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2013年05月12日

『あの人の声は、なぜ伝わるのか』中村明一(幻冬舎エデュケーション)

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<劇評家の作業日誌>(62)

 本書は『密息』と『倍音』の著者がこれまでの成果を踏まえた上で、他者との根源的なコミュニケーションを探ろうとした本である。著者の中村明一氏は国際的に活躍する作曲家・尺八奏者であり、同時に虚無僧から伝わる古い曲を採集し、それを保存していくことをライフワークとする。地方の古老を訪ね、昔話を再話していく民俗学者のフィールドワークと同様なことを、自らに課しているのである。その徹底した研究的態度はきわめて重要だ。なぜならアーティストと研究者はなかなか両立しえず、それを成立させているところに著者の独自の立ち位置があると言えるからだ。

 本書の骨子は、「密息」という呼吸法によって成立する「身体」と、「倍音」という声質から、「声」そのものの可能性を科学的な根拠をもって解明していくことにある。そこからタイトルにある「伝わる」ことの本質が次第に明らかにされていくのだ。

 倍音は過去の日本人に本来備わったものだった。だが西洋的な発声が主流になるにつれて、倍音を基調とした伝統的な声が失われようとしている。これを取り戻そうとすることが本書の出発点となった。倍音には整数次倍音と非整数次倍音があり、前者は公衆の面前で演説する時に効力を発揮し、後者は親密な距離感において成立する。つまり明確なステートメントとくぐもったかすれた声。例えば、美空ひばりの歌唱が何故すぐれているのか。それは一曲の中で、整数次と非整数次の倍音を巧みに使い分けていて、その幅が絶妙だからである。こうした具体的な記述は門外漢にも分かりやすく、納得がいった。

 本書でもっとも感銘深いのは、日本語の特性についての分析とその利用法である。例えば、コミュニケーションは言語によってとりおこなわれているのが30~35%程度で、残りの65~70%は非言語によってなされているという指摘(35-6p)。つまり、意味ではなく、発語のさいの声音、声質、身振りなどに負うところが大きい。ここまではいわば常識の範囲内だ。だがそこから先に著者の独自の見解が展開される。

 日本語は母音中心で構成されており、それ故、同じ「シ」という発音の言葉でも、「死」なのか「師」なのか、あるいは「詩」なのか、それが「声の響きに変化をつけている」(31p)から聞き分けられるというのだ。同音異義語の多い日本語を使うさい、声音を聞き取り、素早く言葉に変換して受容していることは驚くべきことである。つまり日本人はその微妙なニュアンスを聞き分けることができる聴力、すなわち「耳」を持っているのだ。こうした日本人の特性は今まであまり省みられてこなかったように思われる。明確な言葉を分節化する「西洋的な発声」とは異なった声と耳で、日本語はやりとりされているのだ。非言語コミュニケーションは人間の無意識に訴えかける。著者はこれを「無意識の領域に届く」(91p)と述べている。響いたり、届くといったニュアンスは、音楽家ならではの感覚だろう。言うまもなく、受け止めるのは人間の身体である。

 身体は「受信機」だと著者は指摘する。身体は高性能の受信機であり、さまざまな情報を大量に受け容れては即座に解析し、それを有効な情報へ還元する。その上で、「発信機」にもなるのだ。重要なのは、この順番である。決して発信の後に受信が来るのではない。受信が前提にあって、そのレスポンス(返答)として発信がある。ここには表現の重要な契機が隠されている。それは日本の伝統芸能である能などの「受動」の思想に通じるものだろう。

 「密息」という呼吸法は、かねてより備わった日本の伝統的なあり方である。背筋を伸ばして立派な姿勢をとるのではなく、やや腰を引き、骨盤を倒して腹をを突き出す姿勢、それが日本の伝統的な姿勢だったと著者は言う。その姿勢により、深い呼吸が可能になる。深い呼吸で多くの酸素を取り込めば、脳が活性化し、無用なストレスを感じず、感情をコントロールできる。日本の武道などに伝わる達人や名人は一様にこのコントロール法を身に付け、それが「スキがない身体」(166p)をつくり出してきたようだ。その境地は、呼吸により安定した精神状態を保つ、身体性にあったわけだ。

 現代の若者の多くは姿勢が悪く、だらしなく映る。だがそれは、精神が病んでいるのではなく、「下腹から太ももにかけての筋肉が弱っていて、踏ん張りがきかない」(131p)身体だからという指摘は、きわめて説得力がある。呼吸が浅く、ストレスを感じ、キレやすいというのも、同様の理由から説明できる。とかく精神主義的に回収しがちな論法に対して、対処法が明確だけに十分示唆的なのだ。おそらく今の日本に欠けているのは、こうした技法に対する学識、すなわち科学的根拠を持った解析ではないだろうか。それが欠落しているから、「今の若い者は甘やかされて過保護に育ったから、自衛隊にでも入れて体を鍛えればいい」という短絡的な暴論に走るのである。

 密息をベースにした江戸時代以前の日本人は、今よりも数段穏やかな生活を送っていただろう。だが明治以降、着物から洋服を着るようになって身体そのものが変化を強いられた。さらに洋服にふさわしい生活をこなせる身体に改造する必要が出て来た。農耕民族特有の歩行ではなく、行進にふさわしい身体づくりに方針を換えたのだ。その過程で、ナンバ歩きは否定された。これは近代日本のイデオロギーのなせるわざである。もし過去の日本の良き伝統を「取り戻そう」とするなら、明治以降に舵をとった近代日本の百五十年の歴史を振り返らねばならない。現首相のように、「強い日本を取り戻す」ために、たかだか高度経済成長やバブル時代の栄光に遡っても、高が知れているのである。

 著者が格闘する古典芸術の世界は、現状維持だけでは崩壊していくことを宿命づけられている世界だ。だが伝統とは、故観世寿夫が言うように、壊れても壊してもなお生き残っていくものだとすれば、廃れてしまう程度のものなら、朽ち果てても構わないのではないか。そういう覚悟が著者にあるから、逆に「良いもの」を残していきたいという使命感が芽生えるのである。

 尺八を通して得られた知見は、やがて日本文化論に及ぶ。日本文化の「従構造」は、西洋の主題を前面に押し出す志向とは異なり、背後に散りばめられた構図の中に溶解しているものを発見させる。その例として、主題の明確なルノワールの裸婦像と尾形光琳の「燕子花図]屏風が対比される。両者を比較することで、西洋的な主題尊重と日本型の受容の差異を際立たせる。この発想はモダンの志向を解体していったポストモダンの思考に通じるものがある。日本文化がモダンを飛び越えて、いきなりポストモダンと同質性を指摘される所以である。だがそれは読者や観客、聴衆から「読み」を引き出す日本独特の「参加型芸術」の伝統であって、個人や内面の不可能性からたどり着いた西洋型 「ポストモダン」とはおよそ異なるのである。

 本書は、「声が伝わる」というごく身近なところから語り起こしていくのだが、それはある種の「生活再発見」にも通じてこよう。それは「現在」ばかりに着目しがちな日本の現勢に一定の距離を置きつつ、かつ単純な伝統回帰ではなく、表現の最前線に立ったいわば「新しい伝統」づくりへの提唱にもつながるだろう。失われた「伝統」の取り戻しが本書の根底に据えられていることは、最初に記した。わたしのように演劇に関わる者にとってもこの問題意識は他人事ではない。身体と声への指摘は、きわめて示唆的だった。

 平明な語り口の中に、深く大きな射程が構想されていることを、本書の最後の頁を閉じるとき、了解できるだろう。
     

 著者の中村明一氏は、実はわたしの中学高校の同級生である。昨年、『僕らが育った時代 1967~1973』を刊行したさいの編集委員であり、中学時代にサッカーを一緒にやった仲間でもある。高校生になった彼はボールをギターに持ち替え、文化祭などで演奏していた時のグルーヴする彼の身体を記憶している。彼は理工系の学部を卒業した後、就職したが、ある日突然尺八奏者になろうと決意し、会社を辞めて米国のバークリー音楽大学に留学した。そして、プロの音楽家になった今、人間の根幹に関わるこんな著作を上梓したことにわたしは感慨を覚えずにはいられない。芸術は人を鍛え、謙虚にする。かつてヤンチャだったサッカー少年は先達の言葉を丹念に読み解き、記録し、現代の文化状況に一石を投じた。その独自の視点には、まさに著者の人生が詰まっている。そうした個人の読みを可能にしてくれたのも本書のもう一つの魅力である。


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