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2009年08月12日

『僕と演劇と夢の遊眠社』高萩 宏(日本経済新聞出版社)

僕と演劇と夢の遊眠社 →bookwebで購入

「劇評家の作業日誌 (46)」

 1976年に野田秀樹とともに創設し、やがて80年代の若者文化をリードした超人気劇団・夢の遊眠社の元プロデューサーによる回顧録である。著者の高萩宏は現在、東京芸術劇場の副館長を務めるが、本書では92年に人気絶頂のまま解散した遊眠社時代までが語られる。
 
 著者は劇団解散の少し前の89年に劇団から離れた。大学を卒業してから数年間、紀伊國屋書店の洋書営業のサラリーマンを勤め、80年に26歳で出戻ってから、彼は10年近く劇団の成長と発展に力を尽くした。
   この本を読みながら、わたしは1980年代という時代のことを思い返していた。今ではバブリーな時代として語られることが多くなったが、実際にその渦中にいた者が何を考え何に直面していたかが記述の底から浮かび上ってくる。それは一劇団の「サクセスストーリー」を綴るにとどまらず、もっと大きな時代のうねりが活写されていて、時代精神の軌跡が読み取れる。
 高萩は東京大学入学後、演劇研究会に入り、高校の二年後輩だった野田秀樹の入学を待って劇団を創立した。高萩は演出家としての野心を持ちながらも、野田の才能にはとても勝てないことを知って、制作の方に活動の重心を移す。では制作としての必要な資質とは何か。 いい舞台を見ると、
もっとみんなに見てもらいたい (38頁)
と思い、他人に吹聴したくなる性分である。これは唯我独尊的な芸術家肌とは一線を画す。そうした自己の発見を通じて、彼は自らを「プロデューサー」業へと導いていった。
 当時の学生劇団では、制作の仕事は一種の「雑用」に他ならなかった。稽古場をとり、日程を劇団員に告げ、さまざまな段取りをし、公演時には受付で客の応対をする。だがこうした制作のイメージを一新したのが、他ならぬ高萩だった。彼は地味な裏方に止まらず、劇作や演出同様、公演そのものを「創造」する役割を制作に付与した。彼にとって制作はビジネスでもあった。まだ学生劇団だった遊眠社の時代に、駒場小劇場の裸電球しかない暗い受付で背広姿で立っている彼の姿をよく見かけた。それは、演劇という前近代的な職人の世界から一歩抜け出した、近代的なビジネスマンにも映し出された。

 本書の読ませどころは三つに集約される。一つはアートマネジメント能力を備えた「プロデューサー」の草分けとして彼がどう個人史を形成していったか。二つめは、彼がともにした小劇場(団)の活動した80年代が、波瀾万丈でありながら、いかに魅力的で楽しい時代であったか。最後に、小劇場の限界を薄々感じ取りながら、その先のヴィジョンとして、演劇の「公共性」への制度構築こそ今後の自分の仕事だと見極めていくプロセスである。ベンチャービジネスに身を投じるように、高萩は演劇の世界に没入していった。その危険な魅力が本書を通じてますところなく語られている。
 
 初期の遊眠社は、大学構内にあった駒場小劇場を拠点に、学生離れした観客動員を誇り、やがて学内に出て、プロへの一歩を踏み出した。紀伊国屋ホールへの進出はその一歩であり、その過程で、野田秀樹は『野獣降臨(のけものきたりて)』で岸田國士戯曲賞を受賞し、弾みをつけた。
 

何でもアリだった時代。/限界が見えなかった時代。/日本が奇妙な自信を持っていた時代 (15頁)

 
 それが80年代だったとしたら、若く冒険的なアーティスト(志望者)は後ろを振り返ることなく、どこまでも走り続けるしかなかった。          
 この80年代の遊眠社は、ホップ-ステップ-ジャンプの三段跳びをやってのけた。
 85年に「科学万博-つくば85」に参加、86年、代々木第一体育館における「石舞台星七変化(ストーンヘンジ)三部作」一挙上演、そして87年の初の海外公演である。当初は、野外公演をやりたいという漠たる思いから始まった企画だったが、それが巨大なイベントである「万博」の出品につながった。これは広告代理店による働きかけがあってこそ実現したものだが、根底には彼らが何かこれまでとは違うことをやってみたいという壮大な夢があったからだ。
 代々木の体育館で一日だけ行なわれた三部作一挙上演は計6時間に及ぶイベントとなり、観客は延べで2万6400人に達した。これは演劇興行の規模を超えた空前の“事件”だったと言ってもいい。勢いがついた劇団はそのまま公演会場を海外にまで雄飛させた。世界的な演劇祭「エディンバラ・インターナショナル・フェスティバル」への参加である。

 まさに80年代の勢いが劇団の成長史と重なり、その加速度的な飛躍には驚嘆させられる。高萩は

劇団として行けるところまで行ってみようという感じだった (178頁)
と後で述べているように、時あたかもバブルの時代の波に乗るように突っ走ったのである。

 劇団には、ピークといった時期が存在する。遊眠社にとってこの三年間は、さしづめそれに相当しよう。だがどんなに順風満帆に見えても、苦難の予兆がなかったわけではなかった。
 

僕は遊眠社には勢いが必要だと思っていた。立ち止まって真面目に集団について考えることが怖かったのだと思う (189頁)

 80年代という狂乱の時代は、どこまでも人々の欲望を駆り立て、矛盾を先送りしていく。目先の目標を一つずつクリアしていく以外に、日々を生きていく方途はない。次から次へと持ち込まれていくイベントや企画。それを前にして、彼らに断る理由があったろうか。前進運動をつねに強いられる資本主義下では、立ち止まることは許されない。
 

そのころの遊眠社は何でもできそうに見えたのだろう。東京ドームのオープニングイベント、横浜のみなとみらい地区にできる予定の劇場との提携など、様々な公演形態・各種イベントの企画が次々と持ち込まれていた(178頁)

 だが幸運と危機は紙一重である。
 具体的な困難は、台風に苛まれた多摩パルテノンでの公演のエピソードに詳しい。野外での公演は毎日、天候との闘いである。いくら万全の準備を整えていても、空の気分一つで、公演は中止に追いやられる。野田が公演中に転倒し、休演を余儀なくされたエピソードも生々しい。演劇という生まものを扱う以上、危機への対応は日常茶飯事だ。

 劇団の危機についても記述されている。演劇集団とは脆く、傷つきやすいデリケートな集まりである。表面的には順調に行っているかに見えて、内部は崩壊寸前まで行っていたこともあった。

 夢の遊眠社の海外公演についての記述も考えさせられた。1987年、人気絶頂の劇団は次の野心として海外公演を考える。出し物は岸田戯曲賞を受賞した『野獣降臨』。だがこの公演は果たして成功したのか。

  

……客席から見た遊眠社の舞台に、僕は「成功」という言葉でまとめきれない違和感を持ちはじめていた。……遊眠社の特徴だと思っていたスピード感溢れる演技も、勢いだけで若さばかりが前面に出ているようにも思えてきた。/後に劇評を読んでみると、評価されたのは野田の戯曲、演出、遊眠社の演技スタイルのユニークさであり、身体表現にこだわる僕たちの演技が海外では正統なものでなく、突き詰められれば意味があるかもしれないが、まだまだ中途半端なものでしかないのだと気づいた (176頁)

 高萩の記述は実に正直である。大多数の劇団が「凱旋公演」ばかりを喧伝するなか、彼の冷静な分析、批評眼は的確に自分の足元を見つめている。その思いは野田も同様だったろう。翌年、ニューヨークで再び公演を打つが、日本語での公演は、言葉の分からない外国人から正当な反応は引き出せない。以後、彼らは海外公演を打ち止めた。もっと大きな戦略がいる。そう高萩も野田も考えたに違いない。
 96年に『赤鬼』でタイ公演を企画した時、野田はタイ人に俳優と共同作業を試みた。
さらにこのバージョンが英国人とも行なっている。この企画を劇場として支えたのが、当時世田谷パブリックシアターの制作部長だった高萩である。彼らは10年近くの間隔を経て、再び大きな共同作業をした。野田は余勢を駆って、2007年に絶大な評価を得た 『THE BEE』を英国人と創作している。この成果は本書の扱うべき時限を超えていているが、本書の続編が書かれることがあれば、当然この成果は触れられるだろう。
 最後に、高萩=野田の演劇の原点に触れて、締め括ろう。
 演劇活動にとって必要なのは「場所、金、才能」だと考える高萩にとって、

駒場小劇場は単なる劇場というより、演劇活動の出発点だった。 (49頁)
いくらでも時間を使っていろいろなことが試せ、必ずしも公演につながらなくとも、自由に時間と空間を使いきることができる。ある意味で、演劇の創造環境の理想像がここにあった。ただしこれは大学という猶予の期間での束の間のパラダイスにすぎないことを彼らは知っていた。これを社会の中で実現するにはどうすればいいか。

 後に劇場の運営、経営に関わるようになった高萩の出発点はここにあったといっても過言ではない。これが劇団を辞め、公共劇場の仕事に従事するようになった本当の理由であろう。小劇団ゆえの限界を踏まえ、演劇は公共的な文化的営為であることの認識は、1980年代以降の日本の演劇が直面している課題でもあった。
 本書は、若く野心に燃えた一制作者が、多くの障壁を乗り越え、演劇の青春時代と訣別し、演劇の成熟(=大人)を探っていくプロセスの一つのドキュメントでもあろう。


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