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2008年02月20日

『21世紀を憂える戯曲集』野田秀樹(新潮社)

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[劇評家の作業日誌](34)

2007年はまさに野田秀樹の一年だった。この年、野田地図(NODA MAP)の『THE BEE』で彼の受賞した演劇賞は主だったものだけで四つに及ぶ。第42回紀伊國屋演劇賞(団体賞)、第49回毎日芸術賞、第7回朝日舞台芸術賞(グランプリ)、そして第15回読売演劇大賞で大賞(最優秀作品賞)・演出家賞・男優賞の三賞に輝いた。まさに彼の一人勝ちの一年だった。

その野田秀樹が、早くも21世紀を「憂える戯曲集」を出した。彼は不吉な影を未来に嗅ぎとっているのかもしれない。芸術家はしばしば予知能力を持つというが、彼の作品の中には悪い予兆が立ち篭めている。

本書は2003年に上演された『オイル』、06/07年の『ロープ』、そして『THE BEE』の三作から成る。すでに彼は『二十一世紀最初の戯曲集』を刊行しているから、今世紀になって二冊目の戯曲集だ。彼の出版の姿勢は、このところある定番を持っている。「夢の遊眠社」解散(92)後、一年の留学を経て「野田地図」で活動を再開(94)してから、『解散後全劇作』(98)、『20世紀最後の戯曲集』(2000)といったように、漏れなく作品をカヴァーしていることだ。このすべてが新潮社から刊行されている。四十代になり、もはや以前のような若さで突っ走ることを自制した彼なりの走法が、このような作品の「残し方」を選んだのかもしれない。「アンファン・テリーブル(恐るべき子供)」で知られた若き日の野田とは明らかに違ったスタンスを感じる。それを「大人」や「成熟」と呼ぶかどうかはさておき、自らも加担している商品市場に「自覚的」に対抗していく彼の姿勢は、見習うべきものがある。それを一言でいえば、野田の「志の高さ」ではないかと、今わたしは考えている。

米軍によるイラク攻勢を予見したかのような『オイル』は、なかでも読み応えがある。古代出雲はイスラム教の預言者マホメットが漂着した地であり、その島根県に石油が発見され、その利権をめぐり米国が島根を訪れ、占領を画策することが発端となる。この荒唐無稽なお話がにわかに現実味を帯びてくるのは、米軍のイラク侵攻が現実のものとなったからである。テレビ映像で見るバグダッドの破壊される光景は、そのまま原爆投下された広島に重ねられる。この爆撃は決して比喩ではなく、比喩以上の何かとして観客のなかで連想が働く時、1945年の日本と2003年のイラクは一挙につながっていく。ちなみにこの作品はイラク侵攻が始まった直後の2003年4月に幕を上げた。つまり侵攻以前に構想・執筆されていたことになる。このあまりのタイムリーさに、観客の誰もがドキュメントを見るように現実と紙一重の世界を舞台の上に見たのである。舞台は所詮虚構である。だがその虚構が現実と急接近することがある。この戯曲は不吉な予兆を発し、それが不幸にも的中してしまった。

だが彼は、それをメッセージや教条主義にしない。あくまで言葉遊び、言葉の連想から思いもかけない想起作用を駆使するのだ。例えば、タイトルの「オイル」は「老いる」であり、何故島根なのかといえば、出雲が「イズラモ」つまりイスラムと近似音であるといった冗談ともつかぬ発想から始めるのだ。この当時、「神の手」による考古学者の捏造騒ぎが話題になり、オイルを掘り当てたというデッチ上げは同時代を生きる者にとって、「神の手」のいかがわしさと容易に接続されるのである。つまりこの劇には、2003年という同時代の空間で、さまざまな想像の連鎖、想起を促す言葉がまるで投げ網のように仕掛けられていたのである。

時代に投げ網をかける技法を底で支えているのが、彼特有の歴史意識である。野田の戯曲は同時代の日常の断片を集めたものとは違う。物語の原型としての「歴史」を背後に持っている。歴史とは時間意識のことだ。それに関して、彼はこんな風に歴史をあとづける。
 

こいつ等には、時間が欠けているのよ (略) 時間がないから、死の意味さえ分からないでいるんです (49頁)

また、こんな台詞もある。

時間って、ガムの味が無くなること? (50頁)

チューインガムを米兵にもらって食べていた戦後まもなくの子供たちは、口の中で味のしなくなったガムをどれだけ噛んでいたことだろう。その時、時間を忘れて噛んでいたのではないか。時間意識のなくなった現代人もまた、生と死の境界を認識できない。ちょっとしたことが原因で自殺を選んでしまう時、死の軽さは、理不尽なまでに昂進している。だがその根っこをつかまえることは容易ではない。そこで野田は「ガム」という歴史性を含む言葉を使って、時間意識を覚醒させる。そこから彼は、歴史という「寓意」を引っ張り出すのだ。

米国によるイラクの統治は、戦後の日本をモデルにしたと言われる。当時、現在進行形で刻々と繰り出される統治の手法を見ながら、わたしたちはGHQによってどのように日本が制圧されてきたのかを知る。見事な歴史の「寓話」だ。野田秀樹は「寓話は、今この瞬間に起こっている戦争には無力であるが、永遠に起こりつづけるかもしれない戦争というものに呼びかける力はある。」(5頁。初出は公演パンフレット)と意志を表明している。演劇は現実に一歩遅れをとるが、未来への抑止には効力がある。

『THE BEE』は筒井康隆の小説『毟りあい』を定本に、イギリスの俳優たちとワークショップを経て共同で台本をつくったものだ。それを日英二ヵ国で上演し、それを彼自身が演出、出演した。

ある日、サラリーマン・井戸が帰宅すると、脱獄囚・小古呂が妻子を人質にとって立て篭もっている。そこで井戸は人質の解放を求めて、犯人宅に出掛け、夫を説得するよう求めるが、小古呂の妻にあっさり拒否される。そこで井戸自身も犯人の家に立て篭もってしまう。こうして空間を隔てた二つの部屋が交互に舞台となり、それぞれ見せしめの為に残虐行為が繰り返される。こうして「やられたらやり返せ」の論法はエスカレートし、やがて後戻りできないほどの惨劇へ至り着く。このなかで不気味なのは、本来被害者であった井戸の方が、犯人以上の残虐性を剥き出しにしていくことだ。小市民が内にもつ激しい暴力性は、いったん止め金が外されてしまうと留める術を知らない。野田演じる井戸が、小古呂の息子の指を切断して犯人に送るというシーンは、鬼気迫るものがあった。行為が反復され残酷が増すにつれてどんどん無表情になっていく野田の演技は、出色のものだった。上演された「シアタートラム」は客席200の小劇場だが、至近距離で見る行為は、アクチュアルに客席に届いた。客席もまた凍り付いたのだ。

復讐の連鎖は決して同レベルでの「仕返し」ではなく、倍返しに発展していくのが常である。今や世界中で行なわれているテロや残虐行為は、どこまで遡れば要因が掴めるのか不明なほど、事態は困窮を極めている。このドラマはその過程を見事に描き出している。ここでも物事の根源に遡行する野田の歴史意識は発揮されている。

ところで、この作品の成功は少なからず筒井康隆の小説「毟りあい」の力に負っているのではないか、とわたしは考えている。かつて、『し』という橋爪功との二人芝居で、野田はやはり筒井の原作小説「走る取的」を下敷きに使っていた。この時も、筒井のアナーキーでどこまでもエスカレートしていく暴力の徹底度が野田自身の想像力の枠を広げてい
った。今回の『THE BEE』でも筒井の原作が野田の舞台にパワーを与えたことは間違いない。

野田地図はシアターコクーンをメインに、観客10万人を動員する人気劇団だ。当然、大劇場で上演される舞台は、娯楽性を重視する。華麗な舞台装置にきらびやかな衣裳、そしてスターを配した豪華なキャスティング。だがこの小劇場で上演された舞台は、それとは対極にあるほど異質なものだった。野田ワールドを見にきた観客は戸惑ったに相違ない。先にわたしは、野田の「志の高さ」に言及した。『THE BEE』は大劇場で成功した芸術家の「実験ごっこ」や「息抜き」ではまったくない。それは「実験」以外のなにものでもなく、その舞台は「前衛」と呼ぶにふさわしいのではないか。これがこの一年で高く評価されたことは格別の意味があると、わたしは考えている。

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