢いが必要だと思っていた。立ち止まって真面目に集団について考えることが怖かったのだと思う (189頁)

 80年代という狂乱の時代は、どこまでも人々の欲望を駆り立て、矛盾を先送りしていく。目先の目標を一つずつクリアしていく以外に、日々を生きていく方途はない。次から次へと持ち込まれていくイベントや企画。それを前にして、彼らに断る理由があったろうか。前進運動をつねに強いられる資本主義下では、立ち止まることは許されない。
 

そのころの遊眠社は何でもできそうに見えたのだろう。東京ドームのオープニングイベント、横浜のみなとみらい地区にできる予定の劇場との提携など、様々な公演形態・各種イベントの企画が次々と持ち込まれていた(178頁)

 だが幸運と危機は紙一重である。
 具体的な困難は、台風に苛まれた多摩パルテノンでの公演のエピソードに詳しい。野外での公演は毎日、天候との闘いである。いくら万全の準備を整えていても、空の気分一つで、公演は中止に追いやられる。野田が公演中に転倒し、休演を余儀なくされたエピソードも生々しい。演劇という生まものを扱う以上、危機への対応は日常茶飯事だ。

 劇団の危機についても記述されている。演劇集団とは脆く、傷つきやすいデリケートな集まりである。表面的には順調に行っているかに見えて、内部は崩壊寸前まで行っていたこともあった。

 夢の遊眠社の海外公演についての記述も考えさせられた。1987年、人気絶頂の劇団は次の野心として海外公演を考える。出し物は岸田戯曲賞を受賞した『野獣降臨』。だがこの公演は果たして成功したのか。

  

……客席から見た遊眠社の舞台に、僕は「成功」という言葉でまとめきれない違和感を持ちはじめていた。……遊眠社の特徴だと思っていたスピード感溢れる演技も、勢いだけで若さばかりが前面に出ているようにも思えてきた。/後に劇評を読んでみると、評価されたのは野田の戯曲、演出、遊眠社の演技スタイルのユニークさであり、身体表現にこだわる僕たちの演技が海外では正統なものでなく、突き詰められれば意味があるかもしれないが、まだまだ中途半端なものでしかないのだと気づいた (176頁)

 高萩の記述は実に正直である。大多数の劇団が「凱旋公演」ばかりを喧伝するなか、彼の冷静な分析、批評眼は的確に自分の足元を見つめている。その思いは野田も同様だったろう。翌年、ニューヨークで再び公演を打つが、日本語での公演は、言葉の分からない外国人から正当な反応は引き出せない。以後、彼らは海外公演を打ち止めた。もっと大きな戦略がいる。そう高萩も野田も考えたに違いない。
 96年に『赤鬼』でタイ公演を企画した時、野田はタイ人に俳優と共同作業を試みた。
さらにこのバージョンが英国人とも行なっている。この企画を劇場として支えたのが、当時世田谷パブリックシアターの制作部長だった高萩である。彼らは10年近くの間隔を経て、再び大きな共同作業をした。野田は余勢を駆って、2007年に絶大な評価を得た 『THE BEE』を英国人と創作している。この成果は本書の扱うべき時限を超えていているが、本書の続編が書かれることがあれば、当然この成果は触れられるだろう。
 最後に、高萩=野田の演劇の原点に触れて、締め括ろう。
 演劇活動にとって必要なのは「場所、金、才能」だと考える高萩にとって、

駒場小劇場は単なる劇場というより、演劇活動の出発点だった。 (49頁)
いくらでも時間を使っていろいろなことが試せ、必ずしも公演につながらなくとも、自由に時間と空間を使いきることができる。ある意味で、演劇の創造環境の理想像がここにあった。ただしこれは大学という猶予の期間での束の間のパラダイスにすぎないことを彼らは知っていた。これを社会の中で実現するにはどうすればいいか。

 後に劇場の運営、経営に関わるようになった高萩の出発点はここにあったといっても過言ではない。これが劇団を辞め、公共劇場の仕事に従事するようになった本当の理由であろう。小劇団ゆえの限界を踏まえ、演劇は公共的な文化的営為であることの認識は、1980年代以降の日本の演劇が直面している課題でもあった。
 本書は、若く野心に燃えた一制作者が、多くの障壁を乗り越え、演劇の青春時代と訣別し、演劇の成熟(=大人)を探っていくプロセスの一つのドキュメントでもあろう。


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2009年06月29日

『炎の人(ハヤカワ演劇文庫)』三好十郎(早川書房)

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「<劇評家の作業日誌>(45)」

古今東西の名作を廉価で読める「ハヤカワ演劇文庫」の刊行が開始されたのは、2006年、アーサー・ミラーの『セールスマンの死』からだった。
 70年代には角川文庫や新潮文庫でかなりの数の戯曲を読むことができた。寺山修司や唐十郎、別役実やつかこうへいなど、現代戯曲を身近に感じさせることへの貢献は大きかった。だがその後、戯曲の文庫化は途絶えた。

時折、岩波文庫で刊行されることはあったものの、これは昔の名作の焼き直しか、全集からの余滴であって、あくまで例外にすぎなかった。それが早川書房から「演劇文庫」として刊行されるようになったことは、一つの慶事だと言っていい。ミラーやニール・サイモンに始まり清水邦夫、別役実や坂手洋二らが次々と刊行され、ついに三好十郎作『炎の人』がこの文庫に加わったのだ。この6月、栗山民也演出、市村正親主演で再上演されることを契機にした出版企画だ。

 三好十郎は1902年佐賀県に生まれ、上京の後、劇作活動を始め、1958年に没するまで、旺盛な活動を続けた。戦中戦後を代表する劇作家の一人である。死後、学芸書林から「三好十郎の仕事」として全4巻が刊行され、60~70年代まではよく知られる作家だった。彼は頑固一徹さとどこまでも「私」性を追求することで、妥協を許さない孤高の劇作家として有名だった。

 その彼が、画家ヴィンセント・ヴァン・ゴッホをモデルにして書き下ろしたのが、この『炎の人』である。初演は1951年の劇団民芸(演出=岡倉士朗)。主演のヴィンセントを演じたのは、名優滝沢修だ。わたしは30年ほど前にこの舞台の再演を見たことがあり、つい最近も、当時のビデオを見直したが、滝沢修のの演技は、今見ても鬼気迫るものがある。まさに新劇を代表する名作だ。

 オランダ生まれの画家ヴィンセント・ゴッホの評伝劇は、世紀末のパリや晩年を過ごしたアルル地方などを舞台に、ゴーギャン(劇中ではゴーガン)やロートレックといった当時の画壇を賑わした実在の人物たちがほぼそっくり登場する。そこで精神に病んでいくゴッホの生活とついには耳を切り落とす惨事に至った実際のエピソードが物語として展開される。敬愛以上の自己犠牲で兄を支えたテオ(ドール)の献身など見るべきところが多い。

 だが一癖も二癖もある劇作家は通りのいい評伝劇を書くわけがない。彼の描いた世界は、貧しかった時代を背景に、飢えと日々のパンにも事欠く困窮の日常が彼の生活を覆っていた。これは1950年代の日本の社会そのものの映しでもあろう。おそらく作者は、ゴッホを50年代の貧しい日本に召喚し、そこに自身を過分に投影させようとしているのだろう。絵画に命を賭けた主人公は、精一杯生きようとする。そこに作者の貌も重なって見える。

 今回の市村=ゴッホは、以前見た滝沢=ゴッホを踏襲しているように見えた。暗い色調のなか、押さえた静謐な演技から、生きることへの誠実さ、真摯さがこの劇のベースになっている。

 若き日のゴッホは、正義感に燃えた宗教家だった。だが彼が関わった労働争議がその裏で世俗化した教会権力と結びついていることを知った時、彼は深い挫折を知って、画家の道を選びパリに出る。だが弟の仕送りに頼る情けない兄は、画家未満にすぎなかった。

 暗い色彩の絵を得意としたゴッホは、パリに上京する。そこで初めて明るい色調の「印象派」が台頭していたことを知り、多大な影響を受け、模倣に走る。オランダやベルギーから見れば、パリは芸術の中心であり、「憧れ」の都市であった。戦後まもなく書かれたこの戯曲では、そうした社会情勢や芸術環境が色濃く投影されている。地方から一途な思いでやって来た者特有の焦り、いまだデッサンが満足に描けないコンプレックスなどが入り交じって、彼はパリの画壇の社交界に馴染めない。それはそっくり三好のそれでもあったろう。

 この劇は一種の芸術論としても展開されている。とくにゴーギャンとの対話など気迫のこもった論争も見せ場の一つになっている。自然のマチエール(素材)を活かすことが絵だとするゴッホと、芸術とはあくまで自分の内部に投影されたイマージュであり、実在とは無関係だとするゴーギャンとは鋭い対立をなす。この対称は、人間の生き方そのものにも還元される。近代的自我が強固な芸術家を登場人物に据えれば、こうした視点が浮かび上がってくるのは必定だろう。一言でいえば、「近代的人間」(キャラクター)が全面に押し出されているのだ。

 だが、この劇にはもう一つの視点が見え隠れしている。
 『炎の人』のラストシーン(エピローグ)は男の語りで締め括られる。

「このような絵を/あなたが生きている間に/一枚も買おうとしなかった/フランス人 やオランダ人やベルギイ人を/私はほとんど憎む」(200頁)

 ここで「ほとんど憎む」とわざわざ「ほとんど」と留保を付けていることにわたしは引っ掛かるものを感じた。しかも同じ台詞がこの直後に二度も繰り返されているのだ。なぜ「ほとんど」という奇妙な副詞が、ここで用いられているのだろう。

 もし生前、ゴッホの絵が少しは売れていたら、もう少し生活は楽になったろうし、ここまで追い詰められはしなかったろう。そのことを語り手(おそらく作者)は「告発」する。作者の怒りは、個人の悲劇にとどまらない社会の暴力へと視点を転換させる。

 それにしても、この作品は通常の戯曲の常識をはるかに超えている。とくにエピローグには、本来ありえないようなナレーションの形でゴッホへの呼び掛けが記されている。これは彼へのオマージュなのか、それとも弔辞なのか。

 このエピローグは、かねてから議論のあった箇所で、作者の「私」性が直接的で突出し過ぎているという指摘がなされてきた。だが蛇足とも言える語りを書き付けた作者の意図は、わたしには痛いほど分かる。彼は決して「芸術家の死」を迎えたわけではなかった。社会に圧殺され、人々の無知に殺されたのである。ここにおいて、個人の死は一挙に社会の死へと拡大する。近代的自我の崩壊は同時に、社会内部のメカニズムそのものの自壊に他ならないのだ。

 かつてアントナン・アルトーがゴッホ伝で「社会が自殺させた者」と評したことが思い出される。アルトーによれば、ゴッホは狂気の果てに自殺したのではなく、社会の無理解が彼を扼殺したのだ、というのだ。
 「堕落」し、「腐敗」した社会を憎む作者の声は、やはり戦後まもなく『堕落論』を著わした坂口安吾とも重なってくる。わたしはそこに「戦後精神」の一典型を見る。

 もう一つ気に掛かったのは、「ヴィンセントの声」として登場人物の「内心」の声を台詞に書き込んでいる箇所である。上演ではこの部分はカットされることが多いが、なぜこんなことまで作者は書いてしまうのだろう、という疑問が残った。思いが余って、つい手が滑ったのか。それとも上演する者へのメッセージなのか。上演に際して、カットされることを想定して書いたのか、それともカットするか否かを演出にゆだねるつもりで書いたのか。

 ゴッホの名画がビゼーの名曲「アルルの女」をバックに語られるシーン(第4幕)。有名な絵を見ながら、観客=読者は、解説を聞くようにメロディに耳を傾ける。これも通常の戯曲ではめったに出会えない趣向だ。『炎の人』には戯曲という形式に嵌まらない破天荒な書き方がなされているのである。これは作者の実験精神なのか。それとも過剰な思いに見合う形式なのか。

 こんな劇作家が半世紀前に存在していたことを知っただけでも、若い読者には貴重な贈り物になるだろう。三好十郎が五十年以上も前に放った問いは、現在でもわれわれの喉元に引っ掛かっている。


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2009年06月01日

『土方巽 絶後の身体』稲田奈緒美(NHK出版)

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「[劇評家の作業日誌] (44)」

昨年は暗黒舞踏の創始者・土方巽の23回忌だった。また彼の舞踏の出発点を1959年の『禁色』初演とするなら、今年は「暗黒舞踏50年」に当たる。いろいろな節目になる時機を得て刊行されたのが、本書『土方巽 絶後の身体』である。
 一言でいえば、手間暇かかった労作だ。594頁という大冊はだてではない。それだけ時間と労力をかけている。著者があとがきで記しているように、最初のインタビューを開始してから8年が経過し、多くの証言を集めた評伝が完成した。  著者は1962年生まれ。彼女が成人した頃には、土方は踊りの一線から引いていた。 したがって著者は土方の舞台を直接見ていない。しかし「見ていない」ことはハンディにならず、むしろ対象から距離をとれた分、偏った感情に左右されない客観性を備えている。これが本書を特徴づける第一の要因だ。土方への一方的なオマージュや体験に過度な思い入れを持つのではなく、外側から土方にアプローチする独自のポジションに著者を立たせている。

 著者はバレエ、モダンダンスなどを幼少時から習い、自身の中にも「踊り」の感覚は具わっていた。その「内臓感覚」をベースに、見たことのない土方舞踏に迫っていく。これが第二の特徴と言えるだろう。舞踏というものの本質を、ジャンルに還元するのではなく、もっと広く、「生きること」全般にまで拡大していけるのは、生活に根ざした身体感覚があるからだろう。こうした態度は、知的な言説に集約してしまうことから免れる。哲学的、文学的、美学的言説にまぶされがちだった土方舞踏について、平明で簡潔な文体で記述することを可能にしたのも、ここに要因がある。

 本書を構成している多くの関係者のインタビューは壮観だ。名を列挙すれば以下のようになる。赤瀬川原平、厚木凡人、石井輝男、加藤郁乎、唐十郎、谷川晃一、中西夏之、細江英公、松岡正剛、松山俊太郎、麿赤兒、元藤燁子、横尾忠則、吉江庄蔵、吉増剛造、ヨネヤマママコ……。この他すでに鬼籍に入った者たちの言葉も多く集められている。澁澤龍彦と種村季弘をはじめとして、三島由紀夫が土方の後ろ盾になっていたことは、この時代の文化の局面をよく切り取っている。

 この本の魅力の一つは、六〇年代の「芸術家共同体」をよく伝えていることだ。その中で三島の位置が抜きん出ていたことは、改めて印象深い。誰もが三島の存在を意識し、彼の発言と行動を気にしていた。土方は客席に三島の姿を発見すると、安堵したという。土方が舞踏を名乗る最初の作品が、三島原作の『禁色』(59年)であったこと、しかもそれは作者に無断で行ない、これを機に三島と知己を得られるのではないかという思惑があったこと。いずれも知略家土方巽の一面を物語るエピソードだ。

 同じく、澁澤との出会いも格別のものがあったろう。それを証拠に土方の葬儀委員長は澁澤が務めている。彼は当代きっての大インテリであり、工業高校卒の土方が対等に付き合うには、いかにも心許ない。しかも澁澤は東京生まれで良家の出である。そこだけ見れば、ナイーヴな芸術家を知的な批評家が庇護する典型的な関係に見えなくもない。だが実際はそうではなかったようだ。

「……土方は、澁澤や三島の影響を受けているが、一方的な受け売りではない。三者三様 の思想と言葉、それを裏付ける知識と経験、肉体と舞踊についての刺激に満ちた交歓が盛んに始まっていたのである。土方は知識の上で彼らに劣っていることは明白であったが、彼ら東京育ちの身体的に脆弱な知識人、身体性の希薄なエリートに対して、かつて澁澤を“白い人”と評したように、厳しい自然と労働に対する無知を指摘し、自らの経験と対立させている」(104頁)

 三島も含めて、澁澤、土方の三者の関係は対等で相互的であり、ある意味で理想的な知と芸術の交合に映し出されてくる。
 こうした芸術家共同体の集約点を著者は次のように的確に記している。

「世間も家族も時間も意に介せず飲み続けていた彼らは、前衛芸術を通して繋がるアウトロー、似た者同士のところがある。それは楽しく、愉快で破天荒な関係だったのだろう。しかし同時に、それぞれが才能豊かな『一匹狼』であり、決して仲良しグループの馴れ合い、群れ合いではなかった。むしろ異質な者同士であり、最大の理解者であると同時に、最も手強い批評家でもあったのだろう」(151~2頁)

 もっともこうした関係は長続きしないのは必定だ。別れは唐突にやってくる。その決定的事件は、三島由紀夫の自衛隊乱入と割腹自殺であろう。1970年11月のことである。横尾忠則は「三島の死と同時に(前衛共同体は)バラバラになった」と語っている。文明発展の象徴、大阪万博が開かれたのが同じ1970年であり、2年後には連合赤軍事件が起こった。志を同じくした共同体は永続せず、やがて暗澹のまま崩壊していく。

 本書の構成で注目すべきは、歴史の編年体で土方巽の活動を跡付けていることである。彼の秋田での生い立ちに始まり、秋田工業高校時代のラグビー部のエピソード、モダンダンスとの出会いから上京してクラブに潜り込み、やがて『禁色』にいたる舞踏創生の記述。この1959年をもって、「暗黒舞踏元年」と呼ぶことも可能だ。

 土方の出世作は、『土方巽と日本人--肉体の叛乱』である。1968年10月、日本青年館ホールで上演された。この公演は一種の「伝説」にまでなっているが、「『肉体の叛乱』がなければ、舞踏は舞踏にならなかった。モダンダンスの一種の突然変異、変種で終わっていたと思います」(287頁)と芥正彦は語っている。この作品は一般に『肉体の叛乱』として知られているが、これはあくまでサブタイトルであり、正式には『土方巽と日本人』である。土方は日本人であると同時に、その外部者でもあった。彼は醜悪な肢体をさらすことで、日本人の意識に揺さぶりをかけた。

 三つめの代表作は、1972年『土方巽燔犠大踏艦・四季のための二十七晩』であろう。土方は自分の舞踏の体現者として芦川羊子を見出し、やがて土方は舞台から退いて、振り付け家に転身していく。東北の秋田に生まれた土方は、後年「東北歌舞伎」を提唱し、そのローカリティを積極的に打ち出した。だがそれは固有性、個別性であるとともに、世界中に散布する「土方巽なるもの」を探ろうとした試みであろう。「舞踏とはいのちがけで突っ立っている死体である」とはつとに知られる土方巽の名文句だが、この「土方巽なるもの」は舞踏の真髄を考えさせる。


「土方にとっての舞踏の身体とは、ダンスのみならず日常の規律化された身体からも逸脱し、解体することによって獲得された、新たなる身体感覚と操作のメカニズムによって組み替えられた身体でもあるのだろう」(540頁)
 これもまた著者の内臓感覚が言わしめた言葉である。

 著者同様、わたしもまた土方の舞台を直接見たわけではない。だが幾度か彼のシンポジウムに参加したことがある。土方の語り口は独特で、訥弁のなかに身体からボソリと引き出される言葉があった。

「この頃、土方の存在は、現代詩の詩人の間で有名になっていた。それは第一に、前衛舞踏家としてだが、もう一方で、土方の独特の言語感覚、詩人のような言葉遣いに魅了された人が少なからずいたためだ。」(233頁)

 後に彼の著書『病める舞姫』を読むと、この語り口は文体そのものであり、発想の飛躍が文体をつくっていることを知った。彼の言葉は、肉体から搾り出されてくることに特徴があった。

「海」の絵と「うみ」という音から、同音異義語の「膿」を連想し、「痒み」を記憶の中から呼び起こす。それが「掻く」という行為に結びつき、その動作をイメージの中で反復することによって、「体中の光」へと意識が向かっていく。そのようなイメージの自由な飛躍を、土方は行っている。……連想が言葉のイメージだけに留まらず、聴覚・触覚を通して身体感覚に結びつき、そこから行為・動作の記憶と感覚へ飛ぶため、イメージを巡らせるだけで身体内部に変化が起こってくるかのようであることだ(432頁)

 日本の舞踏が「世界のブトー」へ飛躍していくきっかけになったのは、一九八〇年、ナンシー演劇祭に出演した大野一雄によるとされている。以後、天児牛大の「山海塾」、カルロッタ池田の「アリアドーネの会」などがヨーロッパに渡って活躍を始める。麿赤兒の大駱駝艦もまた遅れて、ヨーロッパに到着する。だが土方は彼らの活躍を尻目に沈黙を守っていく。彼は田中泯や笠井叡と組んで、振り付けしている。それは自ら舞踏家であるより、理論を大成したいという欲望があったからだろうか。

土方は六〇年代の澁澤龍彦や種村季弘のヨーロッパの異端文学を地とし、三島由紀夫の耽美的な古典主義、アルトーやバタイユらのシュールリアリスティックな思考が重畳し、これらの知を支える東北生まれの肉体が母体となったと言われる。だが実際は、こうした通りのいい影響関係に収まりきらない関係の網の目が張り巡らされていることであろう。

土方巽の巨大な思考を解きほぐすことは、今後に残されたわれわれの課題でもある。

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2009年01月02日

『遺言-アートシアター新宿文化』葛井欣四郎 聞き手=平沢剛(河出書房新社)

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[劇評家の作業日誌](42)

この一年出会った本のなかで、時代の「証言」という性格を帯びたものに心が動かされることが多かった。今、何とかして語っておかねばならないことがある--そうした気迫が書物という形をとって伝わってきたのだ。
   1960年代から70年代にかけて、映画や演劇で最先端を走った「アートシアター新宿文化」という劇場が存在した。一般には上映されにくい海外の芸術系映画や若い映画作家たちの意欲的な作品、小さな実験映画が掛かり、演劇公演も頻繁に行なわれた。いわば「前衛芸術」のメッカだったのが、この劇場である。

 当時の支配人だった著者・葛井欣四郎氏は三重県伊勢市の呉服屋を営む家庭に生まれた。終戦後、早稲田の高等学院に進学し、東京暮らしが始まるが、都会の文化の象徴が映画だった。そこで、彼はなるべく映画に近い仕事をしようと思い、三和興行という興行会社に就職する。その彼が開場したばかりのアートシアター新宿文化の運営を任されるようになったのが、1962年である。同映画館では『尼僧ヨアンナ』を皮切りに約200本の映画を上映し、1974年12月、13年間の幕を閉じた。その間、彼は劇場のプログラムを考え、配給会社であるATGと協力して運営を支え、劇場のイメージづくりのためポスターや内装工事まで手掛けた。それは一個の劇場の支配人という仕事をはるかに逸脱・凌駕したものだった。今でいえば、文化の「仕掛け人」、総合プロデューサー的な役割を果たしていたのだ。

 三島由紀夫が小説を書く傍ら舞踏や映画に関わり、また『近代能楽集』にもタッチしていく。かと思えば、大島渚は白土三平の原作漫画『忍者武芸帳』を映画化する。足立正生の実験映画がゴダールの観客と響き合う。昼の映画と夜の演劇をかけ持ちしながら、葛井氏は昼夜を撤して、この動きに関わっていった。40歳前後の10年ほどの濃密で激動の日々である。そこで出会った芸術家たち、新鋭からベテランまでの映画監督、画家、音楽家、歌手、写真家から劇場人に至るまで、実に多彩な人たちとの出会いと思いを綴ったのが本書である。若い映画批評家である平沢剛氏が巧みに著者から言葉を引き出している。

 この映画館を特徴づけたのは、やはりATGの封切り館という性格だろう。ATGとは、大手の映画会社、いわゆる五社を辞めて独自の映画をつくり始めた若い映画監督のための「配給会社」だった。当時、「一千万映画」と呼ばれたように、低予算で製作する芸術映画を擁護するための運動体であり、その常設館が新宿文化だったのだ。

 自主独立系の表現がこの時期一斉に登場したことは偶然ではない。音楽ではフォークソング、建築、美術でも磯崎新や赤瀬川原平らが登場してきた時期である。多くのアーティストが集まり、山下洋輔がピットインを根城に活動していた。その中心が新宿であったのは、やはり政治の季節と連動していたからだろう。「若さ」と「新しいもの」に挑む冒険心が同時代を横でつないでいった。そのシンボルがこの「アートシアター新宿文化」だったのだ。

 では葛井氏は、風俗と紙一重のこの文化の運動をどう考えていたのだろうか。例えば、1967年には、通りを挟んで向こう側には、唐十郎率いる状況劇場が紅テントを花園神社に張っていた。いわゆる「アングラ」の始まりだ。彼は、唐の活躍を傍目で見ながら、彼を自分の劇場に呼ぼうとはしなかった。唐らの表現は前衛ではあったが、同時に大衆性も帯びていた。これが当時支配人だった彼の考える「前衛」とはズレがあったのだろう。「芸術はすべて実験である」(68p)という岡本太郎の言葉を引くまでもなく、彼の意識には、大衆人気への違和感があったのかもしれない。このことはここで上演された舞台の傾向からもはっきり読み取れる。

 アートシアターが演劇公演を始めたのは1963年である。始まりは「新劇」だった。葛井氏は民芸の宇野重吉にプログラムの責任者になってもらいたいと考えるほど、入れ込んでいた。これは意外だった。なぜなら、宇野は新劇の中心人物であり、小劇場運動にとって敵対的な人格でもあったからだ。 「アングラ・小劇場」という運動が起こる前夜に、葛井氏は、大島や篠田、吉田らに対応する人材を演劇界で誰に見ていたのか。まだはっきり見定められていなかったのが正直なところではなかったか。ファンではあったものの、宇野重吉はもう十分大家である。そのなかで唯一、新しい趣向を持った者として寺山修司を発見していた。だが彼は純粋の演劇家というより、映画もつくり、何よりエッセイスト、文化人として一家をなしていた。
 
 当時、分裂を繰り返していた新劇内部も、実は混乱の極みだったのだろう。文学座から福田恆存は芥川比呂志らを引き連れて脱退し、後に劇団雲(現在の昴の母体)を結成し、実験的なことをやりたいといってこの劇場に目をつけたのだ。アメリカからの留学帰りの荒川哲生は、エドワード・オールビーの『動物園物語』を紹介し、これがヒット作になる。ニューヨークのオフかオフオフ・ブロードウェイで話題になっている新鋭戯曲が彼によって紹介されていくのである。いわゆる「不条理劇」が当時の劇界を席捲していくこととこれも符号するだろう。だがそれは、まだ新劇内部での「実験」、本公演にかかる手前の 「小劇場」公演に過ぎなかった。
 
 小劇場派としては、早稲田小劇場の鈴木忠志が別役実の『門』をこの劇場で上演している。早稲田に自前の小劇場をつくる直前で、一種の「前哨戦」(129p)だったのだろう。高級志向の前衛あるいは実験が一度は登場してみたい劇場、それがこの劇場の性格だったのだろう。早稲田小劇場はその前に俳優座劇場で公演しているくらいだから、その頃はまだアングラ・小劇場と新劇の隔たりはなかったのかもしれない。
 
 新劇の中の「前衛」の部分と、その後の小劇場運動の良質な部分が相乗りしていた。呉越同舟というより、共存していたのである。両者が明確に岐れていくのは、政治の季節が沸騰するあたりからだろう。
演劇公演としての劇場の性格をはっきり決定づけるのは、清水=蜷川コンビが登場する1969年まで待たねばならなかった。その間はまだ固定したイメージを持たなかったし、演劇界も明確な対立点が見えなかったのである。

 1973年までの5年間、「アートシアター新宿文化」では、清水邦夫作、蜷川幸雄演出の伝説的な舞台が上演されていた。1969年の『真情あふるる軽薄さ』は蜷川の初演出であり、その後、『泣かないのか? 泣かないのか1973年のために?』まで毎年恒例になった現代人劇場、後に櫻社の公演が続いた。当時の新宿は風俗と政治の最前線であり、何かが毎日のように起こり、衝突を繰り返していた。まさに文化や芸術が胎動していく坩堝に他ならなかった。この劇場について葛井氏はこう言っている。

 「アートシアターは路面劇場でしょう。見終わって外に出たときにね、その雰囲気はすごくあったんですよ。現在とは状況が違いますからね。まだ、71年までは。街は狂気と殺意に満ちてました。そして何でも許される解放区だった。蜜と毒があふれていました」(286p) 1970年に高校生になったわたしは、その前年くらいからこの劇場で、大島渚監督の『少年』、篠田正浩監督の『心中天網島』、吉田喜重監督の『エロス+虐殺』などを見はじめた。ATG映画の最盛期に、ミドルティーンからハイティーンになろうとしていたわたしは幸運にも立ち会うことができたのだ。同時に、ロベール・ブレッソン『ジャンヌ・ダルク裁判』、エイゼンシュテイン『十月』、サタジット・レイ『大地の歌』という映画も封切時に見た覚えがある。一方、地下の蠍座では、ゴダールの実験的映画も見た。フーテンやサイケデリックという言葉を地で行っている人たちになまで出会い、眩しい大人の世界の入り口に遭遇したのも、この小さなスペースだった。

 だが、1969年から73年までの都合5年間、この劇場で上演された演劇公演は見逃している。夜の9時から開演された公演に立ち会うには、当時のわたしは幼な過ぎ、成長が間に合わなかった。映画に比べて演劇は、もう一段階上の「大人」の文化だったのである。 

 葛井氏には、かつて『消えた劇場 アートシアター新宿文化』という著書があったが、たしかこの連載のタイトルは「60年代・激動の小劇場運動史」といった副題が付いていたように記憶している。まさに「劇場」が文化や芸術の出会いの受皿になり、そこに集結した者たちが胎動期を経て、やがてさまざまな領域に跳び出していった。「劇場」とはいつでもそうした者たちの記憶だけの残して、跡形もなく消え去っていくものなのだ。

 つい先般、新宿コマ劇場の最終公演が行なわれた。わたしはその公演に立ち会っていて、総立ちの観客が熱い拍手と声援を送り、幕が下りても、幾度となく幕を引き上げ、劇場の最期の息を引き取らせまいとする場所を目撃した。

 「遺言」とはずいぶん後向きのタイトルに思えたが、主語はむしろ劇場自身なのかもしれない。だとすれば、「消えた劇場」「消えた文化運動」を永遠に語り継ごうという遺志をこそ読み解くべきなのだろう。


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2008年08月11日

『太田省吾劇テクスト集(全)』太田省吾(早月堂書房)

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[劇評家の作業日誌](39)

 劇作家・太田省吾さんが亡くなられてから、早いもので一年余が経った。その追悼の意もこめて、この8月、金沢の前衛劇集団新人類人猿による『プラスチック・ローズ』(若山知良演出)が金沢芸術村で上演された。わたしはこの公演にさいして、太田さんについての短いレクチャーを行なったが、この機に彼の5冊の戯曲集と未収録作を集成した『劇テクスト集(全)』を読み直してみた。菊判で650頁を超える大著である。  

まず、タイトルが「戯曲集」でなく、「テクスト集」になっていることに着目したい。 「戯曲」という文学性を否定し、上演に即した言語体としての「テクスト」を冠しているのである。これは生前の太田氏の意向に沿ったものだろう。さまざまな「引用」から成る「テクスト」には、オリジナルの言葉ではなく、すでに使われた言葉をもう一回織り込んでいくニュアンスがこめられている。もともと texture という単語には「織物」が含意 されており、多様な言語素材を縫い合わせていくことで、上演のテクストが立ち上っていくのだ。彼の最後の作品『→ヤジルシ』ではこれを「盗用テクスト」と称して、上演中に出典を明らかにしたこともある。  

一時期、太田氏は、自分は「劇作家」なのか「演出家」なのか煩悶していた。ゼロから世界を構築していくのが劇作家だとすると、すでに「書かれたもの」をどう「読み直すか」が演出家の書く台本ではないか。つまりメタレベルで演劇の「再演劇化」を志向するのが演出家だというのが彼の考えなのだ。「新劇」による文学の立体化を否定し、集団の身体性に支えられた表現を志向した「アングラ演劇」では、言葉のあり方がまったく変わってしまった。それが60年代の「演劇革命」の内実だった。演出家が上演に即して書いた 「テクスト」では、舞台空間はセリフのみならず、多彩な演劇独自の言語、すなわち音響、照明、衣裳、美術、そして俳優の演技によって構成される。太田省吾氏の行き着いた「沈黙劇」というスタイルは、文字通りセリフのない、動きだけの劇である。これはト書きだけで記述された進行用の台本だ。  

沈黙劇の先駆けとなった1977年の『小町風伝』にはまだセリフが残っている。「残っている」といったのは、もともと老女の幻想(自分を絶世の美女・小野小町と思いこんでいる)を描いた作品には、最初は独り言のようなモノローグが綴られていた。実際に矢来能楽堂で上演された時、セリフはすべてカットされ、そこから「沈黙劇」が始まったのだ。六百年の伝統と歴史を持つ能舞台で発語するには、自分の書いた日常的な言葉はあまりに軽すぎる。演出家はそう実感し、劇作家の言葉を引き下げた。つまり演出家の判断が劇作家の創造を上回ったのだ。  

言葉の位相を考えさせられる興味深いエピソードである。紙に書き付けられた言葉はまず黙読される。然るのちに音として空間に放たれ、言葉の持つ身体性が顕在化する。演劇の生命線はまさにこの瞬間に生成するのだ。これを統括するのが、他ならぬ演出家である。太田氏の「テクスト」には、こうした劇作家-演出家の葛藤を孕み、一種の「演劇論」として読むことも可能だ。事実、ト書きには作者の思考の痕跡が刻まれ、舞台上の単なる進行に留まらないユニークな演劇論になっている箇所が少なくない。

 このテクスト集に集められた二十六本のテクストの半数以上は、彼が主宰していた転形劇場に書き下ろされたものである。つまり集団性を基盤とした上演テクストだ。太田は劇団を主に実験的な作品を探求する場と考えていたのだろう。そこから「老態」シリーズや「沈黙劇」、「駅」シリーズなどが誕生した。  

それとは別に、二人の対話劇も多く書かかれている。この言葉や劇的文体にも注目したい。中村伸郎、岸田今日子という名優に別々の時期に作品を提供してきたもので、劇団に向けて書かれた台本とは明らかに異なった成立事情がある。これらの作品は、戯曲としても読み応えがあり、上演テクストとして今でも十分可能である。  

例えば、岸田今日子と瀬川哲也出演の『更地』では、初老を迎えた夫婦がかつて住んでいた家を訪れ、すでに跡形もなくなった空き地(それが更地の含意だろう)で思い出話に耽る。かつてあったこと、子供たちを苦労しながら育てたこと、それらを回想しながら、時間は現在に召喚される。そこで彼らはもう一回やり直してみようと、今までのことをリセットする。その時、夫は「なにもかも、なくしてみるんだよ」と妻に呼びかけ、更地に白い布をかぶせる。実際にこれが上演された湘南台市民シアターの舞台では、奥から巨大なシーツが持ち出され、舞台が真っ白に覆い尽くされた。「なにもかもなくしてみる」とは宮沢賢司の言葉からの引用だが、夫婦間の生臭い時間が一気に取り払われ、これから何色にも染め上げることができる透明感溢れる実に見事なシーンとなった。  

中村伸郎主演の『午後の光』は、老人が死んだ妻を思い出すシーンから始まる。そこに死んだはずの妻が登場する。現在と死後の世界を行き来する能の形式に近いものだ。しかし夫婦間の思い出話は「ややこしい」。記憶はあいまいであり、現在は過去を都合よく思い出そうとするからである。
例えば、妻は夫にこう言う。「二人だけのことってのは、現実になかったことなのかもしれない」「だって証明できます? だれかに、あなた。あったんだって」((『午後の光』414~415p)
  二人の間だけで起こったことは、果たして現実なのだろうか。第三者が立ち会い、承認しない限り、そこで起こったことは確かめられない。  『夏の場所』でも、老人(中村)は興味深いセリフを言う。
男は女に言う<なぜおれを見る>。女は答える<だれかが、あなたに必要だと思って>。(461p)
 人間が自分の存在を承認されるのは、他者の視線によってである。それが「見られる」意義だ。太田のセリフは哲学的である。かつて古代ギリシアで哲学が誕生した時、思考はつねに問答として展開された。ソクラテスやプラトンの「対話」である。太田のテクストは、その「対話」に近い。だが太田がかの哲学者と違うのは、その後にこんなセリフを書き付けているからである。  
「<必要なのは食いものだ、人間じゃない>なぜ、こんなセリフを吐いたのか。飢えているんだ、男は」(461p)
 老人の言葉は、対話を俗世の中に放り出す。なぜならこれは、思考の追求というより、<いま・ここに>自分たちが存在していることを確認する、一種の「ごっご遊び」が主眼だからである。それは、看護婦の視線によって明確になる。  
「男、看護婦と老人へ目をやる」というト書きに続いて、「いいじゃないか、もうすぐ終わるんだから」(463p)
と「ごっご遊び」の中断を告げるのである。他者が「見る」ことで、自分たちの存在を確認し合う芝居が断ち切られる。ここで「見る」ことは、現実に引き戻すことだ。逆にいえば、他人に見られていない間だけ、人は安んじて演じていられる。  今回、改めて太田テクストを読み直してみて、セリフやト書きのなかに「見る」という言葉が頻出していることを発見した。  
例えば、「見つめる目を見る女」(『風の駅』356p)
というト書きがあるが、いったいこれはト書きとして機能するのだろうか。人は他人の眼球に映った自分を見ることで、自分が見られていることを知る。こうして無限に反照し合う目と目のあいだに自己を確認できる。  あるいは『更地』では、イーゼル(画架)を家の窓枠に見立て、妻は「ね、見られましょうか」と夫に語る。『午後の光』でも老夫婦間で「覗く」シーンがある。  「見る」ことは存在の確認であり、他者を承認することだ。したがって彼の言葉はつねに存在に向けて放たれている。ただしそれは必ずしも「文学」的な修辞ではない。華麗な言葉、明晰な言葉を禁欲すること。そこに彼の言葉と文体の特徴がある。肉体や身体は見通しの利かない闇を抱えており、訥弁で盲目性の言葉こそがふさわしいからである。   太田省吾は「見る演劇」を提唱した。そのことが「劇テクスト集」で、初めて明確になった。まさにこれは演劇論を含んだ「テクスト集」なのである。     

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2008年07月07日

『老嬢は今日も上機嫌』吉行和子(新潮社)

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[劇評家の作業日誌](38)

女優吉行和子のラストステージを見に、六本木・俳優座劇場に出かけた。タイトルは『アプサンス~ある不在~』(ロレー・ベロン作、大間知靖子演出)。この女優にふさわしい舞台だった。決して派手ではなく、ひっそりとまるでフェイドアウトするかのような幕引きだったからである。この舞台に合わせて、一冊のエッセイ集が刊行された。それが今回とりあげる『老嬢は今日も上機嫌』である。

吉行和子は言うまでもなく、日本を代表する女優の一人だが、いわゆる「大女優」とは少し違っている。例えば、『女の一生』の杉村春子、『夕鶴』の山本安英、『放浪記』の森光子といった大女優と比べると、どこか一線を画しているのである。なぜか。

それを解く鍵は、彼女のこうした言葉にあるように思われる。

私が出演作品を選ぶ基準は、この、「何だか面白そう」というのが第一条件になるのだ。(189頁)

何故私はこういった変わった出し物(志賀直哉原作小説『荒絹』―引用者註)に関わってしまうのだろう。自分から望んで参加しているのだから仕方ない。・・・どうなるか解らないもの、答えが出ていないもの、そういった作品に出演する時の、何ともいえない不安な気持、これがたまらなく魅力的なのだ。その崖っぷち状態が好きなのだ。困った性格だと思うが、治りそうにない。(44頁)

この女優が一癖も二癖もある役を演じることが多いのは、こうした理由による。吉行は、いつでも面白さといった「好奇心」や安定路線でない「危うさ」へ身を寄せてしまう。大女優はまずこんなリスクを冒さない。一つの役を生涯演じて自家薬篭中のものとし、結果として一〇〇〇回以上も演じる代表作を持ったのが上記の三大女優だ。これはもはや生き方の違いであり、演じることの姿勢や演劇観の違いに帰結するだろう。

例えば、著者が仲良かった「三人ムスメ(女優)」の他の二人、すなわち岸田今日子、富士真奈美も大女優というより、ユニークさを売り物にする女優だった。類が類を呼ぶように、この三人は二十年来の友人となる。この三人は揃って文章の達人であり、言葉を仕事にする女優という職業がいかに言語に敏感かを物語っている。また彼女らに共通しているのは、作家の父を持っていることである。それぞれ岸田國士、富士正晴、そして吉行エイスケであり、吉行和子の兄・吉行淳之介はまぎれもない昭和の文豪に数えられる。こうした持って生まれた芸術環境が彼女らに影響を与えないわけがない。

わたしが吉行和子を初めて知ったのは、今から30年ほど前だが、その時の印象は「美貌の少女」というものだった。その当時、彼女は40歳を過ぎていたと思われるが、その「少女」性は今でも変わらない。先述した大女優が「一代記」的なもので名声を博したとするならば、彼女は「永遠の少女性」を身上にしていたと言える。だから彼女には再演ものは例外を除いてきわめて少なく、つねに新しい作品から作品へと渡り歩いたのだ。例外は、93年に初演し、以後10年にも亙って演じてきた『MITSUKO・世紀末の伯爵夫人』であるが、これは一人芝居であり、いわば個人史的な作業であった。それにしても何十年も一つの役を演じていた大女優に比べると、10年などはまだまだの年数なのである。

このエッセイ集には家族のこと、とくに母あぐりに関する文章が多い。この母は若い頃から市ヶ谷に美容室を開業し、以後一人で切り盛りしてきた。いまだに現役を通している伝説的な美容師である。NHKのテレビ小説『あぐり』が放映されて以来、すっかり母は有名人になってしまった。TVドラマ化されるだけあって、この本でも母についての箇所はとくに面白く読める。例えば、90歳を越えてから、海外旅行を始めたこと、しかもその決断がなんの屈託もなく「私も(メキシコに)行く!」と叫んだことだ(84頁)。娘が15時間もかかるのよ、と言っても、「昔は岡山の美容室と東京とを行ったり来たりしていたんですもの、もっと長時間汽車に乗ってたのよ、へっちゃらよ」と切り返すのだ。明治生まれの豪放さを示すエピソードだ。

妹の理恵もまた作家・詩人だったが、母が百歳のとき逝去した。母は先立つ娘を見送ることができず、無念の思いを噛みしめながら、「母のしたことは、妹の作品をすべて読み返すことだった」(226頁)というエピソードに思わず胸を衝かれる。自分の美容師の仕事が忙しくて子育てもままならず、そのことへの償いもこめて、母は娘の分身である作品を読み、一部を書き写し、遺稿集まで刊行したのだ。妹と吉行は概してうまく馴染めなかったようだ。気を使いすぎる関係とでも言えばいいか。兄・淳之介についても母ほどには記述はない。面白い話があると兄に電話をかけて長話しをすることがしばしばだったというが、どこか遠慮が見られる。ただこうした文化や芸術に親しむ生活空間のなかで生まれ育ったことが、彼女の芸術人生にとって大きな影響を及ぼしたことは間違いない。

このエッセイ集には彼女がなぜ女優になったかのエピソードも綴られている。病弱だった少女時代を過した彼女は、やがて名門・女子学院を卒業し、舞台関係なら生きていけると1954年に民芸に入団した。その時は、衣裳係をやりたいと思っていたらしい。その後、女優に転進し、1957年に『アンネの日記』でデビューした。久保栄の『火山灰地』(再演)にもヒロイン役で出演している。その彼女が大劇団を辞め、当時アングラ・小劇場の旗手であった唐十郎の記念碑的作品『少女仮面』(69)に出演したことは演劇界を驚かせた。演出は早稲田小劇場(現SCOT)の鈴木忠志。この劇で少女・貝役を演じたことは、当時刊行されていた『少女仮面』(学芸書房)の単行本の口絵写真で見て、わたしも知っていた。ちなみにヒロイン春日野を演じたのが白石加代子であり、この二人が対峙する舞台写真が今でも記憶に残っている。わたしの女優吉行和子のイメージはこの口絵写真によるところが大きい。それが「少女性」と結びついたのかもしれない。

民芸のような老舗劇団を辞めて小劇場運動に身を投じていったことに、彼女の女優の生き方の一端を知ることができよう。彼女は安定路線を選ぶより、冒険に満ちた道を選択したのだ。

吉行は頑張って生きている女性への共感をつねに抱き続けてきた。彼女は大島渚監督の『愛の亡霊』など映画出演も多数あるが、撮影現場で知り合った二人の女性映画監督にとくに深い共感を寄せているところが印象深い。一人は『ユキエ』『折り梅』の松井久子。もう一人は『第七官界彷徨――尾崎翠を探して』『百合祭』の浜野佐知。とくに後者の浜野は、好きな作品を制作するために独立プロに潜り込み、「『これでもか』とイジメとセクハラ。それでも何が何でも監督になるぞの強い一念」(154頁)でピンク映画を三百本監督した猛者である。吉行の“同志”に対するシンパシーと愛情を垣間見る一説である。 

かつての「三人組」への記述も心を打つ。彼女らの友情を支えていたのが俳句をつくる会だったということも興味深い。その彼女らに一つ暗黙の取り決めがあった。それは相手の「内心」に必要以上深入りしないというルールだ。彼女らは氷川きよしや山下洋輔らの“追っかけ”をやったりもして勝手に盛り上がるのだが、

「内心」という事柄について、私たちはほとんど語り合ったりはしない。無関心を決め込んでいる。心の中を教えてくれ、なんておこがましい。そういうことに触れないでおくものだ、という共通の態度が、友情を保たせていると思う。(70頁)

見事な大人の付き合いだ。しかもインテリジェンスと品性をわきまえている。旅番組、バラエティに共演するなど、彼女らの活動は活発だが、友情の秘訣はこんなところにあったのだ。

盟友だった岸田今日子の死が本書の巻末近くに収められている。

私達が仲良くなり、そしてまたとない“いい関係”が続けられたのは、俳句のおかげが大きい。ただの仲良しではとてもここまで固く結びついていなかったと思う。(219頁)

この言葉も、なにやら心に浸みった。

最後に、本書のタイトルだが、「老嬢」というのは、吉行和子の女優人生にはそぐわないと、わたしは思う。

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2008年06月09日

『ベケット巡礼』堀真理子(三省堂)

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[劇評家の作業日誌](37)

演劇とは旅に似ている。あるいは旅こそが演劇のメタファーなのかもしれない。人々は冒険の旅に出る。そこで出会った者たちと対立が起こり、決定的な行為がなされ、劇が生れる。これがいつに変わらぬ演劇の原型だとすれば、旅する者たちの内的葛藤が演劇を形づくるのだろう。

ここに一人の劇作家の旅を追ったドキュメントが研究者の手によって書かれた。題して『ベケット巡礼』。アイルランドに生まれ、パリを拠点に活動した二十世紀最大の問題的な劇作家サミュエル・ベケットについての書物だ。本書はこの劇作家の足跡を旅行記風に記したものである。

スコットランドの演劇祭で有名なエディンバラに始まり、生地アイルランドを訪ね、修業時代を過ごしたロンドン、師を求めたロシアを経巡り、生活の場でもあったフランス、演劇の実践と関わったベルリンを探索し、そしてやすらぎの場としてのポルトガルに行き着いた。実際に足を使って取材しただけに、各地でベケット作品の鍵を握る宝物に偶然出くわした。例えば、たまたま留学したロンドンで、ベケットが通っていた病院を発見した。こうした経験が著者と劇作家の距離を近づける。ベケットゆかりの地を確認するだけでなく、むしろ戯曲創作の発想の根源に迫ろうとすることが、旅の必然性を読者に納得させる
のだ。なぜ著者はベケットを求めて旅しなくてはならなかったのか。それが先述した「ドキュメント」(事実、記録)性の所以である。

著者はそれを松尾芭蕉の『奥の細道』になぞらえている。考えてみれば、余剰をとことんまで切り詰めたベケットの作品は、五七五という言語形式に凝縮した俳句に似ている。それが著者の連想を呼び起こすのだが、それはあくまで本書の副奏音であって主旋律ではない。ただベケットから「旅」という主題を嗅ぎ付けたのは、芭蕉との連想があったことは間違いなかろう。著者は空間の移動だけを「旅」と考えているわけではない。ベケットの劇中人物には動けなくなった人間がしばしば登場する。だが彼は動けないがゆえに、想像の中ではさまざまな「旅」を敢行している。それは時には過去への探索かもしれない。自由に連想を羽ばたかせ、一つところに留まらずにつねに移動し、さまざまな事物との出会いを繰り返すなかで、思考が刻み付ける痕跡。それは「創作」と同義ではないか。つまり創作することは思考の旅でもあると著者は考えるのだ。
 
ベケットといえば、『ゴドーを待ちながら』(以下『ゴドー』)である。1949年に書かれたこの戯曲は、4年後にパリの小劇場バビロン座で初演された。この時のエピソードはとくに興味が尽きない。

『ゴドーを待ちながら』の初演のある日、劇場で大騒ぎが起こった。ラッキーの独白が終わると観客の一部がブーイングをし、幕間で抗議者たちと支持者たちがとっくみあいのけんかをはじめたのである。さらに2幕目になると抗議者は足を踏みならした。それが話題になり、噂が噂をよんで、『ゴドー』を見ようという観客がバビロン座に殺到した。賛否両論だったとはいえ、こうしてこの舞台は少なくとも興行的には大成功だったのだ。場末の映画館を思わせる劇場での公演がこんなに話題をよぶとはだれが想像できただろうか。(195頁)

その後、瞬く間に世界中に広まっていった『ゴドー』だが、ベケットはこれを小説執筆の合間の「息ぬき」に書いた。パリは、「ヌーヴォーテアトル」の発祥地であり、新しいものを求める気運がこの街に漲っていたことを著者は指摘している。前衛的な実験を求める気運というものがなければ、ベケットの小さな実験は果たして見出されただろうか。ベケットの成功は偶然性に支えられていたのだ。

本書で新鮮だったのは、ベケットの思想として「人道主義」的な側面に光を当てた箇所である。一般にベケットの作品はニヒリズムが流れていると見なされがちだが、本書で紹介されているいくつかのエピソードはその定説を覆す。その代表例がチェコの劇作家で後に大統領にもなったヴァーツラフ・ハヴェルを支援した逸話であろう。アヴィニョンの演劇祭でベケットは、ハヴェルに『カタストロフィ』を書き下ろした。窮地に陥った作家に創作を提供することで、彼への友愛と連帯の情を示した。また1993年、ボスニア戦争のさなかのサラエヴォで、アメリカの批評家スーザン・ソンタグは『ゴドーを待ちながら』を演出した。ソンタグは惨状にあったボスニアで何をすれば人々の励ましになるかを考えた時、『ゴドー』の上演に思い至った。なぜ『ゴドー』だったのか。それはこの作品のなかにベケットの人道主義が反映されていると彼女が考えたからだ。

サン・クエンティンの刑務所で『ゴドーを待ちながら』を上演したさい、難解で知られるベケット作品が、意外にも、囚人たちに受け入れられた。「不条理の作家」と呼ばれ、難解で知的エリートに独占されかねないベケットの言葉が、「社会のどん底にある人間たち」(253頁)に見事に届いたのである。「社会ののけ者とされる人たちの視点でものをみ、作品にしていた」ベケット。今日の暴力にさらされた者たち、その象徴が『ゴドー』のラッキーであろうが、そこにベケットの視線が据えられていた。

日本の演劇、とりわけ小劇場に与えた『ゴドー』の影響もはかり知れない。アングラの初期作品にどれだけ『ゴドー』の変奏を見てきたことか。唐十郎、鈴木忠志、別役実、佐藤信らは、ベケットの洗礼を浴びることから60年代の「演劇革命」に着手していったといっても過言ではない。そして90年代の鴻上尚史の上演を経て、2000年に蜷川幸雄の女性版『ゴドー』が出現するに及んで、ついに『ゴドー』の変奏もここまで来たかという感を持たされた。その蜷川版が原作を著しく逸脱しているということで、ベケットの遺産管理人から、二度とベケット作品を上演してはならぬというお達しを受けていたエピソードも紹介されている。

母語英語のみならず、フランス語の二ヵ国語で執筆し、さらにイタリア語、ドイツ語にも通暁していたというベケット。彼にとって言語とは距離であり、自由に書けないことを前提にしている。ベケットの劇作は芸術家特有の脳髄から湧き出るイメージをペンで書きつけることではない。その逆に、書いては消し、消しては書くことの連続だったろう。だからなるべく「少なく書くこと」を己れに課し、「少ないほど多くを語れる」(180頁)としたのではないか。その意味で、ベケット作品はきわめて人工的に構築されたものであり、「頭蓋のなかで言葉を思考する」(310頁)というフレーズこそ、ベケットにいちばんふさわしいようにわたしには思われる。

それにしても、ベケットは謎の人物だった。生前、あまり人前に出ることを好まず、写真も数少ない。また自分の許したライターにしか自分の評伝の執筆を許可しなかった。どこか彼に神秘的なイメージがつきまとうのは、こうしたエピソードに負うところが大である。だが実際の彼はどうだったのか。もちろん真実など誰にも分りはしない。とりわけ作家の真実など誰も特定できないだろう。だから最善の道は、実際にあった事実を博捜し、それを記すことである。

ロンドンに赴いた著者はユングの講演に立ち会ったベケットから、無意識に宿る不安を追求した精神分析家とベケットの相関性を推測する。理解不能なものに対するユングとベケットには共通するものがある。エイゼンシュテインに傾倒したベケットからロシア・サンクトペテルブルグへ誘い、映画へのベケットの関心が彼の演劇にとって重要な導線であることを明らかにする。パリでポン引きに背中を刺されたエピソードから、パリの雑踏のなかでのベケットの孤独に言及する。ポルトガルとベケットの結びつきは奇異なイメージを与えるが、このリスボンの地に生まれたポルトガルの国民的詩人フェルナンド・ペソアがその鍵を握っている。両者に同質性を見ていることは明らかだ。ベケットはリスボン滞在中、ペソアの詩を読んでいたはずである。

著者の旅は、ベケットの生涯と思想のディテールを丹念に集めることにあったのかもしれない。その手間隙のかけようは半端ではない。労力と時間と金を十分すぎるくらい投じている。その成果が本書に結実した。結局、ベケットの旅は著者自身の旅でもあったのだ。

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2008年05月01日

『演劇論の変貌-今日の演劇をどうとらえるか』毛利三彌・編(論創社)

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[劇評家の作業日誌](36)

先日、ブルガリアのソフィアで開かれた演劇批評の世界会議に参加した(4月14日~18日)。30か国、約100名の演劇批評家が集まる大会の今回のテーマは「暴力と人間性」。3日間、30人以上のスピーカーがひっきりなしにぺーパーを読み、ディスカッションを行なう。要するに、国際規模の学会である。こうした国際会議の面白さは、それぞれの「国柄」が表われることで、世界の多様性に一度に触れることができる。わたしはこうしたカオティックな場に身を置くことが嫌いではない。異質なもののぶつかり合い、そこから生じる化学変化は、まさに「批評」という思考装置が駆動するのにふさわしい場だ。

この会議のさなかで読み続けていたのがこの本だった。編者の毛利三彌氏は、成城大学で長らく教鞭をとられ、イプセン研究で知られる演劇学の泰斗である。本書は彼が世界の演劇研究の粋を集めた労作である。

「批評」と「演劇学」はどう違うのか。小国の場合、大学人が舞台批評を書くことが多い。一方、いわゆる大国では、フリーの劇評家や新聞記者などジャーナリズムが独立した勢力を形成している。大学のアカデミズムとジャーナリズムが別個に存在しており、大学に依拠して研究している者と、日々劇場を回遊してレビューを書く批評家とでは、生活スタイルから仕事のこなし方まで、まるで違うのだ。共通するものがあるとすれば、それは現在の最先端の演劇の理論とは何かを探ることにある。同じテーマを理論から探るのが研究者による「学」ならば、実践面から論ずるのが「批評」だろう。

本書は巻頭に毛利氏の学問研究の流れが置かれている。1923年にベルリン大学に世界で初めて演劇学科が創設された。これまで文学研究に従属してきた演劇研究が初めて独自の「学問」として、すなわち上演を軸とした「演劇学」として自立したのである。この成立に大きく寄与したのは、19世紀末に誕生した演出家の存在によるところが大きい。戯曲という文学的テクストはそれ自体に価値があるのではなく、それがどのように舞台にかけられたのか、つまり俳優の演技と上演が主たる対象になったことと「演劇学」の成立は不可分である。

この意識が芽生えた1920年代には、日本でも演劇を文学の従属から解き放とうとした最初の演出家・小山内薫が築地小劇場を創設した。これは単なる偶然ではない。スタニスラフスキー、ゴードン・グレイグ、マックス・ラインハルトなど、後に「演出家の世紀」と呼ばれる20世紀演劇の思想が本格化する時期でもあったのだ。とすれば、演劇の革新と「学」の動向は、かなり密接な関係があることになる。

演劇革命が起こった1960年代後半に関してこんな記述がある。
「1960年代以降、記号論、現象学、精神分析学、受容美学などが中心的な方法として注目をあびてきた」が、演劇の理論研究も、その「後からついてい」った(12~13頁)。

この時代の理論の探求は目覚ましいものがあり、次々と新しい理論が探られた。この時期に誕生したのは、「パフォーマンス・スタディーズ」と呼ばれるアメリカのリチャード・シェクナーによって提唱された理論である。ジェラール・ライネルトは「学問分野の推移」で、シャクナーの「パラダイムの転換」を紹介しているが、実践と理論の結合がここで実現する。文化人類学を淵源にもつこの「学」について、マーヴィン・カールソンはこう記している。

(演劇研究が)ハイカルチャーの伝統としてすでに認められている作品や時代に専念しているとしても、今日では、これまで無視されてきた大衆的な演劇形態--大道芸や縁日芝居、メロドラマやヴァラエティー、さらにパレードやサーカスや見世物といったものに、一層の関心が払われていることも事実である。(35頁)

ハイカルチャー、あるいはファインアートといった高級芸術が近代社会のエリート文化の反映だったとしたならば、その基盤自体が崩壊し、否応なく次の時代の「パラダイム」に変換せざるをえなくなったのが、演劇史の読み直しを促した。こうした推移に演劇学が呼応したのは言うまでもない。伝統的な演劇史は大幅に書き換えられたのである。

1990年代になると、フェミニズムや脱構築理論などポストモダンの理論が演劇研究にも導入されてきたと、毛利氏は言う。むしろ、90年代以前の80年代に端緒があったと言うべきかもしれないが、ここでは60年代以降の理論がさらに新しい段階に入ったことは明白だろう。80年代にはダンス界にピナ・バウシュらが登場し、美術と舞台芸術の混淆をめざした「パフォーマンス」が席捲するなど、演劇はさらなる変貌を遂げた。かくして「行為」や「遂行」を意味する「パフォーマンス」が重要な鍵になってきたのだ。

「パフォーマティヴ」あるいは「パフォーマティヴィティ」を具体的に展開するのは、ドイツのエリカ・フィッシャー=リヒテである。彼女の問題提起はわたしには本書でもっとも興味深かった。彼女は、ベルリンの先鋭的な劇場=劇団フォルクスビューネの『トレンスポッティング』(97)を扱うことで、具体的な分析方法を明らかにする。原作となったのはアーヴィン・ウェルシュの小説であり、96年にダニー・ボエルによって映画化された。わたしはこの舞台を実際にベルリンで見たことがあるが、この論考は、劇評、つまり批評とその理論化の実践と見ることができる。

この劇は、劇場の客席が封鎖され、実際の舞台の上にもう一つ小さな舞台がつくられて進行する。観客は至近距離で俳優に接し、両者は一つの空間を共有する共時的存在となる。そこで行なわれる行為は「これは君にかかわる問題」(54頁)となるのだ。俳優によってさかんに挑発される観客は「傍観者」であることを許されず、それどころか、観客自身が上演の進行を決める積極的な権利すら与えられるのだ。

パフォーマンスは、すべての参加者が、他の人々の行動や振る舞いを一緒になって決定することができ、また自分の行動や振る舞いが他人によって決定されるという、そのような経験を可能にする。(57頁)

ここにおいて、戯曲と上演、俳優と観客、舞台と客席といった二分法は崩壊し、対立を解消する「中間領域」、あるいは「リミナリティ」(境界線、限界性)が称揚される。つまり、矛盾を矛盾のまま共有することが、新次元として提唱されているのだ。それを保証するのが、俳優、観客ともどもに有する身体性という次元である。
 
「現代の上演を取り扱うことは演劇批評に任され、研究者の対象は演劇史から選ばれた」(49頁)というこれまでの伝統は、フィッシャー=リヒテによって廃棄され、上演と歴史の結合がはかられた。批評と理論の接近、いやそもそも両者を分離していくこと自体が、無意味な棲み分けに他ならない。両者が相互に嵌入し合うこと、それが今日求められていることではないか。批評の中でも、狭義の学問的に裏打ちされた批評とジャーナリズムのレビューという細分化をもたらしている。日本の劇評家のなかにも、大学に属する研究者と新聞社などのジャーナリストとの境界線が微妙に引かれている。両者を行き交うことは、これからの劇評家に求められる。

「演劇学」が舞台で上演されるパフォーマンスを総合的に研究するものだとしたら、ここで「パフォーマティヴ」という言葉が独特の意味合いを帯びてくることに想到するだろう。この言葉を毛利氏は「上演的な」と訳しているが、近年の批評の用語としても「(上演)遂行的」として、認識的次元に先立つキーワードとして用いられている。演劇の原理的思考を押し進めていくと、現在の先端的な思想に演劇が躍り出ていくのである。毛利氏が博捜し収集する「演劇学の現在」も、ここらあたりに到達点があるのだろう。そこで「演劇学」と「批評」が出会うのである。ソフィアの会議場でわたしは、両者のリミナリティが柔らかく融合し、実践されているさまを目にしたのだ。

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2008年03月24日

『沖縄映画論』四方田犬彦・大嶺沙和編(作品社)

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[劇評家の作業日誌](35)

この2月、約10年ぶりに沖縄を訪れた。このところ何かと「沖縄」が目に止まる。沖縄には「沖縄芝居」や「組踊り」という土地に根付いた芝居や芸能があるが、それ以外にも沖縄を素材とした舞台は数多くあり、現代劇と沖縄のつながりは長くて深い。今回は国立劇場「おきなわ」の視察が目的だったのだが、演劇学会の紀要で「沖縄演劇」の特集が組まれ、また写真や映像を通した沖縄に関する文献も相次いで刊行されている。それらがどれだけ大きな渦を形成しえているかは判断できかねるが、わたしの内部でも徐々に沖縄へ関心が吸い寄せられていることを感じる。

そんな折りに手にしたのが本書である。明治学院大学の芸術学科主催で2007年6月に行なわれたシンポジウムを記録・編集したものである。この学科では、日本映画史研究についてのシンポジウムを10年以上も続けており、そのなかから若松孝二や吉田喜重らについての研究書もすでに作品社から刊行されている。わたしは昨秋、舞踏家の大野一雄をめぐるシンポジウムに出かけてこの学科の活動実態に触れたが、映画だけでなく舞台芸術関係にも積極的に取り組んでいて、イスラエル在住のパレスチナ人俳優兼演出家モハマッド・バクリが招聘されたのは2006年のことだった。大学の知がアカデミズムの研究に留まらず、外部への発信をアクチュアルに行なう稀有な例と言っていいだろう。

企画者の四方田犬彦氏は、長年映画批評と研究に実績を重ねてきた。とくに韓国を含むアジア映画への造詣が深く、近年のアジア映画ブームの火付けに一役買っている。アジアの視点から沖縄に注がれる視線は、日本および日本映画を確実に相対化するだろう。彼はこう言っている。

沖縄映画につい思考することで、これまで自明とされてきた日本映画史に新しい撹拌がもたらされ、東アジアの映画史に新しい証明が投じられることをわたしは期待したい。(16頁)

わたしもまた「撹拌」という挑発的言辞に唆されて本書を読んでみたい。

わたしは、今井正の『ひめゆりの塔』や今村昌平の『神々の深き欲望』、あるいは高峯剛の『ウンタマギルー』らは見ていたものの、必ずしも沖縄映画に格別の関心があったわけではなかった。けれども、各論考を読み進める際に、映画の素養や見た見ないの経験値はほとんど支障にならなかった。ここで語られていることは、映画研究の細部よりももっと大きな構図を描いて見せようとしたのではないか。例えばそれは、沖縄に向き合うことで、各人の思想が問われるといった次元のことである。

沖縄は日本の近代史にとって特殊な場所だった。1879年の大日本帝国憲法による沖縄県の設置、敗戦目前の1945年、沖縄を舞台にした米軍との唯一の地上戦、1952年、サンフランシスコ講和条約によるアメリカの沖縄統治、そして1972年の沖縄本土復帰。豊かで大らかな琉球国が日本に帰属させられてからの歴史は、沖縄という特異点を日本列島の外部に括り打ちこんだ。こうして沖縄は日本政府の都合によりつねに踏み躙られ、切り捨てられてきたのである。現在の基地の存在もその歴史の一貫であり、沖縄ではいまだ戦争は終わっていない。したがって、沖縄を素材とした表現はなんらかの意味で、つねに「政治的」たらざるをえなかった。自然の豊かな沖縄、古来から伝わる琉球踊島唄を謳うこともまた、陰惨な歴史を隠蔽する方途と見なされるのが沖縄なのだ。ここまで徹底した固有の歴史性をまとった地は日本にないだろう。

共同討議で、司会の四方田氏は、在日朝鮮・韓国人問題や被差別部落などと同列に沖縄問題を扱えるかをパネラーに問うている。それに対して、各自は慎重な反応を見せている。被差別、在日等は政治的弱者として一般化されやすく、そのことによって、沖縄固有の問題が拡散し薄められかねないからだ。グローバル化によって抑圧されたものを並列化することで、かえって事の本質が見えなくなる。沖縄を「特異点」としてしまった時点で、 「例外状態」として担保されてしまうことも確かだろう。このシンポジウムでも、こうした発言、批評の位置はつねに自己言及的にならざるをえなかった。「沖縄映画をいかに語るか」という四方田氏の最初の提言は、現在の言論の問題を集約し、かつ先取りしているのである。

沖縄は、確かに日本の「南限」に位置する。だが視点を換えてみるとどうなるか。例えば東南アジアから見てみると、沖縄はアジアの「北縁」なのである。このことに言及したのが、写真家の仲里効氏である。沖縄で「エッジ」という雑誌を編集している彼は、昨年『オキナワ、イメージの縁(エッジ)』(未来社)を出版して話題になった。彼は「エッジ」からの思考で、沖縄の唯一性、単独性を主張する語り部になっている。(実際、彼の名前は各種のシンポジウムなどでよく目にした。)その仲里の発言でわたしがひときわ興味を抱いたのは「地勢学的想像力」で「南下論」を唱えた唐十郎への言及である。唐と状況劇場は1960年代末に「日本列島南下興行」と称して旅公演に出た。もはや伝説ともなった紅テントによる「南下興行」だが、そこで彼らは沖縄までたどり着き、「返還前」の沖縄で公演を打った。その当時、まだ米国だった沖縄では主演女優李礼仙は在日ゆえに入国できず、唐が代役を演じた。何故彼はそんなリスクを冒してまで沖縄に行こうとしたのか。それを解く鍵が、北上に対する「南下」という視点で見事に切り取られる。北上とは、本土「復帰」し「上昇」することだ。それに対して唐は、「失語症の女たちは、縦に割った暗部をスルスルと南下してゆく」と絶妙の比喩を用いて、失語症に陥った沖縄(人)が本土に回収されることへの生理的嫌悪を表明した。さらなる南へ侵攻せよ、と煽るのだ。そこには仲里氏が指摘するように「反国家的ヴィジョン」が予感されていた。

空間的あり方が沖縄を規定するとしたら、「沖縄映画」をつくり続ける当事者はどこに足を据えて表現を発信するのか。この問題もまた論者の神経を尖らせる。その点で、本書の共同編集者でもある大嶺沙和氏の「裏返すこと、表返すこと」は刺激的な論考だ。大嶺は、沖縄に生まれ、現在京都に在住しながら「沖縄映画」を撮り続ける高峯剛と、京都に生まれ、大学進学以降沖縄に移り住んだ中江裕治を対比的に論じている。中江は『ナビィの恋』(99)で大ヒットし、本土に沖縄のイメージを植え付けた。彼は先達高峯から多くのものを摂取しつつ、それを高峯とはまったく別の方向で沖縄を「観光地映画」化していく。例えば『ホテル・ハイビスカス』では、基地の周辺でたくましく生きる人々を描いても、決して観客は基地そのものに関心を抱き、異議を唱えはしないだろう。つまり沖縄への関心を「美学」に回収していくのだ。そこに商業的「成功」の秘訣がある。他方、高峯は「難解」で知られ、極少数の観客しか見ることのない「マイナー作家」であり続ける。なぜなら彼は、沖縄という「他者」を観客に喚起しつづけるからである。マイナー/メジャーの位置付けは、この二人にピッタリ当てはまるだろう。だが映画史家たちは、高峯の方法にはジョナス・メカス以後の実験的志向の成果がある、と高い評価を与える。とくに『夢幻琉球 つるヘンリー』はほぼ全員が賞賛してやまない映画なのである。

大嶺氏の中江批判は、沖縄の内部(インサイダー)が語る言葉に重要なイデオロギー操作があると指摘する点で重要な提言になっている。これはヴェトナム出身のトリン・T・ミンハのポストコロニアル的な理論を大嶺が援用したものだが、支配者はネイティヴの内部に「都合のいい」媒介者を仕立てて、支配にとって都合のいい方向に事を運んでいくのである。「物分かりのいい老人」や「無垢な子供」の視点がこれに利用される場合が多い。この善意の他者をどう読み破るか。批評の成否はそこにかかっている。

本書を通読してみて改めて感じたことは、批評には研究的視点と知の裏打ちがあり、研究と批評は相互に連関しながら合体した時に、はじめて充実した成果が得られるということだ。わたしはここで論じられている作品をくまなく見ているわけではない。だがたとえ見ていなくとも「支障がなかった」と記したのは、対象がどうであれ、記号学以後のポストモダンの批評理論がほぼ全面的に採用されていたからだ。それゆえ批評の道筋をたどることはさほど困難なことではなかった。クイア・ポリティス、ホモソーシャリティ、ディアスポラ、フレーム理論、境界線・・・といったテクニカルタームが華麗に批評言説の森を築き上げる。だが、そこで一つ疑問がフッと湧いてくる。ここに不意に紛れ込んだ一匹のウサギを批評理論は捕縛できるだろうか。

例えば、シンポジウムの最後に登壇した高峯剛は、自分について語られた批評への違和感――例えば自分の映画はそんなに「難解」でもないし、観客も少なくない、といったことをユーモラスに反駁している。そこにわたしは、高峯の「肉体」の在りかを感じた。この分節不可能な高峯映画の肉体性、過剰な欲動は、明晰な分析を一瞬反古にし、解釈を拒絶する。シンポジウムという「舞台」ははからずも批評の言葉と創作家の肉体が激突する場面を演出した。批評と創作のスリリングなズレと葛藤である。

沖縄から戻った直後、米兵による少女暴行事件が起きた。残念ながら、こうした事件は突発的なものではなく、つねにこの事件と紙一重のところに沖縄の現実がある。沖縄の中の「基地」なのか、基地の中の「沖縄」なのか。両者は入り込んだ関係にあり、まさに相互嵌入的だ。この現実を前にして拮抗できる批評の言葉とは何か。もし「沖縄演劇論」という本が可能だとしたら、どのように沖縄を語ればいいのか。そんなことも考えさせられた一冊である。

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2008年02月20日

『21世紀を憂える戯曲集』野田秀樹(新潮社)

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[劇評家の作業日誌](34)

2007年はまさに野田秀樹の一年だった。この年、野田地図(NODA MAP)の『THE BEE』で彼の受賞した演劇賞は主だったものだけで四つに及ぶ。第42回紀伊國屋演劇賞(団体賞)、第49回毎日芸術賞、第7回朝日舞台芸術賞(グランプリ)、そして第15回読売演劇大賞で大賞(最優秀作品賞)・演出家賞・男優賞の三賞に輝いた。まさに彼の一人勝ちの一年だった。

その野田秀樹が、早くも21世紀を「憂える戯曲集」を出した。彼は不吉な影を未来に嗅ぎとっているのかもしれない。芸術家はしばしば予知能力を持つというが、彼の作品の中には悪い予兆が立ち篭めている。

本書は2003年に上演された『オイル』、06/07年の『ロープ』、そして『THE BEE』の三作から成る。すでに彼は『二十一世紀最初の戯曲集』を刊行しているから、今世紀になって二冊目の戯曲集だ。彼の出版の姿勢は、このところある定番を持っている。「夢の遊眠社」解散(92)後、一年の留学を経て「野田地図」で活動を再開(94)してから、『解散後全劇作』(98)、『20世紀最後の戯曲集』(2000)といったように、漏れなく作品をカヴァーしていることだ。このすべてが新潮社から刊行されている。四十代になり、もはや以前のような若さで突っ走ることを自制した彼なりの走法が、このような作品の「残し方」を選んだのかもしれない。「アンファン・テリーブル(恐るべき子供)」で知られた若き日の野田とは明らかに違ったスタンスを感じる。それを「大人」や「成熟」と呼ぶかどうかはさておき、自らも加担している商品市場に「自覚的」に対抗していく彼の姿勢は、見習うべきものがある。それを一言でいえば、野田の「志の高さ」ではないかと、今わたしは考えている。

米軍によるイラク攻勢を予見したかのような『オイル』は、なかでも読み応えがある。古代出雲はイスラム教の預言者マホメットが漂着した地であり、その島根県に石油が発見され、その利権をめぐり米国が島根を訪れ、占領を画策することが発端となる。この荒唐無稽なお話がにわかに現実味を帯びてくるのは、米軍のイラク侵攻が現実のものとなったからである。テレビ映像で見るバグダッドの破壊される光景は、そのまま原爆投下された広島に重ねられる。この爆撃は決して比喩ではなく、比喩以上の何かとして観客のなかで連想が働く時、1945年の日本と2003年のイラクは一挙につながっていく。ちなみにこの作品はイラク侵攻が始まった直後の2003年4月に幕を上げた。つまり侵攻以前に構想・執筆されていたことになる。このあまりのタイムリーさに、観客の誰もがドキュメントを見るように現実と紙一重の世界を舞台の上に見たのである。舞台は所詮虚構である。だがその虚構が現実と急接近することがある。この戯曲は不吉な予兆を発し、それが不幸にも的中してしまった。

だが彼は、それをメッセージや教条主義にしない。あくまで言葉遊び、言葉の連想から思いもかけない想起作用を駆使するのだ。例えば、タイトルの「オイル」は「老いる」であり、何故島根なのかといえば、出雲が「イズラモ」つまりイスラムと近似音であるといった冗談ともつかぬ発想から始めるのだ。この当時、「神の手」による考古学者の捏造騒ぎが話題になり、オイルを掘り当てたというデッチ上げは同時代を生きる者にとって、「神の手」のいかがわしさと容易に接続されるのである。つまりこの劇には、2003年という同時代の空間で、さまざまな想像の連鎖、想起を促す言葉がまるで投げ網のように仕掛けられていたのである。

時代に投げ網をかける技法を底で支えているのが、彼特有の歴史意識である。野田の戯曲は同時代の日常の断片を集めたものとは違う。物語の原型としての「歴史」を背後に持っている。歴史とは時間意識のことだ。それに関して、彼はこんな風に歴史をあとづける。
 

こいつ等には、時間が欠けているのよ (略) 時間がないから、死の意味さえ分からないでいるんです (49頁)

また、こんな台詞もある。

時間って、ガムの味が無くなること? (50頁)

チューインガムを米兵にもらって食べていた戦後まもなくの子供たちは、口の中で味のしなくなったガムをどれだけ噛んでいたことだろう。その時、時間を忘れて噛んでいたのではないか。時間意識のなくなった現代人もまた、生と死の境界を認識できない。ちょっとしたことが原因で自殺を選んでしまう時、死の軽さは、理不尽なまでに昂進している。だがその根っこをつかまえることは容易ではない。そこで野田は「ガム」という歴史性を含む言葉を使って、時間意識を覚醒させる。そこから彼は、歴史という「寓意」を引っ張り出すのだ。

米国によるイラクの統治は、戦後の日本をモデルにしたと言われる。当時、現在進行形で刻々と繰り出される統治の手法を見ながら、わたしたちはGHQによってどのように日本が制圧されてきたのかを知る。見事な歴史の「寓話」だ。野田秀樹は「寓話は、今この瞬間に起こっている戦争には無力であるが、永遠に起こりつづけるかもしれない戦争というものに呼びかける力はある。」(5頁。初出は公演パンフレット)と意志を表明している。演劇は現実に一歩遅れをとるが、未来への抑止には効力がある。

『THE BEE』は筒井康隆の小説『毟りあい』を定本に、イギリスの俳優たちとワークショップを経て共同で台本をつくったものだ。それを日英二ヵ国で上演し、それを彼自身が演出、出演した。

ある日、サラリーマン・井戸が帰宅すると、脱獄囚・小古呂が妻子を人質にとって立て篭もっている。そこで井戸は人質の解放を求めて、犯人宅に出掛け、夫を説得するよう求めるが、小古呂の妻にあっさり拒否される。そこで井戸自身も犯人の家に立て篭もってしまう。こうして空間を隔てた二つの部屋が交互に舞台となり、それぞれ見せしめの為に残虐行為が繰り返される。こうして「やられたらやり返せ」の論法はエスカレートし、やがて後戻りできないほどの惨劇へ至り着く。このなかで不気味なのは、本来被害者であった井戸の方が、犯人以上の残虐性を剥き出しにしていくことだ。小市民が内にもつ激しい暴力性は、いったん止め金が外されてしまうと留める術を知らない。野田演じる井戸が、小古呂の息子の指を切断して犯人に送るというシーンは、鬼気迫るものがあった。行為が反復され残酷が増すにつれてどんどん無表情になっていく野田の演技は、出色のものだった。上演された「シアタートラム」は客席200の小劇場だが、至近距離で見る行為は、アクチュアルに客席に届いた。客席もまた凍り付いたのだ。

復讐の連鎖は決して同レベルでの「仕返し」ではなく、倍返しに発展していくのが常である。今や世界中で行なわれているテロや残虐行為は、どこまで遡れば要因が掴めるのか不明なほど、事態は困窮を極めている。このドラマはその過程を見事に描き出している。ここでも物事の根源に遡行する野田の歴史意識は発揮されている。

ところで、この作品の成功は少なからず筒井康隆の小説「毟りあい」の力に負っているのではないか、とわたしは考えている。かつて、『し』という橋爪功との二人芝居で、野田はやはり筒井の原作小説「走る取的」を下敷きに使っていた。この時も、筒井のアナーキーでどこまでもエスカレートしていく暴力の徹底度が野田自身の想像力の枠を広げてい
った。今回の『THE BEE』でも筒井の原作が野田の舞台にパワーを与えたことは間違いない。

野田地図はシアターコクーンをメインに、観客10万人を動員する人気劇団だ。当然、大劇場で上演される舞台は、娯楽性を重視する。華麗な舞台装置にきらびやかな衣裳、そしてスターを配した豪華なキャスティング。だがこの小劇場で上演された舞台は、それとは対極にあるほど異質なものだった。野田ワールドを見にきた観客は戸惑ったに相違ない。先にわたしは、野田の「志の高さ」に言及した。『THE BEE』は大劇場で成功した芸術家の「実験ごっこ」や「息抜き」ではまったくない。それは「実験」以外のなにものでもなく、その舞台は「前衛」と呼ぶにふさわしいのではないか。これがこの一年で高く評価されたことは格別の意味があると、わたしは考えている。

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2007年12月26日

『演出家の仕事』栗山民也(岩波新書)

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[劇評家の作業日誌](33)

2007年8月をもって新国立劇場「演劇部門」の芸術監督の任期を終えた栗山民也氏が初めての著書を刊行した。題名もずばり『演出家の仕事』。7年にわたる彼の激務の一端を知るに格好の書だ。わたしも昨年、同名のタイトルの本を日本演出者協会との共同編集で刊行した(れんが書房新社)。この時、副題に「60年代・アングラ・演劇革命」を付し、多くの現場の声を集め、あわせて近・現代演劇の「演出家」の役割とは何かを跡付けた。したがって両者は同じタイトルでも内容はずいぶん違ったものになっている。

本書は1980年に演出家デビューを果たした著者が、これまで30年近く熾烈な現場との闘いを通じて獲得したものを余すところなく語っている。演劇との出会いからなぜ演出家になったのか、稽古場のこと、戯曲や演技教育のこと、世界の演出家のこと、そして彼の両親のことなど、実に多岐にわたっていて興味が尽きない。

栗山氏の仕事をひときわ印象付けたのは、1995年に演出した『GHETTO/ゲットー』だろう。わたしが演出家としての彼を注目したのもこの舞台だった。阪神大震災に見舞われた兵庫で制作されたこの舞台は(必ずしも関西演劇人が創作したものではなかったが)、神戸から発信されたことに格別の意味があった。予定していた劇場は被害を受け、公演中止が検討されたなかで、相当の決意をもってこの舞台は上演されたからだ。しかし逆風のなか、この舞台はその年の演劇賞を総なめにするほどの成功を収めた。1942年、ナチに占領されたビルナ(現在のリトアニアのビリニュス)で実際にあった事実をもとに、イスラエル人の劇作家ジョシュア・ソボルが1984年に書いた作品である。ゲットー内で死を目前にしたユダヤ人たちは劇場をつくり、芝居や音楽会を上演した。彼らにとってゲットー内で芝居をすることは、むざむざ殺されないぞという存在の証でもあった。ちょうどそれは震災で多くの人命が失なわれ、被災者たちが仮設住宅での生活を余儀なくされている非常時に、それでも公演することの是非が問われ、こういう時だからこそ上演すべきだとする声と重なり合っている。極限状況下で「演劇は可能か」という問いに見事に応えてみせたのである。

その後『エヴァ、帰りのない旅』(98)で再び読売演劇大賞を受賞するなど、栗山氏が得意とする領域が明確になった。戦争の災禍にあって、人間がいかにそれに屈せず生きていくか、ヒューマンな姿勢と歴史意識が彼の舞台の底流にいつも流れていたのである。2000年7月、渡辺浩子の急死にともない、新国立劇場二代目の芸術監督に就任した時、栗山氏が掲げたテーマは「時代と記憶」だった。彼は井上ひさしの「東京裁判」を主題とした戦後総括の三部作、永井愛、坂手洋二らの社会批評意識の高い舞台を押し立てた。そこには、彼の演出家=芸術監督の思想、ポリシーがあった。

本書はベルリンでユダヤ人の「声」を聞くエピソードから書き始められている。死者の声を聞くこと、それは歴史と対話することである。彼はこう書いている。

言葉の基本は、自分からはじまるわけではない。相手の言葉を聞くこと、感情を読み取ることから対話がはじまっていくのです。(12頁)

栗山氏の演出家修行は本書でもっとも読み応えのあるところだろう。彼は戯曲を読むことから始める。多くの戯曲作家のなかで、チェーホフと井上ひさしは格別に重要だ。

チェーホフの作品からは、いろいろな場面で登場人物たちの複数の感情から生まれた多声(ポリフォニー)が聞こえてきます。(37頁)

多元的な空間のなかで、多くの人物が一見脈絡もなく、そのくせ絶妙な掛け合いで成立している劇。この構造を見抜いた栗山氏はチェーホフに魅せられていく。井上ひさしも同様だ。

豊かな対話の、まるで音楽のような時間の流れを見つけ出すことが、まず私の演出の出発点なのです。(89頁)

井上の戯曲から聞こえてくる「音楽」に耳を傾けていく時、そこにドラマのうねりをはっきりと知覚するのである。

彼の関心事の中心には、俳優の演技および演技教育がある。ロンドンで見た俳優の演技は彼には大きなヒントになった。演技とは型のようなもので固定されたものではなく、つねに言葉との出会いから導き出されるものであること。それは彼の演出の姿勢にも通じている。彼は自分のスタイルを創り出すことに拘泥せず、テクストとの出会いからその都度、舞台を構想していくのである。そのためには、彼はつねに真っさらな状態に自身を置く。

 演出家は、大きく二つのタイプに分けられるといわれています。
 一つは、戯曲を自分の世界観に限りなく引き寄せ、独自のスタイルと力ですべてを統一していくタイプです。もう一つは、自分のほうから戯曲の持つ世界のなかへ出かけていくタイプです。私は徹底して戯曲のなかにこちらから出かけていきます。(84頁)

ここに演出家・栗山民也の立場がある。アングラの演出家が独自の署名性、固有性に固執したのに比べて一八〇度異なっている。これはどういうことか。作者性が強まった時代、それが60年代演劇だったとしたら、彼は「作者が死んだ」後の「演出家」なのだ。その確信は、「どんなものも、一つの要素だけではなく、複数の力によって組み立てられているということを知らなければなりません。」(18頁)といった辺りにあるのではないか。つまり、他人の力をいかに引き出し、それを有効に組み合わせるか。演劇のアンサンブルあるいは集団性とはそこに本質がある。スタッフやキャストをなるべく意見が同一しないような異色の人間を揃えること、その「不協和音」を楽しめるかに演出の醍醐味がある。集団を持つことから開始したアングラ・小劇場運動から切れた地点で、あくまでフリー演出家を続けてきた栗山氏の立場は、ここにあるのだろう。

彼の心を動かした二つの舞台について触れておきたい。彼は自分自身が分からなくなった時、しばしば旅に出るという。その時に偶然見た芝居が彼の人生を変えることもありうる。その一本はチェーホフ作『三人姉妹』である。演出はペーター・シュタイン。ドイツを代表する巨匠だ。彼の舞台をベルリンのシャウビューネで見たとき、「『一つの演劇の力が、人間を確かに変えうる』という実感が、今も私に演劇を続けさせる覚悟を与えてくれた」(135頁)そうだ。日本にいて自信が持てなかった「演劇は有効か」という不安感が解消された契機だ。

もう一つは、学生時代に偶然もらったチケットで見た能の舞台。「深く静謐な時間」が若い演劇学徒に「席を立てないほどの感動を与えた」(190頁)のである。それが人間国宝の櫻間道雄の喜寿を祝う演能で、生涯に一度しか舞うことのできない秘曲『伯母捨』であったことを知ったのは、その後である。

実父に関する記述には感銘を受けた。父・栗山信也は第二次世界大戦中、ビルマに赴任し、そこで終戦を迎えた。その後、英国軍の捕虜収容所で生活した彼は、自ら劇団を組織し、台本を書いて演出した。まさに『GHETTO/ゲットー』を地でいった体験を積んでいたのだ。この時、芝居をするとは「祈り」にも似たものなのだろう。その経験が息子にも伝えられた。ただし、父はその事実はおろか、戦時中のことも息子にほとんど語らなかったという。

語り得ぬ事実がたしかに存在する。それは父ばかりでなく、同じような経験をした者たちが戦争に関わった世代に数多くいたということだ。ここから連想したのは、永井愛の名作『こんにちは、母さん』である。夫は戦時中に中国人を殺したことがあるのではないかと疑念に思った妻だが、ついに生前、夫にそのことを聞けなかった。歴史の彼方に消えていく「記憶」を掘り起こすこと、そこに栗山=永井世代の演劇の役割がある。栗山が企画した「時代と記憶」の一本が永井の同作である。これは確かめたわけではないが、二人は意見を交換し合って、この傑作が生まれたのではないかとの連想も働く。芸術監督という役割のなかで彼の思想が、こうした仕事を生み出したのだとわたしは確信した。

一人の人間の体験などたかが知れている。けれども、本書を読みすすめていくと、そこに「思想」を獲得していくプロセスが刻まれていることに気づかされる。ほんのちょっとしたきっかけに過ぎないものの集積が一人の演出家を育てていく。他人の話に真摯に耳を傾けることから、ヨーロッパの戦争の傷跡をアウシュヴィッツで体験し、ベルリンの劇場にその集積を見る。阪神大震災に見舞われた体験は実父への思いとつながっていく。「二人の夫を、二人とも自殺で失ったのです。」(197頁)という実母に対する記述は、ずしりと響く。ここまで肉親を客観化できる演出家には「信」が置ける。本書がすぐれた人間ドキュメントのゆえんである。

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2007年11月28日

『ギリシァ悲劇を読む-ソポクレス「ピロクテテス」にみる教育劇』吉田敦彦(青土社)

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[劇評家の作業日誌](32)

今年の演劇界は異例なほど、ギリシア悲劇を題材とした舞台が多かった。2500年前に起源を持つギリシア悲劇に、特段エポック的な何かがあったわけではないが、現状が見えにくくなってくると、演劇の原点たるギリシア悲劇が繰り返し呼び出されるのだ。足元を見つめるために根源に回帰する無意識の表われだろうか。

もっともギリシア悲劇とは何かといった原理的思考と、この風潮はあまり関係がない。新国立劇場では新しい芸術監督に就任した鵜山仁の最初の企画が「ギリシャ悲劇」を原作にした現代劇シリーズだった。3人の劇作家が3人のヒロイン――クリュタイメストラ、メディア、アンチゴネー--を元にして新作を書き下ろすというもので、現代にギリシアの古典はどれだけ再利用可能かが問われたといったところか。

こうした流れに乗ったわけでもないだろうが、ギリシア文化研究に長年研鑽されてきた著者による本書が誕生した。(表記として「ギリシャ」「ギリシア」、そして「ギリシァ」の3つがあるが、本文では、「ギリシア」を採用する)

わたしがこの本に興味を持ったのは次の二点である。一つは、ソポクレスの『ピロクテテス』の読解を直接の対象にしていること、第二点は副題にある「教育劇」という視点である。第一点に関しては、日本人にはほとんど知られていないギリシア悲劇作品だが、わたし自身は格別に関心があった。その理由は後述しよう。第二点の「教育劇」は、ブレヒトにもやはり同じタイトルの試みがあったからである。ブレヒトにとって「教育劇」とは、興行主体の公演ではなく、実験的な演劇を追及したものである。人間社会の解決しがたい問題に対して、実際に身体を使って演技し上演していくことを通じて、言葉では掴み難い認識に至る作業を言う。そこでは観客も意見を出し合い、演技者ともども考え、教え=学び合う。この相互的な「教育性」に「未来の演劇」のヴィジョンを夢見たのがブレヒトだった。娯楽性とは別に、人間の知性を鍛えていく演劇のもう一つの効用を探る試みでもあったのだ。だが、本書の「教育劇」はそれとはまったく関係がなく、「人間成長のドラマ」として捉えられていた。端的にいえば、青年が大人になっていく「ドラマ」ということだ。これにはちょっと拍子抜けしてしまった。

今回は『ピロクテテス』のわたしなりの受け止め方を中心に書いていきたい。

ギリシアの武将ピロクテテスは英雄ヘラクレスから譲り受けた弓によって知られる「弓の名人」である。彼はアガメムノンを総大将とするギリシア軍のトロイア遠征に参加した。だが旅の途中に寄港した島で毒蛇に足を咬まれ、負傷した。激痛のうめき声と傷口から放つ悪臭に周囲の人間が耐えられなくなり、アガメムノンはオデュッセウスに彼をレムノス島に置き去りにしてくるよう命じた。こうしてピロクテテスは、10年間、人の住まぬ孤島で足を引きずりながら弓で食物を得て、辛うじて生き延びてきたのである。その間、彼は足の痛みと、棄てられた屈辱を片時も忘れずに過ごしたことは、想像に難くない。一方、ギリシア軍もトロイア陥落が容易ではなく、いたずらに10年の歳月を費やした。業を煮やしたアガメムノンは神託を伺ったところ、ピロクテテスの弓がなければトロイア陥落は不可能だとされた。こうして、レムノス島にピロクテテスの説得に派遣されたのが、権謀術数に長けたオデュッセウスだったのである。果たして怨み骨髄の当人を説得して、もう一度ギリシアのために参戦してくれるか。これは相当の難題であろう。

そこでオデュッセウスは勇士アキレウスの息子ネオプトレモスを引き入れて懐柔策を練った。善良なネオプトレモスは、ピロクテテスも信頼を置く青年であった。彼はギリシアに向かう船に乗せると約束し、ピロクテテスを謀ることに成功し、弓を入手した。だがネオプトレモスは、オデュッセウスの言う通り虚言を弄することに耐え切れず、つい本当のことをピロクテテスに告白し、弓を返してしまうのである。オデュッセウスの奸計を知ったピロクテテスはますます怒りを募らせ、意固地になるばかりだ。こうして二途も三途もいかなくなった状況を打開したのは、死んだはずのヘラクレスだった。彼は強引に話を収拾させてしまう「デウス・エクス・マキーナ」、いわゆる「機械仕掛けの神」である。アリストテレスの有名な演劇論「詩学」で論じたように、この手法は劇作家が苦し紛れに無理やり劇を収拾するための方策だったという。その一方で、機械仕掛けで神が登場するシーンは、スペクタクルとして好まれたという説もある。

しかしこの劇には、ネオプトレモスの優柔不断さや突如の心変わり、コロスに見捨てられそうになったピロクテテスが一転して「連れて行ってくれ」と懇願するなど、原理原則にがんじがらめにされつつも、人間臭い応対が出てくる。前言を翻すあたりは笑いを誘っても不思議ではなかろう。つまりギリシア悲劇に登場する英雄は、名ばかりで、およそ人間的弱さが露呈する、どこにでもありうる人間ドラマなのだ。

一般にギリシア悲劇が分かりにくいのは、前史というものがあるからだ。例えば、ピロクテテスはネオプトレモスの父アキレウスを尊敬しており、それ故その息子には不用心なまでに丸腰になって心を許してしまうのだ。ヘラクレスから弓をもらった伝説も遍く知られており、その弓がいかに素晴らしいものであったかは、ギリシア人なら誰でも知っている。オデュッセウスという存在はホメロスの大叙事詩『オデュッセイア』で知られる英雄だが、実は彼は口先だけの頭の回転の早い策士であり、きわめて評判が悪い。こうした前提を知らないと、楽しみ方が半減する。

そこでこうした前提を抜いて改作するとどうなるか。ドイツの劇作家ハイナー・ミュラーが改作した『ピロクテーテス』(ハイナー・ミュラー・テクスト集〈2〉『メディアマテリアル ギリシア・アルシーヴ』所収)は、この前提を排除し、まったくドイツの実情に置き換えている。これがまた興味深い逸品になっているのだ。ミュラーはこの改作劇を作家同盟を追放されて孤立状態にあった時に書いている。つまりレムノス島に打ち棄てられたギリシア軍の弓の名手の心境と自分の境涯を重ね合わせたのである。ここで三者は、最高の武器を持った者、懐柔の指令を出された者、それを遂行する実行者として同格に扱われている。そこで純粋に政治的駆け引きを織り成すのだ。つまり著者吉田氏が言うように、ネオプトレモスの人間的「成長」が描かれているのではなく、政治的に利用するためにはどうすれば一番効率的かが問われている。何が有効で何が効率的なのか。最後のシーンで、ミュラー版ではヘラクレスは登場せず、オデュッセウスはトロイアの戦場に連れ出すことに失敗し、結局ピロクテテスを殺害してしまう。ギリシア人が期待した「和解」は当時のドイツ(書かれたのは1961年)では存在せず、もっと酷薄な状況を生きているという認識なのだろう。神は不遇だったピロクテテスの傷を癒し、トロイア陥落に勲功を与えることで、10年間の屈辱をとりなそうとしたが、そんな出来合いの勲功はミュラーの生きる現代では無用なのである。

原作の設定を活かしつつ、そこに作者の認識を持ち込むことで、作品を現代に生き延びさせる。その好例が、この『ピロクテーテス』なのだ。

それにしてもこの劇には、なんともいえぬ悲哀が感じられる。アガメムノンという総大将に命じられたオデュッセウスには中間管理職のそれを感じさせるのである。ホメロスの『オデュッセイア』のヒーローがこんな卑小に描かれているというのは、意外に思われるかもしれない。そこがまたギリシア劇の面白さである。ピロクテテスもまた、10年ぶりに聞く懐かしいギリシア語に心を揺すぶられるシーンや、合唱隊が帰国の途に着くと言った刹那に、自分を置き去りにしないでくれと懇願する場面など、とてもギリシアの英雄には見えない気の小ささだ。見栄を張っても、すぐ底が知れてしまう。どこまで筋を通して、強情を貫き通すか、どこらあたりで手を打つか、この駆け引きが何にもまして描かれている。孤独に苛まれながら、拗ねてみせる演技、同情や関心を引きながら、どのタイミングで和解の手を打つか。こんな権謀術数がこらされ、人間関係が押したり引いたりする波打ち際がとても興味深く描かれている。その優れたドラマトゥルギーには感服せぜるをえない。

この秋、日本で上演された「ギリシア悲劇改作」に、ミュラー同様、原典との対決の姿勢を期待したのは、わたしだけではあるまい。

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2007年10月22日

『華より幽へ-観世榮夫自伝』 観世榮夫[著] 北川登園[構成] (白水社)

華より幽へ-観世榮夫自伝 →bookwebで購入

[劇評家の作業日誌](31)

6月8日に亡くなった観世榮夫氏の“死”は、なんとも痛ましいものだった。彼は5月2日に自ら運転する自家用車で事故を起こし、長年行動をともにした敏腕プロデューサー、荻原達子さんを死に追いやってしまったのだ。それから一ヵ月余、彼はまるで後を追うようにして死地に赴いた。死因は大腸癌だったが、この間、彼はいったいどんな思いで過ごしてきたのだろう。後悔や失意など、その心中は察してあまりある。

その観世榮夫氏の自伝が刊行された。氏から話を聞き、本にまとめた元読売新聞の演劇記者・北川登園氏はあとがきで、こう言っている。

私がまとめた原稿は事故車の車内にあり、八王子署が保管していたらしい。・・・おそらく、お二人は仕事先の長野県で原稿を点検されていたのではないか。・・・もっと語りたいこともおありだろうと思うと、それが残念でならない。(212頁)

北川氏の無念さもよく分かる。巻末には荻原氏による詳細な「年譜」が付されているから、この本はまさに二人の遺著=遺書になってしまった。

能楽界の第一人者、観世榮夫氏の人生は、波瀾万丈だった。「ぼくの履歴を見れば分かる通り、ぼくは一か所に安住したことがない」(194頁)と語るように、名門観世三兄弟の次兄として生まれた彼は、能の革新者であった兄寿夫の模範的な振舞いに比べて、対照的に奔放の限りを尽くした。氏は現代演劇やオペラの演出、映画やテレビに出演するなどさまざまな領域に挑戦し、一人のアーティストとして生きてきた。彼は22歳で身体メソッドを究めたいとして喜多流に転籍し、31歳の時、能楽界から脱退した。惰性的に習慣化していく身体のありように疑問を持った彼は、他流仕合いすることで、能の方法を科学的に考えてみたいという問題意識から出たものだ。だが家元制度など旧態依然たる能楽界から、彼は事実上、破門されたも同然だった。彼の中では、能楽界を否定したわけではなく、能に「演出」という概念を持ち込むための修業であり、いつか帰還することは念頭にあった。むしろその勉強を能楽界に還元したいと考えていたのだ。それが実現するのは50を過ぎてからだったが、その時、病床にあった兄の尽力は並々ならぬものがあったという。

しかしこの20年間の榮夫氏の活動はすこぶる面白い。とくに現代演劇との関わりは、一つの演劇史が書けるほどだ。59年に結成された「青年芸術劇場」(略称・青芸)はちょうど新劇とアングラをつなぐ役割を果たした。元々は米倉斉加年、岡村春彦、常田富士雄ら民芸・水品研究所の研究生が集まったものだが、ここに福田善之と観世榮夫が加わることで、まるで別様の集団になった。当時の福田は新進気鋭の劇作家であり、彼が矢継ぎ早に発表する新作戯曲は、60年代前半の演劇界を圧倒的にリードする。研究生として若き日の唐十郎や佐藤信も在籍した。それは1920年代の築地小劇場に比肩する人材の宝庫でもあったろう。だが榮夫氏は「劇団にいるのは五年がサイクルで、集中していられるのは五年が限度だと思っている」(103頁)と述べているように、本当に劇団は5年余りで解散した。

その後、今度は佐藤信に誘われて、1966年に「自由劇場」の創設に最長老として参加している。が、これもまた5年で身を退いている。この「自由劇場」もまた小劇場運動の草分け的存在であり、後の「黒テント」への重要なつなぎの役割を演じている。若手の中に混じって、能の世界から越境してきた彼は、不思議なポジションを持っていたように思われる。ちょうど世阿弥が「離見の見」といって、演じる主体を外側から批評的に対象化することを説いたように、彼の存在は若い活動家たちに別の視点を与えたのではないだろうか。60年代後半の「演劇革命」の前史として、この二つの劇団と関わりを持ったことは、それ自体貴重な経験であり、彼は徐々に「演出家」の目を養っていったに違いない。

オペラの演出や映像での俳優としての経験、これら多岐にわたる活動を通じて、彼が終始変わらぬ関心を抱き続けていたのは、「伝統」についてであろう。つねにその問題に直面せざるをえなかったのが、能の家に生まれた彼の宿命だったと言ってもいい。能は江戸時代まで武家の式楽として徳川幕府や大名の保護下にあった。だが明治維新後、彼らの特権は剥脱され、以後、家の存続、能というジャンルの存亡など、危機の連続であった。慶応幼稚舎から中等普通部、さらに東京音楽学校(現・東京芸大)へ進学するものの、その時期は戦争下にあり、能楽堂の大半が焼失し、「自分たちが継承してきた能を絶やしてはならない」(33頁)という思いは人一倍強かった。そんななかから家に安住してはならないといった独立独歩の精神が養われていったのだろう。他流派との交流はその延長線上にあった。「伝承や伝統が断絶して、危機感が生まれたときのほうが、伝統をより意識するようになり、伝承や伝統が生き生きと蘇生するような気がする」(55頁)が彼の信条だったのではないか。

1953年、「華の会」を兄寿夫、末弟静夫の三人で発足し、1987年には「幽の会」を創設している。能界の決め事ではなく、やりたいことをやるためには、自ら企画し、上演母体をつくらねばならない。そこで追求してきたのは、「現代の古典劇」というものではなかったか。木下順二作『子午線の祀り』(79年初演)の共同演出は、その集大成ともいうべき仕事である。もともと能の演出方法を考えるために、スタニスラフスキーやブレヒトの方法を学びたいと思って新劇との付き合いを始めた彼は、一つの頂点を極めた。現代を直接素材にした「現代能は可能か」という問いも、彼だからこそ言えたことだろう。だから新作能を発表する免疫学者・多田富雄に賛辞を送るのである。彼は「新作能は能舞台でないところで、上演するようにしたほうが得策だと思う」(155頁)とまで言うのである。

実際にギリシアや東独に行き、ジャン=ルイ・バローやグロトフスキーと出会い、ベケットやミュラーの戯曲に挑んだ。「冥の会」を結成して古典と現代の結合もはかった。大野一雄と共演した岡本章演出の『無』も忘れがたい。残念ながらわたしは生前の彼の能の舞台にあまり立ち会っていないので、論評は差し控えるが、次の一文には能を演じる者の精髄がうかがえて感銘を受けた。

『姥捨』は二〇〇四(平成十六)年十月に初めて演じた。ぼくの喜寿を祝っての、銕仙会特別公演であった。ぼくは純粋に月に憧れて、棄てられた恨みを全部超えたら、この曲をやりたいと思っていた。それぐらいの気持ちがないと、三老女の秘曲の一つは舞えないと考えていた。(195~6頁)

この本を読み進めながら、わたしは改めて、兄寿夫の『心より心に伝ふる花』を想起していた。兄の書に対して、弟榮夫は『華より幽へ』を唱えた。世阿弥の『花伝書』を兄が受け継いだとしたら、弟は華=花から「幽」へ一歩踏み込んだのだ。そう、「幽心」の「幽」である。

兄との絶えざる葛藤がなかったといえば嘘になろう。彼は幼少の時、つねに一歩、前へ行く兄の後ろ姿を見て育った。ある時、祖父は彼と末弟の静夫に向かって、こう言ったという。「寿夫には跡継ぎになってもらわねばならないが、君たちはほかのことをやってもいい」(23頁)と。2歳上の兄の「偉大さ」を感じ取っていたものの、この宣言は彼にとってもショックであったことは否めない。失意の中で、さて自分は何をするか。もちろん表立って反発したわけではなかったが、芸能の「家」に生まれた者の宿命として、彼の生き方が決定されたことは間違いない。彼がまだ十三歳、中学生になったばかりの頃だった。

晩年の榮夫氏は現代劇の舞台にもよく出演していた。なかには、なんでこんな舞台に、と思わぬものもなくはなかったが、これだけ幅広いレパートリーを受け入れられる役者は他にいなかったろう。「一か所に安住しなかった」彼の面目躍如たるものがあった。

芸術論として、『心より心に伝ふる花』に比べると、『華より幽へ』はまだ十分語り尽くしたとは言いがたい。彼へのインタビューは「舞台芸術」という雑誌でも何回か行なわれていたが、これも未完で終わってしまった。能は死者の蘇りの劇であるとすれば、彼にもう一度現世に戻ってもらい、語り残したことを語り切って欲しいと願わざるをえない。

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2007年06月26日

『戦後新劇-演出家の仕事〈2〉』日本演出者協会[編](れんが書房新社)

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[劇評家の作業日誌](27)

日本演出者協会は「演出者の仕事」と題したシリーズを企画しているが、昨年、その第一巻が出た。副題は「60年代・アングラ・演劇革命」。この本はわたしも共同編集者の一人として携わり、内容構成や執筆者のリストなど企画の実質に関わった他、百三十枚の解説論考も書き下ろした。この続編は「80年代・小劇場演劇」ヴァージョンとして現在、鋭意編集中である。

『戦後新劇』は、その間を縫って企画・編集された。ただし、今回は外部の演劇評論家は編集に加わらず、演出家自身が暗中模索しながらつくりあげる主旨だったようだ。こうして戦後から1960年代半ばまでの「新劇」と呼ばれる近代演劇についてのさまざまな発言を集成した本が刊行された。

演出者協会の現会長である福田善之氏の「評論家にきれいにまとめられると、居心地が悪い」というのが契機となったようで、ふじたあさや氏は、「(新劇の歴史的な)検証は、演出家の目を通して、演出家の仕事をつうじて行なわなければなりません。評論家のようなくくり方では、所詮現場は見えてこないんです」と「まえがき」で述べている。これはたぶんに前著のわたしの解説への批判が含まれているのだろう。巻頭論文の第一章「新劇からアングラへ」で、わたしは「新劇」を過去のものとし、戦後新劇は60年代に起こる「アングラ」への「過渡期」だと規定した。こうした「外部」からの批評に対して、直接活動に携わった者たちによる別の視点での“総括”が本書の企画だったと思われる。

演劇史を当事者たちの「証言」でたどるという記述方法は、非常に生々しく臨場感に溢れ、外部者の知りえない貴重な体験はそれ自体価値がある。だがその一方で、生きた証言による総括は、生身であるがゆえに相当困難を極めることも分かった。例えば、新劇の歴史で今なお触れられぬ事柄があることを、この本は暗に示している。戦中時に戦争協力を余儀なくされた演劇人が、戦後になると「民主主義」を唱え、進歩的演劇を提唱していたこと。日本共産党の指導のもとにあった劇団は、共産党の方針転換により右往左往してしまったことなど、強力なイデオロギーが戦後新劇を支配していた事実が(それが体制批判にもつながったが)、内部にいた者たちに今なお癒やされぬ「傷」として残っている。

そうした語られぬ事実に加え、時間の経過が否応なく記憶を風化させる。
「60年反安保闘争」とは何かすら知らない世代が増え、もはや歴史家による客観的な「総括」を必要とする時代になってしまった。演劇史もまた、一つ一つの事象を検証すべき時期に来ていることは疑うべくもない。また福田氏やふじた氏など戦後世代もすでに70代となった。その意味では、本書は後続世代への「演劇的遺言」の感があり、敬意を表すべき格別の重みがある。

それはともかく、結局「戦後新劇」は何が問題だったのか。気にかかったいくつかの点を挙げてみよう。

ロシア=ソビエトの演出家スタニスラフスキーが日本の新劇にもたらした影響は特別のものがあった。それまでの演劇に対して、彼の演技=演劇論は日本で初めて科学的思考に支えられたものであった。戯曲を全体の流れや構造で捕まえ、主題の位置や登場人物の役割など、演劇を集団的な芸術に昇華させたのは、まぎれもなくスタニスラフスキーの功績だった。言い換えれば、それが「近代」という時代が要請した演劇の思想であろう。

だが、このシステムの導入をめぐって意見は対立する。スタニスラフスキー自身、1930年代のソビエト「社会主義リアリズム」の国家的お墨付きとなり、イデオロギーと化した。それを受け入れることは、そのまま社会主義イデオロギーを受け入れることでもある。こうして、一つの芸術理念にすぎなかったものが、国家イデオロギーの代役を演じてしまったのだ。しかもこれを受け入れた日本の左翼演劇に対して、反発した後続世代は、スタニスラフスキーという教祖を「抑圧」と感じ、生理的に排撃した。現在の視点から見れば、スタニスラフスキーは20世紀演劇で唯一、演技メソッドを体系化した先駆者であり、好むと好まざるを問わず、演技修行の出発点であることは論をまたない。それは当時、渦中でもがいていた者たちには見えなかった視点であり、後から来た世代だからこそ言える客観的な認識である。時の経過は当事者の思惑を超え、現場の確執を取り除き、歴史は物事の本質だけを見えるようにした。

1958年にモスクワ芸術座が初来演した時、あの伝説のモスクワ芸術座が、歌舞伎のような「見得」を切って正面に向かって演技したことが報告されている(173頁)。他方で、俳優が舞台上で本物の涙を流したことを、さすがスタ・システムだといって感激したというエピソードも知られている。こうしたさまざまな角度からなされた経験は、新鮮な驚きを与えてくれた。だが、それらの経験が演劇の発展にどうつながっていたのか、その影響や意味を客観的に分析することも必要である。それが「批評」の視点である。

民芸の宇野重吉は、「劇団一代」論を唱え、新劇は創立者が朽ちたらもう解散すべきだという発言をした。1968年、まさにアングラ世代の台頭が著しく、新劇が劣勢に立たされていた時期の発言である。その二年後、唐十郎が岸田戯曲賞を受賞した時、新劇の大御所たちの間には衝撃が走った。栄誉ある戯曲賞をアングラ世代に与えたことが大問題になったのである。もっとも別役実はすでに受賞していたが、60年代の風雲児・唐十郎への「認知」はまったく別で、当時の新劇の幹部たちの焦りがいかに強かったかが伝わってくる。
 
ではなぜ「新劇」は衰退したのか。本書を読むと、その事情が次第に見えてくる。一つの理由として、新劇は「大衆化」「職業化」に失敗したこと。運動の理念が衰退し、結局スター主義と観客の鑑賞組織=「労演」に経済的基盤を依存したことが、戦後のある時期に露呈してしまったのだ。前衛で始まったはずの新劇も、60年代の世界の前衛、例えばグロトフスキーなどの実験演劇に理解を示さなかったことも、理由の一つに挙げられる。

そして何よりも、新劇世代がアングラ派にもっと心を開いていたら、歴史は違う展開になっていたかもしれない。例えば、新劇にはなかった別役実の言語感覚や唐十郎の肉体をも取り込んだ言語意識を演劇論として評価できたら、新劇は停滞せずに、真の「現代演劇」へ転生しえたかもしれない。頑なに「新しい演劇」を拒絶したところに、新劇の限界があった。イデオロギーと終始無縁だった文学座だけが別役をはじめ、つかこうへいや金杉忠男などをいちはやく取り込んだことは、歴史の皮肉である。唐十郎は福田善之の近傍にいたし、鈴木忠志の学生劇団の先輩には民芸の渡辺浩子をはじめ、多士済済の面々がいたはずだ。佐藤信は俳優座の養成所出身であり、千田是也はその本家の大将だった。斎藤燐は、この本で千田へのオマージュを捧げているが、彼らの最盛期は敵対的な関係だった。

では「新劇」とは改めて何かと問うてみる。ふじたあさやは「やっぱりリアルであることでしょうか。」(232頁)と語り、文学座の戌井市郎は「新劇はアマチュア精神を捨てちゃならん、と言われ続けている」と言い、そこからふじたは「素人、アマチュア精神、先程からのレアリティーですね」と括り出している。おそらく、ここらあたりが、いわゆる「新劇」の集約点なのだろう。近代という時代にふさわしい個人を主体とした啓蒙運動、進歩的であることが時代を先取りしていた当時の前衛。だがそこには「伝統演劇」という太い幹がある日本の特殊事情が横たわっている。様式美と伝承で芸が保存されてきた能や歌舞伎などの古典に対して、近代人は何を独自性として打ち出すか、そこに「新劇」の成立根拠があった。とすれば、外来の文化の輸入にゼロから取り組み、好奇心あふれるアマチュア精神で日本文化の創生を模索し、古典に対するリアリティを求めて試行錯誤を重ねた新劇の活動の歴史的必然も首肯できるのである。

戦後になって、サルトル、カミュ、ついでベケット、ブレヒトといった名前が登場するが、これは後のアングラの導線にもなった共有財産である。そこから日本と世界という視点から歴史を捉え返すことも、今後の来たるべき演劇への課題である。その意味で、「新劇」は「過渡期の演劇」であったというのが、本書を読んだわたしの結論である。

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2007年03月26日

『わたしは血』ヤン・ファーブル著、宇野邦一訳(書肆山田)

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[劇評家の作業日誌](24)

胸倉を鷲づかみにされ、激しく殴打されるような感覚に襲われた。甲冑を身にまとった男たちとウェディングドレスに包まれた女性たち。だが彼(女)らは耽美的に舞台にいるわけではなかった。拷問に近い肉体の酷使、目を覆いたくなるような残酷シーンの連続。全裸に近い女性の剥き出しの肉体は猥褻と紙一重であり、日本人観客はそこから何を感じ取り、何を思ったことだろう。

この二月、彩の国さいたま芸術劇場に来演したヤン・ファーブル作・演出『わたしは血』は、それほど挑発に満ちた舞台だった。今の日本に果たして「挑発」が成立するかはさておき、この舞台を形容するとき、どうしてもこの言葉を使ってみたくなるのだ。

この来演を機に、同名の書籍が刊行された。だがこれは、戯曲=上演テクストというより、詩とも散文ともつかぬ、独特のテクストなのだ。おそらく作者は、詩のようなものをノートに書き付けるところから創作を始めたのだろう。そしてこのテクストをもとに上演を構想したのだと思われる。ただし舞台は物語に沿って運ばれず、言葉はセリフとして語られる場合もあれば、まるでナレーションのようにマイクで語られることもある。ある意味で、形式を逸脱した自由度の高い言葉の集積、それがこの本の特徴なのだ。それはアントナン・アルトーの黙示録的な文章を連想させ、ハイナー・ミュラーの散文風の上演テクストにも似ている。戯曲や台本というものと明らかに一線を画すものであることだけは確かだ。

このタイトルには「中世妖精物語」という副題が付してある。「妖精」はアイロニーだとしても、「中世」はこの舞台の本質を言い当てている。作者のヤンは本書で繰り返しこう述べている。

今はイエスキリスト生誕から/二千年である/そして私たちはあいかわらず/中世に生きている

彼にとって「中世」とは決して過去のことではない。現在の足元を掘っていくと、ごく自然に「中世」の入り口に行き着いてしまう。現在と中世は隣り合った時間帯なのだ。
そして私たちはあいかわらず/同じ体で生きている

中世から現在を貫く時間、そしてそれを一貫して受け容れてきた肉体。ここに、このアーティストの思想のエッセンスが凝縮されている。

「血」から見た人間の歴史。ヤン・ファーブルの思想を要約すればこうなるだろう。「血は命であり」、人間は他人の血を吸って生き長らえる一種の吸血鬼に他ならない。血はDNAとして継承され、連綿と続く人間の歴史を保障する。「未来ノ体ガ/私ノ中ニアル」のは、その故である。だが、肉体に充足できないのも、また人間の宿命である。「血は私の赤い湿った身体」であるとともに、「赤い湿った反身体」でもあるのだ。したがって、「私は世界に輸血したがっている」。そのために「私は開く」。この後、詩文は人間の臓器を数頁にわたって羅列していく。「前頭静脈」から始まって「前頭動脈」「側頭静脈」「側頭動脈」等々を切り刻むのである。噴出した血の洪水は、かえって人間の邪念を取り除くだろう。

『わたしは血』は、2001年、フランスの名高いアヴィニョン演劇祭で初演された。上演されるや、この舞台の評価は真っ二つに割れた。聡明な実験か、それとも快楽的な暗黒主義をただただエスカレートさせたものなのか。だが、わたしは表面的な残酷さの中に「倫理的」なものを感じた。徹底した行為の反復は、次第に行為そのものの意味を変形させ、観念にまで昇華させていく。そこに見えてくるのは、現在の世界を覆っている危機や道徳、倫理の衰退であり、人間自体が損傷されていることへの警告である。アンチヒューマニズムの暗黒を装いながら、その底に楽天的なユーモアとそれを支える人間を肯定する感情が手触れる。

いったい、ヤン・ファーブルとは何者なのか。

実は、わたしが日本人以外のアーティストで一番気にかかっていたのが、他ならぬヤン・ファーブルだった。彼は『昆虫記』で有名なアンリ・ファーブルの曾孫である。そして彼は今、世界のアート業界の最高のタレントの一人であり、世界各地で彼の作品の展示が開催されている。ヤンは舞台演出家でもある以前に美術家なのだ。わたしがこのアーティストに最初に出会ったのは、今を遡ること20年前のことだった。1986年、ヤンは最初の日本公演『劇的狂気の力』(The Power of Theatrical Madness)を行なった。この舞台は当時のわたしに鮮烈な印象を残した。それはこれまで見たことのない類の舞台であり、ベルギーからやって来た若干28歳の若者のラディカルな表現に、わたしはすっかり魅了されてしまったのである。

ところで、この舞台の招聘にまつわるエピソードも、わたしにとっては思い出深い。彼が来日する2年前、福島県桧枝岐(ひのえまた)村で第一回「パフォーマンス・フェスティバル」が開催された。このフェスをきっかけに集まったアーティストや批評家たちがゆるやかなネットワークを形成し、以後、持続的な集まりや小さな研究会、シンポジウムが積み重ねられた。日本のマイムの創始者である及川広信と「肉体言語」の編集に携わっていた福島大学の星野共が中心となり、これに美術家でパフォーマーの浜田剛爾、池田一、ガリバー(安土修三)、映像の飯村隆彦、マイムの武井よしみち、詩人の鈴木志郎康、哲学者の粉川哲夫らが関わっていた。演劇では、解体社の清水信臣、モレキュラーシアターの豊島重之、テラ(現:テラ・アーツ・ファクトリー)の林英樹らである。ダンスの勅使川原三郎もこのフェスを通じて世界に飛び出していった。言ってみれば、その道の大家とこれから大きく羽ばたこうとしている者たちが、この場を介して出会い、切磋琢磨していく稀有な場が出来上がったのである。もう20年も前だから、わたしもまだ30代になったばかりで、演劇をもう少し広い視野から捉え返したいとしている最中でもあった。

そんな集まりの折に、ベルギーからこんなビデオが届いているけど一緒に見ないかという提案が誰かから出された。当時まだバブルの前で、海外のアーティストの来日は珍しかった。しかも若い無名の前衛的な表現は興行性にも乏しく、敬遠されがちだった。ところが十数人で見たビデオは、たちまち皆を虜にした。誰からともなく、これは行けるんじゃないかと声があがり、どうしても招聘しないわけにはいかないぞという気運につながっていった。当時、こうした芸術運動を支援してくれていたシュウ・ウエムラ--彼は化粧品の製造元だが、なによりもアーティストだった--は招聘公演を快諾してくれた。まだ無名だったヤンを呼ぶことを、こんな偶然とメセナ以前の「パトロネ―ジ」が可能としてくれたのだ。

ヤン・ファーブルは、当時のヨーロッパで一種の「アンファン・テリーブル(恐るべき子供)」的な存在だった。彼の公演はあまりに暴力的すぎて、しばしば公演中止を余儀なくされた。台詞もなく身体だけの動きで構成される舞台は、従来の演劇の概念から大きく外れ、まさに「パフォーマンス」としか言いようのない「越境性」を内在させていた。だがそれこそが、桧枝岐グループが探っていた志向性と合致し、鋭く共振したのだ。

この公演の反響は予想外に大きかった。いやむしろ、スキャンダラスと言っていいかもしれない。例えば、公演の二日目にこんなことがあった。初日を見たある高名な演出家は、「こんなもの演劇でない!」と腹を立て、翌日の公演に若い劇団員を送り込み、公演中の舞台になんとトマトを投げさせたのだ(残念ながらわたしは実見していない)。こんな過激なリアクションを引き起こすほど、この舞台には「挑発」的な何かがあったのだ。それから20年が経ち、昨年、同演出家は、今度は芸術監督の権限で彼の舞台(『主役の男が女である時』)を自分の劇場に招聘した。その演出家とは、蜷川幸雄その人である。そして今年も再度ヤン・ファーブルの過激なパフォーマンス『わたしは血』を招聘したのだ。観客の中の保守性を攻撃し、世界で今起こっている事態の真っ只中に観客を連れ出していくヤンの姿勢に、蜷川氏は自分と同質の志向性を見てとったのだろう。もはやここまでくれば、二人は立派な「共犯者」である。

昨年、ヤン・ファーブルの戯曲『剽窃王』が初めて翻訳された(「シアターアーツ」05冬号)。また、彼についての著作の翻訳も進行中であるという。近い将来、彼の全貌が日本人のわたしたちにも知られるようになるだろう。

ヤン・ファーブルという存在はどこにも属しようのない独自のジャンルを形成している。そして、今もなお、過激な挑発で観客の意識を逆撫でし、警鐘を鳴らし続けているのだ。


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2007年02月20日

『唐十郎の劇世界』扇田昭彦(右文書院)

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[劇評家の作業日誌](23)

劇評家の「資質」とは何か。
誤解をおそれずに言えば、それは苛烈な劇の現場に立ち会いたいという欲望の強さではないだろうか。今、もっとも刺激的で時代を凝縮した現場に出会いたい。そのためには、独自の嗅覚を研ぎ澄まし、その場を探り当てる根気強さとフットワークの軽さが不可欠だ。その場にたどり着けるか否かによって、劇評家の「才能」が問われるのだ。劇評家は論ずる対象によって仕事の成果が半ば規定されてしまうとすれば、これは決定的に重要なことなのである。

扇田昭彦氏と唐十郎氏は1967年に新宿の花園神社の小さな紅いテントで出会った。当時、朝日新聞の演劇記者になったばかりの扇田氏は、それ以来この稀有な才能を見続け、なんと40年もの間伴走し続けてきた。その間に書かれた文章は実に92本に達する。(もっとも「あとがき」によれば、解説や対談の類は外したとあるから、これ以外にもまだまだ論考があることになる。)離合集散の激しい演劇の世界で、一貫して一人の芸術家を追い続けた例は他にないのではないか。

本書は若い無名だった者同志が出会い、そこから切磋琢磨して互いの演劇観を鍛え上げ、ついに現代演劇の「黄金時代」を築き上げた軌跡が綴られている。劇評家としてはまさに「嫉妬」すべき書物であり、その「僥倖」に立ち会い続けた一人の劇評家の慶賀すべきドキュメントである。

そのきっかけとなった事件が二つあった。いずれも1969年のことである。その一つは、新宿西口公園での無断上演である。これは文字通り「事件」となって、唐をはじめ三人の劇団員が新宿警察署に拘留された。もう一つは、この夏に敢行された「日本列島南下興行」の旅である。扇田氏はこの旅公演に一週間ほど同行し、状況劇場の奔放な生き方に裏打ちされた演劇の旅を目撃した。上演不可能だと思った公園にまんまと出し抜いてテントを張り、真夏の日本列島を縦断しながら、次々と打ち寄せる困難を打開していく人間力。唐十郎の「天才性」を確信し、本物の「凄さ」を目のあたりにした二つの出来事だったのだ。

「劇評家の仕事」を副題に持つエッセイ「夜明けの白い道」で、扇田氏はこう記している。
「劇評を書く演劇ジャーナリストの私の一番の喜びは、なんといっても、新しい才能をもった新しい集団の舞台に出会うことである。そうした出会いは、観客としての私を高揚させてくれるし、同時にしばしば異様に元気にしてくれる。」(376頁)
本書を貫く主調音を構成するのは、唐十郎と状況劇場=紅テントに出会った劇評家の 「高揚」した言葉たちだ。とくに初期状況劇場を語るさいの扇田氏の言葉は華麗で、天才的な演劇家に出会ったことへの喜びに満ち溢れている。扇田氏はまさに唐十郎とともに演劇そのものを発見する過程に立ち会ったのである。

例えば次の一節には、演劇とは何かへの回答の一端が見られる。
「唐十郎の芝居の連作を考えるとき、私はよくポーの小説『メエルストレエムの大渦』を思い浮かべる。広大な漏斗状の渦巻の内側を、目もくらむ速さで回転する主人公のまわりには、船の破片や家具、箱といったおなじみのオブジェが上になり下になりしながら疾走しており、それらは渦の底の『破滅』に向かってまっしぐらに落下しつつあるのだ。」(43頁)
わたしも唐芝居のなかにまったく同じ連想を抱いたことがある。ポーの小説を連想したのも同様だった。(偶然にも同じような記述が野田秀樹の『半神』にもあったことを記憶している。)

また扇田氏の次の一文は、演劇の本質に鋭く踏み込む緊張感がみなぎっている。
「舞台に呼びさまされて、私の内部にひそむ、私自身思いもよらなかった扉が次々に内側から開かれる瞬間がやってくるのだ。(略)こうした体験をしたとき、舞台はもう作者や俳優たちが生み出した幻想だけにはとどまらない。それは私の過去と幻想迄が加わった複合的な作品となる。」(191頁)
演劇が個人的な想像から出発して、ついには他人をも巻き込む共同性への回路を開き、観客という他者とともに一個の劇宇宙を創りあげる演劇の本質を見事に言い当てている。

本書のなかで特筆すべきは、やはり唐十郎の演劇的展開を追ったところにあるだろう。それは状況劇場から唐組へという集団論にも通じている。紅テントを彩った多くの名花たち、屈強な男優たちがまるで今そこに姿を現わすかのように次々と活写されていく。李礼仙(現麗仙)、麿赤児、四谷シモン、大久保鷹、不破万作、十貫寺梅軒、根津甚八、小林薫、金守珍、六平直政、佐野史郎らの面々。こうした強者たちの跳梁が、もう一度ペンの力で呼び起こされる様は圧巻だ。

唐十郎の劇作の特質を「神話性」において捉えているところはすぐれた唐十郎論になりえている。『吸血姫』『二都物語』から『ベンガルの虎』『唐版・風の又三郎』へ連なる連作は、状況劇場のみならず演劇史上に残る「絶頂」だったことは、とくに熱い=厚い記述となって蘇ってくる。いわば集団論と作家論が合体し、演劇批評としてはきわめて充実した内容を持っている。

では、初期唐十郎に扇田氏は何を見ていたのか。一言でいえば、政治を通さない「革命」ではなかったか。それは左翼イデオロギーとは異なった類のものだった。約言すれは「生にはそれ自体を破壊せずにはおかない暗い衝動があるけれど、ぼくはこうした生衝動そのものが革命的だと思っている」(69頁)という唐自身の言葉と響き合ってくるだろう。
「当時、紅テントはあらゆる意味で、芸術的にも政治的にも社会的にも、強固な異物だった。町の真中にあらわれた毒花のような八角形のテントそのものが、多くの反権力的な象徴性をおびていた。」(153頁)
さらにそのテントの質について--「舞台は客席は互いに共感しあうのではなく、鋭く対決しなければならない。」(99頁)としながらも、「甘美な陶酔感の飛翔にひたすら身をゆだねたいとする陶酔願望型の観客を多く生み出してきた。(略)峻拒することによって逆に客をひきつけてやまないというダイナミックな交流をつくり出すところにこそある。」(112頁)と定義づけるのである。
こうした記述に続けて、扇田氏は唐の代弁者を任ずる。「『革新』のなかにあぐらをかいている血と痛みを忘れた『健忘症』、『匕首』を置き忘れたひよわな『芸術良民』性こそが侮蔑の対象だった。」(153頁)

ほとんど二人は一卵性双生児のように、一つの目標に向ってひた走る。これらを記述する筆者が実に幸福な時期を過ごしたことが手にとるように伝わってくる。創作家と批評家の幸福な「共犯関係」である。

だが、「幸福な関係」はそんなに長くは続かない。ある時期を境に、集団の衰弱をどこかで感じ取り、自身の心にも痛みと感じ、だがそれでもなお劇評家としてそれを冷静に見据えて表明しなければならないからだ。同伴期が幸福であればあるほど、その表明は辛い。もしかすると、それは「永遠の訣別」になるやもしれない。これは劇評家ならば、誰もが経験したことだろう。

そしてそれは75年に『妖鯨おぼろ』に訪れた。劇団員に詰め寄られた苦い経験について扇田氏はこう綴っている。
「演劇界という奇妙に狭苦しい小社会において困ることは、或る才能を高く評価すると、たちまち『……派』というレッテルを張られがちであるということだ。……批判や酷評が正当な作品レベルでの問題にならず、彼らへの『裏切り』として受けとめられてしまうのだ。」(378頁)

パーソナルな関係を要求してくる劇現場と付き合うことは、想像以上に難しい選択だ。ならば、徹底してインパーソナルな関係を貫けるかというと、そうもいかない。そもそも演劇というジャンルを選択することは、人間関係が「好き」だからであり、人間関係の深みに入らなければ、本当に面白く激烈な経験などもできないのだ。劇評家とは、人間関係にもみくちゃにされながら、それでも情に流されない「距離感」とそれを支える倫理意識のエキスパートでなければならない。

唐十郎の「新たな季節」は幻想が成立しなくなった80年代に訪れる。
「おそらく唐十郎は、かつてのようなロマンチックな劇作術では「現在」を描けないことを知っているのだ。」(257頁)
これは93年の『動物園が消える日』に寄せた一文である。唐十郎には幾つかの危機もしくは転機があった。「『少女仮面』をきっかけにして、ひたすら役者体に奉仕するこれまでの台本作者から脱して、むしろ完成度の高い戯曲によって役者を引っぱっていく劇作家へと成長していく」(319頁)最初期。

だがこれを機に、麿やシモンが退団する。70年代末には、人気絶頂の根津甚八、小林薫がマスコミに盗まれた。80年代に入ると、夫人であり主演女優の李との不仲から創作不振になり集団内部がギクシャクした。唐組を結成してからも、以前のような熱がテントに集まらず、暗闘が続いた日々。そしてここ五年ほどで「ルネサンス」と呼ばれる唐ブームが再到来していること。こうしたいくつもの「季節」を経て、終始変わらなかったのは、鈴木忠志が唐について記した言葉「おさな心の発露」である。この言葉を扇田氏は繰り返し引用しているが、唐十郎の「天才性」の裏側に「おさな心」を見てきたこと、それを何よりも大事に愛しんできたことが伝わってくる。

本書に即すれば、80年代後半以降の記述は、第七病棟を除けば、いささか薄くなるのは否めない。だがそれでも最後の新宿梁山泊の『風のほこり』を幕引きとして扇田氏は唐論を書き続けた。そこに扇田―唐の「友愛」があったことは言うまでもない。

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2007年01月23日

『歴史を知ればもっと面白い韓国映画』川西玲子(ランダムハウス講談社)

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[劇評家の作業日誌](22)

あなたは韓国という国を好きですかと聞かれると、なかなかうまく答えられない自分に気づく。好きでもあれば嫌いでもある。いや、そういう答え方では何も言ったことにならない唯一の国が「韓国」ではないか。隣国にはライバル意識や親密感、愛憎半ばする特別な感情が渦巻く。だがそれは案外歴史が醸成してきたものではないか。

2000年代になって韓国映画は新世代による表現の形式が変わってきたと言われる。それは若い世代の経験が新しい質を含んでいるからである。例えば、こういう記述が3年前にあった。「歴史と表現の間で」というタイトルのエッセイで、ソウル在住で演劇プロデューサーの木村典子氏は、『シルミド(実尾島)』と『ブラザーフッド(太極旗を翻して)』の大ヒットに際して、「韓国社会の歴史に対する視線が大きく変化してきていることを強く感じた」と指摘しているのだ(「シアターアーツ」04春号)。
90年代後半から始まる新しい韓国映画の動向が気にかかっていたものの、もう一つ全体像が見えなかったところ、それを一つの流れのなかで論じてくれたのが本書なのだ。その意味では、本書はわたしにとってまさに待望した本である。

本書は9つのテーマ別の章と9つのコラムによって構成されている。その主だった内容は、朝鮮戦争、軍事独裁体制、民主化とそれ以降、北朝鮮や在日問題など多岐にわたり、歴史の時系列を参照しながらフォーカスしている。しかしあくまで映画を入り口にしているから、決して肩肘張って論じているわけではない。むしろ庶民の視線を手放さないところが本書の語り口の特徴になっている。例えば、自分の小学生の頃に、ごく自然に教師の口から戦争が語られたこと、それは必ずしも「偏向的」な教師ではなく、生活レベルで戦争体験を語ってくれたのである。あるいは自分の住む町に住んでいた朝鮮の友達、そこに母親に連れられていく度に、なぜかその町の貧しさが記憶に残っていること。

本書は朝鮮人が描かれる映画に言及するところから開始されている。例えば吉永小百合主演の『キューポラのある街』(浦山桐郎監督)は、ごく隣人に朝鮮の家庭があった。その家族が朝鮮に引き揚げていくシーンは、今考えてみると、北への帰還だったことになる。必ずしも幸福でない彼らに共感をもって見つめる心情は日本人の一般的感情でもあった。誰にも幼い頃にあった感情をベースに、一つ一つの作品が読み解かれていく。今村昌平の『にあんちゃん』もその一つだが、2000年代になって、梁石日原作の『夜を賭けて』(2002年)になると様相は一変する。激しい感情が渦巻き、そこに在日のたくましいが、野卑で暴力に満ちた世界が展開されるからである。同じ作者の『血と骨』(崔洋一監督)は済州島から「君が代丸」に乗って大阪にたどり着いた韓国・朝鮮人の行動から開始される。在日の監督は、自らの手によって「歴史」を内部から描き出した。これは画期的なことである。この二本で興味深いことは、いずれも演劇関係者が関与していることだ。『夜を賭けて』の監督は劇団・新宿梁山泊の座長で演出家の金守珍。『血と骨』のシナリオは同じ劇団に在籍していた劇作家であり脚本家の鄭義信である。80年代から90年代に同じ劇団で演劇界を疾走した二人が、21世紀になって「在日映画」というジャンルを形成しつつある。

韓国映画の新局面は『シュリ』(1999)から始まったと言われる。ハリウッドばりのアクションと迫力のある映像、それは映画界の技術的革新に裏打ちされていた。その後、『JSA』(2000)や『友よチング』(2001)というビッグヒットが続く。もちろんそれ以前には巨匠林権澤(イム・ゴンテク)の『その丘を越えて--西便制』(93)など民族色豊かな伝統芸能を基盤とした作品も日本に紹介されている。だが「コリアンシネマ」の新しいムーブメントは圧倒的に若い世代に担われているのだ。彼らは戦後生まれである。韓国で「戦後」とは朝鮮戦争(1950~53、現在は休戦中)以後を指す。日帝支配の植民地時代(1910~45)の記憶を直接持たない彼らは、ベトナム戦争を間近に見てきた。その後、軍事独裁制の中で青春を過ごし、学生運動にも加わった、いわゆる「三八六世代」である。80年代の民主化闘争に関わり、60年代生まれで当時30代だった「若者」たちである。日本でいうと、闘争世代だった全共闘世代に相当する。だが日本でもそうであるように、闘争の波が表面的には引いていくと、彼らのエネルギーはどこか稀薄になっていく。民主化時代にあれほど過激だった彼らは、そのエネルギーをどこに向けていくのか。それが映画などの表現活動なのである。彼らは年長世代と違った描き方を始めた。『シュリ』や『JSA』が画期的だったのは、北朝鮮兵士を敵として醜く描かなかったことだ。それまでの人物像は紋切型で、北の人間は感情を持たない冷血漢だった。(ちなみに日本人はメガネをかけ、首からカメラをぶら下げた、金をばらまく嫌らしい存在として描かれるのが常だ。)だがこれらの映画で、北の人間は「カッコよく」スマートなのである。

韓国から個性的な俳優が出てきたことも表現の幅を広げることに貢献した。例えば、ソル・ギョング。決して二枚目でない彼は、『ペパーミント・キャンディ』の闘争に疲れた中年の男性や、『オアシス』では世間の価値観から外れざるをえない男の感情をぶつけた。ソン・ガンホは、『殺人の追憶』ではしがない刑事を、『大統領の理髪師』では政治に巻き込まれた庶民の感情を誠実に演じた。昨年公開された『グエムル--漢江の怪物』でも、普段はさえない男が極限状況で人間味溢れる活動に出るのだ。彼らの演技は促成栽培されたタレントのそれではない。じっくりと教育と演技訓練を受けた痕跡がある。

政治や歴史を扱った、つまり「真面目」な映画にはさまって、娯楽色豊かな「普通」の映画もつくられている。例えば『猟奇的な彼女』や『オールド・ボーイ』といった風俗やサスペンスを売り物にした作品だ。当然のことながら美男美女が活躍する。この延長戦上にTVドラマの「韓流ブーム」が湧き起こった。「近くて遠い国」は、本当に人間間の距離を縮めたのである。わたしの好きな映画に『ラブストーリー』(2003年)がある。親の世代で叶わなかった恋を成就させようとする物語。女優のソン・イェジンの可憐さは絶品だが、そればかりでなくストーリーの巧さも舌を巻く。これもまた韓国映画の特長ではないか。

わたしが初めて韓国映画に接したのは、1984年のイ・チャンホ監督の『風吹く良き日』である。この年に東京、名古屋、京都で開催された「韓日フェスティバル--マダンの宴」で自主上映されたものだ。このフェスティバルを唱道したのは、発見の会の瓜生良介氏。この本の記述では71頁に「ある演劇グループ」として言及されている。そこから良質な韓国映画を上映しようというアジア映画社という会社が立ち上がった。今日の韓国映画上映の隆盛の陰には、こうした小さな出来事の偶然が積み重なっている。

韓国映画の記述のなかに割り込むように演劇の参入を読みこんでしまうのは、わたしがあくまで演劇に関わっているからである。しかし演劇も映画も地下水脈ではつながっており、大ヒットした『殺人の追憶』は劇作家・演出家金光林が上演した『会いにきて』が原作であり、2003年にはソウルで映画の俳優たちの引っ越し公演を東崇アートセンターで見た。また映画の脇役にはわたしの馴染みの舞台俳優たちをよく見かける。『トンマッコルにようこそ』の作者チャン・ジンは、2年前に「韓国現代戯曲ドラマリーディング」で来日した。この映画にはチャン・ジン組と呼ばれる俳優たちが大挙して出演している。映画と演劇の関係の深さを知らしめるエピソードだろう。
 
この2月2日から4日にかけて、第三回目「韓国現代戯曲ドラマリーディング」が世田谷パブリックシアターの小劇場シアタートラムで開催される。わたしはその関係者の一人だが、韓国の文化や芸術に興味を持つ方は是非一度のぞきに来ていただきたい。

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2006年05月15日

『唐十郎-紅テント・ルネサンス! 』唐十郎(河出書房新社)

唐十郎—紅テント・ルネサンス! 劇的痙攣 風のほこり
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[劇評家の作業日誌](15)

 唐十郎の著作が一挙に3冊刊行された。戯曲、エッセイ、アンソロジーと多種多様だが、改めて唐氏の現在が確かめられて興味深い。
 ここ数年、唐氏へ熱い注視が再びそそがれるようになり、巨大な唐宇宙の謎を解き明かそうと、多くの論者が躍起になって知恵を絞っている。『唐十郎 紅テント・ルネッサンス!』(河出書房新社)で唐氏と対談している坪内祐三氏の以下の発言は、唐氏の核心に実によく迫りえた言葉だと思われる。その一つ、「本質的な読書家としての唐さんをもうちょっと世間にアピールしたいですね。……本を読むというのはとても創造的な……もっと興奮させる行為なんですね」(22頁)。その二つめ。「唐さんは東京言葉を文章化できる最後の人って気がします。……東京言葉というきちんとしたネイティブな言葉があって、それを駆使して芝居をつくっているのは唐さんしかいないのではないか」(24〜25頁)。そして三つめ、「唐さんのやっていることが現在形ということはもちろんですけど、そこで上演されている唐組の今のお芝居も現在形なんですよね」(16頁)。
   この三つのキーワード、「本質的な読書家」「東京言葉」「現在形」はそのまま唐世界を読み解くキーワードでもあるだろう。
   昨年、唐氏は近畿大学文芸学部の客員教授(現在は国際人文科学研究所特任教授)に就任し、わたしは1年間、計8回の公開「特別講義」の進行役を務めたが、その時わたしが抱いた感懐は、そのまま上記の三つのキーワードとぴったり重なり合うものだった。冒険小説やメルヘンについて語り、三島由紀夫や加藤道夫らの戯曲に言及していく中で、唐氏は驚くほどの<読み>を披露してくれた。しかも関西の大学生(一般人も相当数含まれていた)の前で、下町の生きた日本語としての「東京言葉」が語られたのだ。その語りは、今では失われてしまった東京の光景をイメージ豊かに立ち上げていくのである。言葉が次々と連想を喚び、ポリフォニックな空間が教室の隅々にまで広がっていくさまは、まさに圧巻だった。そこで語られていることが昭和五年(1930)の東京浅草であろうとも、そこに生まれてくる言説空間は「現在形」として居合わせた者たちに共有されていくのである。
   『劇的痙攣』というエッセイ集では、彼の創作の秘密が語られている。本書のために語り下ろされたであろう同名のエッセイは、唐氏の最新論考であり充実した演劇論になっている。「攣」という文字の成り立ち、すなわち「言」を左右から「糸」という文字でつなぎ、「言霊を手の平に受けて、他者に差し出す」行為は「表現者の原点」そのものだという。その「痙攣」からシュルレアリストたちの「痙攣的美」に移り、ドストエフスキーの『白痴』の「ひきつる」主人公や自作『ジョン・シルバー』へと飛躍するあたり、例によって、この作家の独壇場のイメージ遊びなのだ。その中で唐氏が今回引き出してきたキーワードの一つは「縫い代」である。作家−役者−観客をつなぐ回路として発見した「クリニョテ」clignoter というフランス語は、「ろうそくの炎のゆらめき、はためき、しばたたく」意味である。唐氏は作家から役者、観客に直線的に意味が伝達されるのではなく、むしろ「縫い代」のような曖昧な合わせ部分、中間領域が束の間発生し、そこで「僕自身と僕の中の他者、そして現実の他者」(104頁)が混じり合っていくさまが記述されている。おそらく状況劇場から唐組まで一貫して変わらぬ「創造の現場」はこのようにしてつくられてきたのではないか。唐十郎という天才がすべてを仕切るのではなく、役者やスタッフとの持ちつ持たれつの相互関係で劇の現場を保証する時、そこに演劇創造のダイナミズムが生まれるのである。
   この本の各章に目を配ってみると、3人の「犯罪者」について記されていることに気づかされる。佐川一政、宮崎勤、酒鬼薔薇聖斗の3人だ。犯罪はしばしば時代の病理を剔抉する。とくに宮崎勤についての記述には、唐氏も苦戦した1980年代の謎が隠されていて示唆に富む。その手がかりの1つは「ブラウン管の母胎論」というものだ。「極大の豊かさを誇る日本に於て、極小のビデオ空間に安らぎをみつけようとする若者が多い」が、実際のブラウン管は「母胎の安らぎとは縁遠く」、一種の「無菌室」だという。「おたくとは、この『無菌室』のこと」だと唐氏は喝破する。唐氏が武器にしていた「紅テント」もまた「母胎」のメタファーで始まったが、それは雑菌だらけのノイズに満ち満ちた「母胎=子宮」であり、それが1960年代のシンボルとなった。ところが、時間は奇妙に一巡してしまった。他者とのつながりを求めて「縫い代」を編み出した唐氏は、それから約20年経って、他者の介在を一切拒否し、無菌室に「こもる」若者と相対さねばならなくなった。こういう若者はやがて紅テントの観客に混じってくる。そこでどんな「挑発」の切り口があるのだろう。80年代を「多幸症の時代」と言う唐氏は、記号化されのっぺりとして表情を欠いた時代にしばしば困惑で立往生せざるをえなかったという。「消費大衆」の始まりだ。その頃からだろうか、唐氏の戯曲の中に、彼自身の幼い時代の記憶が呼びこまれ、一種の黄金郷が登場するようになったのは。
   昭和5年の浅草を舞台にした戯曲『風のほこり』が新宿梁山泊に書き下ろされ、時を同じくして、この時期に擡頭した紙芝居屋の成れの果ての姿を描いた新作『紙芝居の絵の町で』(『紅テント・ルネッサンス!』所収)が書かれたのは偶然だろうか。満州事変に始まる「十五年戦争」の前夜、まだ時代はエロ・グロ・ナンセンスで方向の定まらぬ時代でもあった。庶民は漠然とした不安にかられながらも、まだ大丈夫だろうとたかをくくっていた時代だった。カジノ・フォーリーが栄え、浅草の芸人たちが最後の輝きを放っていた。そこでのしがない作家志望の女性(実は作者の母)をめぐる物語。紙芝居屋が活躍するのも程遠からぬ頃である。だが両作品を結びつけるのは、なんと「眼」なのである。片や 「義眼」であり、片や「使い捨てコンタクトレンズ」。そしてこの仮そめの「眼」こそが、時代の風景を記憶し、それゆえ「使い捨てられない」のである。人間が風景を記憶するのではない。物質にこそ記憶が宿るのだという逆転が、唐十郎の世界なのである。ここに一貫して変わらぬ劇作家の独特の「読み」があり、時代という書物を「誤読」し、誰も考えつかない未来の書物の一頁を開けてしまうのだ。現在が見失った記憶が召喚され、過去の事象に流されて忘却の淵に消えかかっているモノたちが一斉に息を吹き返して跳梁する空間こそ紅テントなのだ。  『紅テント・ルネッサンス!』には、堀切直人や室井尚ら気鋭の論客に混じって、土方巽や寺山修司、種村季弘や渋澤龍彦ら唐氏が敬愛してやまなかった兄貴分たちの文章が再録されている。それはまるで彼の地から現在の唐十郎へのエールであり、「お前だけが頼りだぞ」と言っているようで何だか微笑ましく思えてくる。

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2006年04月19日

『才能の森—現代演劇の創り手たち 』扇田 昭彦(朝日新聞社)

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「劇評家の作業日誌](14)

 現在の演劇評論を代表する扇田昭彦氏は、もっとも多産な批評家の一人だ。すでに10冊以上の著書を持ち、60年代以降のアングラ・小劇場運動を世に知らしめた最大の功労者であることは周知のことだろう。1976年の『開かれた劇場』以来、10人の演劇人との対話集『劇的ルネッサンス』(83)、劇評集『現代演劇の航海』(88)、新書版の『日本の現代演劇』(岩波新書、95)や『舞台は語る』(集英社新書、2002)など、彼の著書を通じて批評史をたどってみると、現代演劇の推移と里程標がよく見えてくる。さらにミュージカルについての著書も数冊あり、今上演されている舞台への目配りの広さでは他の追随を許さないだろう。
 その扇田氏が、これまで親交の深かった24人の演劇人たちの人物評をまとめたのが本書である。肩肘張った「論」ではなく、あくまで人となりを綴った「評」だけに、著者の資質が思いがけないところで引き出されているのが特色だ。
 劇評という「論」には舞台と対決し、言葉で相手(舞台、演出家等)を捻じ伏せようという態度が前面に出てしまうことが多い。とくに批判する場合は、それが顕著だ。だが人物を語るとき、それが少しだけ和らぐ。「作品を憎んで、人を憎まず」という言葉があるように、批評は仮に作品を批判しても人格攻撃ではなく、むしろ批判するほど愛情に溢れた場合が多いのだが、これがなかなか創り手と共有できない。それ故、批評についてのトラブルは枚挙のいとまがないほどだ。批評家と創り手の関係がこれほどナーバスなジャンルは演劇批評以外にないのではないか。舞台は実際の生身の人間が演じるという原理から始まって、劇場に行けば必ずそこに当事者がいるからである。この生きた関係はひどく生臭く、かつ人間的だ。この濃密な関係は現在の希薄になったといわれる人間関係のなかできわだって異色である。本書ではそのトラブルを紹介している件が参考になる。例えば扇田氏が敬愛してやまない安部公房との関係。「ほめたくて仕方がなかったのだが、運悪く、評価できる舞台ではなかったのだ」(159頁)といっていつも批判ばかりしてしまった劇評家と創り手の皮肉な関係、それが終生回復できなかったことを氏は悔いとして残している。あるいは『劇的ルネッサンス』を編むにあたって、それまで親交の深かったつかこうへい氏が断ってきたというエピソード。彼は誇りが高く、他の演劇人と「横並び」になることに同意しなかった。その「横並び」のメンバーとは寺山修司や唐十郎、別役実といった年長の錚々たる顔触れだった。この挿話は、演劇村に馴染まなかったつか氏のその後の“孤立”を予見させるものがある。批評というペンの権力は、時として相手を傷つけ、関係をぎくしゃくさせる。劇評家を職業とするということは、それほどまでにナイーヴで繊細な人間関係を生きることであり、一種の人生訓、つまり生き方まで教えてくれるのだ。
 この本はどこの章から読み始めてもいいし、自分の関心の赴くままに頁を繰ってもいい。そこでわたしは、初めて知った事柄を中心にランダムに博捜してみたい。
 寺山修司の最後の願望が「歌舞伎の台本を書きたい」ということを知って、意外に思う反面、得心する部分もあった。前衛劇を志向し、自身の生涯が「実験」だった寺山だが、その一方で彼の実験の底には「大衆性」や芸能精神があった。それを見抜いた蜷川幸雄が『身毒丸』を演出したことは単なる思い付きではなかったのだ。寺山の遺志は野田や串田、蜷川らに引き継がれた。もし今存命なら、彼はすすんで歌舞伎の演出をしたことだろう。
 井上ひさしについての章も興味深い。無名作家から一挙に売れっ子作家になった井上とは朝日新聞の編集委員としての付き合いがあった。連載していた文芸時評のやりとりのさい、こまやかな心遣いでもてなしてくれた好子夫人との関係。それが次第に険悪になっていく井上夫妻の変貌。しかし『薮原検校』や『天保十二年のシェイクスピア』など傑作を書いていた時期を、同伴者として氏は懐かしく思い出すのだ。束の間ではあったが、日本を代表する作家の珠玉の作品を間近にした経験は氏にとって掛け替えのないものだったろう。作品を誰よりも早く見出し、作家の成長を見守り続ける。劇評家の喜びとはこのことを措いてない。自分は決してリングには上らないが、つねにセコンドやトレーナーとして立ち会い、そこで奮闘する創り手にエールを送る。時には筆の力で彼らを世に送り出すこともある。事実、扇田氏は1968年から2000年まで「朝日新聞」の第一線の演劇記者として劇評を執筆し、当時無名だった同世代の才能たちを次々と世に送り出していった。その最たる者は唐十郎だろう。「唐の紅テントが健在である限り、一九六〇年代以来のアングラ演劇はまだ続いている」(16頁)という一説は、扇田氏の心情とも重なってくる。1969年の夏、状況劇場の旅公演に“取材”と称して一週間ほど同行した時の記録は、後に「状況劇場南下す」というドキュメントにまとめられた。これは当時のアングラの冒険的な行動の記述としては絶品のものであり、彼らの行動へ寄せるシンパシーは、明らかに新聞記者という領分を超えていた(実際に切符のモギリまでやっていた)。だがそこに扇田氏の批評の原点があることは確かであり、「私にとって忘れがたく楽しい旅だった」のである。
 本書は個人的な目線から語り起こされていることで、思わぬ記述にニヤリとさせられる。例えば、太田省吾氏の章で、「一九六〇年代に小劇場運動を始めた第一世代には、長身の劇作家や演出家が多い。」(39頁)とした上で、鈴木忠志は180センチ、別役実は 「痩せぎすの179センチ」といった具体的な数字をあげ、寺山修司は175、6センチだったが、共同演出のJ.A.シーザーが180センチあったために、「いつも踵の高いサンダルをはいていた」という一説を紹介している。そして「堂々とした長身であることが、劇団指導者としての彼らのカリスマ性を強め、持続させる一因になっていたことも確かである」。ちなみに当の太田氏も180センチである。
 最後に二人の“同志”で本書が締め括られていることに着目したい。
 その一人は編集者であり晩年に役者に“転身”した故・畠山繁氏である。彼は雑誌「新劇」の編集長を68〜73年に務め、雑誌の名称とは裏腹にアングラ・小劇場運動の最盛期を準備し加担した。扇田氏が大メディアで果たした役割を専門誌の側から推進したのが畠山氏だったのだ。そのシンパシーが文章をいささか熱い心情で濡らしていくが、同時代の戦士という思いはことの他強かったのではないか。もう一人の“同志”は同じ批評家の大笹吉雄氏である。60年代以降、同世代として批評活動を開始した二人は、やがて違った道を進み、ある意味で両極を行く批評家となった。大笹氏は歌舞伎の専門誌の編集者として出発したが、10年ほどで退社し、フリーになって筆一本で自立していった。だがフリーの立場で演劇評論を持続する困難さは、同業者だけにいたいほどよく知っている。 「人づきあいがうまくない」大笹氏のことを気にかけ、新聞原稿を依頼し、生活をどこかでサポートしたいという心情が働いていたことだろう。離合集散の多い演劇界のなかで、こうした友情と連帯が成立したことは稀有なことだ。「本質的に長距離ランナー」の大笹氏と、「短距離走者型」の自分という比較対照も面白い。大笹氏は国際演劇評論家協会の会長を務め、その後任が現在の扇田氏である。
 わたしも4年前に類書を出したことがある(『ドラマティストの肖像−−現代演劇の前衛たち』)。しかしわたしの場合は「論じる」ことに傾くため、どうしても対決の姿勢が前面に出てしまい、いきおい「同志」的な者たちを選ぶ傾向にあった。しかも本書の副題にある「創り手たち」と違って、「前衛たち」である。わたしが選んだ15人と本書で重なっているのは、千田是也、蜷川幸雄、太田省吾、松本雄吉、野田秀樹のわずか5人にすぎない。これも扇田氏とわたしのスタンスの違いを示唆していて、改めて自分自身の批評家としての生き方を考えさせられた。

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2006年03月20日

『なにもかもなくしてみる 』太田 省吾(五柳書院)

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「劇評家の作業日誌(13)」

 今回は昨年から読み進めていた本書をとりあげよう。
  太田省吾氏は、1960年代以降の現代演劇を代表する劇作家・演出家であり、77年に発表された出世作『小町風伝』以来、「沈黙劇」で知られる前衛的な演劇人である。この演劇エッセイ集は、随想というより、著者自らが言うように「試論」ともいうべき性格を帯びている。
   太田氏は一貫して「実験的な演劇」を追求してきたが、エッセイはその実験を理論的に考察するものである。この文章のスタイルをとることは、<私>性から出発することを原則とし、いわば身辺雑記風に書き始め、身近にある小さな発端から、次第に演劇や芸術の核心に迫る道筋をたどる。彼は60年代に演劇を開始したアングラ・小劇場の同世代人と同様に、自らの舞台を率先して言葉にし理論化してきた。新しい演劇の探求は、そのまま未知なる領域への踏査であり、演劇の新しい形式の発明だった。そのために、自らの演劇の“新しさ”を他者=読者に向けて論として構築する必要があったのだ。したがって、彼の何冊もの演劇論集は、アングラ世代の闘いの痕跡とも言えよう。
   では彼は何に対して闘ってきたのか。大きな壁として立ち塞がっていたのは、近代演劇としての新劇である。明治以降、日本近代は西洋文化の輸入とともに歩んできた。その背景には、言葉=文学に閉じこめられた演劇を身体の側に奪回しようとする問題意識があり、それはそのまま「近代批判」の有効な切り口となった。太田氏は本書でその先に新たな展開軸を見出そうとしている。
   本書は2本を除けば、概ね90年代半ば以降に書かれたものである。つまりこれを読めば、彼がこの10年間に演劇を通して何を考えてきたのかを知ることができる。それを一言で要約するならば、思考のパラダイムの大転換というところに集約されるのではないか。
   例えば、著者が繰り返し述べているのは、あるテーゼに対して反を唱えたところで所詮、同じ盆の上での議論に過ぎず、その外に出ない限り、有効な議論にならないという思考の枠組みである。「そこでは、<正−反>、<規範−反規範>の対立のどちらかの立場をとるかということによってしか語れない思考枠自体が、近代以降の社会を制圧している<体制>であり、<反><反規範>は、その体制の形成者の一人であるにすぎない」(110頁)。
   わたしなりに噛み砕いて言えば、戦後社会は自民党と社会党の二大政党の対立によって展開されてきたように思われるが、実はこれは持ちつ持たれつの共犯関係であり、保守政党の体制を本来批判するはずの革新勢力が本当の意味でその役割を果たせず、むしろ補完していたという構図に似ている。社会党が一時的にせよ政権をとった1994年に二大政党政治は終焉を迎えるが、それと同時に、思考においても大転換が開始されたのだ。95年に阪神大震災と地下鉄サリン事件が起こったことは決して偶然ではない。この二つの事件は戦後社会の空洞をもろに露呈させた事件として知られているからである。
   太田氏の論考は、この95年以降の有力な思考のパラダイムを探すことに集約される。その思考スタイルとは、従来の見方や自明とされている枠組みに対して目を凝らすことで、その内側から自明性を壊していくという手法である。簡単に言えば、思考モデルの引っ繰り返しであり、発想の転換、図と地の反転とも言えるだろう。
   太田氏は自らの演劇論の骨子について「テンポの遅さ」と「沈黙」を挙げている。両者とも今日の情報化社会においては、負の価値を与えられたものである。合理性を追求し、雄弁に事象を語ろうとする時代の支配的価値観には、太田氏の手法はいかにもまどろっこしく映る。だが彼の主張は、一般に通用している価値観にショックを与え、逆転を狙っているわけではない。もしそうだとすると、沈黙劇は饒舌で濃密な劇からほっと一息つく 「癒し」にしかならないだろう。つまり、ある支配的な価値に対する従属的な価値を補強しているに過ぎなくなるのだ。かつての60年代の文化論で言えば、中心と周縁の位置関係に置き換えられる。周縁的な営みが、枯渇した中心を活性化することで、やがて中心に取って代わるという構図である。
   だが太田氏は、「遅い」ことそれ自体で価値を持てないか。あるいは「沈黙」もまた饒舌に対する反語でなく、それ自体に独自の価値を付与できないか、それを肯定的に語る文脈を探すことが彼の中心的なテーマなのだ。その時、彼は中心的・支配的価値観の方が 「狭く」、そこから排除されたものの方が宇宙論的には「広い」と考える。この思考の布置の逆転にこそ太田氏の思考の原点がある。
   例えば、人間の生命はたかだか百年を超えない程度のものであり、「人生の全体には意味がないが、一瞬一瞬には意味がある」といったジャンケレヴィッチの言葉がしばしば引用されるが、一瞬のなかに無限や永遠の相を見ようとする視点は、かえって広い領野に人を連れ出す。考えてみれば、社会的価値とは近代の思考の産物であり、生命や存在の物語はもっと大きな時間軸を射程している。ここにも思考の布置が逆転されているのである。
   太田氏の言説は演劇というフィールドに留まらない広さがある。それは今日の芸術全般に当てはまる事柄であり、芸術全体が陥っているアポリアに演劇の側から明確な視点を提示してみせたと言えるだろう。
   では演劇の特性とは何だろう。彼は、「演劇とは消えていくもの、その脆さに出会うということ」に至高の価値を置く。それは儚く脆いものであるがゆえに、その出会いの一瞬が実に得難いのであり、充実した時間をほんの束の間味わうことができるのだ。もう一つ、彼がこだわるのは、身体性である。亡き能評論家・戸井田道三氏は自分で演じることはしなかったが、見るときに「身体をつかった目」を持っていることに信頼を置いた。演劇というライブの表現はやっかいなことに、そこにいる人物のウソがたちどころに見破られてしまう。そのさいの基準は唯一つ、その俳優がきちんとした<身体>をもって行為しているか否かに尽きる。観客は俳優の呼吸やその波動に敏感に反応し、そこでのまやかしを見逃さない。こうした熾烈な現場で日々演劇はとり行なわれるのである。
   このように、本書は著者が舞台のなかに<宇宙>を見ていくことで展開されていく。だが太田氏に明確な回答があるわけではない。あくまで世界や宇宙への仮説を述べているに過ぎない。だから「試論という<エッセイ>」なのだ。それは絶えず読者に向けて「問い」として開き、成否が検証される。多くの文章が疑問形をとって投げ掛けられているのはその表われだ。そして彼の最後の「問い」は「人はどういうことをしないでいゐれないだろう(か)」という宮澤賢治の言葉にたどり着く。「何をなすべきか」という能動ではなく、すべての行為を引算していって何が残るのか。その受動性こそ人間存在の本質なのだ、というのが太田氏の持論である。その究極の「問い」が最後の章に置かれていることに深い含蓄がある。
 

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2006年01月18日

『笑わせる側の人生』矢野誠一(青蛙房)
『酒場の藝人たち 』林家正蔵の告白(文春文庫 )

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「劇評家の作業日誌 12」

 演芸や芸能という言葉は今どのように受け止められているのだろうか。長らく芸能の世界で批評やコラムを書かれてきた矢野誠一氏の新著は、この問題をいろいろな面から考えさせてくれる。
 著者が格別気に止めているのは「藝」という文字だ。「芸」ではなく「藝」。「藝能」にしろ「藝術」にしろ、俳優や語り手はまず自らの「藝」を見せるものである。そこからすべてが始まる。
 なぜこうした「藝」が生まれてきたのか。それを今は廃れつつある「寄席」の著者自身の遍歴に始まり、そこで取り交わされる「話藝」に視点が移り、最終的にスポットが当てられてくるのが「藝人」つまり「人間」なのである。三章立てから成る本書は、一本一本が折にふれて書かれ、それぞれ独立した小論になっている。けれど、これは評論というより、むしろエッセイというジャンルこそがふさわしいように思われる。常磐晋平氏が『酒場の藝人たち』の解説でまことに的確に書き留めているように、このエッセイの特徴は 「矢野誠一が、『いささか恥し』そうに登場している」ことにある。
 例えば氏が、麻布中学・高校に通いながら寄席や演芸場に頻繁に通ううちにいつのまにか好きが昂じて舞台についての文章書きになってしまったこと。十代にうちに「すえた空気」が立ち篭める劇場、映画館に通いつめ、そこで「すれっからし」の大人たちに出会って、寄席や演芸の見方を体得していったことなど、わたしにも思い当ることが多かった。
演劇評論という同じ業種ゆえの共感も少なくない。都会に育ち、まともな線からちょっと外れた者たちの生き方には、多かれ少なかれこうした体験を持っているのではないか。生産手段からいちばん遠い演劇や芸能などの、しかも批評に向かうのは、どこか共通した側面があるように思われるのだ。
 矢野氏は徹底した都会派であり、いなせな着物姿が似合う旦那である。こうした旦那衆が客席にいたことで、かつての芸能は発展してきたのだと得心させられる。
 では矢野氏の批評(この言葉はあまり氏の文章には似合わない向きもあるが、ご容赦願おう)の源基はどこにあるのか。そこで前述した「藝」という言葉へのこだわりに行き着く。「悪場所的な匂いと無縁でいられなかった寄席を仕事の場としている藝人」たちが醸し出す特有の匂い。文学者との対比で「藝人」を次のように定義する時、哀感もまた滲み出てくるのである。
 「醒めた目で見通して、あえて余計者や負け犬の姿勢を選択してみせた文学者たちと、いつの時代にも余計者や負け犬の立場にあることで、居心地のいい自分たちの閉鎖社会をつくり出し、いちばん楽な姿勢で生きることが、時代の変革に対する的確な対処のしかたであることを、感覚的に察知していた藝人たちとの、必然的に現われた相違でもある。」(41頁)
 文学者が変革の思想をもって果敢に権力と闘ったのに比べ、現状に寄り添い、生き恥をさらすような体たらくを装いつつ、その実したたかに生き延びていく「藝人」の身の処し方こそ「抵抗」の別の生き方ではあるまいか。「芸術」の歴史の舞台に登ることなく消えていく無名の「藝人」たちを氏が愛してやまない理由がここにある。
 だが本物の文学者は、「藝」の本質を見抜いていた。谷崎潤一郎はその一人であろう。「ちゃきちゃきの江戸っ子の血が流れ、自身江戸趣味のひとであった」谷崎は関東大震災の後、関西に移り住むようになったのは、江戸の香りが震災によって破壊されたからである。江戸趣味とはここでは東京のローカルな文化というより、資本主義が席捲する前の 「藝能」の別名であろう。言うなれば、この「藝能」の精神は江戸趣味といったものを超えて、どこまでも日本文化の根っこにまとわりついてくるものであろう。近代文化が文学者の「政治的身ぶり」によって代表されるならば、演劇や芸能とは、その手前にあって、もっと根深い「抵抗」の精神を体現しているものである。それを決して声高でなく、むしろ軟弱な戯作者の立場から光を当てていくのが、矢野誠一の批評の真骨頂なのである。この対比は今でも有効である。ありし日の「本牧亭」を活写する筆致などには失われていく文化に対する哀悼以上のものがある。
 第二章の「話藝の周辺」に関しては、わたしは水戸芸術館の機関誌「WALK」で断片的には読んできたが、今回まとめて通読してみると、興味深い題材に溢れていることに気づかされた。例えば「朗読」や、「声色」と「声帯模写」の違い、などだ。松尾貴史の声帯模写は「いかにも永六輔のしゃべりそうなコメントを、松尾貴史が創作して、それを永六輔風にしゃべってみせる。そのしゃべり方に松尾貴史の永六輔観が投影されることになって、藝としての人物論に昇華されるのだ。」(116頁)
 古川ロッパが生み出したといわれる「声帯模写」だが、ここには作家性にまで昇華された声の藝がある。マルセ太郎の項については、屈折した観客の心情が伝わってきて哀切がある。彼は猿の形態模写で人気をさらったが、その「売れた藝」をあえて封印する。そして「マルセ太郎という藝人の、すぐれた藝を理解するのはごく一部の限られた客であってほしい」と思いつつ「メジャーな藝人になったとしたら、それはマルセ太郎の存在証明を否定することにもなりかねないのに、どこかでそれを望む気持を捨て切れない」という屈折した思いである。「マイノリティ」としてのマルセ太郎には、藝人の側から世間を見返す階級性が存在するのだ。
 上野鈴本演芸場の火事から「転換期にある落語はすでに崩壊に瀕している寄席」の問題を引き出す箇所も興味深い。(132頁)寄席という小劇場の産物はラジオやテレビといったよりメジャーなジャンルにとって代わられてきた。だがそれも「姿かたちが変貌しつつあるということだろう」(136頁)とあっけらかんと肯定していくあたり、氏はジャンルの崩壊と再生を紙一重と考えているのかもしれない。滅びるものは滅びてもいい、残るものだけが藝能でもあるのだ、といった氏のまなざしを感じるのである。
 第三章の一種の「藝人列伝」は、林三平やトニー谷、藤山寛美など懐かしい名前がずらりと並ぶ。そのなかで、浅草の藝人たちへの言及が多いのは当然だろう。浅草とは滅びてしまった藝能の宝庫であり、だからこそ記憶が手招きして哀切をきわめるのである。
 わたしは年末から年始にかけて、新宿梁山泊の『風のほこり』を二度見た。劇作家・唐十郎が自分の母をモデルに、昭和5(1930)年、浅草の芝居小屋で、当時の作者部屋(文芸部)で働く若者たちの内幕を劇化したものだ。昭和5年といえば、日本の軍国主義が擡頭し、満州事変に始まる「十五年戦争」の前夜であり、その一方でエログロ・ナンセンスが隆盛をきわめ、浅草藝人らによって大衆演劇が演じられていた。本書でも扱われているエノケン(榎本健一)やロッパ(古川緑破)らが活躍し、カジノ・フォーリーという伝説の劇団も存在した。
 舞台は戦争に突入する不穏な予兆とともに終幕を迎えるが、何かが崩れ落ちていく気配が鮮烈に心に残った。それは本書のなかで通奏低音のように聞こえてきたものと同根のものであった。

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2005年12月19日

『アリラン坂のシネマ通り』川村湊 著(集英社)

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「[劇評家の作業日誌](11)」


 今年は韓国映画の新作旧作の上映がことの他目についた一年だった。
 池袋・新文芸座での韓国映画特集に始まり、新宿・シネマスクエアとうきゅうでの連続上映、12月に入って大阪での「韓流エンターテインメント」(シネ・ヌーヴォ他)など、わたしが気がついただけでも相当の数に昇るだろう。そればかりか都内では毎月のように新作映画が封切られ、現在上映中のヒット作『私の頭の中の消しゴム』や『親切なクムジャさん』まで含めると、「韓流ブーム」はついに映画にまで及んだと言えるのではないか。この一年でわたしが見た韓国映画は30本近くになる。
 そんなわけで韓国の同時代の映画史をまとめて知りたいと思っていたところ、「韓国映画史を歩く」と副題の付いた本書を手にした。著者の川村湊氏は、文芸評論を専門にしている研究者であり批評家だが、釜山の東亜大学で教鞭をとられたこともある韓国文化の専門家だ。ちょうどわたしも、今年の五月に『韓国演劇への旅』(晩成書房)という評論集を上梓した。韓国についての著作もずいぶん増えてきたが、芸術や文化についての専門書はまだまだ少ない。
 この本の妙味は、ソウル市内に映画街が出来、その「シネマ通り」を散策するように、韓国映画史を開陳していくところにある。「極私的な韓国映画論」と著者自ら語っているように、これは体系的な歴史記述ではなく、著者の好みが存分に反映された読み物になっている。しかも氏自身、必ずしも映画の専門家でないから、自由自在に対象作品をチョイスし、映画から越境した同時代文化の批評にもなっているところが興味深い。わたし自身、韓国映画そのものというより、映画を通して韓国の歴史や文化に関心があるので、本書の利用価値は量り知れない。刺激的な映画評論を読めたという喜びと同時に、韓国演劇の実際を知る者としては隣接領域から教えられることの多い本だった。
 ここでわたしは本書から知りえたことを断片的に取り上げてみよつと思う。シネマ通りを自由気ままに歩いてみたいからだ。
 まず昨今の韓国映画の隆盛がきわめて短い間に達成されたことを知った。とくに2000年前後から大ヒットが続き、次々と興行収益を塗り替え、映画産業が空前の好景気になってきたことはまるで韓国経済の躍進を見ているようだ。映画に対する国家助成が整備され、優秀な若い世代が続々と登場し、そのほとんどがアメリカに映画留学し修行してきたえりーと監督である。これは興行と芸術を両輪として考える新世代の登場を意味するだろう。彼らはいわゆる「386世代」と呼ばれ、激動の80年代を学生として過ごし、そこでの闘争と反抗の経験を基盤に映画創作を開始したのである。現在40歳前後になっているが、ちょうど演劇界も同様なことが起こっていることもあって、ある種の同時代性を感じる。
 また南北分断による政治の不幸が数々の秀作を生んでいること、38度線をめぐる攻防がいまだ熾烈を極め、若い芸術家たちの想像力を刺激してやまないことは演劇界と似ている。そこには「最前線」で闘う者たちだけが持ちうる共通の問題意識がある。だがやはり映画ならではの発見は、例えば北朝鮮を描いたなかにあった。『シュリ』(99年)や 『JSA』(2000年)は韓国の観客動員を塗り替えたヒット作だが、これまでの北朝鮮の描き方と違うという。「『シュリ』は、北朝鮮の人間を“カッコよく描き、『JSA』は、“人間的”に描いた。それによってこの二つが“北朝鮮”の人間が登場する、「反共映画」のパターンを脱した映画作品となったのだ。」(109頁)つまり、これまで冷たい感情を持った北の兵士たちが意外にも人間臭く、血も心も通った人間として描かれたのである。なかでも一癖のある俳優チェ・ミンシクや人間臭いソン・ガンホの存在が大きかった。この二作を見た金正日の感想が面白い。「『シュリ』に対しては不快感を示したが、『JSA』については好意的だったという。金正日氏にとって、自分より“人間的”な人間がいてもかまわないが、自分よりも“カッコよい”人物がいることは許し難いことだったのではないか。」(110頁)
 金書記長に関してこんな記述もある。彼の『映画芸術論』、とりわけ「種子理論」というのは、はアリストテレスの『詩学』以来の世界的に重要な芸術論になっているらしい。
スターリンもまた芸術理論家だったが、金氏もまたそうなのである。
 金大中による「太陽政策」の影響もあるだろうが、上の世代が敵対視し、硬直した姿勢が緩和され、柔軟になってきたことは確かだ。政治的現実を描くことに汲々としていた時代から、明らかに“芸術的”に重心を移動させているのである。ここに韓国映画の飛躍と発展の理由がある。
 北朝鮮に拉致されて実際に映画も撮ったという申相玉の存在も面白い。彼は現在、アメリカに在住しているが、北と南で映画製作に関わり、スパイ顔負けの変わり身の早さで、生き抜いてくるあたり、芸術と人生を考えさせられる。
 本書で個人的に興味深かったのは、川村氏が「わが愛する監督編」の最初に李長鎬(イ・チャンホ)の名前を挙げていることだ。実は1984年、発見の会の瓜生良介氏の提唱により、「マダンの宴」という催しに関わったことがある。「韓日フェスティバル」という枠組みで演劇や映画を招聘し、東京、京都、名古屋などで開催されたものだ。この時、発見の会のメンバーは李氏の新作映画『風吹く良き日』(80年)を上映した。わたしが現在の韓国の“今”の息吹きを感じた初めての映画だった。李はこの80年代前半に『暗闇の子供たち』(81年)、『馬鹿宣言』(83年)を立て続けに発表し、一躍韓国を代表する映画作家になった。後二者はいずれもファン・ソギョンの作品が原作となったもので、今から思うと、この二人の組み合わせはなるほどと納得がいく。ファン・ソギョンは北に越境するなど破天荒な行動でもっともラディカルな小説家だからである。
 80年代に「馬鹿ものたち(バーボドウル)」の系譜が韓国映画の地下水脈をかたちづくっているとしたら(54頁)、韓国を代表する劇作家李潤澤にも『馬鹿嫁(パボカクシ)』というタイトルの作品があることを想起した。彼もまた演劇の側でアンダーワールドの血脈を受け継いだ演劇人だからである。
 韓国映画の巨匠林権澤の『風の丘を越えて−−西便制』で好演した金ミョンゴンは、 「マダン劇」の代表的な劇団「アリラン」の座長であり、前国立劇場の芸術監督でもあった。彼は70年代に金芝河らの民主化運動の影響を受けて演劇活動を開始した一人である。70年代に大学のキャンパスの中から生まれてきた「マダン劇」の担い手が映画とも交流を持っていたという発見も興味深かった。
 映画と舞台の関連でいえば、華城事件という連続婦女殺人事件を題材にした『殺人の追憶』(カン・ウソク監督)の発端が舞台であり、金光林(キム・カンリム)作の『会いにきて』(1999年)がそれに当たるだろう。そういえば、わたしの友人でもある舞台俳優のオ・ダルスやジョン・ギュースも韓国映画の中で渋い脇役で出ているのをよく目にする。劇団「76団」のキ・ジュボンもまた舞台と映画を往復する一人だ。
 こうしてみると、映画と舞台の距離は案外近く、韓国のアートシーンとして互いに影響し合っていると言えそうだ。つい先日(11月17〜20日)、韓国の国立劇場・実験劇場で日本の劇作家の戯曲リ−ディングが行なわれ、わたしも参加してきたばかりだが、その時同行したメンバーが唐十郎や鄭義信など映画にも縁の深い作家たちだった。韓国の側から日本を見ると、最前線にいるのはジャンル越境者たちなのかもしれない。

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2005年11月17日

『祈りの懸け橋―評伝田中千禾夫』石澤秀二(白水社)

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「[劇評家の作業日誌](10)」

 今年の日本演劇学会「河竹賞」ならびに演劇評論家協会主催の「AICT賞」をダブル受賞した本書について、先日記念シンポジウムが行なわれた。題して「演劇史の再考--田中千禾夫をめぐって」。パネラーは劇作家の別役実氏、田中作品のヒロインを数々演じてきた女優の渡辺美佐子さん、近代演劇史の研究家で岸田國士全集の編集でも知られる今村忠純氏(大妻女子大教授)、そして受賞者の石澤秀二氏。司会・進行はわたしが務めた。(「シアタークリティック・ナウ’05」10月30日、世田谷パブリックシアター/シアタートラム)今回はここで出てきた議論を紹介しながら書評を試みてみよう。

 本書は作者と親しかった演出家にして劇評家の石澤氏による劇作家の評伝である。この著作は二つの層から成り立っている。中心になるのは劇作家田中千禾夫の詳細な作品論、そしてその周辺を演劇の克明な歴史で固められている。例えば、岸田國士と敵対関係にあ ったと言われる築地小劇場の記述、「劇作」同人から文学座へいたる経緯、そしてライバル俳優座へ移ることなど、演劇史に埋没した格好の素材がいたるところに散見できる。そこからシンポジウムのタイトルにもなった「演劇史の再考」というテーマが浮上してきたのである。

 そもそも田中千禾夫とは何者か。1905年生まれの田中は、日本の近代で最初の劇作家・岸田國士の弟子に当たる。彼の出発は28歳で処女作『おふくろ』(33年)を書いたことに始まる。だが彼は「処女作と銘打つにはあまりに非野心的」と言われたほど地味なデビューだった。田中は1932年に岸田の発案による戯曲同人誌「劇作」の創刊に立ち会い、実質的な編集長の任を務めた。この実務的な資質はその後雑誌「新劇」の発刊 (54年)でもいかんなく発揮された。(石澤氏は田中に乞われて、その助手を務めるところから演劇界に参加した。)その後、田中は『雲の涯』(47)『教育』(54)『肥前風土記』(56年)など代表作を経て、戦後戯曲の金字塔ともいうべき『マリアの首』(59)を生み出した。

 だが彼は劇作家である一方で、『物言う術』や『劇的文体論序説』など、台詞術、劇の文体などに理論的アプロ-チを試みた。戦後は俳優座養成所で俳優教育に従事し、後に桐朋学園短期大学の演劇科の教授も務めた。

 こうして足跡をたどってみると、劇作家の活動としてはかなり多岐にわたると言えるだろう。そのなかでとくに注目すべきは、俳優教育に関しての彼の構えである。自分の書いた台詞を喋るには従来の俳優術では物足りない。こうした判断が彼を劇作家であると同時に演出家になることを要請した。実際の舞台で発語される言葉に人一倍神経を砕いたことは言うまでもない。例えば、方言や文体の使用。『マリアの首』について、シンポジウムで実際にこの舞台のヒロイン・忍を演じた渡辺美佐子さんの発言は興味深かった。

 この作品は長崎原爆で被爆した浦上天主堂の廃墟からマリア像を盗み出し秘匿しようとする者たち物語だ。その中心人物が対照的な性格をもった鹿と忍という女性二人だ。鹿は昼間看護婦を務めながら夜は娼婦になって金を稼ぐ。彼女の首にはケロイドがある。一方、忍はその客引きであり、病床の夫と子供を抱えて、13年前、自分と関係のあった男を探している。その相手は「次五郎」(ジゴロ)といい、その時手にした「白鞘の短刀」を返すために日々彼を待っている。こうして市井の人間を登場させながら、時おり哲学的対話が挟まれ、モノローグのような詩が謳われる。渡辺はこの詩が難しかったと言う。だが同時に、方言のたおやかさ、標準語では伝わらない音の響きに魅了されたと言う。本書ではこう記されている。「長崎ことばの柔らかく優しい感覚的なひびき、東京ことばの概念的なひびき、日常的会話体と内的対話体、叙情的詩句と叙事的詩句の共生、これら多様な文体のひびきが音楽的ハーモニーを豊かに構成する。」(p231)

 田中千禾夫をどう演じるか演じたかは、こうした多彩な文体をどう身体化したかにかか ってくる。従来主流であった「リアリズム」に対して形而上学的な言葉による対話を田中は意識的に持ちこんだ。そのさい、抽象的な台詞は生活的リアリズムに慣れた俳優ではどうにも太刀打ちできないのだ。彼は晩年に「無調演劇」というものを提唱するが、これは後続の若手劇作家の分析を通じて提示したものである。例えば別役実の『そよそよ族の反乱』を評価して、近代演劇を乗り超える方法を探っている。非-劇的で無調な、つまりメロディのない音楽のような演劇。これは後にアングラの文体に真っすぐつながるだろう。『劇的文体論序説』では別役をはじめ、唐十郎、つかこうへい、野田秀樹らを俎上にあげ、彼の研究は展開、深化された。(おそらくこの仕事を後続世代で引き継いでいるのは、別役実だろう。)

 本書で示唆的なのは、演劇史についての考察だ。とりわけ「新劇」から60年代以降のアングラ・小劇場へ架橋する田中の役割、その先駆性についてである。

 岸田の死後、田中は近代劇的空間から脱出を試みる。それは前衛の試みに通じている。この年(54年)彼は俳優座員になるが、岸田の死と入れ替わるように四季や仲間、新人会、青年座など俳優座系のスタジオ劇団が続々と誕生した。一種の新劇ブームが起こった のである。ここに演劇史の一つの切断、新生面があったことは疑いない。新人会は渡辺美佐子、楠侑子、小山田宗徳らが揃った、新劇界ではやや異色の劇団だったが、この劇団のために書いた『マリアの首』が斬新なものであったのは決して偶然ではなかったろう。俳優座に書くより、よほど大胆で自由な作品となっていたからである。ここに旧新劇に対する切断の端緒があったことが認めらる。もう一つの切断は63年前後の小劇場運動の夜明けにあった。明治大学出身も唐十郎が状況劇場を、早稲田大学では鈴木忠志らが「新劇団自由舞台」を結成し、「ぶどうの会」を退団した竹内敏晴らが「変身」を結成したのもほぼ同時期である。いずれも肉体や身体を重視し、新しい戯曲文体の創造や「言葉」を探り出した。これらは新劇と袂を別った地点から開始された演劇運動だった。田中はおそらくこの運動に距離を置きながらもシンパシーを抱いていたに違いない。それが後に『劇的文体論序説』につながっていったのではないか。考えてみれば、戦前の第二次新劇協会以降、岸田をはじめ作者が演出家を兼ねることが多くなり、田中自身も演技を改造しなければ、自分の作品を上演できないことを知っていたのだ。劇作家が演出家になっていくアングラ・小劇場のスタイルはすでにこの時兆しており、アングラはそれを本格的に実現したのである。ただし唐十郎のように役者が台本を書くのだという発想と、小集団によって演劇創造が分業制でなく実践されるという理念は新劇が持ち得なかったものだろう。新劇および「演劇史」をどう捉え直すか。歴史の絶え間ない切断と連続を考えさせるのが本書の妙味と言えよう。

 最後に、以前刊行された田中千禾夫全集はほぼ品切れになり、ほとんど入手不可能な状態になっている。この不幸な状況をどうか打開して欲しいという提案が別役氏から出たことを付け加えておこう。

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2005年08月18日

井上ひさしコレクション『ことばの巻』(岩波書店刊)

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 7月下旬から8月初旬にかけて、フランスへ演劇の旅に出た。世界的なフェスティバルであるアヴィニョン演劇祭に行くのが目的だった。

 アヴィニョンといえば、1309年、法王がローマから居住を移し、一時期教皇権を置いた地として知られる。この演劇祭は現存する法王庁など歴史建造物や教会、今は使われなくなった映画館などを利用して、3週間にわたって開催される。街自体が中世のかおりたたえる世界遺産になっており、観光の名所だけあって、滞在するだけでその魅力を満喫することができる。もともとバカンスがてらに野外劇を上演しようという趣旨で企画されたフェスティバルだが、すでに半世紀以上もの歴史を刻み、世界最大規模のフェスティバルに成長した。

 この南仏の地でどんな本を読んだらいいのか、わたしは頭を悩ませた。旅先で読む本の選択はいつも難しいが、今回は中世の時間が今なお流れている歴史遺産の町アヴィニョンだ。そこで日本だとなかなか読み切れないと思うものをわざわざ選ぶことにした。選んだのは400頁を超える大部の3冊だった。当代きっての「戯作者」井上ひさしの「コレクション」なら肩が凝らずに済むと思ったからだ。昼間はホテルや気持ちのいいオープンカフェで勝手気ままに頁を捲り、夜から深夜にかけては劇場に繰り出して芝居を見る。夏のシーズンは夜遅くまで空は明るいから、22時開演などざらだ。こういう生活は日本の浮き世を忘れさせてくれて、わたしのような者には「理想的」な時間だ。

 前置きが長くなった。今回とりあげるのは最初の一巻『ことばの巻』である。なぜこの巻かといえば、ここに収められているのは「ことば/本/演劇」であり、井上ひさしの本領はやはりこの巻にあると思われるからだ。

 わたしはこれを順序を逆にして読んだ。つまり「演劇」「本」「ことば」の章を遡って読んだのだ。これはわたしの関心の序列である。また一種のアンソロジーであるから、著者の長年の関心を一挙に読めることで、これがなかなか興味深かった。現在の井上ひさしと言えば、「日本ペンクラブ会長」や劇作家協会の初代会長を務めるといったように、とかく「国民的作家」の称号を冠せられる「偉い人」と思われかちだ。しかしこの人の苦労の仕方は並大抵でない。例えば幼い頃、父を亡くした廂(ひさし=本名)少年は、「この本の山を父さんと思いなさい」と咄嗟に言った母の言葉を信じて、生涯本のなかに「父の言葉」を読み続けたのである。蔵書の凄さはついに自分の記念館「遅筆堂文庫」を故郷に創ってしまったほどだ。博覧強記、無類の調べ魔、こうした伝説は今さら言うまでもなかろう。しかもこうしたエピソードを語る(=書く)井上氏は、さらりとユーモアにまぶして言ってのけるものだからとんと嫌味がない。これは明らかに「芸」のなせる業だろう。

 井上ひさしの出発点は浅草のストリップ小屋である。ここで彼はコント作家として修業し、多くの芸人を見てきた。昭和30年前後の浅草六区の賑わいは大したもので、エノケン(榎本健一)、ロッパ(古川緑破)をはじめ、伴淳三郎、由利徹、渥美清、長門勇、谷乾一、佐山俊二といった芸人たちがひしめきあい、菊田一夫や菊谷栄といったレビュー作者がその背後にいた。さらに圧巻なのは、この人が認めればその芸人は必ず出世するという伝説の大道具の主任など、手練れの職人気質の裏方が控えていたのだ。「軽演劇の時間」と題するエッセイは珠玉のような文章で、菊谷栄という不世出のレビュー作家の台本づくりの骨法を追跡していくあたりは実に読み応えがある。とくに観客に言及した箇所−− 「日常では『生きている』という実感もなく瑣事に追い立てられている観客」に「生きている」感覚を甦らせ、手応えを実感させる浅草の芸人たちの描写は筆が冴える。

 「観客の見たがっている時間というのは、現実世界の物理的時間のなぞりとしての時間ではないので、物理的時間に楯突く時間、それをこそ期待してやってくるのだ。時間の暴虐に抗する数時間の砦たること。これが浅草の小屋に要求されていたのだろうと思う。」(415頁)  井上ひさしにとって、芝居という娯楽の真髄がこの浅草の地で培われたことは間違いない。彼はその後、NHKで台本作家になり、同時にテアトル・エコーという声優が主体の喜劇の小劇団で戯曲を書き始めた。そうして次々と傑作喜劇を書き、押しも押されぬ「現代の戯作者」になったのだが、その頃の言葉の遊戯、破壊的なまでの言語実験は凄まじいものがあった。シェイクスピアの言葉を作者顔負けの地口や駄洒落、「意味よりも音」を重視する姿勢など、井上の面目躍如たるものがあったとわたしは思う。

 だがある時期から、「(ぼくは)語呂合わせを多用しようとしないようになってしまった。ふざけることがすくなった。…数年前までは、『すべてを笑い飛ばしたい』だの、 『まず、おもしろい作品であること。これがぼくの、自分の課している唯一の課題です』だのと、威勢のいいことを言っていたくせに、これまたなんという変わりようだろうか、と、反省しないでもない。」(167頁)と言う。この文が書かれたのは1977年であるが、実はここが劇作家、戯作者井上ひさしにとって重要な転回点となったのではないだろうか。

 「わたしはいわゆる『新劇』の出で、……今でもなお『自分の芝居は新劇の中の一つなのだ』と信じてやっております」(372頁、1994年)と言い訳めいて書いているが、これなどもどこか自分の原点を失念しているように思われる。

 井上の初期の戯曲本にはよく「抱腹絶倒」という惹句が帯に躍っていた。ノンセンスの極み、意味などどこにもないアナーキーな精神で彼の喜劇は生み出されてきた。ほとんど綱渡りのような創作の日々である。だが人間は果たしてどこまで無意味に耐えられるか。「軽薄な言葉遊び」というレッテル貼りからいつまでかわし切れるか。井上のなかに浅草のストリップで鍛えられた芸能精神から、いつのまにか上昇して「文化人」に成り上がっているもう一人の自分がいたのではないのか。国民的作家となり、新国立劇場で日本の 「国民演劇」を担う劇作家となってしまった井上ひさしには、かつての「戯作者」の面影はない。「こまつ座」を結成し(84年)、昭和庶民伝を書き始めた頃から、妙に説教臭く、笑いも説明的で教養めいてきたのがわたしには気になった。テアトル・エコーから離れていく過程と彼の劇から過激な笑いが失われていくのは同じ歩みではないか。井上ひさしが劇作家という枠に収まりきらず、小説を書き、エッセイストとしても声望を獲得するにつれ、無名性に依拠した軽演劇の作者はどこに行ったのだろうか。 

 「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことをあくまでゆかいに……」(344〜5頁)     

 わたしは今でも、彼の演劇に向かう姿勢は以上のような一説にこめられていると思う。

この秋、初期の傑作中の傑作『天保十二年のシェイクスピア』が31年ぶりに豪華キャストで上演される。演出家はこれまた当代切っての巨匠蜷川幸雄。この二人の巨人が、権威や名声をいかに笑い飛ばしてくれるか。今から楽しみである。

 本稿では扱わなかったが、他の二巻は「人間の巻−−ひと/ウソ/愛」「日本の巻−−時代/戦争/コメ」であることを付しておく。

2005年05月17日

『演劇都市ベルリン』(れんが書房新社)

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[劇評家の作業日誌](3)

20世紀の歴史を圧縮した感のあるベルリンという都市で演劇を見る−−この魅力的なプランを徹底し、かつ論じ切ってしまった書物が刊行された。それが『演劇都市ベルリン−−舞台表現の新しい姿』である。

著者の新野守広氏は気鋭のドイツ文学者にして演劇批評家。文献を渉猟した研究実績を懐ろ手にベルリンの劇場を回遊し、時代を読み取る批評家のまなざしが個々の舞台に生気を吹き込む。著者は言う−−「演劇は小説や映画と違って、舞台の体験からすべてが始まる。舞台は持ち運びはできず、簡単に輸出入もできない。……舞台を記述する作業は、結局、現代の生活スタイルとの矛盾を引き受ける作業だ。この矛盾のなかに、ローカルな表現を越える演劇の可能性があると考える。」(4頁)こうして歴史的奥行を持つと同時に、個別の舞台のありさまを生き生きと活写する本書が誕生した。両者の資質を兼ね備えなければ、こんなダイナミックな本はとうていできなかったろう。その意味では、研究と批評の見事な結合というべきである。

ベルリンは世界でも稀有な都市だ。1930年代に登場したヒトラーによって、この都市は世界中が注目することとなった。ただし歴史の悪夢を撒き散らす発信源として。戦後、社会主義国になった東ドイツ(ドイツ民主共和国)は1961年に建設された「ベルリンの壁」によって、再び悪夢を招来した。ベルリンは戦後の冷戦の象徴的な都市となって、以後30年近くも世界の暗部の温床と化したのである。本書がベルリンの都市の来歴から始まり、その悪夢を振り払おうとして1995年の国会議事堂を梱包したクリストのパフォーマンスが記述される(25〜6頁)のも、ベルリンという街が本書の舞台であるとともに、生きた歴史が参画する場であるからである。

歴史の負性が刻印されたこの街に生きる者たちが演劇という道具を使う時、その負性がバネになっていることは言うまでもない。本書で中心的に論じられているフランク・カストルフは、まさにその負性を想像のエネルギーに転化した傑出した演出家だ。彼が芸術監督を務めるフォルクスビューネ(民衆劇場)は、東ベルリンでももっともエネルギーに満ちた街ローザ・ルクセンブルク広場にある。かつて東独が社会主義建設に燃えていた頃、この劇場は若い労働者文化の拠点であり、由緒ある劇場だった。が、社会主義崩壊後、老朽化したベルリンの「廃墟」を代弁するような趣きさえあった。

この劇場が蘇ったのは、カストルフを芸術監督に迎えた1992年からである。彼は「ドイツ社会が生み出したやり場のない怒りを示す」(151頁)。東独のテイストを武器に、巨大な資本主義の権化たる西側に食い潰されそうになった「東」を愛着をもって、頽廃と紙一重の挑発的な舞台を放つのだ。わたしも幾度かこの劇場で舞台を見たことがあるが、俳優の挑発的な演技にアグレッシブに対応する観客のエネルギーに言い知れぬ感銘を覚えたことがある。決して取り澄ました態度ではなく、かといって知的スノッブを装うわけでもない。なんともラフで、ざっくばらんとした応対なのだ。

他方、歴史に目をやるならば、この街に活躍した二人の「巨匠」の存在は当然、視野に入ってくるだろう。その二人とはベルトルト・ブレヒトとハイナー・ミュラーである。新野氏のドイツ演劇研究の蓄積がいかんなく発揮されるのはこの二人についての記述だ。ナチ支配時代に亡命生活を送ったブレヒトが帰国するのは1949年。だが彼の帰国は順風満帆で受け容れられたわけではなかった(57〜8頁)。これは案外見落とされがちなところで、戦前と戦後のアヴァンギャルドをつなぐはずのブレヒトの存在が「実験精神を嫌う東ドイツ指導部」によって排斥されたたのだ。そしてブレヒトの死の1956年に入れ代わるようにしてベルリンに住み着いたのがハイナー・ミュラーだった。この交替劇もまた、ベルリン劇場の役者交替を思わせる。だがブレヒト同様、ミュラーもまた『移住した女』(61年)を契機に国家から排除されていく。

この二人の芸術家の苦難はそのまま社会主義国家の下での演劇活動の困難さを物語るだろう。1977年に発表された『ハムレットマシーン』は、シェイクスピアという権威を盾にしたミュラーのぎりぎりの選択だった。ベルリンの壁が倒壊し、ドイツ統一の歴史の結節点となった1990年に『ハムレット/マシーン』がミュラー演出で上演された。「ローカルな表現を越える演劇の可能性」を探る意味でも、きわめて重要な記述になっている(91〜103頁)

80年代末にたまたまベルリンでのんびりした留学生活を送っていた著者が、偶然「壁の崩壊」という事件に出会い、その場で感じた熱にうなされるように街を彷徨し、劇場に入り浸っているうちに誰も経験できなかった歴史の一回性に立ち会う幸運に恵まれた。それが本書の出発点になったことは間違いない。ただそれを一回だけの「幸運」に留めず、その後足繁く通い続けた執念が、ミュラー以後の新世代の鉱脈を発掘に至ったというのは、本書を貴重なものにしている。前述したカストルフをはじめ、ヨハン・クレスニク、クリストフ・マルターラー、さらに若いトーマス・オスターマイヤー、サシャ・ヴァルツといった才能をいち早く日本に紹介したのも新野氏だった。のみならず、彼らの戯曲の上演や来演まで含めて尽力してきた精力的な活動も並行させている。上の世代がシュタインやグリューバー、パイマンといった巨匠に関心が惹かれるのと引き換えに、彼は明らかに「その後」を志向した。これもドイツ演劇研究の「次世代」のなせる業だろう。

しばしば海外の演劇ガイドは個人の力によってなされてきた日本の通例にならうなら、ブレヒト戯曲の個人訳という偉業を成し遂げた岩淵達治教授の後続世代では、今後の研究・批評は新野氏によって切り開かれるのではないかという予感と期待を抱かされる。そんな興奮に誘われる「歴史的快挙」の書物なのである。

巻末に付されたミュラー自身の『ハムレット/マシーン』の詳細な演出台本が掲載されていることも嬉しい。