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2008年11月04日

『おかしな時代』津野海太郎(本の雑誌社)

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[劇評家の作業日誌](41)

この本の題名『おかしな時代』とは何を意味しているのだろうか。まずこのタイトルに、わたしは引っかかりをおぼえた。
 本の原形は「本の雑誌」に4年にわたって連載(2004年4月号~2008年7月号)された「サブカルチャー創世期」48回分の原稿である。これに1章分が書き加えられ、上記のタイトルに変更された。

 この本は、津野氏の切れ切れの記憶をたどった半自伝である。氏が早稲田大学時代に始めた演劇活動を皮切りに、大学卒業後に関わった「新日本文学」の編集者時代、その後、晶文社での編集と黒テントの演劇活動の二足のわらじを履いて八面六臂で飛び回っていた時代、年代記風にいえば、1960年から73年までの14年間が語られている。

それはもっとも濃密で充実した時代であると同時に、針路がどこに振れるか分からない大きな転換期でもあった。津野氏にとっては、およそ20代前半から30代半ばまでに当たる。その時代を的確に約言するのは次の言葉ではないだろうか。
 「いまの時代には、貧乏でなければできないこともあるとおもうんですよ」(385p)
 この本の到るところに「貧しさ」が姿をのぞかせる。穴のあいた靴、擦り切れたジーンズ、送金を待つ旅先のテント劇団……。「貧しい演劇」(グロトフスキ)が当時の演劇のバイブルになっていた時代だ。

 だが津野氏はこの頃、演劇を本気でやろうとしていたのだろうか。先日、早大で「60年代演劇再考」という催しがあり、本書でも登場する蜷川幸雄氏は「当時の津野や佐伯 (隆幸)は(演劇活動を)止めそうだったから、一緒に劇団をつくらなかった」と語っていた。無名劇団の一俳優だった蜷川氏にとって、津野、佐伯両氏はあまりに「インテリ」過ぎて、彼らは「芝居」ではなく、あくまで演劇の「運動」をやりたかったことを直観的に見抜いていたのだろう。津野氏は「すでに演劇表現者への道を猛スピードで走りはじめていた鈴木忠志や唐十郎とはちがう」(29p)と自分の位置をよく知っていた。
 
津野氏の活動は、結局「演劇」に集約できなかった。そしてそこに、彼の「その後」があった。彼は何事にも好奇心が旺盛で、時代と「遊ぶ」ことに熱心だった。その「遊び方」も、時代の最先端と出会いたいというジャーナリスティックな志向に近かった。

当時、もっとも戦闘的だった文学者集団「新日本文学」の編集部に潜りこみ、花田清輝や長谷川四郎ら猛者と出会い、編集者として新しい道を歩み始める。その後、晶文社というミステリやSFなど「サブカルチャー」やポップカルチャーの書籍の編集に向かい、微妙に針路を変えていく。小野二郎というウィリアム・モリスの研究者と知り合い、長田弘という同世代の詩人と出会ったことも、彼の運命を変えるきっかけになったろう。逆に、まだ美大生だった平野甲賀がブックデザイナーになったのも彼との出会いからだった。以後、晶文社の書籍は平野の装幀になる。
 
津野氏の関心は、60年代的な理念的イデオロギー、教養主義よりも、大衆に根ざした「若い文化」に急速に傾いていった。「本の雑誌」連載時のタイトル「サブカルチャー創世期」とは、60年代的な「カウンターカルチャー」の対抗性から一歩引いたところでのB級文化を意図したものだろう。 
 1970年前後の空気とは、メインカルチャーが失墜し、それにとって代わる(=オルタナティヴ)何かを探っていた時期でもあった。彼が精力的に関わった黒テントの演劇運動もその一つだろう。
 
津野氏は黒テントの活動と並行して、晶文社の仕事もこなしていった。70年代に晶文社から刊行されていた演劇書に、わたしはずいぶんお世話になった。佐藤信の戯曲集、 『嗚呼鼠小僧次郎吉』や「喜劇昭和の世界」の三部作、扇田昭彦の『開かれた劇場』、東京新聞の演劇記者だった森秀男の『劇場へ』、佐伯隆幸の『異化する時間』、そして津野氏自身の『悲劇の批判』。海外の翻訳書としては、ピーター・ブルックの『なにもない空間』(高橋康成・喜志哲雄訳)、マーティン・エスリンの『不条理の演劇』(小田島雄志訳)、アーノルド・ウェスカーやフランセス・イエーツの『世界劇場』(藤田実訳)などである。

当時の演劇青年だったわたしにとって、津野氏の編集した晶文社の本は、白水社のそれと並んで、もっとも熱心に読んで演劇書だった。
 これらの本はいわゆる「アングラ・カルチャー」を形成した。当時メインカルチャーとされた「新劇」とは明らかに違った系譜に属する何かだった。それは新劇に代表される近代主義にとって代わる「知」の運動であり、その後の「知」の大変革をも予見するものだったはずである。だがその系譜はやがて消えていく。
 

  その頃津野氏は、植草甚一と出会う。お洒落で粋、しかも語学が堪能で、海外の動向、ジャズや映画に通暁している。植草は生きた情報源だった。60年代末から70年代半ばまでの「新しい文化」=アングラとは異なる植草に代表される文化は何と名付ければいいか。それが「サブカルチャー」だ。概して反体制的ではなく、政治的志向もない。けれども、従来の教養主義とは違う別種の文化。この未知なる新文化に津野氏は傾倒し、やがてアングラからも離れていく。このサブカルチャーについては、花田清輝から受け継いだものが少なくない。
 
「ハイカルチャーもローカルチャーもない。ジョイスやカフカやダダやシュルレアリスムを、漫才、落語、歌舞伎、歌謡曲、ストリップ劇場のコント、ミュージカルなどと、直接ずばりむすびつけてしまえ。そのためには、個人としての芸術家のボランティア連合としての集団創作や、個別のジャンルに小分けされた諸芸術の総合化が必要である--。」
(90p)
 
時代が大きく変わりつつあったことは確かだ。ある時期までの若者は、漫画本を読みつつも、ある時を境に卒業し、やがて文学全集を読み始め、現在の先端的な文学や芸術に触れていく。ところが70年代以降の若者から、この鉄則は崩れていく。それを彼はこう表現した。「以前であれば途中で捨てたはずのマンガを手にしたまま階段をのぼることにした」(320p)、つまりマンガも「硬い本」も同時に読むようになったのだ。この両義性、あいまいな領域で成立する文化、それが「サブカル」の走りだ。風通しはよくなったかもしれない。


  だが現在の「ぬるい時代」(334P)とは一線を画していたことは言っておかなくてはならない。「(花田は)『アングラ』から『サブカル』にいたる地すべり的な文化変動を予見していた」(90P)と津野氏は指摘しているが、80年代の情報資本主義は、歴史を思わぬ方向に捩じ曲げていった。イギリスで始まった不良文化に出自を持つサブカルチャーは、80年代以降の毒を抜かれた「消費文化」に呑み込まれていく。
 いずれにしても、こうした「若い文化」を文字通り若き日の津野氏は疾走した。「ワンダーランド」という雑誌に関わった記述は、とりわけその日々の激動を物語る。

 「おかしな時代」とは、時代がおかしかった=エキセントリックで不可解であったのではなく、こんなにもおもしろ、おかしい時代はなかった、というニュアンスに近いだろう。その「おかし」さを楽しめた時代は貧しかった。というより、貧しいからこそ楽しめた時代だった。それは現在の、物質的には「豊かだが楽しめない時代」の見事な反転だろう。 何もかもが数字に換算され、成果が求められる時代にわたしたちは生きている。だがそんな閉塞感とは違った価値観が、かつてたしかにあったのだ。「売れなければ負け、なにがなんでも売れる本を、というカセがいまほど苛酷でなかった」(153p)出版界も、隔世の感がある。
 

 この時代を総括するというより回顧する書物が相次いで出版されている。あとがきによれば、21世紀に入ったある頃から、この種の企画があちらこちらで進行してきたようだ。(前回とりあげた「わたしの戦後出版史」も同様)。おそらく津野氏が身をもって生きてきたあの時代の「伝説化」が進むとともに、当事者の発言を残しておこうという編集者たちの一念が同時多発的に起こっているのだろう。後続世代にきれいに総括され、歴史の棚に陳列されることへの苛立ち、抵抗がこの種の本を生む理由だ。
 だがわたしはこう言い添えておきたい。晶文社のロングセラーになったポール・ニザンの『アデン・アラビア』の一説をもじって言えば--
 「僕は20歳だった。これが人生のもっとも<おかしな時代>だなどとは、誰にも言わせまい」


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