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2009年06月29日

『炎の人(ハヤカワ演劇文庫)』三好十郎(早川書房)

炎の人(ハヤカワ演劇文庫) →bookwebで購入

「<劇評家の作業日誌>(45)」

古今東西の名作を廉価で読める「ハヤカワ演劇文庫」の刊行が開始されたのは、2006年、アーサー・ミラーの『セールスマンの死』からだった。
 70年代には角川文庫や新潮文庫でかなりの数の戯曲を読むことができた。寺山修司や唐十郎、別役実やつかこうへいなど、現代戯曲を身近に感じさせることへの貢献は大きかった。だがその後、戯曲の文庫化は途絶えた。

時折、岩波文庫で刊行されることはあったものの、これは昔の名作の焼き直しか、全集からの余滴であって、あくまで例外にすぎなかった。それが早川書房から「演劇文庫」として刊行されるようになったことは、一つの慶事だと言っていい。ミラーやニール・サイモンに始まり清水邦夫、別役実や坂手洋二らが次々と刊行され、ついに三好十郎作『炎の人』がこの文庫に加わったのだ。この6月、栗山民也演出、市村正親主演で再上演されることを契機にした出版企画だ。

 三好十郎は1902年佐賀県に生まれ、上京の後、劇作活動を始め、1958年に没するまで、旺盛な活動を続けた。戦中戦後を代表する劇作家の一人である。死後、学芸書林から「三好十郎の仕事」として全4巻が刊行され、60~70年代まではよく知られる作家だった。彼は頑固一徹さとどこまでも「私」性を追求することで、妥協を許さない孤高の劇作家として有名だった。

 その彼が、画家ヴィンセント・ヴァン・ゴッホをモデルにして書き下ろしたのが、この『炎の人』である。初演は1951年の劇団民芸(演出=岡倉士朗)。主演のヴィンセントを演じたのは、名優滝沢修だ。わたしは30年ほど前にこの舞台の再演を見たことがあり、つい最近も、当時のビデオを見直したが、滝沢修のの演技は、今見ても鬼気迫るものがある。まさに新劇を代表する名作だ。

 オランダ生まれの画家ヴィンセント・ゴッホの評伝劇は、世紀末のパリや晩年を過ごしたアルル地方などを舞台に、ゴーギャン(劇中ではゴーガン)やロートレックといった当時の画壇を賑わした実在の人物たちがほぼそっくり登場する。そこで精神に病んでいくゴッホの生活とついには耳を切り落とす惨事に至った実際のエピソードが物語として展開される。敬愛以上の自己犠牲で兄を支えたテオ(ドール)の献身など見るべきところが多い。

 だが一癖も二癖もある劇作家は通りのいい評伝劇を書くわけがない。彼の描いた世界は、貧しかった時代を背景に、飢えと日々のパンにも事欠く困窮の日常が彼の生活を覆っていた。これは1950年代の日本の社会そのものの映しでもあろう。おそらく作者は、ゴッホを50年代の貧しい日本に召喚し、そこに自身を過分に投影させようとしているのだろう。絵画に命を賭けた主人公は、精一杯生きようとする。そこに作者の貌も重なって見える。

 今回の市村=ゴッホは、以前見た滝沢=ゴッホを踏襲しているように見えた。暗い色調のなか、押さえた静謐な演技から、生きることへの誠実さ、真摯さがこの劇のベースになっている。

 若き日のゴッホは、正義感に燃えた宗教家だった。だが彼が関わった労働争議がその裏で世俗化した教会権力と結びついていることを知った時、彼は深い挫折を知って、画家の道を選びパリに出る。だが弟の仕送りに頼る情けない兄は、画家未満にすぎなかった。

 暗い色彩の絵を得意としたゴッホは、パリに上京する。そこで初めて明るい色調の「印象派」が台頭していたことを知り、多大な影響を受け、模倣に走る。オランダやベルギーから見れば、パリは芸術の中心であり、「憧れ」の都市であった。戦後まもなく書かれたこの戯曲では、そうした社会情勢や芸術環境が色濃く投影されている。地方から一途な思いでやって来た者特有の焦り、いまだデッサンが満足に描けないコンプレックスなどが入り交じって、彼はパリの画壇の社交界に馴染めない。それはそっくり三好のそれでもあったろう。

 この劇は一種の芸術論としても展開されている。とくにゴーギャンとの対話など気迫のこもった論争も見せ場の一つになっている。自然のマチエール(素材)を活かすことが絵だとするゴッホと、芸術とはあくまで自分の内部に投影されたイマージュであり、実在とは無関係だとするゴーギャンとは鋭い対立をなす。この対称は、人間の生き方そのものにも還元される。近代的自我が強固な芸術家を登場人物に据えれば、こうした視点が浮かび上がってくるのは必定だろう。一言でいえば、「近代的人間」(キャラクター)が全面に押し出されているのだ。

 だが、この劇にはもう一つの視点が見え隠れしている。
 『炎の人』のラストシーン(エピローグ)は男の語りで締め括られる。

「このような絵を/あなたが生きている間に/一枚も買おうとしなかった/フランス人 やオランダ人やベルギイ人を/私はほとんど憎む」(200頁)

 ここで「ほとんど憎む」とわざわざ「ほとんど」と留保を付けていることにわたしは引っ掛かるものを感じた。しかも同じ台詞がこの直後に二度も繰り返されているのだ。なぜ「ほとんど」という奇妙な副詞が、ここで用いられているのだろう。

 もし生前、ゴッホの絵が少しは売れていたら、もう少し生活は楽になったろうし、ここまで追い詰められはしなかったろう。そのことを語り手(おそらく作者)は「告発」する。作者の怒りは、個人の悲劇にとどまらない社会の暴力へと視点を転換させる。

 それにしても、この作品は通常の戯曲の常識をはるかに超えている。とくにエピローグには、本来ありえないようなナレーションの形でゴッホへの呼び掛けが記されている。これは彼へのオマージュなのか、それとも弔辞なのか。

 このエピローグは、かねてから議論のあった箇所で、作者の「私」性が直接的で突出し過ぎているという指摘がなされてきた。だが蛇足とも言える語りを書き付けた作者の意図は、わたしには痛いほど分かる。彼は決して「芸術家の死」を迎えたわけではなかった。社会に圧殺され、人々の無知に殺されたのである。ここにおいて、個人の死は一挙に社会の死へと拡大する。近代的自我の崩壊は同時に、社会内部のメカニズムそのものの自壊に他ならないのだ。

 かつてアントナン・アルトーがゴッホ伝で「社会が自殺させた者」と評したことが思い出される。アルトーによれば、ゴッホは狂気の果てに自殺したのではなく、社会の無理解が彼を扼殺したのだ、というのだ。
 「堕落」し、「腐敗」した社会を憎む作者の声は、やはり戦後まもなく『堕落論』を著わした坂口安吾とも重なってくる。わたしはそこに「戦後精神」の一典型を見る。

 もう一つ気に掛かったのは、「ヴィンセントの声」として登場人物の「内心」の声を台詞に書き込んでいる箇所である。上演ではこの部分はカットされることが多いが、なぜこんなことまで作者は書いてしまうのだろう、という疑問が残った。思いが余って、つい手が滑ったのか。それとも上演する者へのメッセージなのか。上演に際して、カットされることを想定して書いたのか、それともカットするか否かを演出にゆだねるつもりで書いたのか。

 ゴッホの名画がビゼーの名曲「アルルの女」をバックに語られるシーン(第4幕)。有名な絵を見ながら、観客=読者は、解説を聞くようにメロディに耳を傾ける。これも通常の戯曲ではめったに出会えない趣向だ。『炎の人』には戯曲という形式に嵌まらない破天荒な書き方がなされているのである。これは作者の実験精神なのか。それとも過剰な思いに見合う形式なのか。

 こんな劇作家が半世紀前に存在していたことを知っただけでも、若い読者には貴重な贈り物になるだろう。三好十郎が五十年以上も前に放った問いは、現在でもわれわれの喉元に引っ掛かっている。


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2009年06月01日

『土方巽 絶後の身体』稲田奈緒美(NHK出版)

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「[劇評家の作業日誌] (44)」

昨年は暗黒舞踏の創始者・土方巽の23回忌だった。また彼の舞踏の出発点を1959年の『禁色』初演とするなら、今年は「暗黒舞踏50年」に当たる。いろいろな節目になる時機を得て刊行されたのが、本書『土方巽 絶後の身体』である。
 一言でいえば、手間暇かかった労作だ。594頁という大冊はだてではない。それだけ時間と労力をかけている。著者があとがきで記しているように、最初のインタビューを開始してから8年が経過し、多くの証言を集めた評伝が完成した。  著者は1962年生まれ。彼女が成人した頃には、土方は踊りの一線から引いていた。 したがって著者は土方の舞台を直接見ていない。しかし「見ていない」ことはハンディにならず、むしろ対象から距離をとれた分、偏った感情に左右されない客観性を備えている。これが本書を特徴づける第一の要因だ。土方への一方的なオマージュや体験に過度な思い入れを持つのではなく、外側から土方にアプローチする独自のポジションに著者を立たせている。

 著者はバレエ、モダンダンスなどを幼少時から習い、自身の中にも「踊り」の感覚は具わっていた。その「内臓感覚」をベースに、見たことのない土方舞踏に迫っていく。これが第二の特徴と言えるだろう。舞踏というものの本質を、ジャンルに還元するのではなく、もっと広く、「生きること」全般にまで拡大していけるのは、生活に根ざした身体感覚があるからだろう。こうした態度は、知的な言説に集約してしまうことから免れる。哲学的、文学的、美学的言説にまぶされがちだった土方舞踏について、平明で簡潔な文体で記述することを可能にしたのも、ここに要因がある。

 本書を構成している多くの関係者のインタビューは壮観だ。名を列挙すれば以下のようになる。赤瀬川原平、厚木凡人、石井輝男、加藤郁乎、唐十郎、谷川晃一、中西夏之、細江英公、松岡正剛、松山俊太郎、麿赤兒、元藤燁子、横尾忠則、吉江庄蔵、吉増剛造、ヨネヤマママコ……。この他すでに鬼籍に入った者たちの言葉も多く集められている。澁澤龍彦と種村季弘をはじめとして、三島由紀夫が土方の後ろ盾になっていたことは、この時代の文化の局面をよく切り取っている。

 この本の魅力の一つは、六〇年代の「芸術家共同体」をよく伝えていることだ。その中で三島の位置が抜きん出ていたことは、改めて印象深い。誰もが三島の存在を意識し、彼の発言と行動を気にしていた。土方は客席に三島の姿を発見すると、安堵したという。土方が舞踏を名乗る最初の作品が、三島原作の『禁色』(59年)であったこと、しかもそれは作者に無断で行ない、これを機に三島と知己を得られるのではないかという思惑があったこと。いずれも知略家土方巽の一面を物語るエピソードだ。

 同じく、澁澤との出会いも格別のものがあったろう。それを証拠に土方の葬儀委員長は澁澤が務めている。彼は当代きっての大インテリであり、工業高校卒の土方が対等に付き合うには、いかにも心許ない。しかも澁澤は東京生まれで良家の出である。そこだけ見れば、ナイーヴな芸術家を知的な批評家が庇護する典型的な関係に見えなくもない。だが実際はそうではなかったようだ。

「……土方は、澁澤や三島の影響を受けているが、一方的な受け売りではない。三者三様 の思想と言葉、それを裏付ける知識と経験、肉体と舞踊についての刺激に満ちた交歓が盛んに始まっていたのである。土方は知識の上で彼らに劣っていることは明白であったが、彼ら東京育ちの身体的に脆弱な知識人、身体性の希薄なエリートに対して、かつて澁澤を“白い人”と評したように、厳しい自然と労働に対する無知を指摘し、自らの経験と対立させている」(104頁)

 三島も含めて、澁澤、土方の三者の関係は対等で相互的であり、ある意味で理想的な知と芸術の交合に映し出されてくる。
 こうした芸術家共同体の集約点を著者は次のように的確に記している。

「世間も家族も時間も意に介せず飲み続けていた彼らは、前衛芸術を通して繋がるアウトロー、似た者同士のところがある。それは楽しく、愉快で破天荒な関係だったのだろう。しかし同時に、それぞれが才能豊かな『一匹狼』であり、決して仲良しグループの馴れ合い、群れ合いではなかった。むしろ異質な者同士であり、最大の理解者であると同時に、最も手強い批評家でもあったのだろう」(151~2頁)

 もっともこうした関係は長続きしないのは必定だ。別れは唐突にやってくる。その決定的事件は、三島由紀夫の自衛隊乱入と割腹自殺であろう。1970年11月のことである。横尾忠則は「三島の死と同時に(前衛共同体は)バラバラになった」と語っている。文明発展の象徴、大阪万博が開かれたのが同じ1970年であり、2年後には連合赤軍事件が起こった。志を同じくした共同体は永続せず、やがて暗澹のまま崩壊していく。

 本書の構成で注目すべきは、歴史の編年体で土方巽の活動を跡付けていることである。彼の秋田での生い立ちに始まり、秋田工業高校時代のラグビー部のエピソード、モダンダンスとの出会いから上京してクラブに潜り込み、やがて『禁色』にいたる舞踏創生の記述。この1959年をもって、「暗黒舞踏元年」と呼ぶことも可能だ。

 土方の出世作は、『土方巽と日本人--肉体の叛乱』である。1968年10月、日本青年館ホールで上演された。この公演は一種の「伝説」にまでなっているが、「『肉体の叛乱』がなければ、舞踏は舞踏にならなかった。モダンダンスの一種の突然変異、変種で終わっていたと思います」(287頁)と芥正彦は語っている。この作品は一般に『肉体の叛乱』として知られているが、これはあくまでサブタイトルであり、正式には『土方巽と日本人』である。土方は日本人であると同時に、その外部者でもあった。彼は醜悪な肢体をさらすことで、日本人の意識に揺さぶりをかけた。

 三つめの代表作は、1972年『土方巽燔犠大踏艦・四季のための二十七晩』であろう。土方は自分の舞踏の体現者として芦川羊子を見出し、やがて土方は舞台から退いて、振り付け家に転身していく。東北の秋田に生まれた土方は、後年「東北歌舞伎」を提唱し、そのローカリティを積極的に打ち出した。だがそれは固有性、個別性であるとともに、世界中に散布する「土方巽なるもの」を探ろうとした試みであろう。「舞踏とはいのちがけで突っ立っている死体である」とはつとに知られる土方巽の名文句だが、この「土方巽なるもの」は舞踏の真髄を考えさせる。


「土方にとっての舞踏の身体とは、ダンスのみならず日常の規律化された身体からも逸脱し、解体することによって獲得された、新たなる身体感覚と操作のメカニズムによって組み替えられた身体でもあるのだろう」(540頁)
 これもまた著者の内臓感覚が言わしめた言葉である。

 著者同様、わたしもまた土方の舞台を直接見たわけではない。だが幾度か彼のシンポジウムに参加したことがある。土方の語り口は独特で、訥弁のなかに身体からボソリと引き出される言葉があった。

「この頃、土方の存在は、現代詩の詩人の間で有名になっていた。それは第一に、前衛舞踏家としてだが、もう一方で、土方の独特の言語感覚、詩人のような言葉遣いに魅了された人が少なからずいたためだ。」(233頁)

 後に彼の著書『病める舞姫』を読むと、この語り口は文体そのものであり、発想の飛躍が文体をつくっていることを知った。彼の言葉は、肉体から搾り出されてくることに特徴があった。

「海」の絵と「うみ」という音から、同音異義語の「膿」を連想し、「痒み」を記憶の中から呼び起こす。それが「掻く」という行為に結びつき、その動作をイメージの中で反復することによって、「体中の光」へと意識が向かっていく。そのようなイメージの自由な飛躍を、土方は行っている。……連想が言葉のイメージだけに留まらず、聴覚・触覚を通して身体感覚に結びつき、そこから行為・動作の記憶と感覚へ飛ぶため、イメージを巡らせるだけで身体内部に変化が起こってくるかのようであることだ(432頁)

 日本の舞踏が「世界のブトー」へ飛躍していくきっかけになったのは、一九八〇年、ナンシー演劇祭に出演した大野一雄によるとされている。以後、天児牛大の「山海塾」、カルロッタ池田の「アリアドーネの会」などがヨーロッパに渡って活躍を始める。麿赤兒の大駱駝艦もまた遅れて、ヨーロッパに到着する。だが土方は彼らの活躍を尻目に沈黙を守っていく。彼は田中泯や笠井叡と組んで、振り付けしている。それは自ら舞踏家であるより、理論を大成したいという欲望があったからだろうか。

土方は六〇年代の澁澤龍彦や種村季弘のヨーロッパの異端文学を地とし、三島由紀夫の耽美的な古典主義、アルトーやバタイユらのシュールリアリスティックな思考が重畳し、これらの知を支える東北生まれの肉体が母体となったと言われる。だが実際は、こうした通りのいい影響関係に収まりきらない関係の網の目が張り巡らされていることであろう。

土方巽の巨大な思考を解きほぐすことは、今後に残されたわれわれの課題でもある。

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