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2008年03月24日

『沖縄映画論』四方田犬彦・大嶺沙和編(作品社)

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[劇評家の作業日誌](35)

この2月、約10年ぶりに沖縄を訪れた。このところ何かと「沖縄」が目に止まる。沖縄には「沖縄芝居」や「組踊り」という土地に根付いた芝居や芸能があるが、それ以外にも沖縄を素材とした舞台は数多くあり、現代劇と沖縄のつながりは長くて深い。今回は国立劇場「おきなわ」の視察が目的だったのだが、演劇学会の紀要で「沖縄演劇」の特集が組まれ、また写真や映像を通した沖縄に関する文献も相次いで刊行されている。それらがどれだけ大きな渦を形成しえているかは判断できかねるが、わたしの内部でも徐々に沖縄へ関心が吸い寄せられていることを感じる。

そんな折りに手にしたのが本書である。明治学院大学の芸術学科主催で2007年6月に行なわれたシンポジウムを記録・編集したものである。この学科では、日本映画史研究についてのシンポジウムを10年以上も続けており、そのなかから若松孝二や吉田喜重らについての研究書もすでに作品社から刊行されている。わたしは昨秋、舞踏家の大野一雄をめぐるシンポジウムに出かけてこの学科の活動実態に触れたが、映画だけでなく舞台芸術関係にも積極的に取り組んでいて、イスラエル在住のパレスチナ人俳優兼演出家モハマッド・バクリが招聘されたのは2006年のことだった。大学の知がアカデミズムの研究に留まらず、外部への発信をアクチュアルに行なう稀有な例と言っていいだろう。

企画者の四方田犬彦氏は、長年映画批評と研究に実績を重ねてきた。とくに韓国を含むアジア映画への造詣が深く、近年のアジア映画ブームの火付けに一役買っている。アジアの視点から沖縄に注がれる視線は、日本および日本映画を確実に相対化するだろう。彼はこう言っている。

沖縄映画につい思考することで、これまで自明とされてきた日本映画史に新しい撹拌がもたらされ、東アジアの映画史に新しい証明が投じられることをわたしは期待したい。(16頁)

わたしもまた「撹拌」という挑発的言辞に唆されて本書を読んでみたい。

わたしは、今井正の『ひめゆりの塔』や今村昌平の『神々の深き欲望』、あるいは高峯剛の『ウンタマギルー』らは見ていたものの、必ずしも沖縄映画に格別の関心があったわけではなかった。けれども、各論考を読み進める際に、映画の素養や見た見ないの経験値はほとんど支障にならなかった。ここで語られていることは、映画研究の細部よりももっと大きな構図を描いて見せようとしたのではないか。例えばそれは、沖縄に向き合うことで、各人の思想が問われるといった次元のことである。

沖縄は日本の近代史にとって特殊な場所だった。1879年の大日本帝国憲法による沖縄県の設置、敗戦目前の1945年、沖縄を舞台にした米軍との唯一の地上戦、1952年、サンフランシスコ講和条約によるアメリカの沖縄統治、そして1972年の沖縄本土復帰。豊かで大らかな琉球国が日本に帰属させられてからの歴史は、沖縄という特異点を日本列島の外部に括り打ちこんだ。こうして沖縄は日本政府の都合によりつねに踏み躙られ、切り捨てられてきたのである。現在の基地の存在もその歴史の一貫であり、沖縄ではいまだ戦争は終わっていない。したがって、沖縄を素材とした表現はなんらかの意味で、つねに「政治的」たらざるをえなかった。自然の豊かな沖縄、古来から伝わる琉球踊島唄を謳うこともまた、陰惨な歴史を隠蔽する方途と見なされるのが沖縄なのだ。ここまで徹底した固有の歴史性をまとった地は日本にないだろう。

共同討議で、司会の四方田氏は、在日朝鮮・韓国人問題や被差別部落などと同列に沖縄問題を扱えるかをパネラーに問うている。それに対して、各自は慎重な反応を見せている。被差別、在日等は政治的弱者として一般化されやすく、そのことによって、沖縄固有の問題が拡散し薄められかねないからだ。グローバル化によって抑圧されたものを並列化することで、かえって事の本質が見えなくなる。沖縄を「特異点」としてしまった時点で、 「例外状態」として担保されてしまうことも確かだろう。このシンポジウムでも、こうした発言、批評の位置はつねに自己言及的にならざるをえなかった。「沖縄映画をいかに語るか」という四方田氏の最初の提言は、現在の言論の問題を集約し、かつ先取りしているのである。

沖縄は、確かに日本の「南限」に位置する。だが視点を換えてみるとどうなるか。例えば東南アジアから見てみると、沖縄はアジアの「北縁」なのである。このことに言及したのが、写真家の仲里効氏である。沖縄で「エッジ」という雑誌を編集している彼は、昨年『オキナワ、イメージの縁(エッジ)』(未来社)を出版して話題になった。彼は「エッジ」からの思考で、沖縄の唯一性、単独性を主張する語り部になっている。(実際、彼の名前は各種のシンポジウムなどでよく目にした。)その仲里の発言でわたしがひときわ興味を抱いたのは「地勢学的想像力」で「南下論」を唱えた唐十郎への言及である。唐と状況劇場は1960年代末に「日本列島南下興行」と称して旅公演に出た。もはや伝説ともなった紅テントによる「南下興行」だが、そこで彼らは沖縄までたどり着き、「返還前」の沖縄で公演を打った。その当時、まだ米国だった沖縄では主演女優李礼仙は在日ゆえに入国できず、唐が代役を演じた。何故彼はそんなリスクを冒してまで沖縄に行こうとしたのか。それを解く鍵が、北上に対する「南下」という視点で見事に切り取られる。北上とは、本土「復帰」し「上昇」することだ。それに対して唐は、「失語症の女たちは、縦に割った暗部をスルスルと南下してゆく」と絶妙の比喩を用いて、失語症に陥った沖縄(人)が本土に回収されることへの生理的嫌悪を表明した。さらなる南へ侵攻せよ、と煽るのだ。そこには仲里氏が指摘するように「反国家的ヴィジョン」が予感されていた。

空間的あり方が沖縄を規定するとしたら、「沖縄映画」をつくり続ける当事者はどこに足を据えて表現を発信するのか。この問題もまた論者の神経を尖らせる。その点で、本書の共同編集者でもある大嶺沙和氏の「裏返すこと、表返すこと」は刺激的な論考だ。大嶺は、沖縄に生まれ、現在京都に在住しながら「沖縄映画」を撮り続ける高峯剛と、京都に生まれ、大学進学以降沖縄に移り住んだ中江裕治を対比的に論じている。中江は『ナビィの恋』(99)で大ヒットし、本土に沖縄のイメージを植え付けた。彼は先達高峯から多くのものを摂取しつつ、それを高峯とはまったく別の方向で沖縄を「観光地映画」化していく。例えば『ホテル・ハイビスカス』では、基地の周辺でたくましく生きる人々を描いても、決して観客は基地そのものに関心を抱き、異議を唱えはしないだろう。つまり沖縄への関心を「美学」に回収していくのだ。そこに商業的「成功」の秘訣がある。他方、高峯は「難解」で知られ、極少数の観客しか見ることのない「マイナー作家」であり続ける。なぜなら彼は、沖縄という「他者」を観客に喚起しつづけるからである。マイナー/メジャーの位置付けは、この二人にピッタリ当てはまるだろう。だが映画史家たちは、高峯の方法にはジョナス・メカス以後の実験的志向の成果がある、と高い評価を与える。とくに『夢幻琉球 つるヘンリー』はほぼ全員が賞賛してやまない映画なのである。

大嶺氏の中江批判は、沖縄の内部(インサイダー)が語る言葉に重要なイデオロギー操作があると指摘する点で重要な提言になっている。これはヴェトナム出身のトリン・T・ミンハのポストコロニアル的な理論を大嶺が援用したものだが、支配者はネイティヴの内部に「都合のいい」媒介者を仕立てて、支配にとって都合のいい方向に事を運んでいくのである。「物分かりのいい老人」や「無垢な子供」の視点がこれに利用される場合が多い。この善意の他者をどう読み破るか。批評の成否はそこにかかっている。

本書を通読してみて改めて感じたことは、批評には研究的視点と知の裏打ちがあり、研究と批評は相互に連関しながら合体した時に、はじめて充実した成果が得られるということだ。わたしはここで論じられている作品をくまなく見ているわけではない。だがたとえ見ていなくとも「支障がなかった」と記したのは、対象がどうであれ、記号学以後のポストモダンの批評理論がほぼ全面的に採用されていたからだ。それゆえ批評の道筋をたどることはさほど困難なことではなかった。クイア・ポリティス、ホモソーシャリティ、ディアスポラ、フレーム理論、境界線・・・といったテクニカルタームが華麗に批評言説の森を築き上げる。だが、そこで一つ疑問がフッと湧いてくる。ここに不意に紛れ込んだ一匹のウサギを批評理論は捕縛できるだろうか。

例えば、シンポジウムの最後に登壇した高峯剛は、自分について語られた批評への違和感――例えば自分の映画はそんなに「難解」でもないし、観客も少なくない、といったことをユーモラスに反駁している。そこにわたしは、高峯の「肉体」の在りかを感じた。この分節不可能な高峯映画の肉体性、過剰な欲動は、明晰な分析を一瞬反古にし、解釈を拒絶する。シンポジウムという「舞台」ははからずも批評の言葉と創作家の肉体が激突する場面を演出した。批評と創作のスリリングなズレと葛藤である。

沖縄から戻った直後、米兵による少女暴行事件が起きた。残念ながら、こうした事件は突発的なものではなく、つねにこの事件と紙一重のところに沖縄の現実がある。沖縄の中の「基地」なのか、基地の中の「沖縄」なのか。両者は入り込んだ関係にあり、まさに相互嵌入的だ。この現実を前にして拮抗できる批評の言葉とは何か。もし「沖縄演劇論」という本が可能だとしたら、どのように沖縄を語ればいいのか。そんなことも考えさせられた一冊である。

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